第九話 氷帝の逆転劇
白銀の世界に、時が止まったかのようだった。
大広間の全ての人間が、息を殺して、ただ一点を見つめている。
カイゼル陛下の手に掲げられた、ワイングラス。
その中で、薔薇色の液体に浸されたダイヤモンドのネックレスが、シャンデリアの光を浴びて、静かに、きらきらと輝いている。
黒く、ならない。
一秒が、永遠のように感じられる。
イザベラの顔から、勝利を確信した笑みが、すっと消えた。彼女の翠色の瞳が、信じられないものを見るように、大きく見開かれる。
(な…ぜ…? どうして変色しないの!? あれは、安物のワインに触れれば、必ず黒く変色するはずの“偽物”だったはず…! 父様は、そうおっしゃっていたのに…!)
彼女の、混乱と焦りに満ちた心の声が、私の耳に痛いほど響いてくる。
カイゼル陛下は、ゆっくりと、グラスの中からネックレスを取り出した。そして、懐から取り出した純白のハンカチで、丁寧に雫を拭う。
ダイヤモンドは、穢れを知らぬかのように、どこまでも清らかに、その輝きを放ち続けていた。
「…イザベラ」
カイゼル陛下の声は、絶対零度の静けさを帯びていた。
その声に、イザベラの肩が、びくりと震える。
「お前の言う“銀の毒”とやらは、どこにある? 妃のドレスは汚れておらず、ワインにも、何の変化も見られないようだが」
「そ、そんな…! ありえませんわ! きっと、何かの間違いで…!」
狼狽え、しどろもどろになるイザベラ。
その姿を、ヴァルデマール公爵が、苦々しい表情で見つめている。彼の心の声もまた、焦りと苛立ちに満ちていた。
(あの愚か者めが…! 段取りが違うではないか! なぜ、あのネックレスは変色せんのだ!?)』
カイゼル陛下は、そんな二人の様子を、氷のような瞳で見下ろしながら、ゆっくりと口を開いた。
「間違い、か。そうだな。確かに、いくつか“間違い”があったようだ」
彼は、一度言葉を切ると、大広間に響き渡る声で、厳かに告げた。
「一つ目の間違いは、妃が身につけているこのネックレスを、“偽物”だと勘違いしたことだ」
その言葉に、イザベラと公爵の顔が、さっと青ざめる。
「確かに、ヴァルデマール公爵家には、ワインに触れると変色する、巧妙に作られた“偽の宝飾品”がいくつかあると聞いている。妃を貶めるために、それとすり替えようとでも画策したのか?」
図星だったのだろう。イザベラが、小さく悲鳴を上げた。
「だが、残念だったな。このネックレスは、グラキエス帝国に代々伝わる正真正銘の秘宝、『氷の涙』。我が祖先が、精霊の女王より賜ったとされる、いかなる毒や呪いも寄せ付けぬ、聖なる宝だ。お前たちが用意したような、くだらない細工が通用する代物ではない」
カイゼル陛下の言葉に、会場が大きくどよめく。
帝国の秘宝『氷の涙』。その存在を知る者は、貴族の中でもごく僅か。それを、異国から来た妃に、彼は与えていたというのか。
『――(…というのは、真っ赤な嘘だがな)』
「…………え?」
私の耳にだけ聞こえた、衝撃的な心の声。
思わず、隣に立つカイゼルの顔を見上げてしまう。彼は、完璧なポーカーフェイスを崩さずに、堂々と玉座に立っている。
『――(このネックレスは、ただの綺麗なダイヤモンドだ。だが、ハッタリも時には必要だ。イザベラたちが「変色する偽物」を用意していることは、事前に掴んでいたからな。本物の宝石の前では、どんな細工も無力だということを、思い知らせてやらねば)』
なんと…。
彼は、全てお見通しだったというの?
