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短編

ハナビシソウ

作者: 久慈柚奈
掲載日:2025/12/18

「おはよう。寝ぼすけくん」

 降りかかった声が俺を目覚めさせた。

「ううん……」

 ゆるゆると顔を上げる。視界がぼやけて見えるのは、机に覆いかぶさって、目元を腕に押しつけて寝ていたからだった。

 オレンジ色の太陽が斜めに差しこんで、今日という一日を終えた教室を洗っている。整然と並んだ机と綺麗な黒板のせいで、教室はどこかよそよそしく見えた。

「よく寝ていたね」

 再び、声。俺の左隣から。見ると傾いた陽光を背に、高校の制服に身を包んだ女の子がこちらを見ていた。どこかで見たことのある顔――思い出した。

 小待(こまつ)やよい。同じクラスなだけで、別段親しい間柄ではない。

 はずなのに、今彼女は机に腰かけて、俺をおもしろそうに眺めている。

「……なんだよ」

「あんまり気持ちよさそうだから見てた。帰りのHR(ホームルーム)もとっくに終わったよ」

 時刻は四時四十分。開けっ放しの窓からは運動部の声が、遠く、遠く響いてくる。

 楽しそうな――いや、あんなのはただの青春ごっこだ。

「お前はなんでここにいるんだよ。部活に行くなり、帰るなりすれば良いだろ」

「でも、起きた時に一人じゃ寂しいかと思って」

「待っててくれなんて頼んでない。俺に関わるな」

 席を立つ。学生鞄は重かった。教室を出ようとすると、やよいがあとからついてくる気配。

「確かに、頼まれてはいないよ? 私が待ちたいから、待ったの。だって花くん、いつも一人だから」

「好きでそうしてる。さっきも言ったけど……」

「あ、見て! ポピーの花」

 背後でぱたぱたと足音がして、話題が変わってしまう。俺の話なんて聞いちゃいない。

 振り返ると、やよいは手洗い場に飾られた花瓶に引き寄せられていた。花瓶をそっと持ち上げて、上から横から眺めている。

「ねえ、花くん。ポピーの花言葉って知ってる?」

 細長くすらりと伸びた指が、優しく花びらを撫でる。

「さあ? 花言葉なんて嫌いだ」

「『眠り』だよ。寝ぼすけの花くんにぴったりだね」

 言って、花瓶から一本取る。水気を拭き取ると、俺の制服の胸ポケットに挿した。

 逃げる暇もなかった。

「あっ」

「似合う似合う。花くんにポピーの花」

 やよいは楽しそうにくるくる回る。それを眺める俺は半ば呆然として、半ば仏頂面だっただろう。

 人と必要のない話をするのが、ひどく久しぶりだった。だからこそどう反応すれば良いのか、分からない。

 花なんて嫌いだ。自分の名前も含めて。だけど、もしここで胸ポケットの花を抜いたら、やよいを悲しませてしまうのではないか。それもまた本意ではない。

 ポピーはそのまま挿しておくことにした。

「ねえ、花くんはどうして『花』っていう名前になったの?」

「さあ。俺この名前嫌いだし」

 靴を履き替えて、校門を出る。これでやよいと別れられるかと思いきや、彼女は「花くんもこっちなんだ! 一緒に帰ろう!」とついてきた。追い払い方が分からず、惰性で並んで歩きはじめる。

「自分の名前の由来だよ? 珍しい名前なのに」

「知らねえ。親父が俺に女々しい名前をつけた。それだけだ」

 嘘じゃなかった。俺の名前――花。男なのに、花。「かわいい名前」「女みたいな名前」という褒め言葉とからかいは、言われすぎてうんざりしている言葉の第二位だ。

「へえ。お父さんが。素敵な名前だよね」

 やよいが俺の気持ちに気づくはずもない。無邪気に感心したりしている。なぜかそれが腹立たしかった。

「どうでもいいよ。親父はとっくの昔に死んでるんだから」

 確実に相手が黙るだろう言葉。思った以上にぶっきらぼうな声が出た。この話題を終わりにしたい、それを言外に伝えるには、少しきつすぎただろうか。

 警戒心もあったかもしれない。これ以上何も言うな。もう同情されるのは嫌なんだ。

 お父さんがいないなんて……可哀想ね。

 うんざりする言葉の第一位。

「あ……」

 やよいは申し訳なさそうに顔を俯けた。

 それきり、何も話さなくなる。

 可哀想も、ごめんもなし。お決まりの返答に身構えていたけれど、どちらもやよいの口から発せられることはなかった。攻撃的になった自分が虚しくなる。

「……悪い」

 結局、俺の方が謝ることになった。やよいは慎重そうに目を上げる。

「……いつ?」

「ああ、親父か。ずっと前だ。……十年、くらいかな。小学生になった頃だった」

「そう」

 正直、父さんの記憶はあまりない。思い出せるのは、ぼんやりしたイメージだけ――俺よりずっと大きくて、力強く見えたこと――浮かび上がってくる。アルバムに父さんの写真を見つけても、他人の顔を見る気分だ。

