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同一世界観の本棚

騎士と姫による愛と勇気の英雄譚の裏側を覗き見ると、思いの外ハチャメチャだったというお話

作者: 初音の歌
掲載日:2026/01/07


 歌え、港風の届く南の海辺を。

 白帆の影が揺れ、潮騒が石畳を撫でる。

 そんな大陸南部の王国に、一つの災厄が降りた。


 それは魔界より迷い出でし悪魔。

 黒い甘言で人の心を縛り、恐怖を糧に、街を操り、国を内側から崩そうとしたという。


 だが、絶望の波が王都へ届く前に。

 若き騎士が剣を抜き、若き姫が言葉を放った。


 勇気は刃となり、理は盾となり。

 二人は寄り添い、悪魔の策を断ち切って、王国を救った――


 愛と勇気の英雄譚。

 誰もが聞きたがる、眩しい物語。


 ……そう、表向きは。


 本当にそんな優雅な戦いだったのか。

 騎士と姫は、どうやって悪魔を倒したのか。

 そして、どれほど「ハチャメチャ」だったのか。


 これは、その真実を少しだけ覗き見る物語。





 ◇◇◇





「私達のやるべき事は一つ。あのクソ悪魔を、魚のように開きにしてやる事よ!」

「落ち着いて、姫。本当に落ち着いて」


 場面は、港と港を結ぶ中継の街。その一角――アルビトリウム侯爵家が管理する街の倉庫。

 木箱と麻袋が積み上がり、干し藁の匂いと塩気が鼻を刺す。梁の隙間から差し込む光は細く、埃が金の粉のように舞っていた。


 ひっそりと身を縮めているのは、二人の少年少女。


 一人はラディウス・アルビトリウム。

 侯爵家の長男にして、領内騎士団所属。剣も魔法も将来有望と言われる十五歳の貴公子――そのはずなのだが、今は上着の肩に埃をつけ、呼吸を整えるのに必死だった。


 もう一人はレジーナ・スィル・ステラ・アウストラリス。

 アウストラリス王国第一王女、同じく十五歳。社交と弁舌に秀でた王国の華――のはずなのだが、今は倉庫の暗がりで拳を握りしめ、目に火を灯している。


 どちらも学生を卒業したばかりの、若い芽。

 そんな若い芽が発した言葉が――先程の台詞である。

 ラディウスは額の汗をぬぐいながら、努めて声を低くした。


「あと、声を抑えて。ここに居れば滅多な事じゃ見つからないと思うけど……念のため、小声で。大声は出さないように」

「ふぅー……ふぅー……ま、まったく。なんだって私が視察の時にこんな事態になるのよ……ホントに、あのクソ悪魔。ただじゃおかないわよ……!」

「……姫。先程から言葉が崩れてますよ。あと、声が大きい」

「うっさい! 小声も、丁寧な言葉遣いなんてやってられないわよ! 第一、今そんな場合じゃないでしょーが!! 王国の危機よ、危機!!」


 吠えるように――レジーナは小声で怒鳴るという、器用な事をしていた。

 だが、本人も文句を言ってばかりでは、事態は改善しないと分かっているのだろう、舌打ちと一緒に肩を落とす。

 ラディウスは苦笑を漏らし――すぐに顔を引き締めた。


 そもそも、事態が尋常ではないのだ。

 突如、王国の要所を襲った「魔界の悪魔」。

 人の絶望と恐怖を好み、ときおり人間社会に混乱を撒き散らす――とされる、近所迷惑な存在。

 別に伝説の生き物ではない。出るときは出る。で、出たら騎士団や冒険者が片付ける。

 要するに「厄介なチンピラ」だ。


 だが、厄介にも種類がある。

 そこいらの「ごろつき悪魔」なら、ラディウスは討伐経験がある。

 剣と魔法で押し切れる。被害も局地的で済む。

 ……だが、今日の相手は、そういう手合いではない。


 太古の昔、冗談のような「大物」が居たとされる。

 今回、街を襲った悪魔がまさにその「大物」であった。


 街の者はほぼ全て操られている。

 神官も騎士も兵も、無力化されている。

 ――いや、無力化と呼ぶのも優しすぎた。まるで糸の切れた人形のように、倒れ伏す者ばかり。


 この街は悪魔の手に落ちた――ほぼ全てが。

 そして、この街は王国の要所。

 漁港も、軍港も、そのどちらにも繋がる中間地点。港から王都へ、領地から領地へ――あらゆる流通と軍の動線がここを通る。

 ここが落ちれば、王国は腹を刺されるようなものだ。致命傷と言っていい。

 レジーナが頭を抱え、ぼやく。


「まさか、この要所を狙ってくるとはね……騎士団が常駐し、神官の護りも厚いここを。……念のために聞くけどラディウス。警備に手抜かりは無いのでしょうね?」

「それは間違いないよ。そもそも手を抜いたりしたら、僕の父も騎士団長も黙っていない。実際、結界だって張られたままだ。……余程、高位の悪魔が来ている事になる」


 口にした瞬間、喉が乾く。

 張られたままの結界。それは、外からの侵入を弾くはずのものだ。

 それが破られていないのに、内部がこうなっている。

 つまり――外から殴り込むのではなく、内側から腐らせた。

 結界の意味を踏み越えて。


「どれだけの悪魔よ、それ。そこいらのチンピラじゃ絶対無理よね?」

「無理だね。いつものごろつき悪魔なら僕も討伐したことがある。けど今回の悪魔は……ちょっと拙い」


 二人の間に、冷たい沈黙が落ちる。

 倉庫の外でどこかの戸がぎい、と鳴った気がして、ラディウスは呼吸を止めた。レジーナも瞬きを忘れる。

 だが、すぐに遠ざかる足音。獲物を探すような、揃った歩調。

 追手だ。

 操られた誰かが、あるいは操る何かが――二人を探している。

 レジーナが、沈黙をぶった切るように言った。


「なので、やるべきことは決まってるわ。クソ悪魔を港の市場に並べられている魚のように、切り身にするか、煮込むか、開きにするか、干物にするかよ」

「さっきより増えてない? あと、姫が使う言葉遣いじゃないからね?」

「この状況下で格式ばった振る舞いするつもりはないわ! ……大体、あなただってそうじゃない。随分砕けた口調だけど?」


 刺すような視線が飛んできて、ラディウスは小さく咳払いした。


「――これは申し訳ありません、姫殿下。あまりに無礼な態度で――」

「ああ、いいわいいわ、そのままで。こんな時まで身分やら気にしなくていいわよ……それどころじゃないのだしね」


 そう言って、レジーナはすっと立ち上がった。

 息を整えたと思ったら、次の瞬間には倉庫の中を物色し始める。木箱の蓋をそっと外し、麻袋を確かめ、棚の奥を覗き込む。

 ラディウスは思わず、汗を垂らしたまま問う。


「あのー……姫? 一体、何を?」

「? 決まってるじゃない。まずは食料の確保よ。そして変装用の衣装の物色。今のままじゃ満足に動くこともできないもの」

「……ここで助けを待つ選択は?」

「待つ? ここで? 私達が?」


 レジーナは鼻で笑う。

 それは軽蔑ではなく、ただ「ありえない」という断言だった。


「このまま隠れていたら、確かに私達は安全かもしれない。そして最終的に無事に救助されるかもしれない……でもね」


 倉庫の薄暗がりの中で、レジーナの目が真っ直ぐに光った。

 言葉が整う。怒りや焦りに乱れていた声が、王女の声へ戻っていく。


「私は王族。そして貴方はこの街を預かる貴族よ。私達は民を守り、導き、幸せにする義務があるの。ここでただ隠れていたら、その責務を放棄する事になる。それだけは、できない。やっちゃいけないのよ」


 ラディウスの胸の奥に、何かが落ちる音がした。

 この少女は、戦いの才こそ薄い。剣を振るえばラディウスの方が強い。魔法だって彼の方が扱える。


 それでも――レジーナは、怖いはずの状況で、逃げ道を選ばない。

 言葉で人を動かし、責任で自分を縛り、前へ出る。

 王家の人間が王家たる所以が、そこにあった。


 気付けばラディウスは、自然に膝を折る。

 埃だらけの床に片膝をつき、頭を垂れる。

 倉庫の隅で行われたその所作は、宮廷の広間でのそれよりもずっと、重かった。


 仕えるべきもの。

 剣を捧げるべき王聖。

 それが、今目の前にいる。


「御意。その意志に従いましょう。姫――いえ、レジーナ第一王女殿下」

「ふふん。当然よ」


 レジーナは小さく胸を張る。

 そして次の瞬間、棚の奥から干し魚の束を引っ張り出して、得意げに掲げた。


「ほら、兵糧もある。……ね? 魚の開きは正義よ」

「それは……正義というより、港町の常識かな」

「うるさい。最後には、悪魔も開きにするのよ」


 ラディウスは、笑っていいのか悩んだ末に、小さく息を吐いた。

 倉庫の外では、まだ足音がどこかを探している。

 英雄譚は、こうして始まった。

 輝かしい歌になる前の――埃と塩と、干物と、そして少しだけ乱暴な王女の言葉から。





 ◇◇◇





 街へ出た瞬間、潮の匂いが鼻腔を満たした。

 魚の脂、干し藁、木樽の湿気。港へ続く道が近い証拠だ。石畳には馬車の轍が残り、朝の光を受けて濡れたように鈍く光っている。

 一見すれば、普段の街並みだった。


「いらっしゃい、今日は鯖が安いよ」

「こっちは干し貝だ、旅人向けに塩を強めにしてある」


 声は軽やかで、笑いもある。子供が駆け、犬が吠え、女が籠を腕に提げて品定めをしている。人は会話し、商人は物を売り、暮らしは続いている。


 ただし。

 倒れている人が、路地の脇に「いる」のだ。


 若者が一人、壁に背を預けたまま崩れている。顔色は白く、胸は動いている――生きてはいる。だが、呼びかけに答えない。

 その数歩先では、兵士が仰向けに倒れ、口を半開きにして寝ていた。


 誰も叫ばない。

 誰も駆け寄らない。


 それどころか、人々は談笑しながら、商品を渡しながら、自然にその身体を持ち上げ――荷物のように、近くの建物へ運んでいく。

 運ぶ先は、特定の一箇所ではない。

 目についた家、開いている扉、倉庫、店の裏。倒れている者の近くへ、ただ「片付ける」ように放り込んでいる。

 乱暴なのに、乱暴に見えないのが、いっそう不気味だった。

 まるで、そうすることが街の決まりであるかのように、当然の作業として行われている。


 その光景を――変装した少年少女が、にこにこと「街の一部」を装いながら確認していた。


 ラディウスは町民の服を着て、肩に小さな荷を担ぎ、よくいる下働きの少年の顔を作る。

 レジーナは地味な上着とスカート、頭には深く帽子。金髪は完全に隠し、顔つきだけは明るく、歩幅だけは周囲に合わせた。

 笑顔。目線。呼吸。

 気づかれないための手順を、一歩ごとに噛みしめながら。


 すれ違う女が会釈をしてくる。レジーナはにこりと返す。

 ラディウスは荷を少し持ち上げ、軽く頭を下げる。


 追手の気配は、街のどこかにある。

 「騎士と王女」を探す、薄い圧が漂っている。

 けれど、「今の二人」を追う気配はない。

 それが、余計に怖かった。

 誰もが自分の役割を演じている。

 街全体が――舞台装置だ。


 歩き回った末、二人は自然な足取りで倉庫街へ戻った。

 角を曲がり、荷車の陰に紛れ、視線を誘わずに、倉庫の裏へと滑り込む。

 扉が閉まった瞬間、二人は同時に大きく息を吐く。

 肺の奥に溜めていた空気が、ようやく外へ出た。


「……とんでもないわね、今回の悪魔は。ねぇラディウス。私の今までの常識が壊れそうなのだけれども」


 帽子を取り、金髪がぱさりと落ちる。レジーナは壁にもたれ、眉間を指で押さえた。

 その姿は疲れているのに、瞳だけが燃えていた。


「……僕もだよ。今まで悪魔と言えば……どうしようもないチンピラというか、ごろつきというか、クレーマーというか……」

「クレーマー? 何があったの?」


 問われたラディウスは、遠い目をした。

 領内で悪魔が出た回数は少ない。片手で足りる。そのぶん、一つ一つの記憶が妙に鮮明だ。


「……結界の所為もあるんだと思うけど。僕が見た中で一番しょうもなかった悪魔は、黒づくめの覆面姿でね。老婦人の営む食堂で『食いモンに虫が入ってやがったぞ! ここの食堂は虫を食わせるのか!』って騒いでた悪魔だったなぁ」

