EPISODE144:行きたかった人たち
――翌日、京都では――
「ふぁ~~っ……みんなおはよう。今日寝坊しちゃったー」
役所の執務室に茶髪の女性職員が入ってくる。薄手の長袖シャツを着ており、スカートは短め。その下にはタイツと茶色のローファーを履いていた。彼女は浅田ちあき。ここでアルバイトをしている健の先輩だ。陽気な姉御肌で面倒見がよく、後輩からも慕われている。
「浅田さん、おはよう♪ 電車とか混んでなかった?」
「電車は大丈夫だったよ。でもバスがダダ混みでさー……結果はご覧の通り」
はぁ、とため息をつく浅田。鞄を机に置き髪を束ねると、「ジェシーさんはどう?」と自分に声をかけてきた金髪碧眼のOLに話しかける。
「私はとくに何もなかったわ〜」
「いいなぁ、ジェシーさんはラッキーで」
金髪のOLがそう答えた。彼女はジェシーといい、浅田と同じくこのオフィスにおける健の先輩。日系ハーフの彼女はおっとりした性格で心優しく、周囲への気配りが上手い
。また、ジェシーは元々ある資産家の娘であり最初はお嬢様学校へ通っていたが、成長するにつれて庶民の暮らしに憧れるようになっていった。
今ではすっかり社会に馴染んだ彼女だが、その育ち故か今もなお金銭感覚などが少しズレているようだ。これが原因か、しばしば周囲の人物を驚かせてしまっているようだ。本人にはとくに悪気はないのだが――。
「あれ? ところで東條くんは?」
「東條さんですか? 昨日から4日間、お友達と一緒に南来栖島へバカンスに行っているみたいよ〜。だからお休みみたい」
「みっ、南来栖島ですってぇ!? 第二のハワイとか言われてる、あの南来栖!?」
微笑みながらジェシーが語りかける。彼女から健が旅行に行っていることを聞いた浅田は愕然とする。なぜそれほどまでにショックを受けたのだろうか――。
「あら……浅田さん?」
「いいなぁーっ! うらやましいわ! あたしもそこ行きたかったな~~~~!」
「お金を貯めて一度行ってみたら? きっと楽しいわよ〜」
「うんうん。そうさせてもらうわー! ガイドブック見てるだけじゃつまんない。早くあのエメラルドブルーの海で泳ぎたいなー」
「私も両親と毎年一回は遊びに行ってますよ~」
にっこりと穏やかに微笑みながら、ジェシー。浅田はまたもショックを受けた。同じ人間で同じ職場に務めているのにどうしてこうも価値観や金銭感覚、その他諸々が違うのだろうか――。さすがセレブは格が違った。到底かないそうにはない。
(なんというセレブ……あたしらじゃ中々いけない南来栖島に毎年行けるだなんてーーッ!)