 俺の人生の中に父さんがいた時間は短かったけれど、父さんは俺に一生ついて回るものを二つ残していった。

 花。一つはこの名前。

 そして、父さん自身の死。

 珍しい名前の、お父さんのいない子。その二つが俺を特徴づけて、注目と同情を集めることになってしまった。

それまで一緒に遊んでいた友達はぎこちなくなり、ひそひそと噂しあった。俺を憐れみ、珍しがるその声と目が嫌になって、俺は習っていたサッカーを辞めた。

 授業参観、中高の入学式、部活の大会。ありとあらゆるところで父さんの不在がつきつけられる。俺はうんざりした。

 だから息をひそめるように生きることを覚えた。部活はしない。誰とも親しくならない。決して目立つことがないように。

 それなのに、やよいは俺に関わろうとする。習慣的に追い払おうとする一方、やよいは無害な人間じゃないかと思い始めてもいる。初めて、同情してこなかったから。

 やよいは押し黙ったまま歩いている。そのうちに大通りに出ていた。

「でも、私は。花くんの名前、好きだな」

 ぽつり。走る車の音にかき消されそうなほど微かだった。でもその声が俺を驚かせ、葉の上に溜まった水が落ちて跳ねるみたいに心を揺らす。

「……そう、か」

 ぎこちない相槌。

 歩道の割れ目にツユクサが咲いている。

「――私もね、死んでしまったんだ。大事な人」

 唐突だった。やよいは道端の花を探すふりをしている。けれど寂しそうに眉尻を下げた横顔に、俺は気づいてしまった。

 何か言葉をかけたかった。

 ごめん。違う。可哀想。もっと違う。今までいろんな言葉をかけられてきたのに、思い浮かぶのは、俺が言われたくないことばかり。同情したいわけじゃない。憐れんでいると思われたくない。でも、じゃあなんて言えばこの微妙な感情を伝えられるんだ?

「そっか。……それ、親?」

 同情の次に無粋な問いかけをした自分を恨む。悲しい話を掘り進めてどうする。「大変だったな」とか、他に言うことがあったのに。どうして取り消せなくなってから思いつくんだ、クソ。

 動揺のせいで頭が働かず、同じような考えを無意味に繰り返してしまう。もとを辿れば、やよいも俺と「同じ」なんだと感じ取って心が詰まった。それを伝えたかった。

 誰かの「死」を知っているという、共通点。

 でも、それは好きな本や映画のように、気軽に喜べるものじゃない。俺が抱いた悲しみや、そこから経てきた体験と感情は、きっとやよいのそれとは違う。ひとくくりにするのは、あまりにもお粗末で、ひどく失礼なことに思えた。

 それで「俺たち、似てるな」という言葉を心の奥にしまいこみ、ただ自分の無粋な問いかけを謝罪する。

 やよいは気にしなかった。

「いいんだよ。亡くなったのは、親じゃないんだけど、大事な人。今もすごく大事。はっきり覚えてるの。十一年前、事故でね。……いつもは一緒に出かけるのに、その日だけ、留守番するって言っちゃって。もし一緒に出かけていれば、彼は無事だったかもしれないって、よく考える。あるいは、私が代わりに」

「でも、それだとやよいが死んじゃうだろ」

 意図せず感情の乗った声が出た。端的な言葉が俺の中で膨らんで、勝手なイメージを作りあげていく。

 大事な人を送り出すやよい。相手の帰りを待つやよい。そこへ警察かどこかから電話がかかってきて、相手が事故に遭ったことを知る――いや、それは途中から俺自身の経験と重なり、すり替わる。