「うわぁ」

「しかも衛兵にふん縛られて覆面剥がされて……そこでようやく悪魔だって発覚したんだ。魔力どころか品性もない悪魔だったよ」

「……まあ、だからこそ結界も反応しなかったのでしょうね……」


 二人は揃って沈黙した。

 コバエに城壁が反応しないのと同じ理屈だ。結界は立派でも、相手もそれなりに立派でないと「脅威」として認識されない。網戸をすり抜ける小虫のように。

 それは分かる。だからこそ今の異常が際立つ。

 レジーナもまた、頭痛を我慢するかのようにポンコツ悪魔エピソードを語る。


「王都も王都で凄いわよ。こっちは王家にクーデターを企ててた扇動家が居てね。悪魔の崇拝者と思われる男が」

「……それって普通に大事件じゃない?」

「本当ならね。間違いなく大事件。でも大規模に扇動しすぎて、すぐに王家の情報局に捕まったわ。そして尋問……というか拷問を受けて死亡」

「やっぱり大事件じゃないか」


 ラディウスが思わずツッコミを入れると、レジーナは肩を竦めた。


「そうなんだけどね……その……拷問受けて死んだ後、変化の魔法が解けて悪魔の姿になったのよ。つまり崇拝者じゃなくて悪魔本人だった」

「?」


 ラディウスの顔が、今度こそ完全に理解不能で固まった。

 人の姿に化けられるほどの変化魔法――それは高位悪魔の領分だ。

 捕まる前に逃げられる。捕まっても戦える。拷問死する前に、どうとでもできる。

 なのに。


「調べた神官や騎士の話によると……『真に迫りすぎた変身魔法の所為で、悪魔自身が完全に人間に成りきっていた。その為、元の姿に戻るという思考が消えていた』……らしいわ」

「……馬鹿なのかな?」

「馬鹿よ。それ以外にないわ」


 倉庫の薄暗がりに、二つ目の溜息が落ちる。

 悪魔=ポンコツ。国の常識。二人の常識。笑い話の範囲。

 それが、今まさに目の前で崩れていた。

 ラディウスは倉庫の隙間から外を覗き、低く呟く。


「血も流さず、争いも発生させず……街の内側から掌握した。はっきり言って最悪だ。街の者は、洗脳されるか気を失うかの二択に追いやられている」


 洗脳されれば、街は正常に動く。

 気を失えば、片付けられる。

 この構図は美しく、そして残酷だった。


「本気で拙い事態よ。このままだと、他の領地が異変に気付くのは大分遅れてしまう。そしてその遅れは、王国にとって致命的なものになるわ」


 レジーナが言う遅れは、流通の遅れであり、軍の遅れであり、知らせの遅れだ。

 港を繋ぐ要衝が沈黙すれば、王国の血管が一本詰まる。しかも、それが詰まったことに誰も気付かない。

 レジーナは膝を抱えて座り、帽子の縁を指で弄びながら、思考の底へ沈んだ。

 そしてぽつりと、刃のような問いを放った。


「……気を失う者と、洗脳されている者。この二つの違いは何かしら?」


 ラディウスは即座に答える。今は迷っている暇がない。


「おそらく抵抗力のある者が倒れ、抵抗力の無い者が洗脳される。街の衛兵は軒並み倒れていた。そして騎士団の姿、神官の姿が見えなかった……多分、『戦える者』は殆ど倒れているだろう」


 抵抗力とは何か。

 訓練か、信仰か、精神力か、加護か。

 いずれにせよ、強い者ほど先に潰されている。

 言った傍から苦しくなる結論だった。

 戦える者がいない。希望が薄い。あまりにも薄い。


 だが、ゼロではない。

 ラディウスは今日の街の視線を思い出し、ゆっくり言葉を続けた。


「けれど、僕たちがこの格好になってから追手が消えた。正確には、僕らの姿を見ても態度を変えなかった……これはつまり」

「相手は背格好だけで私達を探している、ということね。悪魔が探しているのは『姫と騎士』の二人。『町民の少年少女』ではない」


 操られている町民たちは、目の前の情報を高度に処理できない。

 王女らしさや、騎士らしさ、という記号で探しているだけ。

 ならば、記号を捨てれば、視界から消える。


 レジーナの声に、力が宿る。

 怒りも焦りも、いまは形を変えて、鋭い刃になっていた。


「ようするに、操られている町民たちに、それほど優れた判断は出来ない。いつもの行動を繰り返し、倒れている人を隠し、『姫と騎士』を探すだけ……」

「そこに道筋が見えるわね」


 二人は視線を交わす。

 倉庫の暗がりの中で、その目だけが光る。


「いいわ。まだ完全に終わった訳ではない……その調子よラディウス。どんどん気付いた事を言って、どんどん思考を巡らせなさい。そして最後には、クソ悪魔を倒すのよ」

「……まあ、そのつもりだけど、僕一人でやるのかい?」

「私、考える係。あなた、考える係と暴れる係」

「僕の仕事量の方が明らかに多いね!?」


 レジーナは肩をすくめ、さも当然という顔で小さく笑う。


「当然でしょ。私はか弱い王女なのだから、おほほほ」

「今の状況でそれ言えるの、強い人だからね……」


 馬鹿げたやり取りをしても、心は折れない。

 むしろ、笑えるうちは前へ進める。

 レジーナが、帽子を指でくるくる回しながら言った。


「それと、さっきの推理。抵抗力のある者が倒れて、ない者が洗脳される……なら、逆に言えば、倒れている人たちの中にはまだ生きている戦力がいる可能性がある」

「……確かに」

「神官も騎士も今は無力化されている。でも取り戻せれば、戦える仲間が増える」


 ラディウスは頷きながらも、唇を噛んだ。


「ただ、無闇に手を出していいかは分からない。僕たちが倒れている人を起こしたら――すぐに異物として弾かれるかもしれない」

「だから、手を出す時は一度で成功させる。失敗は許されないわ」


 レジーナは息を吸い、吐く。

 そして、いつもの強気な調子に戻す。強気は、彼女の鎧だ。


「ねぇラディウス。怖い?」


 不意打ちの質問だった。

 倉庫の暗がりで、彼女の瞳だけが真っ直ぐこちらを射抜く。

 ラディウスは、少しだけ間を置いて答えた。


「怖いよ。怖いに決まってる。……でも、怖いから考える。怖いから準備する。怖いから、勝ち筋を探す」

「良い返事ね」


 レジーナは、小さく頷いた。


「じゃあ決まり。私達は、考えて、動いて、勝つ。民を放り込むみたいに建物へ運ぶクソ悪魔を、二度と歯向かえないようギタギタにしてやるのよ」

「物騒だなぁ」

「今は物騒でいいの。平時に上品、非常時に勇猛。これが王族の嗜みよ」

「嗜みの方向性がだいぶ港町寄りだね」

「当然よ。海と共に生きる国の王族なんだから」


 また小さく笑いがこぼれ、すぐに真顔へ戻る。

 倉庫の外では、街がいつも通りに回っている。

 その異様さが、二人の背中を押していた。


 希望は、まだ消えていない。


 むしろ――見えた分だけ、形を持ち始めている。

 倉庫の外では、街が今日も「普段通り」に回っている。

 談笑し、売り買いし、子どもが駆け、そして倒れた人を荷物のように運ぶ。


 その静かな狂気の中で。


 若い騎士と若い姫は、次の一手を探し始めた。





 ◇◇◇





 倉庫の中は薄暗く、木材と乾いた藁の匂いが鼻をくすぐる。

 外では、街が「いつも通り」に回っているのだろう。遠くで呼び込みの声が響き、荷車の軋む音が鳴り、子供の笑い声さえ混じる。だがそれらは、倉庫の壁を隔てた向こう側で、仮面のように浮かぶ音。


 ラディウスとレジーナは、積み荷の陰に膝を寄せ、作戦会議を続けていた。

 床に指で描いた簡単な地図は、さっきまでの偵察で少しだけ精度が増している。市場、港へ向かう大通り、倉庫街、そして倒れている人々が多かった路地。レジーナは帽子を膝の上で握りしめ、ラディウスは腰の短剣の鞘を無意識に撫でる。


