EPISODE206:大事な人は
みゆきの家があるのは大津市だ。大津駅を出て徒歩十分、住宅地の突き当たりを右に曲がったところにある。比較的大きな家で、庭の花壇には色とりどりの花が咲いている。外観もモダンでなおさら目立つ。茜色に染まった空の下で、健は散歩がてらみゆきの家を目指して歩いていた。
「ごめんくださーい!」
「どちら様〜? って、健ちゃんじゃない!」
「お久しぶりです、おばさん!」
「いいえー、こちらこそ〜」
門が開いていた。ということはみゆきはいなくてもその父か母のどちらかはいるはずだ。インターホンを鳴らすと、扉を開けて現れたのはみゆきの母。娘と同じで髪は薄い紫色。穏やかで若干控えめな雰囲気だ。健の母・さとみと同じく実年齢を感じさせないほど美しい。そして気品がある。
「みゆき帰ってますか?」
「いるわよー♪ さあ、どうぞ上がって」
「改めてお邪魔しまーす!」
互いににっこり笑う健とみゆきの母・紗江。家に上がらせてもらい、「みゆきー! みゆきー!」と名を呼びながらみゆきを探す。その前にしっかり手洗いとうがいをしなければ――と思って、洗面所に行った矢先のことだった。
「……!」
「はッ!?」
そう、会ってしまったのだ。洗面所に行ったら風呂上がりでしかも裸にバスタオルを巻いただけのみゆきにバッタリ出くわしてしまうという、思いもよらぬ形で。
「い、いや違うんだよみゆきこれはその決してやらしい気持ちがあったわけじゃなくて、えーと……」
「健くんのエッチぃぃぃぃ〜〜〜〜!!」
顔を真っ赤にして頭から湯気を出しながら激怒するみゆき。健は鬼のような形相の彼女を前にしてたいへん慌てており、手を自分の胸の前で何度も振ったりしていかにも必死そうだ。
「エッチ! バカぁぁぁぁ!!」
「あぎゃああああああああああああぁぁぁぁ!!」
もちろん許してもらえるわけがなく、健は怒りに身を任せたみゆきからこれでもかと言うほど往復でビンタを食らった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「それじゃあ、気をつけてね。最近不審者多いから〜」
「はーい!」
ほとぼりが冷めたあと、紗江に一言断ってから健はみゆきを連れて家を出る。はからずも昼間にみゆきの機嫌を損ねてしまったため、夕焼けの山科を歩いて話をしながら彼女の機嫌を直そうと思ったのだ。――端から見ればまるでお似合いのカップルだ。実際、両者ともに相手へ好意を寄せている。
「ね、ねえみゆき」
「何よ?」
「その……昼間はゴメン。君を怒らせるつもりじゃなかったんだ。たまにはまり子ちゃんを『トワイライト』に連れていこうと思っただけなんだよ」
「それホント?」
「ホントにそれだけだよ」
むすっとしているみゆきに声をかけ、昼間のことを謝った健。態度も姿勢も非常に情けなくて弱々しい。
「ふぅん……」
「そ、そうだ。もうすぐハロウィンだけどパーティーやらない?」
「あたしんちでやるの?」
「いや、まだそうと決めたわけじゃないけど……」
もうすぐ十月の三十一日、ハロウィンが迫ってきている。みゆきにどこかでパーティーをやらないかと持ちかける健だが、みゆきの顔はどこか暗い。
「で、でもさ、たまにはパーッとやろうよ! 気分もスッキリするよ、ね?」
「何よ、のんきなことばっかり言って!」
健は励まそうと必死だ。彼の身ぶり手振りがそれを表している。だがみゆきには健の思いは届かず――健の頬を思い切りひっぱたく。
「健くんなんか知らないッ」
腕を組んで鼻息を鳴らし、みゆきが憤る。眉をつり上げて口は『へ』の字。気まずく感じた健は、「ご、ごめん……」と、申し訳なさそうに頭を下げた。
「……あのさ、わたしとまり子ちゃんなら、どっちが大事なの」
「それは……」
背を向けたままみゆきが健に問う。――結論から先に言えば健にとってはどちらも大事である。だいぶ丸くなってはいるもののまり子は気まぐれな性質ゆえに健がついていなければ何をしでかすかわからないし、気に入らないものに対しては冷酷。健が監視しておかなくてはいけないのだ。みゆきは幼馴染みであり、小学校のときからずっと一緒であった。健は好意を抱いていたしみゆきからも好意を抱かれていた。
相思相愛――のはずなのに、どちらも未だに告白できていない。――迷っている場合か? 今も昔も本当に心の底から好きなのはみゆきだけ。煩悩に忠実ゆえ女性に弱い健だが、これだけは一貫している。だからといってみゆき以外を蔑ろにするわけではないし、拒絶するつもりも毛頭ない。忘れてはならない、そもそも彼はお人好しなのだから。故に何の罪もない人々を苦しめるやつらを許せない――正義の心を持てたのだ。
「それは……何なの?」
「どっちも大事さ! 僕は君を守りたいし、まり子ちゃんに誤った道を歩んでほしくもない!」
「っ……」
すねていたみゆきの目が潤う。ためらう必要があるのか? いや、ない。
「みゆきッ!」
「ッ!?」
健はみゆきに近づいて彼女を強く抱きしめる。――不思議なことはあるもので、いつもはだらしない健から強い意思が感じられる。急に抱きつかれたみゆきの瞳孔が閉じた。怯えたのではなく――好意を抱いていた幼馴染みがいきなり抱きついてきたために動揺したのだ。