 やよいは俺の思考の絡まりに気づくよしもなく、照れ臭そうに笑っている。

「ありがとう。花くん、優しいね」

 ぎこちなく唇の端が引きあがる笑顔。奇妙な既視感が心臓をくすぐる。

「そうだね。……確かに、『もしもあの時』って話すのは簡単。でも、私たちは時間を巻き戻せるわけじゃない。どんなに後悔しても、結果は変わらなかった。あの人は出かけて、私は待った。彼は帰ってこなくなった。それで終わり。

 でも私の人生は終わらなかった。外に出て、生きていかないと。必死で立ち直ろうとするんだけど、会う人に必ず言われるんだ。『大変ね。可哀想』って。

それで仕舞ったはずの思い出が引っ張り出されちゃう。でも、相手に悪気がないことも分かるんだ。その人なりに励まそうとしてくれているだけだって。だから笑って『大丈夫です』って言うの。だけど後で、どうして良いか分からなくなって。トイレとかに(こも)って、一人で泣くの」

 湿っぽいやよいの声は、話せば話すほど乾いていく。「あの人」との思い出を振り返っているのか。再び垣間見えた横顔は、ただ優しい。それが余計に切なかった。

 再び想像が臨場感を持って描き出す。

 同情の言葉をかけられて、曖昧に笑うやよい。その笑顔を続けているせいで、ぎこちない笑い方がすっかり身についてしまう。

 今度は俺への置き換えは起きなかった。代わりに、別の思いがますます強まる。

 近い。俺が体験したことと、ものすごく。

 過去のどこかで体験した「あの時」の感情。今までどう言葉にして良いか分からなくて、見ないようにしてきたことが、やよいによって整理され、俺に跳ねかえってくる。どうせ誰にも理解されないと諦めてきたことが。

 そう、そうなんだ。いろんな思いがこみあげて、ただ頷くことしかできない。

「分かる。すごく分かるよ」

 雑にひとくくりにすることの無礼さは、もう考えなかった。今はむしろ、俺がどれほどやよいの話に共感し、また救われているか、どうにかして伝わってくれと思う。

 ひとつ頷くたび、肩から力が抜けていった。驚いた。人は知らないうちに、こんなに気を張りつめておくことができるのか。

 そんな俺を見て、やよいも安心したように微笑んだ。今度は本物の笑顔。

 自然と寄り添って歩いた。

 夕方という時間と、町を印象的に照らすオレンジ色は、不思議な力を持っていると思う。一日が終わっていく安堵と寂しさを醸し出し、同時に、明日の朝になるまでの、束の間の自由をくれる。

 幼稚園、学校、会社。それぞれの場所から家に向かう、数えきれない帰路の道のりを思い起こさせる。

 やよいが急に思いついた。

「ねえ! 公園に寄っていこうよ。珍しい花が咲いているかもしれない」

「ええ? ……まあ、ちょっとなら」

「やった!」

 反射的に断ろうとして、思い直す。やよいは子どもみたいに喜んで、その場で軽く飛び跳ねさえした。抗う間もなく俺の手を取ると、そのまま青信号の横断歩道を渡りはじめる、瞬間。


 時間が間延びした。

 

ずるずると長い一秒の集まり。けれどコマ撮りのように少しずつ、残酷に進んでいる。

 横断歩道の真ん中で、俺たちは鋭いクラクションの連打を聞いた。近づいてくる。激しい走行音と一緒に。

 視界の右端でうなり声を上げた車が一台、信号待ちの列を割って飛び出した。道路に焦げ臭いタイヤ痕をつけて方向を変えると、俺たちの方へ向かってくる。あ、ぶつかる。

 やよいが危ない。

 自分のことなんて、一ミリも浮かばなかった。後から考えると不思議なくらい、浮かばなかった。ただ、やよいを。向こうの歩道に突き飛ばせば、車と当たらずに済むんじゃないか。

 手を伸ばしたはずが、どこにも触れない。代わりに胸をどんと押される。

「あっ……」

 握られていたはずの手は離れている。やよいが遠ざかる。

 なぜ?