「戦力の話、もう一度整理しましょう」


 レジーナがそう切り出した時、ラディウスは苦笑いを漏らした。


「今さらだけど、僕ひとりで暴れる係は無茶だよね」

「無茶が過ぎるわ。あなただけで街を取り戻せるなら、今頃あなたの像が港に建っているもの」

「僕の像か……建てるなら、やっぱり銅像?」

「潮風で錆びついちゃうからね。緑色の巨大なラディウス像が新たな観光名所よ」

「何か嫌だなぁ」


 冗談めかしながらも、二人とも分かっていた。

 笑っていなければ、恐怖が喉元まで上がってくる。


 現状、戦える者はほとんど倒れている。

 操られている者は、こちらの味方になりようがない。

 ならば――倒れている者を起こし、戦力に戻すしかない。


「話を戻すわ。案としては実行する。倒れている人を叩き起こして味方にするのよ」

「同意。問題は、誰を起こすかだ」


 レジーナが、地図の一角を指で叩いた。


「騎士団の詰め所に行くのは?」


 ラディウスは首を横に振った。迷いのない動き。


「僕が悪魔なら、真っ先にそこは押さえる。相手に戦力を補充させる愚は犯さないだろう」


 普段なら、騎士団に行けばいい。大声で助けを求め、詰め所の扉を叩き、倒れている者がいれば起こす。そこから巻き返せる。


 だが今回の相手は、普段のごろつきではない。

 街を血一滴流さず掌握し、騎士も神官も沈黙させた切れ者だ。

 詰め所は罠である可能性が高い。

 もしくは――すでに処理済みだ。

 レジーナは短く息を吐き、次の候補を挙げた。


「教会。神官の所」

「騎士団が駄目なら、そこも駄目だろうね」


 ラディウスは自分の言葉に苦い表情を足した。


「教会そのものは神の加護で護られているだろうけど……」


 南の王国で信仰されるのは、海の神。

 海路と港、帰還を司る神。漁師の祈り、商船の安全、港の繁栄を守る神。


 神殿や聖堂には確かに力が宿る。悪意を遠ざける結界のようなものもあるだろう。

 だが、守られるのは建物であって、人間の心身ではない。

 少なくとも、今回の悪魔はその隙間を突いている。


 神官が倒れていれば、教会へ向かう意味は薄い。

 それどころか、悪魔が次に封じておきたい場所として、教会は最優先だ。


 話題が行き詰まった時、レジーナの瞳がふと細くなった。

 思い出したのだ。

 さっき街を歩いた時、確かに存在していた――妙な「空白」を。


 市場でも、路地でも、操られた住民たちは一定の密度で動いていた。

 倒れた者を運び、商いをし、巡回し、いつもの生活の動作を繰り返していた。


 だが、ひとつだけ。

 誰も近づかない場所があった。

 道はあるのに、人が流れない。

 建物はあるのに、視線が滑る。

 ただ――「存在しない扱い」になっている。

 レジーナは、地図の端を指で叩いた。


「もう一つの戦力を用意しましょう。この街にある『聖剣』を使うのよ」


 ラディウスが目を瞬かせた。




「聖剣――だがそれは」

「今こそ振るう時よ……この街に、いえ、我が王国に伝わる『港剣(みなとけん)』を!」




 レジーナが胸を張った。

 しかし、次の瞬間。

 倉庫の中に、沈黙が落ちた。


 港剣。


 その名を語るだけで、言いにくい現実が浮かぶ。

 レジーナがこほん、と咳払いをして追記するように言う。


「他には『帰港剣(きこうけん)』とか『塩剣(しおけん)』とか、色々別名あるけど……」

「うん。まあ、確かに。海の神様らしい聖剣はあるよ。本当に。でもさ……あの剣って切れ味皆無な観光名所――」

「それ以上言ってはいけない」


 レジーナの目が、刃物のように鋭くなる。

 ラディウスは、両手を上げて降参の姿勢を取る。


 海神の聖剣。

 それは街の聖廟に祀られ、誰もが気軽に見に行ける。


 なぜなら――危なくないからだ。

 切れ味がない。

 子供が触っても指が飛ばない。

 老人が拝んでも安心安全。

 だから観光名所になっている。漁に出る前に拝み、帰ってきたら礼を言い、旅人が寄っては「へえ、これが」と笑って帰る。


 そして、伝承もまた何とも言えない。

 灯台代わりに光るだの、

 振ると塩が出るだの。


 神秘はある。

 奇跡は確かにある。

 だが――戦闘向きかと言われると、非常に、こう、困る。

 レジーナが先に、言い訳という名の演説を始めた。


「確かに! 西の魔国で伝わってる剣は格好良いわ! 名も『翠王剣(すいおうけん)レリク=ヴェルデ』! 大自然の怒りと豊穣を、剣身に宿した魔法剣!」

「……東の帝国の方でも有名な剣があるよ。『鍛戦剣(たんせんけん)フェルロ=ヴァルカ』。使用者の集中が高いほど、刃が研がれていく錬鉄の魔剣だ」


 二人の口から、よその国の伝説がさらりと出るあたり、優秀な貴族らしい。

 そして出れば出るほど、塩剣の立ち位置が微妙に見えてくる。


「うん! それに比べれば確かに……多少……そこはかとなく……格落ちな気が、しないでもないけれど……」


 レジーナは言いながら、だんだん声が弱くなる。


「それでもあれは聖剣よ! 間違いなくね!」

「そこはまあ、疑ってないけど」


 ラディウスは穏やかに言った。

 侮っているわけではない。聖剣が人知を超えた代物であることは、彼自身が見て知っている。


 幼い頃、祭礼の日に聖廟へ行き、司祭が儀式の一環として剣を振った。

 その瞬間、剣身からさらさらと白い粒がこぼれ落ち、石皿に小山ができた。

 本当に塩が出たのだ。冗談でも手品でもなく。


 ただ、それは塩だ。

 塩は塩でしかない。


 悪魔に塩を投げて追い払えるかと言われれば、いかにも民間伝承っぽいが、少なくとも今回の相手は伝承程度で退くような小物ではない。


 ……まあ、塩を悪魔にぶっかけたい気持ちは山のようにある。

 味付けの話ではない。精神衛生の話である。

 レジーナは、倉庫の壁際から拾った小石を指で弄びながら言った。


「大丈夫よ! それにあなたも街中で見たでしょう! あの剣の置かれてる聖廟付近には人は居なかった! それはつまり、悪魔が忌避している証拠――」

「どうしようもないから放置してるだけじゃないかな?」

「黙らっしゃい!」


 次の瞬間、レジーナの手が伸びていた。

 ラディウスの頬を掴み、ぐい、と引っ張る。


「由緒正しき聖剣を悪くいう口はこれか! このこのー!」

「ちょっ、痛っ……! 姫、痛いから……!」


 ラディウスは頬を伸ばされながらも、抵抗しない。

 抵抗して押し倒すようなことになれば、それはそれで王女に対する不敬以前に、今は音を立てるのが致命的だ。

 レジーナは頬を伸ばしながら、悔しそうに続けた。


「あれはね、派手さがないだけよ! 海の神の聖剣なの! 派手に燃えたり雷が落ちたりしないけど、帰ってくる力なの! 大事なの!」

「……分かってる、分かってるよ」


 伸ばされた頬のまま、ラディウスは目を細めた。


「切れ味で殴り合う剣じゃなくて、港を守る剣なんだろ。帰還の剣。だから、悪魔がそこを空白にした可能性はある」


 レジーナが手を止める。

 頬を掴んだまま、彼女はじっとラディウスの顔を見た。

 その目に、一瞬だけ驚きが走り――すぐに、満足げな色に変わる。


「……そう。その通りよ」


 ようやく手を離し、レジーナは咳払いをして取り繕う。

 ラディウスは少し赤くなった頬をさすりながら咳払いした。


「……でも、真面目な話。聖廟に人がいない理由は、二つ考えられる」

「言ってみなさい。今度は、頬伸ばしの天罰が降りない範囲で」

「努力する」


 ラディウスは地図の聖廟の印を指で囲った。


「一つ。悪魔が本当に忌避している。つまり、近づきたくない。だから操られた人間にも近づかせないようにしている。空白地帯になっていたのは、その命令のせい」

「うん」

「もう一つ。悪魔にとって、そこは「どうでもいい」。放置しても害がない。だから人間の行動の台本から外れていて、結果として誰も行かない」

「後者は気に入らないわね」

「僕も気に入らない。でも、どっちかは行ってみないと分からない」


 レジーナは顎に指を当て、少し考えた。


「行って確かめる。聖剣を確保する。もし本当に悪魔が忌避してるなら、そこは一時的な安全地帯にもなる。逆に放置なら……そこを利用して罠を張ることもできるかも」


 言いながら、彼女の瞳が少しだけ鋭くなる。


「……それに、聖剣が本当に「塩を生む」なら、塩で何かできる可能性があるわ」

「塩をぶっかける?」

「ぶっかけるのは最低限よ」

「最低限なんだ……」

「だって気分が良いもの」


 レジーナは即答した。悪魔が憎い。感情の方向性が分かりやすい。ラディウスは、そこに救われるところがあった。王女が感情を見せる時、彼女は「人間」になる。守るべき対象として、より輪郭がはっきりする。

 ラディウスは真顔に戻り、声を落とした。


「聖剣を使うとしても、まずは人を起こす案と繋げたい。剣だけで勝てる保証はないから」

「繋げる……つまり、聖廟を拠点にして、近くの建物に放り込まれた人を回収する?」

「可能性はある。さっき見た感じ、倒れた人は「近くの建物」に放り込まれてた。集積所じゃなく、分散してる。聖廟の周辺にも倒れた人がいるのなら、人が近づかないせいで片付けられてないかもしれない」