イザベラたちの企みも、ネックレスのすり替え計画も、全て事前に察知して、その上で、この舞台を整えたというのか。
カイゼル陛下は、動揺するイザベラたちに、さらに追い打ちをかける。
「そして、二つ目の間違いだ。…誰が、俺の贈った純白のドレスに“毒が塗られていた”と言った?」
「え…?」
イザベラが、呆然と呟く。
すると、大広間の扉が再び開かれ、数人の近衛兵に守られて、筆頭侍女のアーデルハイドが、あの純白のドレスを掲げて入ってきた。
そのドレスは、どこにもシミ一つなく、ただ清らかに輝いている。
「アーデルハイド、報告を」
「はっ。妃殿下がお召しになるはずでしたこちらのドレス、わたくしども侍女一同で、隅々まで確認いたしましたが、毒物やシミなどは一切発見されませんでした。ここに、お集まりの皆様の前で、潔白を証明いたします」
アーデルハイドの、凛とした声が響く。
イザベラは、もはや真っ白になって、か細い声で反論した。
「そん…な…! わたくしは、確かに見たのです! ドレスの裾が、黒く…!」
「ああ、それならば、おそらくこれのことだろう」
カイゼル陛下が合図をすると、今度は、ヴァルデマール公爵家の紋章をつけた侍女が、近衛兵に両脇を抱えられて引きずり出されてきた。彼女の手には、小さな黒い瓶が握られている。
「その侍女は、お前が離宮に送り込んだ間者だな、イザベラ。そして、その瓶の中身は、“銀の毒”などではない。ただの、特殊なインクだ。妃が俺のドレスを着た瞬間、そのインクを裾に振りかけ、毒殺騒ぎをでっちあげる手はずだったのだろう?」
「ひっ…!」
イザベラの侍女が、その場にへなへなと崩れ落ちる。
全てが、暴かれた。
全てが、カイゼル陛下の掌の上だったのだ。
「ヴァルデマール公爵!」
カイゼル陛下の、雷鳴のような声が、公爵の名を呼んだ。
今まで黙って事の推移を見守っていた公爵が、びくりと体を震わせる。
「娘の愚かな芝居を、いつまで黙って見ているつもりだ。それとも、これも全て、お前の差し金か?」
「め、滅相もございません、陛下! 全ては、この愚かな娘が、妃殿下を妬むあまり、独断で起こしたことでございます! この父、ヴァルデマールは、一切関知しておりませぬ!」
公爵は、そう叫ぶと、イザベラを突き飛ばすようにして、その場に跪いた。
醜い、仲間割れ。そして、見苦しい自己保身。
(この役立たずめが…! だが、ここで私が罪を認めれば、一族もろとも終わりだ! 今は、この娘一人に罪を被せるしかない…!)
彼の、冷酷な心の声が、はっきりと聞こえる。
自分の娘を、躊躇なく切り捨てる。これが、この男の本性。
イザベラは、信じられないものを見る目で父親を見上げ、そして、絶望に顔を歪めた。
「…連れて行け」
カイゼル陛下が、冷たく命じる。
近衛兵たちが、その場に泣き崩れるイザベラと、彼女に罪をなすりつけた侍女を、無慈悲に引き立てていく。
ヴァルデマール公爵は、ただただ、床に額を擦り付けて、震えているだけだった。
壮大な茶番劇の、あっけない幕切れ。
大広間は、しばらくの間、水を打ったように静まり返っていたが、やがて、誰からともなく、皇帝陛下を称える、大きな、大きな拍手が巻き起こった。
私は、その拍手の中で、ただ、隣に立つ人の横顔を見上げていた。
氷帝。
冷酷非道と恐れられる、この国の若き支配者。
けれど、その冷たい仮面の下にあるのは、誰よりも深く、そして誰よりも熱い、真実の愛。
彼は、私の手を、そっと、強く、握りしめた。
その温かさが、今夜のどんな宝石よりも、私の心を、誇らしく照らしていた。