 やよいに突き飛ばされたからだ。

 空中で手を伸ばす。空気を手繰り寄せて戻ろうとする。やよい、危ない! 声より車の方が速い。俺の体は抗いようもなく後ろに飛んでいく。どんなに手を伸ばしても、届かない。

 やよいの姿が車の向こうに見えなくなる。困ったように眉を下げた笑顔。

 そして、何も見えなくなった。


 近づいてくるサイレンの音。

 意識が浮上する。サイレン、光、腕に触れる誰かの手、野次馬の声がいっぺんに脳を揺らし、めまいを起こしそうになった。思わずうめく。

 腕を掴む手に力がこもった。

「君。君。大丈夫か? 声が聞こえるか?」

 マスクでくぐもった声。俺は大量の情報を払おうと頭を振り「大丈夫です」と応じた。声は掠れていた。

 顔を上げて周りを見ることを思いつく。

 世界は夜に向かって薄暗くなっていた。俺の近くに救急車が停まり、救急隊員が俺の腕を掴んでいる。俺は歩道に近い道路の上に倒れていて、近くに貼られた規制線の外側では、集まった野次馬たちが好奇の目を向けていた。警察官が彼らを追い払おうとしている。

「俺は……」

 ふらつく頭に軽く触れる。救急隊員はてきぱき言った。

「今から、君を病院へ運ぶ。頭を怪我しているから、あまり動かないように――」

 救急隊員、病院――事故。記憶が洪水のように押し寄せてくる。

 車の向こうに消えた笑顔。

「やよい!」

「君! 落ち着いて!」

 隊員の腕を振り払って立ち上がる。しかしすぐに膝をついて座りこんだ。頭と背中が軋むように痛い。やよいに強く押され、頭と背中から倒れ込んだらしい。

 闇の中にサイレンの赤と道路の黒が際立って浮かび、景色が日常から切り離される。いびつな世界に迷いこんだみたいだ。それでも意識を集中し直してみると、離れたところに停まった二台目の救急車が目に入る。今しも担架に載せられた人が一人、運ばれていく。かけられた毛布の隙間から、制服の袖とカーディガンが覗いた。

 あれは。

「やよい!」

「駄目だ! 君も安静に!」

「やよい!」

 担架は俺の叫びを待たなかった。救急隊員の力は強く、俺は弱っている。振り払えない。その場に立ち尽くし、やよいを乗せた救急車を見送る。

「やよいは! やよいは無事なんですか!」

 腕を掴み返す。隊員は俺の勢いに気圧されたように見えたけれど、力を込めて答えた。

「わたしの仲間が全力を尽くしている。……さあ、君も怪我をしているんだ。行こう。自分で乗れるかい?」

 何度尋ねても同じ、中途半端な答え。でも、嘘をついているわけでもない。的外れな希望を持たせないための配慮なのか。

 それとも。


 やよいは一命をとりとめた。

 病院の三階。窓際のベッド。廊下には「小待やよい」とプレートが掲げてある。

 俺は奇跡的に軽傷で済んで、やよいが目を覚ますのを待っていた。

 俺たちに突っこんできた車は、警察の追跡を振り切ろうとしていたらしい。最初はスピード違反だけだったのに、信号無視を繰り返し、果てに人身事故……といういきさつは、後日ニュースで知った。

「理不尽じゃないか? スピード違反の切符から逃れるためだけにさ。そして運悪く、俺たちがそこに居合わせた」

 ベッドの上のやよいに話しかける。やよいは目を閉じたまま、たくさんの管につながれて動かない。

 心電図が立てる微かな音が、やよいの返事を期待する間も時間が進む無情を知らせる。

「……そうだ。これ、買ってきた」

 見舞いの品を思い出した。席を立ち、病室の洗面台で花瓶に水を満たす。

「『あなたを待つ』っていう意味があるんだってさ。……母さんも花が好きで、花言葉、覚えちまった」

 ラッパ水仙を花瓶に生けた。

 改めてやよいの顔を見つめる。なぜだか、この光景を前にも見たことがあるような――既視感。とらえて、放してくれない。

「父さんの時を、なんとなく覚えてるからかな」

 自分を納得させようとする。実際、少しは「あの日」のことを覚えていた。

お父さん、遅いね。

 母さんは数えきれないくらい繰り返した。俺たちは三十分前には帰っているはずの父さんを待っていた。

 電話が鳴る。父さんからかもしれない。母さんは受話器に走る。返事をする声は凍っていた。

 病院に向かう道で、母さんは神経質すぎるほど慎重な運転をした。父さんが心配なら、急げばいいのに。俺には理由が分からなかった。

 通された部屋はしんとして寒く、父さんの顔にかけられた布を払うと、俺には父さんが眠っているだけのように見えた。

 母さんが慎重すぎる運転をした理由はここで知れた。俺から父さんを奪った原因は、まさしく車とぶつかったことによる交通事故だったから。

 警察官と医師からの説明に、母さんが涙混じりに答える。その抑えた声を背に、俺はベッドに仰向けられた父さんをじっと見つめていた。

 やよいに、半ば俺自身に話しかける。

「母さんはそれ以来、馬鹿みたいに働きづめになってさ。朝早く出かけて、夜遅く帰ってくる日も珍しくなかった。顔を合わせる機会なんてほとんどない。冷蔵庫に作り置きのおかずが補充されるだけだ。俺からしたら、父さんも母さんもいっぺんにいなくなったみたいだったよ。もし父さんが生きてたら、どんなに楽しい思い出ができたのかなって、よく考えてた」