 レジーナが小さく息を呑む。


「……盲点ね。空白地帯に倒れた人が残っている可能性」

「そう。残ってるなら、そこから起こせる。起こせた人が戦えるなら、さらに起こせる」


 そして彼は続ける。


「ただし、問題は一つ。叩き起こした瞬間、その人が大声を出すかもしれない。状況を理解できずに。あるいは、操られている側に引き戻される可能性もある」

「なら、起こす手順を決めるべきね」


 レジーナが即座に言う。こういう時の彼女は迷いがない。


「口を塞ぐ。落ち着かせる。状況を短く説明する。味方だと証明する。……そして、動けるならすぐに行動」

「口を塞ぐのは手荒いけど、必要だろうね」

「王女の嗜みよ」

「嗜み万能説が出てきた」


 レジーナは肩をすくめた。冗談の皮を被せているが、目は真剣だ。


「起こす対象は、なるべく「抵抗力がある者」。つまり衛兵、騎士、神官……だけど、その中心へ行くのは危険。なら、端にいる者」


 彼女は地図の周縁を指でなぞる。


「詰め所や教会そのものじゃなく、そこから外れた所に倒れている人。巡回の薄い場所。空白地帯の周囲。そういうところから拾う」

「同意。小さく始めて、大きく広げる」


 二人の言葉が、倉庫の暗がりで噛み合っていく。

 恐怖が、計画に変わる。計画が、具体的な一歩になる。

 レジーナは満足げに頷いた後、帽子を被り直した。

 金髪が完全に隠れるよう、深く。


「じゃあ決まり。次の行き先は聖廟。港剣を確保。そこで倒れている人がいるか確認。起こせそうなら起こす。最初の仲間を得る」


 倉庫の隙間から差し込む光が、地図の上に細い線を落とす。

 その線が、まるで道筋のように見えた。

 レジーナは、ふっと息を吐き、少しだけ笑う。

 それはさっきの怒鳴り声を忘れさせるような、柔らかい笑みだった。


「……ねぇラディウス」

「うん?」

「私達、意外と息が合うわね」

「命がかかってるからね。息が合わなかったら、合うまで頬を伸ばされる」

「何よそれ。私を暴力王女みたいに言わないで」

「今さっきやったばかりじゃないか」


 レジーナはまた頬を掴もうとして――寸前で思い直し、拳を握ったまま小さく笑った。

 笑っても、状況は変わらない。

 街は支配され、人は倒れ、悪魔は見えない場所から糸を引いている。


 それでも、二人の間にあるものが増えていた。

 信頼。

 一体感。


 そして、ほんの少しの――反骨心。





 ◇◇◇





 それからしばらくして――レジーナは倉庫の棚を容赦なく漁っていた。


「これ……布。こっちは縄……あ、細縄もあるわね。口を塞ぐ用、拘束用、印として結ぶ用。用途別にまとめるわ」


 声は小さい。動きは素早い。迷いがない。

 帽子を深く被った町娘の格好のまま、目つきは刃物のように鋭い。棚から布を引き抜く手付きが、もはや「準備する姫」ではなく「作戦の現場で物資を確保する指揮官」だった。


 布は種類が違う。粗い麻布、柔らかい綿布、使い古してほつれた端切れ。

 レジーナはそれぞれ手で触って、厚みと肌触りを確かめる。


 その姿を見ながら、ラディウスは不思議な感覚に囚われる。

 学園の時のレジーナは、常に整っていた。

 姿勢、口調、視線の配り方。廊下を歩く時でさえ、騒がない。急がない。乱れない。

 規律という衣を着て、誰が見ても「王族」だった。


 だが今、彼女は布と縄を手にして、口を塞ぐ算段をしている。

 目は鋭い。手は的確。言葉は時々、港町の喧嘩腰に寄る。


 ……同じ人間なのに、別人のようで。

 そう思って見ていると、視線に気付いたのか、レジーナがふいにこちらを向いた。


「どうかした? ……その顔は、なぁに? 国の姫に向ける顔じゃありませんことよー?」


 からかうように言いながら、彼女は縄を小さく束ねる。

 結び方が手慣れているのがなおさら怖い。


「あはは、ごめんよ。ただ……学園に通ってた頃と違うな、と思って」


 ラディウスが素直に言うと、レジーナはあっけらかんと肩をすくめた。


「それはそうよ。私は王族。基本的に、常に相応しく振舞う必要があるわ。国の中で一番偉い、ということはそういうこと」


 淡々とした言い方だった。

 誇らしげでも、愚痴でもない。事実を述べるだけの、王族の声だ。


 ラディウスは、その言葉に合わせて記憶が自然と遡る。

 大理石の回廊、整然とした教室、礼儀作法の講義、剣術場の砂の匂い。

 レジーナはいつも、上位の成績を取り続け、貴族令嬢たちの憧れの視線を受けながら、最後まで崩れなかった。崩さなかった。


 彼女は「人に見せる王女」の形を守り抜いた。

 その裏で、どれだけ気を張っていたかは、当時の自分には見えていなかったのかもしれない。

 レジーナは、今度はラディウスに視線を向けたまま言う。


「そういう貴方は、常に目立たないよう控えていたわね」


 そして歌うように紡ぐ。

 ラディウスの本質。彼が真に国に求められている役割を。



「アルビトリウム侯爵家。この領地を――王族の代わりに治める事を任せられた『代官』としての侯爵位」



 それが、ラディウスの家に求められている役目だ。

 国の要所を、多忙な王族の「代わり」に統治すること。

 王家の領土を預かって治める、その権限と責任が侯爵位に付随している。


「あなたは王族の代官としての役目を最後まで崩さずに……それでいて、代官を名乗るに相応しい成績を維持し続けた」


 ラディウスは少しだけ面食らう。

 学生時代、彼はレジーナと特に交流がなかった。

 同級生として同じ空間にいたが、必要以上に近づかなかった。王族と貴族。互いの立ち位置を守る。それが正しいと教わってきた。

 だからこそ、視線が交わることも、言葉を交わすことも、ほとんどないと思っていた。


「貴方程の成績優秀者なら、もっと誇示しても良いと思ったけどね。剣も魔法も学業も――上位十名から一度も外れた事なかったじゃない」

「……覚えていたんだ。何か恥ずかしいな。自分の立ち位置を間違えないようにしていたつもりだったのに」


 それは本音だった。

 彼は「目立たない」を武器にしていた。侯爵家は王家の代官。前へ出すぎれば政治になる。前へ出すぎれば、王家の影が濃くなる。

 だから、必要なことはする。だが、必要以上はしない。

 ラディウスはいつも表情を整えて生きてきた。


 けれど、王女に覚えられたという事は「何か」が目に留まったということ。

 そこにラディウスは恥ずかしさを覚える。

 だがレジーナは、迷いなく言い切った。



「間違えていないわよ。少しも。一度たりとも――だから覚えてたの」



 その目は真摯だった。

 少女の目というより、同い年の王女が、同い年の貴族を評価する目だった。

 それが、胸に刺さる。

 レジーナは続ける。倉庫の麻袋を脇に寄せながら、語り口は淡々としたまま。


「貴方も同学年だから見てたでしょ? 私にすり寄ってくる者達の多いこと多いこと。中には必要な交流も、そりゃあったけど……欲深い目が本当に多かったわ」


 その言葉で、ラディウスも思い出す。

 王女の席の周りにできる輪。必要以上に近い距離。甘い言葉。過剰な礼。媚びた笑い。

 レジーナがそれを全部、笑顔で捌いていたこと。

 笑顔で捌きながら、誰ひとり勘違いさせない距離を保っていたこと。


「そして、不必要に民を蔑む眼も……あの学園に入れる平民なんて、それだけで特筆するだけの優秀さを示しているというのに」


 レジーナは小さく溜息を吐く。

 その溜息に、王女としての疲労が滲んでいた。


 ラディウスも頷く。

 身分は大事だ。それは差別ではなく区分。責任と権限の構造だ。

 だが、その構造を盾にして優秀な者を踏みにじるのは、国を弱くする。


 平民の中には、宝がいる。

 それを拾い上げるために、学園は『特別入学枠』を設けた。

 そこを理解できない者は、王国を何一つ理解していないことになる。

 レジーナは肩をすくめた。


「私が在学中は、どうにか穏便に済ませるように色々手を打ったけど……次からどうなるのやら。身分の意義と意味を間違えたお子様達は、大丈夫なのかしらね」


 色々の中身を、ラディウスは想像できた。

 言葉でいなす。場を整える。教師へ根回しする。時には、笑顔で釘を刺す。

 王女が露骨に怒れば、それは政治になる。だから彼女は「穏便」という形で矯正していたのだろう。

 それができるのが、レジーナという王女。

 ラディウスは口を開く。


「それも含めての学園だよ。素行は全部報告されている……気付かない者は、卒業出来ても行き場がない。それが僕たちの王国のやり方だろう?」


 ラディウスが言うと、レジーナは「まあね」と小さく頷いた。


「全部、試金石。あそこで揉まれる平民も含めて――容赦のない育成場」


 言い方は辛辣だが、事実だ。

 彼らは「選ぶ側」だと同時に、「選ばれる側」でもある。だからこそ、学園の中で振る舞いを試される。

 甘い世界ではない。だが、それが王国の現実だった。


 レジーナは、束ねた布と縄を脇に置き、少しだけ姿勢を正す。

 倉庫の暗がりの中でも、背筋が伸びると一瞬で「王女」に変わる。


「貴方のことは忘れなかったわ、ラディウス・アルビトリウム」


 ラディウスの指が、無意識に短剣の柄に触れる。


「だからこそ、今回私の護衛に任命されたの。同い年だからとか、そんな理由ではないわ。誇りなさい。自分自身の振る舞いを」


 レジーナは言い切る。

 そして一瞬だけ、王女の仮面を外したように笑う。




「貴方は――我が王家の『代官』を務めるに相応しいと認められたのよ」




 それは、最上の褒賞だった。

 爵位よりも、勲章よりも、重い言葉。

 王家からの『認知』は、侯爵家の存在意義に直結する。


 天にも昇る気持ち、という表現がある。

 本当にあるのだと思った。

 だが、ラディウスは表情を崩さない。


 崩してはいけないのだ。

 王家の代官を担う侯爵家の跡取りとして。認められたからこそ、ここで浮ついてはいけない。


 彼は静かに膝をつき、頭を下げた。

 倉庫の埃の上でも、その所作は揺るがない。


「光栄の極みです、レジーナ王女殿下。今後も、その信頼に応えるよう尽力致します」

「うん。よろしい」


 レジーナは満足げに頷き――次の瞬間、目の火が戻った。


「差しあたっては、この街のクソ悪魔ね。絶対にぶっ倒すわよ」

「ですから姫。御言葉が乱れてます。どこのチンピラですか」

「うっさい! 大人しくなんてしてられないのよ!」


 レジーナが布の束を持ち上げ、ぷりぷり怒る。

 その怒りは、恐怖を塗りつぶすための炎だ。彼女なりの戦い方だ。

 ラディウスは小さく笑う。


「でも……君が怒ってくれるのは助かる。怖いのに、前へ出るから」

「当然よ。私は王女だもの。民が倒れて運ばれていくのを、見て見ぬふりなんてできない」


 レジーナは、ほんの一瞬だけ声を落とした。

 その瞬間、彼女が「か弱い」のではなく、「か弱さを許されない」立場にいることが透けて見えた。

 ラディウスは頷き、作戦へ戻す。


「準備はこれでいい。次は聖廟へ向かう。港剣……塩剣のところだ」

「うん」


 レジーナは帽子を被り直し、金髪を完全に隠す。さっき裂いた布を腰に巻き、町民の娘らしいシルエットに整える。

 そして、袋を軽く揺らした。


「口を塞ぐ布、縄、予備の紐、水、塩、乾パン。倒れている人を起こすための準備はできた。あとは……」

「台本の穴を突く」


 ラディウスが静かに言う。

 短剣の柄に触れる指が、ほんの少しだけ強く握られる。


「そして、港剣を確保する。もし本当に悪魔が近づかないなら、そこは拠点になる。倒れている人が残っている可能性もある」

「残っていたら、連れ戻す。私達の戦力にする」


 レジーナは言い切り、にやりと笑った。


「それで最後に、悪魔を塩漬けよ」

「塩漬けは保存食の処理だよ」

「じゃあ干物にする」

「食べ物の方向に行くのはやめよう」

「だって港町だもの」


 くだらない言い合いをしながらも、二人の足元はぶれない。

 恐怖は消えない。だが、恐怖の上に作法と責任を積み上げて、前へ進む。

 ラディウスは倉庫の扉に手をかけ、音を立てないように僅かに開いた。

 外の風がすっと入り込み、潮の匂いが再び鼻を刺す。遠くで笑い声。値段交渉の声。荷車の軋む音。

 いつもの街。

 いつも通りの仮面を被った街。

 レジーナが小さく呟く。


「……行くわよ、ラディウス。今度は観光じゃない。聖剣を「使う」ために行くの」

「了解、殿下」

「町娘よ」

「了解、町娘」


 レジーナが満足げに頷く。

 そして二人は、再び普通の少年少女の顔を被り、倉庫の影から街へ踏み出した。


 街は今日も「普段通り」に動いている。

 その中へ、変装した少年少女が、笑顔を貼りつけて歩き出す。


 目指すは、塩を生む聖剣の眠る場所。

 ――この街の台本を破り捨てるために。





 ◇◇◇





 街の中心にありながら、人の流れが不自然に避けている一角。

 ざわめきが、そこで途切れていた。


 市場の呼び声も、子供の足音も、荷車の軋みも。

 その境界を越えると、音が急に薄くなる。潮風の音だけがやけに鮮明になり、石畳の温度が一段低くなる。

 空白地帯。

 人が「行かない」ではなく、「行けない」かのような場所。


 その中心に、白い石で組まれた小さな聖廟があった。

 灯台の縮小版のような円柱の建物。入口には海の神の紋章。壁面には波の彫刻。

 周囲には低い石柵が巡らされ、柵の内側は小さな広場になっている。潮の砂が薄く溜まり、そこに足跡がほとんどない。


 聖廟の前には、倒れている者がいた。

 数名。剣と槍を持つ装備。鎧は簡素だが実戦用。衛兵だ。

 聖廟の警備を請け負っていたのだろう。

 息はある。しかし、深い眠りに沈んだように動かない。


 ラディウスは平静を装いながら、周囲を素早く見回す。

 遠くの通りには「普通の町民」がいる。だが誰もこちらを見ない。見ても、視線が滑っていく。

 まるで、この場所に興味を抱く思考だけ切り落とされているように。


「よし。何人か居る。彼らを味方につけることが出来ればいいんだが……」


 ラディウスが小声で言うと、レジーナは荷物を下ろしつつ頷いた。


「とにかく、まずは起こしましょう。ええっと、まず猿轡かまして、それから……」


 言葉が物騒すぎる。

 彼女は躊躇いなく布を取り出し、倒れている衛兵の口元に当てた。