「浅田さん、どうしたのかしら……?」
頭を抱えて浅田が心の叫びを上げる。だがジェシーにはその叫びは届かなかった――。当たり前のことのように思えるが、それはそれでなかなか辛い。仮に相手の心を読むことができたりしたら、その時はもっと辛くなることだろう。心を読むということは便利なようで、ある意味いちばん恐ろしい。
「Oops……南来栖島がなんだって言うんダ。まだ国内じゃないですか。ソノぐらいミーからすればなんてことナッシング!」
浅田とジェシーが話し合っていた背後で、健のことを妬ましく思うものが一人。この黄色がかった茶髪の、英語の教師のような口調の男性はケニー。このオフィスの係長だ。年下でしかもバイトである健が周囲から愛されたり頼まれた仕事を何でもこなしたりと信頼を置かれているため、彼に少しばかり嫉妬している節がある。
「まあまあ、係長」
そんなケニー藤野に壮年の男性が声をかける。このオフィスのチーフである副事務長の大杉だ。気さくで人当たりが良いみんなの相談役である。心配性でまだまだ青いところが多い健にも何かとアドバイスを授けている。だが、最近生え際が危うい模様――。
「そう気を落とさんと。妬んだりしないで東條くんが帰ってくるのを待とう。な?」
「そんなイージーな話じゃないんですよぅ……」
「エ? そうか……すまなんだ」
同日の昼、京都駅前のアパート『みかづきパレス』付近にて。袖無しの藍色のベストにドクロがプリントされた黒いシャツを着た青い髪の青年が、藤色のシャツにジーンズを履いた金髪の女性と一緒に歩いていた。二人が目指しているのは――アパート『みかづきパレス』の二階にある健の自宅だ。
「イッチー、東條くんの家まだなーん?」
「もうちょいや。そうカッカせんといてぇな」
眉をしかめて金髪の女性が文句を言う。イッチーと呼ばれた青い髪の男はうっかり彼女を怒らせてしまわないよう上手になだめ、ウォーキングを再開。アパートに辿り着き階段を登っていく。
「……着いたわ。東條はん家はここや!」
「ホンマなん? ちゅうことは東條くん、あのお姉さんたちとここに住んでるんやな」
ついに健の部屋の前に辿り着いた。手に持った袋の中身――たこ焼きのパックを見ながらイッチーは、「ハラ減っとるやろし、たまには差し入れせえへんとな」と笑う。
「ええこと言うやん! ほなったら早速……お邪魔しまーす!」
トントン、と金髪の女性がドアを叩く。だが返事はない。「やっぱりこっちの方がいいんかな」とブザーを鳴らすが、返事は帰ってこない。不審に思う、イッチーと金髪の女性。
「――まずったなー。ひょっとしたら東條はん、いーひんとちゃうか」
「えーっ! それやったら意味ないやん。せっかく遊びに来たのにいーひんなんて……」
「ほなアズサ、わしいっぺん東條はんに電話入れてみるわ。どっか行っとったらあきらめよう。それでええな?」
携帯電話を取り出し、金髪の女性――アズサに確認をとるイッチー。「うん、わかったわ。そうする」と真剣な顔でアズサは答えた。ガールフレンドから了解を得られたイッチーは早速、健の電話番号を入力。彼に電話をかける。
「もしもしッ! 市村やけど!!」
「あっ、市村さん! こんにちは!」
「東條はん! わしアズサと一緒にあんたのアパート来てるんやけど……あんたはどこにおんねん?」
「僕ですか? えっとねー……」
電話中、健の方からさざ波の音が漂ってきた。浜辺で水をかけたりボートで海を駆け抜けたりしてワイワイ騒ぐ声も一緒に。
「――僕は今、白峯さんたちと一緒に南来栖島でバカンスしてます!」
「えっ……な、なんやて。南来栖島ぁ!?」
「はい! あったかいし、海は気持ちいいし、おいしいものもたくさんあって楽しいですよー!」
「み、水着のねえちゃんは!? おるんか、おらんのか!?」
「水着のお姉さんいっぱいいますよー! ビーチに行けばビキニも見放題! 巨乳からまな板、美脚までよりどりみどりですよ~!」
「なんやてぇ!? お前さんばっかりいい思いしよってからに!」
「お手数かけますけど3日後には帰るので……それじゃあ、また!」
「ちょ、待たんかい東條はんッ……」
そこで健からの電話は切れた。嫌な予感はしていたがまさか南来栖島リゾートへ遊びに行っていたとは思わなかった――。口をあんぐりと開けてイッチーこと市村は愕然とし、アズサはハトが豆鉄砲を食らったようななんとも言えない表情を浮かべていた。
「……帰ろ、イッチー」
「うん……」
「南来栖島か〜。ウチもいつか行ってみたいなぁ……」
南来栖島といえば国内でも有数のリゾート地だ。だが費用は高いし、行こうと思ってもそうそう行けない。失意のまま、たこ焼きが入った袋を持って二人はアパートをあとにした。いつかは遊びに行きたいという淡い思いを胸に抱いて。