 両親が揃って見に来てくれる入学式。俺はサッカーを続けていて、サッカー部にだって入ったかもしれない。学校から帰ってくると家には明かりがあって暖かく、みんなで食卓を囲んで、その日にあったことを話して。

 鼻が痺れるように痛くなる。慌てて鼻をかんだ。

「でも、もう終わった。全部終わったんだ。空想の幸せは所詮、空想で、もう俺の過去は戻ってこない。お前が言った通りだよ、やよい。時間は巻き戻せないんだ。分かってる。……でも、分からない。せっかく同じ思いをした人を、やよいを見つけたのに、お前がこのまま目覚めなかったら」

 声が震える。それでも喋ることをやめられない。泣くところなんて人に見せたくない。余計な同情を集めるだけだから。止めようとするけど、涙があとからあふれて止まらない。

「面会終了のお時間で……」

 時間を告げに来た看護師が、俺を見てびっくりしている。俺は平気なふりをした。

「失礼します」

 逃げるように病室を飛び出す。そのまま出口に向かおうとした俺は、涙も忘れて足を止めた。

 病院の廊下じゃない。

 俺は玄関に立っていた。目の前に三メートルほどの廊下が延びる。左側には狭い台所、右側には洗面所に続くドア。もしも廊下を進んでドアを開ければ、その先には八畳のワンルームが広がっているだろう。台所の脇についた小窓から、朝を感じさせる青白い光が差し込んでいる。

 今は、午後のはずなのに。

「どうして、俺の部屋が」

 気づかないふりはできなかった。これは、俺の部屋だ。市内に借りているアパートの一室。

 でも。でも、おかしい。

 全身から血の気が引いていく。

 俺は病室を出たはずで。高校生のはずで。でもこのアパートを借りたのは大学生の時で。

 どうなってるんだ!

 携帯電話が着信を告げる。混乱と恐怖が俺を叫ばせた。


 俺は叫んでいる。

 開いて乾ききった口。喉を揺さぶり、天井に反響する声を自覚する。うるさい。今すぐやめたい。意識が体の先まで支配権を取り戻し、声を収め、口を閉じさせた。残り少ない唾を呑み込んで口を潤す。