 しかも手際がいい。顎を少し持ち上げ、布を口に噛ませ、後頭部で結ぶ。結び目はほどけにくいが、引けば外せる位置。

 次に手首。縄を二回巻き、摩擦で締まりすぎないよう布を挟み、素早く結ぶ。

 早い。正確。迷いがない。

 とても王女の手際ではない。

 ラディウスが言葉を失っていると、レジーナが顔を上げた。

 帽子の影から覗く瞳が、鋭い。


「……なによその顔。何か文句でもあるの?」

「いや。無い。何も、無い」


 肯定するしかない圧だった。


「なら手早く済ますわよ。さてそれじゃまず……回復魔法から掛けてみようかしらね。はいラディウス」


 レジーナが、まるで配膳係に「はいお皿」と渡すようなノリで、ラディウスの肩を叩いた。


「……僕がやるのかい?」

「そうよ。あなた魔法の成績良かったじゃない。私ははっきり言って並みよ並み。私は座学で点取ってたようなものなんだから」


 ぷくー、と頬を膨らませて拗ねる。

 その仕草だけは王女らしく可愛いのに、手元には縄と猿轡。ギャップが過ぎる。

 ラディウスはやれやれと小さく息を吐き、膝をついた。

 衛兵の首筋に指を当て、脈を確かめる。正常。呼吸もある。汗が少し冷たい。傷は――見える範囲ではない。


「……怪我じゃない」

「じゃあ起きるはずよ。ほら、やって」


 レジーナがせっかちに促す。

 ラディウスは掌をかざし、治癒魔法の術式を組む。

 淡い光が指先に灯り、温い潮風みたいな気配が流れる。光は衛兵の胸元へ沈み、血の巡りを整え、疲労を撫でるようにほどいていく。


 だが――。

 衛兵は、ぴくりとも動かない。

 まぶたが震えることもない。喉が鳴ることもない。

 深海の底で眠る石像みたいに、ただ静かに呼吸するだけだ。

 ラディウスは眉を寄せて、もう一度術式を変える。覚醒を促すよう、神経に軽く刺激を与える調整。

 それでも、反応はない。


「……起きない。眠りが深すぎる」

「そんな馬鹿な」


 レジーナが近づき、衛兵の頬を指でつついた。

 ぷに、と柔らかい。生きている。確かに生きているのに、戻ってこない。

 ラディウスは考えながら呟く。


「……ただ、気を失っているだけじゃないのか。もしかしたら、悪魔を倒すまで眠りから覚めない……?」

「ちょ、ちょっとそれは困るわよ!」


 レジーナの声が、思わず大きくなりかけた。彼女は口を押さえて小声に戻す。


「いくらなんでもラディウス一人じゃ荷が勝ちすぎるわ! 暴れる係はもう少しいないと、ラディウスが大変じゃない」

「僕が暴れる係なのは、もう決定事項なんだね」

「当たり前よ! 騎士団入ったんでしょ! だったら暴れてなんぼよ!」

「そんな血の気の多い役職じゃないんだけど」

「うっさい! そんなことより、これは拙いわ……ええい、起きなさい! こら! 王女命令よ! 起きろと言ってるのがわからんのかぁー!?」


 レジーナは衛兵の胸当てを掴み、ぐわんぐわん揺さぶった。

 そして次の瞬間。


 バシン。

 バシン、バシン。


 往復ビンタが始まった。

 第一王女の華麗な往復ビンタだ。

 音が妙に良い。乾いた音が聖廟の石に跳ね返って、やけに響く。

 衛兵の頬がみるみる赤くなり、次いで膨らみ、ついには水風船の一歩手前みたいな顔になっていく。


「落ち着いて姫! 本当に!」


 ラディウスは慌ててレジーナの腕を掴んだ。


「衛兵の頬が見るも無残だから! あと、王女命令は寝てる相手に効かないから!」

「ちぃ!」


 レジーナが舌打ちする。舌打ちが似合う王女、なかなかいない。


「私の声を無視して寝たままとは……軍法会議ものよ」

「軍法会議の前に、頬が逝くよ」


 レジーナは衛兵の襟首を離し、視線を聖廟へ向けた。

 手を離された衛兵はそのまま崩れ落ち、「ゴン」と鈍い音を立てて石畳に倒れ伏した。

 ……もう、筆舌に尽くしがたく、惨い。


 ラディウスはこめかみを押さえた。頭痛がする。だが状況は深刻だ。

 治癒が効かない。つまり、これは単なる気絶ではない。意識だけを沈める術――それを悪魔が使っている可能性が高い。

 レジーナは荷物の中から、塩の袋を取り出して握りしめた。


「こうなったら仕方ないわね」


 レジーナが言い放つ。


「ラディウス。あそこに安置されてある聖剣をかっぱらって――もとい、拝借して一旦身を隠すわよ」

「今かっぱらうって言った?」

「気のせいよ!」


 レジーナは胸を張り、堂々と宣言する。


「神が私達に与えもうた聖剣を手に、雌伏の時に入るだけ! ほら行くわよ!」


 ラディウスは、頭の中で「神に言い訳する文言」を組み立てながら、聖廟の入口へ視線を移した。


 聖廟の入口は、半ば開いたまま。

 扉は古い木で、潮で黒ずみ、表面には細い溝が刻まれている。溝は波の模様。触れれば微かに冷たい。

 内側から、薄い塩の匂いが漂った。海そのものではない。干した塩、祈りの塩、清めの塩――そんな匂いだ。


 二人が入口の縁に足をかける。



 その瞬間だった。

 空が、ひび割れたように暗くなる。

 潮風の音が、ぴたりと止んだ。

 遠くの街のざわめきすら、一瞬だけ消える。

 そして――哄笑。



『くははははは! よもやよもや! ここまで思惑通りにいくとはな!』



 哄笑が、空から降ってきた。


 黒い霧が渦巻き、淀んだ魔力光が空を汚す。

 空気が一瞬で冷え、圧が増す。肺が押され、心臓が重く跳ねる。

 見上げると、そこには人とは成り立ちそのものが違う存在がいた。


 黒き翼。

 赤黒い角。

 鎧のような皮膚に、歪んだ笑み。

 眼は、血の色をした光を宿している。


 魔界の悪魔が、空にその姿を現していた。


 ラディウスは、身体が反射で半歩前に出た。

 レジーナの前へ。彼女を背に隠す位置へ。


 レジーナはそれでも前を向いた。

 帽子の影から悪魔を睨み返し、微動だにしない。


『人形どもには、姫と騎士を探せと命じた。だがなぁ……探させるのは「表」だけでよい。真に誘うべき場所は、ここ――聖なる廟よ』


 悪魔の声は楽しげだった。

 成功を確信した者の声音。自分の手のひらの上で踊る獲物を眺める声。


『忌避? くく……ああ、確かに忌避した。正確には、忌避させた。貴様らが来やすいよう、ここだけは「触れぬ」と誤認させてやったのだ』


 翼がゆっくりと広がるたび、霧が波のように揺れる。

 そのたびに広場の空気が重くなる。石畳が沈む気がする。視界が僅かに歪む。

 悪魔の存在そのものが、周囲の世界をねじ曲げていた。

 ラディウスは歯を食いしばった。

 この圧は、いつもの「ごろつき悪魔」のものではない。格が違う。明確に。


『貴様らは、この廟にあるものを欲した。聖剣――港剣、帰港剣、塩剣……名などどうでもよい』


 悪魔が、嘲るように鼻を鳴らす。


『そんなガラクタのような聖剣、恐れるに足らん』


 その言葉を聞いた瞬間――

 レジーナの顔が、僅かに変わった。

 ラディウスには分からない。悪魔にも分からない。

 だが、彼女の目の奥に、さっきまでとは違う光が灯った。


 怒りではない。

 焦りでもない。

 それは、確信に似た希望だった。


 レジーナの視線が、聖廟の入口へ一瞬だけ滑る。

 海の神の紋章。波の彫刻。帰還を示す円。

 そして、風の止んだはずの広場で――ほんのわずか、塩の匂いが強くなった気がした。


『貴様たちさえ押さえれば、この街の全ては掌握できる……くくく、よい。抵抗を許そう』


 悪魔が高度を下げる。

 霧が広場へ降り、石畳の上を舐めるように這う。


『若き騎士よ、若き姫よ。最後の儚い抵抗を、してみるがいい……!』


 悪魔が嗤う。

 霧が濃くなる。

 広場の白い石が、黒に染まりかける。


 そして、あまりに絶望的な状況で――

 それでも確かな何かを胸に、若き騎士と若き姫は身構える。


 戦いが始まろうとしていた。





 ◇◇◇





 ラディウスは、倒れている衛兵たちの傍へ一歩だけ寄り――迷いなく、一本の槍を引き抜く。


 手に馴染まない重さ。

 それでも柄の擦れ具合、穂先のバランス、槍身のしなりを指先で瞬時に読む。騎士団での訓練が身体に染みついている。

 何より、今は選り好みしている余裕がない。


 彼は槍を構え、足を開く。

 前へ出すぎない。退きすぎない。聖廟の入口を背にして、ちょうど盾になる位置。

 その背で、レジーナが動く。


「ラディウス! 時間を稼いで! 聖剣取ってくるから!」


 返事を待つ気は、彼女には最初からないらしい。

 レジーナは荷物を抱えたまま、聖廟へ突撃した。

 町娘の姿で、王女らしからぬ勢い。いや、むしろ王女だからこそ、だ。

 扉を押し開ける音がひゅ、と吸い込まれるように消え、彼女の背中が聖廟の闇に飲まれた。


 次の瞬間から、ラディウスの世界は悪魔だけになった。

 目前には黒い影。

 翼の一振りで空気が軋み、霧が地を這う。

 笑う声は軽いのに、気配は重い。圧が、骨の内側まで沈み込んでくる。


 ラディウスは一歩も動かず、槍を構えたまま、短い詠唱を始めた。

 意識の中で言葉を組み、魔力の流れを整える。

 彼は肺の奥で息を整え、光を――いや、清めを思い描く。


『くくく……塩をばら撒くような剣に、一体何を期待しているのか』


 悪魔の声が降る。


『なあ、若き騎士よ。お前もそうは思わんか』

「…………」


 ラディウスは答えない。

 答えれば心が揺れる。揺れれば魔力の流れが乱れる。乱れれば死ぬ。

 沈黙に、悪魔はさらに愉快そうに笑った。


『俺と言葉を交わす気はない、か。くくく、姫に付き従う忠実で清廉な騎士! いやはや、見た目だけなら英雄譚の一幕よ――見た目だけならなぁ!』


 悪魔の指先が動いた。

 黒い魔力弾が生まれる。

 闇が丸く凝縮し、赤黒い火花を散らしながら空気を灼く。

 あれは当たれば骨まで腐る類の「破滅」。


 ラディウスは詠唱を終え、掌を突き出した。

 淡い光弾。

 術式は単純な攻撃。迎撃のための打ち消しに近い。


 光が闇へ飛ぶ。

 だが――

 闇が笑ったように、光を押し潰した。


 バリ、と空気が裂ける音。

 光が歪み、砕け、黒い魔力弾は勢いを落とさないまま突っ込んでくる。


(――やっぱり、格が違う)


 ラディウスは即座に槍へ意識を移した。


 水。

 流れ。

 巡り。


 槍身に纏わせた水の膜が、ふっと広がる。

 水は柔らかい。だが魔力を宿した水は「弾く」。衝撃を受けて、流れて、散らして、受け止める。


 闇の魔力弾が、槍先の渦に当たり――弾かれる。

 正確には逸らした。

 まともに受ければ腕が砕ける。だから受けない。流して、角度を変えて、殺意を脇へ落とす。

 闇の球が石畳に当たった瞬間、地面がじゅっと腐るように黒ずみ、煙が立った。


『ほぉ!? 良い腕だ! 若いのに見事な槍捌きよ!』


 悪魔が楽しげに声を上げる。

 褒め言葉なのに、吐き気がするほど嫌悪が湧く。

 あれは獲物の抵抗を楽しむ捕食者の声だ。


 次の黒い魔力弾。

 さらに次。

 間隔が短い。連射だ。遊んでいるのに、この密度。


 ラディウスは槍で弾く。弾く。弾く。

 そのたび、腕が痺れる。指先が熱くなる。槍身が軋む。


(――駄目だ。一発弾くだけで、腕が痺れる。それに槍も保たない。あと何発耐えられるか……)


 息を吸うたび、胸が重い。

 悪魔の圧が肺を押し、空気が薄く感じる。視界の端に黒い霧がちらつくのは、霧のせいか、それとも意識が削れているのか。

 ラディウスは自分に言い聞かせる。


(まったく、何でこんな悪魔が現れるんだ。いつものチンピラ悪魔はどうした――)


 考えがそこで止まった。

 止めた。止めなければいけない。今、愚痴を言う余裕すらない。

 悪魔が、ふと声の調子を変える。


『不思議か? 今まで、この王国に現れた悪魔が「情けない」連中ばかりだったのにと……』


 黒い瞳が、ラディウスを射抜く。


『そんな不条理を感じさせる顔をしているぞ?』


 今までの悪魔は、どれも滑稽だった。

 食堂でクレームを入れて縛られる悪魔。人間に成りきって拷問死する悪魔。

 悪魔=厄介だがどこか抜けている、という「国の空気」。

 その空気が、今、首を絞めている。

 ラディウスは槍を構えたまま、吐くように言った。


「……お前は、随分例外の悪魔みたいだね」

『例外? いや違うぞ?』


 悪魔の口角が上がる。

 嬉しそうに、秘密を明かす子供のように。



『ここ「数十年」で王国に現れた悪魔は、全て「俺の部下」だ』



 ラディウスの背筋が、冷たくなった。

 数十年。

 今までの「悪魔はポンコツ」という常識。

 その常識が、王国全体に染みつくには十分な時間。

 つまり――偶然ではなく、意図的に積み上げられた印象。


『俺の言わんとしていることが分かるか?』


 ラディウスは息を呑む。

 魔力弾を弾く腕の痺れより、言葉の刃が深く刺さる。

 悪魔が楽しげに続けた。



『――随分と、油断してくれたなぁ? おかげで「無意識下」での警戒が緩かったぞ?』



 胸の奥で、何かが崩れた気がした。

 警戒とは、知識だけではない。

 身体の反射。心の備え。危険を危険として感じる感覚。

 それを、国ごと鈍らせる――数十年かけて。

 ラディウスは歯を食いしばり、槍を強く握った。


「……だから、騎士や神官たちでさえも……」

『ああ。抵抗力? 笑わせるな』


 悪魔は翼を揺らし、広場を見渡す。


『警戒が薄ければ、心は緩む。心が緩めば、魔は入りやすい。簡単な理屈だろう? お前達は、優しく、平和で、善良で――そして鈍い』


 言葉が、痛い。

 王国を貶されているのに、否定できる材料が今、手元にない。目の前で街が掌握されている。

 悪魔は、さらに自分の勝利を語る。


『この街は、お前達王国の要所だ。ここを押さえればあらゆる物流を支配するに等しい……くくく、食物への細工、生活必需品への毒散布、粗悪品の武具の流入……俺のやりたい放題だ』

「そうはさせない!」


 ラディウスは踏み込み、槍を突き出した。

 水流を槍に纏わせる。槍身に沿って水が走り、穂先が淡く輝く。

 それは貫くための一撃。並みの魔物なら胴を貫き、霧散させるはずの渾身。


 だが――

 悪魔は、片手を伸ばした。

 指先が、水に触れる。

 そして、そのまま槍の穂先を掴んだ。

 嘘みたいに、簡単に。

 水が弾ける。槍の勢いが止まる。ラディウスの全身が前に持っていかれそうになる。


(掴んだ……?)