「昔から君が好きだった。改めて……好きになってもいいかな?」
「何よ、今更……いいわよ、健くん。あたしもあなたが好きだから」
――頼りなくも前向きな健を見ていたらあんな小さなことで怒っていた自分がバカらしくなってきた。相手の想いに答えようと口づけを交わそうとするが――邪魔が入った。
「はっ!」
「ウゥゥゥゥゥ」
寸前で接吻を止めて振り返ると、群れを成して唸り声を上げながら近づいてくる――シェイドたちの姿。
「そこに、おわせられるのは……まり様か?」
人型で蜘蛛に似た外見のシェイドたちが人語を発している。まり子の卷属に当たるものたちだが、ツチグモとジグモの仲間だろうか? 体の色はいずれも煤けた草のような赤茶色。複数ある眼はいずれも赤い。
「下がって!」
「うんっ」
「……お前ら誰だ、まり子ちゃんの卷属か!?」
みゆきを守るために彼女の前に立ち、蜘蛛のシェイドに疑問を投げかける。エーテルセイバーとヘッダーシールドは持ってきていない、みゆきに会うためだけに外出したからだ。サーチャーは懐に仕舞っているし音を鳴らしている。――苦戦は免れないがそれでも戦わなければ守れない。
「どけ! 邪魔をするな!」
「うぐっ」
蜘蛛のシェイド――アラクノイドのうち一体が健に殴りかかる。これしきではまだ退かない。退く気もない。
「ええいっ!」
健がアラクノイドに殴りかかり後ろへ下がらせる。襲いかかってきた他の個体の攻撃を食らい血を流すも、キックを腹部に叩き込んで反撃。元々センスはあったが、昼間にアルヴィーと練習したのも効いたようだ。
「ググ……」
「健くん、その調子!」
身構える健を応援するみゆき。彼になら身を預けても大丈夫。たとえ、頼りなくても平気だ。本当はこんなにも強いのだから。
「来るなら来いよ……追い返してやるけどね!」
「グオォォォ!」
健は寄ってくるアラクノイドたちを殴って、蹴って、みゆきから遠ざけようとする。武器がなくても守れたらそれでいい。
「さっさとどけ、人間!」
「どかない!」
「ならば……」
しびれを切らしたアラクノイドの一体にチョップをかます健。
「死ね!」
「うわああああああ!!」
だが一瞬の隙を突かれ、アラクノイドによって腕に爪を突き立てられてからそのまま切り裂かれてしまう。転倒した健は、血がどくどくとあふれでる左腕を押さえながら悶えている。
「そんなッ……健くん!」
自分を守るために何も持たずここまで――みゆきは健に駆け寄って揺り起こそうとする。「そんな顔しないでよ。大丈夫だ、何とかするから」と、健は無理に笑顔を作ってみゆきに優しく呼び掛けた。みゆきを安心させようとケガを押してでも立ち上がって、腰を深く落として身構える。
「……!」
アラクノイドのうち一体の複眼がしっかりとみゆきの姿を捉える。――ようやく気付いたか「違う! こいつではない!」と戸惑う。
「どういうことだ!?」
「まり様と気配が似ていたが見当違いだった。他を探すぞ!」
「どこにおわせられるのだ、まり様ァァァァ」
アラクノイドたちはみゆきをまり子と間違えていた。健とみゆきがきょとんとした顔を浮かべている中、アラクノイドたちは隙間に入って退散する。
「――あいつら、わたしをまり子ちゃんと間違えてた?」
「わからない。そこまで似てないから間違えることなんてないはずだ」
何故アラクノイドたちは自分たちとは何の関係もないはずのみゆきを女王であるまり子と間違えたりなどしたのだろうか。健の中に新たな疑問が生じる――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その夜、どこかの廃ビルの中にアラクノイドが集っていた。薄暗くて明かりはほとんどなく、ソファーには筋骨隆々で体格が大きく、獣の頭蓋骨を仮面がわりに被ったアラクノイドがいた。――過激派の『御大将』オニグモだ。二本ある角が頭蓋骨の仮面を突き破って飛び出している。
「そうか。その娘は女王ではなかったと」
「はい。似た気配を持ってはいたのですが……」
「うぬらは何を見ておったのだ、フヌケが!」
オニグモが立ち上がり蛮刀を手にしてそれを振り下ろす。オニグモに今日の出来事を報告したアラクノイドは紫の血しぶきを上げながらその体を両断された。他のアラクノイドはその凄惨な光景を見てたじろぐ。
「お、御大将……」
「まあよいわ。女王様とその娘が似ていたということは何かしら接点があるはずだ」
蛮刀を地面に突き立て、先程自分が切り捨てたアラクノイドの死骸を踏みつけるオニグモ。
「必ずや見つけ出し女王様を奪還せよ! そして人間どもを血祭りに挙げるのじゃあ!!」
「はっ! 御大将の仰せのままにッ!」
オニグモの言葉に膝を突くアラクノイドたち。全員が人間を激しく憎悪している過激派だ。人間を殺すことに何のためらいも持たない無情のものども。そしてオニグモは憎悪の権化だ。
「今に見ておれ。世界を手にするのは、甲斐崎ではない。いずれクモ族を統べるこの某だ」
――このオニグモ、何やら恐ろしいほどの野心ととてつもない殺気を持っているようだ。一筋縄で行きそうもない。
恋愛の描写ってのはむつかしいな…(´・ω・`)