 電話がきていた。

 携帯はサイドテーブルの上に置いてある。取ろうとして半身を起こすと、住み慣れたアパートの八畳間が目に飛び込んできた。大学生の時に借りて、八年住み続けている。

「はい、もしもし」

 通話ボタンを押し、耳に当てる。慣れた動作は寝ぼけた頭でもスムーズだった。相手の返事を待つ間も、俺の頭は混乱したままだ。

 高校生の俺。交通事故、病院、やよい。

 電話口に看護師の声がした。

「市立病院の○○です。……が」

 要件を聞いた瞬間、全身に電流が走る。

 目が、覚めていく。

 つながっていく。

 布団をはねのけて起き上がった。

「すぐに行きます」


 大通りでタクシーを捕まえる。朝のラッシュで道は混んでいた。

 早く。早くしてくれ。手遅れになる前に。

 握りしめた手に汗が溜まる。焦りがじりじり湧きあがり、俺を苛立たせた。

「嗚呼」

 両手で顔を覆う。時間が経つほどすべてのことがはっきりしてきて、俺は気づけばすすり泣いていた。

「お客さん、大丈夫ですか?」

 運転手は心配そうにしている。俺には答える余裕もなかった。今は人からどう見えても、構わない。

 目指す部屋は分かっていた。

 病院の三階。窓際のベッド。廊下には「小待やよい」のプレートが掲げてある。

 病室に入ると、担当の看護師が俺に気づいた。

「あ。おはようございます」

「どうも。……容態は?」

 ベッドに目をやる。信じられないけれど。ああ、見ればやっぱりそうだった。

 看護師は落ち着いていた。

「現在は安定しています。明け方に激しい咳が出たのが原因だったみたいで」

「じゃあ今は、なんともないと?」

「ええ」

「良かった。……少し、二人にしてもらって良いですか」

「分かりました。小待さん、失礼します」

 俺の名前を呼んで去って行く。小待(こまつ)花。

 どうして気づかなかったんだろう。

「……やよい、ね。気づいたらもう、呼べねえよ。母さん」

 自分の鈍さに苦笑するしかない。それとも夢の中では、当たり前のことも忘れてしまうのだろうか。

 ベッドに横たわって眠る母さんは、夢に現れた十七歳の「やよい」よりずっと年取っていた。全体的にしわが増えて、髪もぱさつき疲れている。それでも顔立ちや目元は変わらない。容易にあの姿と重ねて考えられた。

 全部、夢だった。だけどただの夢じゃなかったんだと、確信に似たものを感じる。

俺は母さんの若い頃を、アルバムの中で見て知っていた。夢が古い記憶を引っ張りだしてきたのだろう。父さんと母さんの卒業アルバム。巻末の自由欄に、二人が寄り添って笑う写真が貼られていた。

二人は高校で出会って、その後結婚したらしい。二人はずっと一緒だった。父さんが死んでしまうまで。

 やよいの言葉を思い出す。

「十一年前、事故でね」

 そうだ、十一年前だった。俺が六歳の時。

「もし一緒に出かけていれば……」

 やよいの述懐が、さっきとは違う意味を持って俺に迫る。俺が、今まで思いつきもしなかったこと。考えようともしなかったこと。

 母さんも辛かった。俺以上に。

 俺は、父親としての父さんしか知らない。その上で、父さんの不在を寂しがり、失った体験を恨んできた。でも母さんは違う。二人が親になる前の、一人の人間としての父さんも知っている。

 親を失う悲しみ。愛する個人を失う悲しみ。それは少し方向性が違っていたけれど、根っこにある本質は同じだったかもしれない。けれど俺はそれに気づけず、母さんは俺と悲しみを分かち合うことができなかった。だから逃れるように働いた。働いて働いて――体を壊してしまうまで。

 母さんが倒れたと知らされた時、俺は義務的な心配しかできなかった。必要なものをまとめ、病院に届ける。ごく形式的な見舞いの言葉を述べる。そして、病室に寄りつかなくなる。

 今になって自分を恥じる。なんて小さくて、狭い人間だったんだろう。

 時間を巻き戻すことはできない。俺はもう社会人で、過ぎ去った学生時代は二度と戻らない。

 でも、持っていた幸せに気づくことはできる。

 作り置きされたおかず。父さんのいない入学式――母さんは来てくれた、入学式。

悲しみと生活の合間で見つけた、できる限りの愛情表現。

 父さんも母さんもいっぺんにいなくなったみたいなんて、嘘だった。

「――夢に、母さんが出てきたよ」

 椅子を引き寄せて、ベッドの脇に座る。ためらったけれど、そっと母さんの手を握った。

「大事な人が死んで、周りから同情の目で見られて……すごく悲しかったって言ってた。

 俺も、同じだったんだ。可哀想って言われるのが嫌だった。どうして俺だけが、こんな思いをしなくちゃいけないのかって。

 でもずっと、俺は一人じゃなかったんだ。

 早く気づけば良かった。そうすればもっと母さんを支えて、気遣って、ここまで放っておかなかったのに。

……ごめん」

 軽く息を止める。えもいわれぬ緊張が肺を満たした。

「……でも、時間を巻き戻せるわけじゃない。外に出て、生きていかないと。やり直すことはもうできないけど、今から。俺ができないと思って勝手に諦めたこと全部と、母さんと一緒に生きていくことを、新しく始めることはできないかな」

 ちらと目を上げる。母さんは眠り続けている。次は何時に目を覚ますのか、もう誰にも掴めない。

 強く手を握った。

「次は花を買ってくるよ。夢の中で花言葉、いろいろ言ってた。たくさん買ってくるから、花言葉を教えてね」

 その手が握り返されるとは、思ってもみなかった。

 息を呑む。母さんはわずかなため息を漏らして――目を開けた。俺を見て、目を細めて笑う。

「おはよう。寝ぼすけくん」

 幼い頃の記憶。朝起きた時の挨拶。

 涙が頬を伝う。悲しいわけじゃない。嬉しいのに。

「おはよう」

 言葉にならないすべての感情を込めて答えた。

 窓辺に飾られたハナビシソウが、そよ風に揺れている。




終わり

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