 理解が追いつくより早く、悪魔がにぃと笑った。


『悔しいか騎士よ?』


 声が優しい。だから余計に恐ろしい。


『……名誉の為に言ってやろう。お前の腕は素晴らしい。その若さで中々のモノだ』


 悪魔の手が、槍を握り込む。


『あと十年早く生まれていたら、この槍は俺に届いたかもしれん』


 次の瞬間。

 バキン、と響く乾いた音。

 槍が、へし折れた。


 同時に、衝撃波。

 黒い力が空気を押し広げ、ラディウスの身体を弾き飛ばそうとする。


 ラディウスは反射で後ろへ跳んだ。

 背後に転がるように着地し、肩で地面を受け、勢いを殺して立て直す。


 息が乱れる。

 手のひらが痺れて、折れた槍の感覚だけが残っている。


 悪魔の前に、黒き剣が形作られた。

 魔力が凝縮し、刃となり、闇の光沢を持って顕現する。人の手で鍛えた武器ではない。破滅そのものの形だ。


『諦めろ、若き騎士。お前はよくやった。だがその力は――届かぬ』


 ラディウスは立ち上がる。

 折れた槍の柄を捨てて、腰の短剣を抜く。

 こんな護身用の武器で、どうにか時間を稼ぐしかない。


 逃げる訳にはいかない。

 侯爵家の跡取りとして。騎士として。

 そして何より――あの聖廟の中に、レジーナがいる。


(死ぬなら、ここだ)


 覚悟が固まった瞬間。

 胸の奥で、別の感情が燃えた。


(いや。死なない。死なせない)


 黒き剣が振り上げられる。

 刃が空気を裂き、広場の温度が下がる。影が濃くなる。これを受ければ終わる。

 だが――


「待たせたわねラディウス!」


 聖廟の扉が、内側から弾けるように開いた。

 白い光が一筋、闇を押し退けた。

 塩の匂いが濃くなる。潮ではない、清めの香り。


 飛び出してきたのは、レジーナだった。

 両腕で抱えるように、一本の剣を持っている。

 刃は派手に輝いているわけではない。むしろ素朴だ。金銀の装飾も少ない。

 だが、剣そのものが「場所」の空気を変えていた。悪魔の霧が、剣の周囲だけ薄くなる。近づきたがらないように、霧が避ける。


 レジーナの顔は、汗と埃で汚れていた。

 帽子は斜めにずれ、荷物のうち幾つかは聖廟の入口に置き去りにされている。

 それでも瞳だけは、妙に澄んでいた。希望を見つけた目だ。


「ほら! 受け取りなさい! そして――暴れなさい!」


 彼女は叫びながら剣を放った。

 剣が空を切る。

 真っ直ぐに、ラディウスへ。


 ラディウスは短剣を投げ捨て、一歩踏み込み、手を伸ばす。

 その瞬間、悪魔の黒き剣が振り下ろされる影が視界に入った。


 間に合うか。

 間に合わせる。


 指先が、聖剣の柄に触れた――


 そこで、空気が一度、息を止めた。





 ◇◇◇





 迫る黒き剣。

 それは刃というより、破滅の形だった。

 闇の魔力が凝縮され、刃となり、風となり、空気の温度を奪う。振り下ろされるだけで、広場の石畳が軋み、影が伸び、肺の奥が冷える。


 ラディウスは伸ばした手で――受け取った。


 聖剣の柄。

 重い。

 だが不思議と、手が拒まない。握った瞬間、掌が「合う」。木でも鉄でもない、祈りの質感が指先に馴染む。

 見た目は素朴。派手な宝玉も、煌びやかな鍔もない。観光客が触っても怪我をしない、鈍い刃。


 ――塩剣。港剣。帰港剣。


 子供や老人が触れて笑い、旅人が願掛けに撫でていく、あの剣。

 切れ味がないから安心という理由で、聖廟の奥ではなく人目に晒されてきた剣。


 だが、今。

 ラディウスは、その鈍さにこそ意味があると直感した。


 振り向きざまに、剣を振るう。

 剣と剣がぶつかる――はずだった。

 だが、ぶつかる直前、ラディウスの意識は一瞬だけ、世界の外へ滑った。


 祈り。


 理屈ではない。

 勝ち目の計算でもない。

 ただ純粋に、胸の底から湧き上がる願い。


 海の神よ。

 悪魔を倒してくれとは言わない。

 悪魔を追い払ってくれとも縋らない。


 ただ、力を貸してほしい。


 切れ味の無い剣で構わない。

 子供の手を切らない剣でいい。

 老人が笑って撫でられる剣でいい。


 今この瞬間だけでいい。

 この邪悪に対抗できるだけの力を――どうか。



 瞬間。

 刃に、淡く白い光が帯びた。



 それは炎ではない。

 雷でもない。

 剣身を焼く熱もなければ、眩しさで目を潰す輝きでもない。


 まるで純白の塩のような輝き。

 一切の雑味のない白。海から生まれ、海へ帰る白。清めの白。

 塩の燐光が、刃の縁に沿って静かに走る。


 不思議なのは――切れ味が増した気配がないことだった。

 人の肌を裂く鋭さは、変わらない。子供の指を傷つけない鈍さは、そのままだ。


 だが、剣が「斬るもの」が変わった。


 刃が斬るのは肉ではない。

 血でもない。


 悪意。

 邪悪な意志そのものを断つ。

 帰すべき者を帰す、塩刃(サリナ・エッジ)


 黒き悪魔の剣と、白き海神の剣が衝突した。


 ギィィ――と、耳が痛くなるような音が鳴る。

 金属音ではない。空気が裂ける音でもない。

 闇が溶ける音。邪悪が削がれる音。


 黒い刃の縁が、じゅうじゅうと泡立つように溶けていく。

 闇の剣が、白い塩の光に触れた部分から、灰のように崩れ、霧へ戻っていく。

 そして――押し切った。


『な……に……!?』


 悪魔が驚愕に目を見張る。

 その顔に初めて浮かんだのは、余裕でも嘲笑でもない。純粋な動揺だ。

 手元の黒き剣は、先ほどまでの威容を失い、溶けかけている。

 あの圧倒的な破滅が、今や負けていた。


『何だ、その剣は……! 馬鹿な、塩を生み出すだけのガラクタではなかったのか!?』


 悪魔の声が、低く震える。

 断言するように。否定するように。現実を拒むように。


 悪魔はこの街に潜み、見ていた。聖廟の剣は、切れない。危険ではない。観光名所だ。

 だからこそ、わざと「触れぬ」と誤認させ、ここへ誘った。

 恐れる価値がない、と判断した。


 だが今、目の前の聖剣から漂う気配は――ありえないほど清涼。

 潮風より澄んでいる。祈りより強い。悪意を拒む純度。

 レジーナが、聖廟の入口に立ち、ふふんと鼻を鳴らして胸を張る。


「当然よ――聖剣の本当の使い方を、世に広めている訳がないじゃない」


 この剣は「塩を出す奇妙な剣」だと、誰もがそう扱ってきた。

 だが王女は言う。()()()()があるのだと。

 レジーナは、まるで授業の復習をするように淡々と続ける。


「聖剣の使い方。力の覚醒方法。その能力……全て、王家と、侯爵家の当主にのみ伝えられる秘事よ。悪魔如きが知っている筈がないわ」


 ラディウスの心臓が一度、強く打った。

 侯爵家の一員である自分ですら知らない。

 聞いたことすらない。

 それほど深い秘事を、王女が今ここで口にしている。


 つまり――この戦いの場で、レジーナは「王女の権限」を抜いたのだ。

 秘事を扱う覚悟を。

 守るために、隠してきたものを使う覚悟を。


「『帰すべき者』と『留めるべき者』」


 レジーナは、短く、だが明確に言葉を刻む。


「理不尽に屈さず、悪意に負けず、領を治める者の責務として、護るべき者を護る時の為に使う。文字通りの神器」


 彼女の声は、港の風のように真っ直ぐだった。


「それ以外では、刃の輝きは眠りにつき、塩を生み出すだけの観光名所となる。……切れ味皆無の姿は、つまり『鞘』に納められた状態」


 レジーナは言う。

 普段の聖剣は、鞘の中にある。

 鞘に納められているから安全なのだ。だから子供も老人も触れた。だから街はそれを誇り、笑い、祈り、観光名所にできた。

 だが今――刃は抜かれた。


「そして、その『鞘』から抜かれた姿こそ」


 レジーナが一歩前に出る。

 海の匂いが、さらに濃くなる。




「――『潮審剣(ちょうしんけん)ティデ=ヴェルディクト』。邪悪を討滅する聖剣の、真の姿よ」




 名を告げられた瞬間、ラディウスは確信した。

 握る柄が、教えてくる。

 剣が、呼吸のように使い方を伝えてくる。


 悪意を断ち、帰すべきものを帰す。

 港は「帰還」の場所。帰ってくるべき命を守り、帰ってくるべき秩序を取り戻す。

 この剣は、港そのものの神意だ。

 悪魔が叫ぶ。


『馬鹿な……一体、何をすれば覚醒できるというのだ! それだけの力、確実に手順が必要な筈だ! 剣の力を引き出す為の「儀式」が必ずいる筈だ!』


 悪魔の理屈は正しい。

 力には対価と手順がある。特に神の力は、軽く扱えるものではない。

 しかもレジーナは聖廟に入ってから、たいして時間が経っていない。

 あの短時間で、どうやって――という疑問は、ラディウスにもあった。

 悪魔は矛先をレジーナに向ける。


『レジーナ姫、貴様が短時間でその「儀式」を執り行ったというのか!?』


 レジーナは肩をすくめ、あっけらかんと言った。



「え? 塩水ぶっかけただけよ」

『ふざけるな、戯けーーーー!!』



 悪魔の絶叫が、広場を揺らした。

 霧が震え、黒い翼がばさりと跳ねる。


 ラディウスも、膝から崩れそうになる。

 それでいいのか。本当にそんなのでいいのか。

 いや、もしかして、だからこそ誰も真相に辿り着けなかったのでは――と頭が混乱する。

 レジーナは、さらに付け足した。


「正確には『汲んだばかり海水』と『祝詞』が必要なんだけどね……ただ状況が状況だから、聖廟の中で塩水作って、『神の魂に願い給う――以下省略』って言ったら覚醒したわよ」

『そんな馬鹿な事があってたまるか! 本当の事を言えーー!』


 悪魔、本日二度目の絶叫。

 愉悦の笑いは消え、苛立ちと困惑が混じった叫びだけが残っている。

 レジーナは負けずに胸を張り、堂々と反論した。



「何言ってるのよ。汲んだばかりの海水はしょっぱい。作ったばかりの塩水もしょっぱい。そこに何の違いもありゃしないでしょーが!!」

『大分違うわ、このボケ姫がーーーー!!』



 ラディウスは、今だけは悪魔に同情しかけた。

 祝詞の「以下省略」は、本当にそれでいいのか。神が許しているならいいのだろう。許しているから覚醒したのだろう。だが納得は追いつかない。


 だが、今は置いておく。

 重要なのは、剣が覚醒したこと。

 悪魔が動揺したこと。

 そして、()()()()()()()()()()()()()()()


 ラディウスは剣を握り直し、石畳に刃を突き立てた。

 刃が地面に触れた瞬間、白い燐光が波紋のように広がる。

 潮が満ちるように、静かに、確実に。


港の誓約(オース・オブ・ポート)


 言葉は剣が教えてくれた。

 術式は、ラディウスの頭ではなく、剣を通して『港の記憶』が刻む。


 刹那、世界が変わる。

 潮の匂い。

 懐かしい匂いだ。漁から帰る舟の匂い。濡れた縄の匂い。家々の竈の匂い。

 それが、広場の空気に満ちる。


 白い結界が広がった。

 波紋のように、剣を中心に円が広がり、広場を包み、通りへ伸び、屋根を越え、街を覆う。

 街全域を包むほどの規模。信仰の匂いが、街そのものを取り戻していく。


 ここは悪魔の領域ではない。

 港だ。

 帰るべき場所。

 守るべき場所。

 帰ってくる者を迎え、邪悪を裁く場所。


『が……く、くそ……これは……!』


 悪魔が呻いた。

 先ほどまでの圧倒的な気配が薄れる。

 霧が押し返され、翼の影が揺らぐ。闇の魔力が、この港の空気に溶けない。


 そして街が――変わり始めた。

 遠くで、ざわめきが起こる。

 操られていた町民が足を止める。買い物籠を落とし、周囲を見回す。

 台本が破れたように、表情が戻る。恐怖、混乱、驚愕――人間の顔だ。


 倒れていた者たちが、うめき声を上げる。

 衛兵が起き上がり、頭を押さえながら膝をつく。

 一名猿轡をされたままなのが不憫だが、今は仕方ない。


「……え?」

「な、なんだ……?」


 街の声が戻る。

 洗脳が解けたのだ。

 悪魔の支配が、潮の誓約に押し流された。


 人々が空を見上げ、悪魔の姿に気づく。

 恐怖が走り、遅れて怒号が生まれる。武器を探す者、家族を抱く者、逃げようとする者。

 衛兵たちは武器を構えようとし――

 ラディウスが、それを押し止めた。


「止まれ」


 声は大きくない。

 だが不思議と、通った。潮風のように。


 衛兵たちが足を止める。

 なぜ止まったのか、自分でも分からない顔で、彼を見た。


 ラディウスは聖剣を構え、悪魔へ向ける。

 揺るぎがない。油断もない。恐怖すら、もう形になっている。


「奴は僕が倒す」


 そして、振り返らずに続けた。


「皆は、姫と民を頼む――守り通してくれ」


 その言葉に、レジーナが小さく笑った気配がした。

 自慢げな、そしてどこか嬉しそうな笑い。


 衛兵たちは一瞬だけ躊躇い、次の瞬間には、王女の方へ視線を移す。

 王国の兵が、王女と民を守る。侯爵家の嫡男が、敵を倒す。

 役割が、正しい形で戻っていく。


 悪魔は、歯を剥いた。

 さっきまでの愉悦はない。

 計画が崩れた怒りがある。だが同時に、未知への警戒がある。


 塩の光が刃に揺れる。

 潮の誓約が街を包む。


 そして、最後の戦いが――始まろうとしていた。





 ◇◇◇





 レジーナの目の前で、ラディウスと悪魔が戦っている。

 だがそれは戦いというより、裁定だった。


 潮の匂いが満ちた広場の中心で、純白の刃が軌跡を描くたび、黒い霧は散り、悪魔の魔力は削ぎ落とされていく。潮審剣ティデ=ヴェルディクト――塩刃(サリナ・エッジ)の白は、眩い光というより、目に沁みるほど澄んだ白だった。


