EPISODE312:お前に希望を託す
東京都内足立区のとあるマンション、そこに鷹梨夕夏は住んでいた。比較的高級なマンションだ。
茶髪に強い意志を秘めた瞳の女性――鷹梨はシャワーを浴びていた。いつもまとめている髪を下ろし体を洗い流す。
風呂は体と命を洗濯する場所である。鳥のシェイドだからカラスが行水を行うようにすぐに湯船から上がる――というようなことはしない。じっくりと浸かって日々の疲れを癒すのだ。
低級のものたちは風呂で体を洗い流す習慣を持たない。シェイドという身分でありながら風呂に入り、プールでも羽を伸ばしていることから生活にはすっかり人間臭さが染み付いてしまっており複雑な鷹梨だが、反面嬉しくもあった。
「プハーッ!」
風呂を上がって頭をよく拭き、鷹梨はタンクトップにジーンズを履いた格好で缶ビールを開ける。ビールを豪快に一杯飲んで、スッキリすると今度は一気に飲み干した。なおすっぴんでメガネはかけていない。もっとも、彼女の場合視力はとても良くメガネはアクセサリーなので、とくに問題はない。
「ったくぅ、なんなんだよあの態度。シェイドのシェイドによるシェイドのための世界を作るとか言ってたけど、クロノスは本当に私たちのこと考えてたの?」
以前まで甲斐崎の秘書を務めていた鷹梨だが、彼と壮絶な押し問答を繰り広げた末に追放され今は独り身だ。
酒が頭に回ってきて甲斐崎への愚痴をこぼすが、言ったところで誰も文句を言いはしないし責められることもない。
「……今にして思えば辞めて正解。ちょっと信じられなかったけど、やっぱり糸居まり子の言う通りだった。あれでいい、あれで良かったんだ」
甲斐崎の秘書という立場から解放されて自由の身となった鷹梨だが嬉しいことばかりではなかった。
組織を辞めた日、家に帰ってからはこれまで行ってきたことを思い出して一晩中ずっと苦しんで泣いていた。まり子との一騎討ちを経て心を入れ替えた鷹梨は同じシェイドのためだと言いながら悪事を楽しんでいた自分が嫌いになっていたのだ。
ただ、落ち込むたび「これで良かったんだ。私の判断は間違っていなかったんだ」と自分に言い聞かせてきた。甲斐崎に尽くす以外何も見出だせず空っぽだった以前よりは今のように気ままに日々を過ごす自由なスタイルのほうが、楽しい。
やっと毎日が中身のあるものになって身も心も軽くなっている。毎日がオフの日のような心地よさ――。今の彼女は少なくともそう思っている。
「……誰? 今ちょっとお酒入ってまーす」
玄関からインターホンが鳴った。行ってドアを開けてみればそこには――自身も良く知る辰巳の変わり果てた姿が。鷹梨はきょとんとした顔で彼らの顔を見つめる。
「や、やあ……鷹梨。う……」
「辰巳さん? それにエイジくんに萬田くんまで!」
満身創痍で服も汚れている辰巳。彼の肩を持つのはおしゃれにアレンジした七三分けにスーツ姿で真面目そうな青年と、ダウンジャケットとドレスシャツに黒いジーンズなどカジュアルな格好で髪がボサボサで血気盛んと見える青年だ。
名は前者がエイジで、後者が萬田というようだ。端正な顔と精悍な顔付きの二人である。辰巳の顔付きは二人の間を取ったというところか。
「鷹梨さん八年ぶりです!」
「辰巳さん今ボロボロなんだよ、わけを話すから中に入れて!」
「はい!」
八年前から交友関係のある古い馴染みを見捨てるわけにはいかない。鷹梨は必死で健気そうな辰巳たち三人をマンションの中へと招いた。
「クロノスに捨てられた?」
「ああ……。それで、崖から突き落とされ気が付いたら、終焉の使徒にメス入れられて脳ミソ以外フル改造済みだったってわけだ」
なぜ体がボドボドになったのか? 鷹梨から包帯やばんそうこうなどによる応急措置を受けた辰巳はそうなった経緯を聞くも涙、語るも涙――と表現すべき口調で語った。鷹梨は改造された影響で不気味な青色に変色した右目の皮膚と黒くなった眼を見て胸を痛めた。
肉体にメスを入れられたのだ。意識がなかったとはいえ耐え難い苦痛だったはずだ。それについては誰しもそう思うだろう。
「クロノスには返り討ちにされて勝手に改造されて、俺の体はボドボドだ」
「辰巳さん……」
「それで……君はなんで組織を?」
「……人間が持つ可能性を信じようと思ったから」
一瞬、鷹梨の言葉に秘められた真意を問おうとした辰巳たちだったが――深追いはしなかった。憑き物が取れた顔をしていた鷹梨が胸の奥では哀しみや無念を抑えていることを感じ取ったからだ。
「人間の、可能性か……」
「ときに辰巳さん、これからどうなさるおつもりですか?」
「明日、東條健と決着を着ける。そして……甲斐崎に復讐してやる」
「ぼくも辰巳さんと同じです」
「オレもだ!」
鷹梨から今後どうするか訊ねられ、辰巳たちは目的は打倒エスパーと甲斐崎への復讐だと明かす。真顔になった鷹梨の胸中は複雑だった。
自分たち上級シェイドをも惹き付けるほどのカリスマ性を備えていながら他者を切り捨てでも地上の支配に心血を注いでいる彼は、それだけ罪深かったのだから。
「鷹梨、ひとつ約束してくれないか」
「約束?」
「俺は人間の可能性ってものが信じられない。だから可能性を信じられる君に頼みがある」
「頼みとは?」
「もし俺が東條たちに敗れたら、俺の代わりにヴァニティ・フェアの本部の場所を教えてやってほしい」
「いいですけど……なぜ私にそれを?」
「俺は散っていった同胞の無念を晴らさなくてはならない。その俺が本部の場所を話せば俺は同胞たちを裏切ったことになる。だから教えるわけにはいかないんだよ……」
辰巳は悲痛な心の叫びを訴え、鷹梨に思いを託す。――もしや彼はどちらに転んでも戦って死ぬつもりなのか?
そう感付くも鷹梨は彼らを止めようとは思わなかった。彼らの思いを踏みにじるつもりはなかったからだ。
「わかりました。今日はもう遅いですから、うちに泊まっていってください」
「いいのか!?」
「どうせ、独り暮らしですから」
「……ありがとうよ」
清々しい笑顔で鷹梨は、同じ屋根の下で辰巳を泊めてやることに決めた。翌日、鷹梨が目を覚ませば辰巳たちは姿を消していたという。