 悪魔が放つ黒い魔力弾は、飛翔の途中で薄くなり、弾く必要すらなく、刃の一振りで塵のように砕ける。黒い剣を形作ろうとすれば、刃が形を取る前に白い潮の気配が噛み砕き、じゅう、と情けない音を立てて溶けていった。


『く、くそが! その刃……その白……! 不愉快だ、目障りだ、消えろ、消えろォ!』


 口汚い罵詈雑言が、雨のように降ってくる。

 悪魔の声は呪いそのものだ。聞くだけで心がざらつき、内側に黒い染みが残りそうな言葉。


 だがラディウスは、欠片も反応しなかった。

 聞いていないのではない。

 聞いても「意味がない」と切り捨てている。


 視線は悪魔の肩と腰、翼の付け根、重心の移動だけを追う。

 足運びは静かで、無駄がない。

 剣を振るう角度も、距離の詰め方も、淡々としている。

 情け容赦ない、と言っていい。むしろ、笑ってしまうほど慈悲がない。


 相手を圧倒できる瞬間、普通は油断が混ざる。

 勝ったと確信した瞬間、動きが大味になる。

 だがラディウスにはそれがない。

 勝つと決めたら、勝つ手順を最後まで崩さない。

 レジーナは、思わず口元を緩めてしまった。


(……ああ、そうだったわね)


 学園の頃から、彼はそうだった。

 誰かを見下すわけでもない。

 誰かに媚びるでもない。

 ただ、やるべきことを淡々とやる。必要なことだけを、静かに、確実に。

 そういう『真の貴族』の背中を、レジーナは覚えている。

 だから今、目の前の光景を見て、胸が軽い。


(とりあえず……悪魔はやっぱり「馬鹿」だったわね。多少切れ者だったようだけど、根っこはやっぱり「馬鹿」のまま)


 悪魔は確かに頭が回る。

 街を血を流さず掌握し、民を人形にして、姫と騎士をここへ誘導した。その計画性は、過去のポンコツ連中とは段違いだった。

 でも。


(あの悪魔が一番馬鹿なところは……()()()()()()()()()()()()()()()()()を注視しなかった点。少し考えれば解る筈なのに……明らかにおかしいって)


 レジーナは、思い返す。

 街の者が皆、洗脳されるか、意識を失うかの二択。

 神官も衛兵も騎士も、戦える者はほぼ倒れていた。


 なのに、ラディウスとレジーナだけは動けた。

 変装して街を歩いた。

 倉庫へ戻れた。

 聖廟まで辿り着けた。

 そして今、悪魔と対峙できている。

 それが「偶然」なはずがない。


(最初はたまたまかと思ったけどね。でも街の状況から、たまたまはありえないって解った)


 ならば、何か理由がある。


(そして、その理由は私じゃない。私、魔法とか剣とか全然駄目だもの)


 自嘲まじりに、レジーナは肩をすくめる。

 王族として最低限の訓練は受けている。剣も振れる。魔法も使える。だが才能がない。天才たちの隣に立って誇れるほどの武ではない。

 つまり――


(ラディウスだけが「力」で、悪魔の支配を跳ね除けた。私が無事だったのは、護衛として彼が近くにいたから。私はオマケ)


 彼の持つ()()

 それが悪魔の支配を弾いていたのだ。


 ラディウスは将来有望とはいえ、まだ十五歳だ。

 騎士団長には及ばない。現侯爵にも及ばない。技量の話なら、上は幾らでもいる。


 なのに、ラディウスだけが無事だった。

 この聖剣が眠る地で。

 彼だけが――()()()()


 そう思った瞬間、レジーナの脳裏に聖廟の内部が蘇る。

 扉をくぐった瞬間の冷たい空気。

 床に描かれた波の文様。

 祭壇の上に置かれた剣。


 あれは「眠っていた」のではない。

 あれは「待っていた」のだ。

 剣を手にする誰かを。


(……本当は、塩水かけただけで覚醒する筈がない。そんな甘い裁定を、海の神がする筈がない)


 海神は、帰還の神だ。

 帰る者を迎える。だが迎えるためには、出る者が無謀であってはならない。祈りにすぐ答える神ではない。甘さではなく、誓約で動く神。

 それなのに、剣は覚醒した。


(けれど思ったのよ。彼の、ラディウスの為ならばひょっとしたら神様が「甘い裁定」をしてくれるんじゃないかなって)


 ……甘い裁定。

 それは神が気まぐれに贔屓するという意味ではない。

 ()()()()()()()()という意味だ。


 塩水は口実。

 祝詞は合図。

 本当の鍵は、剣を振るう者の「在り方」だったのではないか。


 ラディウスは侯爵家の嫡男。

 港と交通の要衝を預かり、王家の代官として民を守る責務を負う者。

 しかも、その責務から逃げない。

 学園でも、卒業してからも、立ち位置を崩さない。

 守るべき線を守り続ける者。


 海の神が求めるのは、派手な英雄ではなく「帰す者」だ。

 帰るべき命を帰し、港を港として機能させる者。


 そう考えれば、覚醒の鍵が「儀式」ではなく「人」である可能性は高い。


(封印が解かれた時、確信した。彼こそが、聖剣を振るうに相応しい――否。振るうことを『神』に許された者なのだと)


 そして今、その確信が目の前で証明されている。


 ラディウスが踏み込む。

 白い刃が閃く。

 悪魔が防ごうと黒い盾を作る。だが盾は塩に濡れた紙のように崩れ、霧になって散る。

 悪魔が空へ逃げようと翼を広げる。だが結界が『港の境界』として立ち上がり、見えない潮の壁が悪魔を叩き落とす。

 悪魔の逃亡は許されない。港の誓約は、「勝手に出港する者」を認めない。


 周囲を見ると、いつの間にか騎士団と神官が集結し始めていた。

 頭を押さえながら立ち上がる衛兵。

 我に返って武器を握る騎士。

 祈りの杖を持って走ってくる神官たち。


 民の前に立って守りながら、誰しもがラディウスの姿を見ている。

 聖剣を振るい、街を護ろうとする少年の姿を。


(聖剣は、資格無き者には扱えない。神に認められし者以外では、塩を生み出すだけモノにすぎない)


 ラディウスが駆ける。

 純白の刃、塩刃(サリナ・エッジ)を掲げて。

 そしてレジーナは、胸の内で呼ぶ。


(聖剣を振るえる誇り高き騎士を、王国ではこう呼ぶわ――『聖騎士』と)


 聖騎士。神に認められ、神器を振るう者。

 その称号は栄誉であり、同時に重荷でもある。神の名を背負うということは、神の裁きの刃になるということ。


 悪魔が最後の悪あがきを始めた。

 叫び声と共に、黒い魔力が凝縮する。

 闇が膨らみ、刃の形へ収束していく。先程よりも大きい。重い。禍々しい。

 一太刀で人を破滅に落とすような、黒の大剣。


(悪魔達の間では、別の名の方が有名。聖なる剣を振るう者。神に認められし者)


 レジーナは知っている。城の書庫で読んだ。

 神の武器を扱う者は、敵対者からも恐れられる。

 そして、その恐れは一つの単語に集約される。




(神の力を使う事を許された、勇気ある者――『勇者』ってね)




 黒い大剣が振り下ろされた。

 空気が裂け、地面が震え、周囲の者が思わず身を引く。

 それは「死」の質量だった。


 だが。

 ラディウスは避けない。

 退かない。怯まない。


 潮審剣が、白い燐光を強める。

 刃が塩のように輝き、悪意の核を見抜くように一直線に伸びる。


 そして――

 白が、黒を断つ。


 黒い大剣は、まるでバターのようにあっさり裂けた。

 闇が崩れ、霧が散り、悪魔の叫びが途切れる。


 塩刃(サリナ・エッジ)は止まらない。

 そのまま真っ直ぐ悪魔へ迫り。




 白い刃が、悪魔の身体を頭から両断した。




 切断面から血は噴き出さない。

 悪魔の肉体は霧に崩れ、黒い粒子となって風に散っていく。

 断たれたのは肉ではなく、悪意そのもの。邪悪な意志が、港へ帰されるべき場所へ「帰される」ように消滅していった。


 広場が、しんと静まった。

 潮の匂いだけが残り、白い燐光が少しずつ落ち着いていく。

 遠くで子供が泣き始め、母親が抱きしめる声がした。

 衛兵が膝をつき、神官が震える手で祈りを捧げる。


 誰もが、ラディウスを見る。

 白い刃を下げた少年は、息を整え、静かに立っていた。

 勝利に酔わない。誇示しない。肩で息をしない。

 ただ役目を果たした者の顔で。

 レジーナは勇者の背中を見つめながら、小さく笑う。


(……やっぱり、あなたよ。あなたこそが、この街を護るに相応しい人)


 潮風が吹く。

 黒い霧の最後の欠片が消え、広場に「いつもの空」が戻ってきた。





 ◇◇◇





 二週間後。

 南王国の王宮は、磨き上げられた石の冷たさを纏っていた。海に面したこの国の宮殿は、他国の王宮よりも開放的で――そのくせ、政治の重みだけはきっちりと重い。


 長い回廊には青緑のタイルが敷かれ、柱頭には波と星の意匠が彫られている。窓の外から差す光は水面に反射したように揺れて、壁の影をゆらゆらと踊らせた。

 しかし今日の王宮は、その優雅さの奥に、儀礼の緊張が張り詰めている。


 叙勲式。

 街を襲った高位悪魔を討滅し、港の誓約を立て直した若き侯爵家嫡男に――『聖騎士』の称号を授与する式典。


 控室の扉の外を通る足音は、等間隔で、規則正しい。礼装の靴の硬い響きと、衣擦れの音が、廊下に静かな波紋を作っては消えていく。


 ラディウス・アルビトリウムは、控室の中央で背筋を伸ばして立っていた。

 十五歳。

 それでも、子供っぽさはない。無駄な動きがない。表情が整っている。学園を卒業してからの数か月で、彼は「侯爵家の跡取り」としての空気をさらに濃くしていた。


 礼装は仕立てが良い。肩の線が美しく、胸元の紋章が光を受けてきらりと返す。腰にはあの聖剣――潮審剣ティデ=ヴェルディクトが、今は普通の剣の顔で納められている。刃は眠り、ただの観光名所の剣としての無害さを保っている――はずなのに、柄だけは不思議と重かった。


 事前のリハーサルは済んでいる。

 国王陛下――レジーナの父親は、内々の場では人当たりのいい王。娘を心配し、叙勲式に緊張する若い侯爵子息に対して「肩の力を抜け」と笑った。

 だが本番は違う。王の威厳は作法として装われ、式は粛々と進む。そこに私情は挟まらない。

 そのはずだった。


 だが、今のラディウスにとって、そんなことはどうでもよかった。

 もっと大きな問題が、目の前に立っていたからだ。

 控室の隅。カーテンの影。いつの間にかそこにいて、いつの間にか椅子に腰掛けている少女が一人。


 レジーナ・スィル・ステラ・アウストラリス。

 第一王女。

 今日の式典の主役の一人。――のはずなのに、どう見ても「忍び込み」の所作だった。

 姫なのに足音がしない。扉の外の気配を読む視線が、盗賊じみている。いや、盗賊というより「城に慣れた猫」だ。気づけばいる。気づけば去る。


 そして何より、彼女は控室でラディウスと二人きりだった。

 その状況だけでも十分に危ういのに――問題は、そこではない。

 レジーナは、叙勲式の途中で()()()()を宣言するというのだ。

 それを、リハーサルでは一切言わなかった。

 本番当日の、しかも直前に、今ここで言い出した。


 ラディウスは一度、深呼吸した。落ち着け。理屈で対応しろ。政治として整理しろ。そういうときほど、頭を使え――そう学んできた。


「姫。お願い待って。落ち着いて。僕は今、とても混乱している」


 声は低く、慎重に。

 レジーナはきょとんと首を傾げた。無邪気な顔を作るのが上手い。学園の頃からそうだ。正面から見れば、気品の塊のような姫。

 ただし、今の目は悪戯の火が燃えている。


「あら? どうして? 私としては()()()()()()()()()()()()だけど……なぁに? もしかして不満なの?」

「……それはない。それはないけれど……本気かい?」

「本気よ」


 レジーナは不敵に笑い、胸を張った。

 誰にも恥じることのない態度で。



「私は貴方――ラディウス・アルビトリウムに、婚約を申し入れるわ」



 控室の空気が一瞬、固まった。

 窓の外の波の気配さえ遠のく。

 王宮の静けさが、逆に耳に痛い。

 ラディウスは、口を開いたのに声が出なかった。

 何か言おうとして、脳内で文章が渋滞し、次に呼吸が詰まった。


 婚約。

 王女からの婚約の申し入れ。

 しかも、式典の途中で宣言するつもり。

 やり方がハチャメチャすぎる。


「……順を追って聞いていいかい? 何故、僕との婚約を?」


 ようやくそれだけ言えた。


「簡単な話よ」


 レジーナはあっさり言った。


「すでに、王国の要所で「悪魔が暴れた」という話は広がってしまった。正直、かなり痛いわ。王国が、悪魔の手に踊らされたという話は他国にとって明らかな隙になる」


 ラディウスは頷く。


「分かるよ。僕の侯爵領も大騒ぎだし」


 ラディウスは、二週間前の光景を思い出す。

 操られた町民。倒れていた衛兵。恐怖と混乱。結界が戻った後も残る疑心と不安。

 民は助かった。街も戻った。それでも、心に残る「恥」と「恐れ」は消えない。


「……そもそも、この聖騎士授与だって、少しでも『美談』で誤魔化そうっていう話だろう?」

「良く解ってるじゃない。その通りよ」


 レジーナはにっと笑った。

 その笑みは、学園で見た社交の微笑ではない。戦いの場で見せた笑みだ。


「悪魔討滅の英雄。若き聖騎士。民を守った美談。――それを国の旗にする。()()()()()()()()()()()()にね。国の威信を取り戻す為の策よ」


 レジーナは指を折りながら淡々と語る。

 その語り口は、社交の姫というより外交官のそれだった。


「だから、更に美談を被せてドンドン誤魔化そうって算段。それと……ラディウスには悪いけど、貴方を逃がす訳にはいかなくなった。それも判断のひとつ」

「僕が聖剣の所有者になったからだね」

「うん」


 レジーナは素直に頷く。


「今まで聖剣の『一時的な使用権』を認められた者は居ても、『永続的な所有権』を得た者はいなかったのよ。貴方はその前例を塗り替えた人」


 つまり、国家にとっての「資産」になったということ。

 聖剣はただの武器ではない。国の象徴であり、外交のカードであり、抑止力だ。持ち主の意思ひとつで国の運命が左右される。


()()()()使()()()()()()()()()()()()()()がある」


 レジーナの言葉は、淡々としていた。

 まるで自分の価値を、硬貨を数えるみたいに。


 その言い方に、ラディウスの眉が僅かに動く。

 文句はない。

 政略結婚は貴族の責務だ。侯爵家ならなおさら。王家の代官として国に尽くすのは当然。

 だが――レジーナが自分を「物」のように語るのは、嫌だった。


 彼女は誇り高い王女だ。

 国に縛られる鎖であっていいはずがない。彼女自身が鎖になる必要など、本来はない。

 ラディウスがそのまま黙っていると、レジーナは彼の顔を覗き込み、少しむっとした。


「……なーんか、勘違いしてるようだから言うけど……この策、建前だから。そして、そもそも私が言いだしたことだからね。貴方と結婚したいって」


 ラディウスの思考が、二度目の渋滞を起こした。


「え? 国の……陛下の指示ではなく?」

「違うわよ。むしろぐちぐち反対してたくらい……」


 レジーナは言ってから、急に可愛い顔をした。わざとらしいほどに。


「あ、先に謝っておくわ。ごめんね。多分叙勲式ですごく睨まれるから。ゆるしてー」

「…………」


 ラディウスは唖然として、言葉を失った。

 王女が、王に反対される案を、式典の途中でぶち上げる。

 これは政治的に火の玉放り投げるような所業。

 無論、家族的にも火の玉だ。それもでっかい火球。

 ラディウスは一度、目を閉じた。

 理解が追いつかない。


「……何故、そこまでして?」


 レジーナは答えない。

 少しだけ頬が赤くなり、視線が横へ逸れた。

 さっきまで政治の話をしていた王女が、急に十五歳の少女になった。


「あのね……」


 声が、わずかに小さくなる。


「聖剣振るって、悪魔に立ち向かって、最後まで私を守り通した……こんなの『伝説の英雄譚』そのものよ。私はそれを直に味わったの……」

「うん。それは分かるよ。それで?」


 ラディウスは真面目に頷いた。真面目に返した。だからこそ、レジーナは地団太を踏みたくなる。


「いや、だから……ああもう!」


 レジーナが顔を真っ赤にして叫ぶ。


「そんな英雄譚を直に味わった女の子が! その主役の貴方に対して! 何の感情も抱かないと思うの!? はっきり言ってあげるわよ! あの時の貴方――すっごく格好良かったんだから!!」


 控室の空気が、一瞬止まった。

 王宮の石壁ですら照れていそうな沈黙。

 外の衛兵が聞いていないか、ラディウスは本気で心配になった。

 ラディウスは、きょとんとした顔をしたまま、ようやく言葉を探した。


「あ、えっと……光栄で御座います?」

「何で疑問形なのよ……!」


 レジーナはむきー、と怒る。


「何よ? 私じゃ不服だって言いたいの? 他に好きな令嬢でも居るっていうの?」

「いや、それはいないけど……」


 ラディウスは慌てて首を振る。

 本当にいない。学園でも、領内でも、彼は自分の立ち位置を守り続けてきた。余計な噂を作らないように。王家の代官として。

 だからこそ――こんな形で、王女が自分に向かって『恋』を投げてくるなど、想像していなかった。


「でもそうか。僕は姫殿下にプロポーズされたのか……普通、逆じゃないかな?」

「分かってるなら貴方から言いなさいよ!? 姫様、どうか結婚してくださいって!!」


 地団太まで踏んだ。

 礼装の裾が揺れ、王女の威厳が床に転がる音がした気がする。


 あまりにも王女らしくない。

 だが、その王女らしくなさが、レジーナそのものだとラディウスは思った。

 あの街で、民のために怒鳴り、塩水をぶっかけ、祝詞を「以下省略」する王女。

 真面目で、ハチャメチャで、大胆な王女。


 ラディウスは小さく笑い――次の瞬間、自然な動きで膝を折った。

 騎士としての跪きではない。

 儀礼としてのものでもない。


 一人の男として。



「――どうか、貴女に跪く権利を、僕に下さいませんか」



 レジーナの呼吸が止まる。

 ラディウスは顔を上げ、端正な眼差しで彼女を見る。

 貴公子の名に恥じない所作。けれど言葉は飾りではない。



「貴女の愛を受け取る、ただひとりの男になりたいのです」

「――――」



 レジーナが固まった。

 そして、みるみる赤くなる。首筋まで赤い。耳が真っ赤だ。さっきまでの勢いはどこへやら。


「えっと、その……そうね!」


 レジーナは勢いで胸を張った。張りたいだけ張った。


「許してあげるわ! ラディウス・アルビトリウム。貴方は私の愛を受け取れるただひとりの人。他の華に目移りしたら許さないんだから」

「御意。我が聖剣に誓いましょう」


 軽い言葉のようで、恐ろしいほど重い誓いだった。

 聖剣に誓うということは、神に誓うということだ。

 港の誓約を結べる剣の前で、「永遠」を口にするのは冗談で済まない。

 破れば、自分の人生そのものが潮に呑まれるだろう。

 ラディウスはそれでも、迷わなかった。


(いいさ。君の事は、あの一日で十分すぎる程分かった。百の言葉を重ねるよりも雄弁に)


 理不尽の中で、守るべきものを守ろうとした彼女の背中。

 そして最後まで折れなかった、あの視線。


(一緒に悪魔に立ち向かったあの日を、僕は未来永劫忘れない)


 鎖にも似た政略婚かもしれない。

 だがその鎖は、頼もしい。

 時々派手に暴れることが分かっている鎖――レジーナという名の鎖。


 ならば喜んで繋がれよう。

 この可憐な鎖に繋がれる、ただひとりの男になれるのなら。

 ラディウスは立ち上がり、少しだけ肩の力を抜いた。


「しかし、そうなると聖騎士の称号だけじゃ足りないな。父上の跡目を早く継がないと。領主としての働きも見せないと宮廷が煩そうだ」

「え? もしかしてラディウス、結構野心家?」

「違う違う。自然な流れだよ」


 ラディウスは穏やかな顔で言う。穏やかな顔のまま、内容がえげつない。


「今、侯爵家の信頼は悪魔騒動で低下している。そこで聖騎士の称号を得た僕が跡を継ぐことによって、信頼回復に努めるって話」

「……でも、現侯爵はまだバリバリの現役よね」

「うん。だからご意見番として『今後』もバリバリ働いてもらうけど?」

「うわぁ」


 レジーナが引いた。

 貴公子の笑顔で言うことではない。

 だが、それが頼もしい。

 守るべきものを守るために、使えるものは全て使う。情ではなく責務で動く。

 それが「王家の代官」の姿だ。

 ラディウスは少しだけ肩を竦めた。


「ただ差し当たっては、君の父君……国王陛下の機嫌を取る事が最初の難関かな」


 彼は冗談めかして笑う。


「お義父さん、娘さんを僕に下さい……ふふ、平民達の間で有名なやり取りを、やることになるとはね」

「まずは外堀から埋めていくのよ」


 レジーナはすぐに戦略を立てる。


「父上は私の妹に甘いわ。猫可愛がりしてるから、まずは妹を味方につけるのよ」

「君の妹というと確か――」

「今十歳。とっても可愛いのよ!」


 レジーナは急に表情が柔らかくなった。


「あねうえー、って小走りでやってくる姿なんて子犬みたいで――」

「それを味方にして外堀を埋める、というのは倫理的にどうなんだろう」

「政治よ政治。倫理は海に流すの」

「港の神様が嫌がりそうだね」

「じゃあ塩で清めるわ」

「塩が万能すぎる」


 二人の会話は、波のように続いた。

 軽口を叩きながらも、互いの目の奥には決意がある。

 やがて――控室の外で、控えめなノックが鳴った。


「ラディウス様。お時間でございます」


 式典の始まりだ。

 王宮の本番が、始まる。

 レジーナは一瞬だけ、いつもの姫の顔に戻った。

 背筋が伸び、表情が整い、呼吸が静まる。

 だが、扉へ向かう直前に、彼女は小さく言った。


「……逃げないでよ」


 命令ではない。脅しでもない。

 ただの、本音だった。

 ラディウスは一瞬だけ振り返り、穏やかに笑う。


「御意。殿下――いや、レジーナ」


 そして扉の向こうへ歩き出す。

 その後ろ姿を、レジーナは笑顔で見送った。




 国を背負う若い姫と騎士。

 潮の国の王宮で、これから新しい物語が始まる。








最後までお読み頂き、ありがとうございます。

もし面白いなと思っていただけたら、ブクマや評価で応援していただけたら幸いです。


なお、今回の物語から十年後の話を、長編で連載中です。

ラディウスとレジーナの二人は、サブキャラとしてですが登場しています。

興味があれば読んでみてください。


https://ncode.syosetu.com/n0566lk/



下記にリンクも貼っておきます。

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