第八話 銀の毒と、暴かれた真実
建国記念の夜会当日。
皇城は、朝から祝祭の喧騒と、人々の熱気に包まれていた。
離宮の私の部屋も、侍女たちが行き交い、華やかながらもどこか張り詰めた空気が漂っている。
「妃殿下、本当に、こちらのドレスでよろしいのですか…?」
筆頭侍女のアーデルハイドが、心配そうに眉を寄せながら、私に問いかけた。
彼女の視線の先にあるのは、ハンガーにかけられた二着のドレス。
一つは、カイゼル陛下が用意してくださった、月光のように輝く純白のドレス。
そしてもう一つは、私の数少ない持ち物の中から選び出した、故郷アザレアの夜空を思わせる、濃紺のドレス。私が初めて陛下の執務室を訪れた時に着ていたものだ。
「ええ。今宵は、こちらを着ていくわ」
私は、迷いなく、濃紺のドレスを指さした。
あの日、図書室でカイゼル陛下と心を通わせてから、私はずっと考えていた。イザベラが仕掛けたという「罠」。それは、一体何なのか。
彼女の心の声は「その美しいドレスが、あなたの罪を暴く」と言っていた。
罪。罠。
考えられるのは、ドレスそのものに何か仕掛けがしてある、ということ。
(陛下からの贈り物を拒むなど、大変な無礼にあたります…!)
(もし陛下の逆鱗に触れれば…)
侍女たちの心配する心の声が聞こえる。けれど、私の決意は固かった。
陛下を、信じるからこそ。彼に、いらぬ心配をかけさせないためにも、危険の可能性があるものからは、自ら遠ざからなければならない。
「陛下には、わたくしから、きちんとご説明いたします」
そう言って、私は侍女たちを安心させるように微笑んだ。
夜。
大広間の扉が、ゆっくりと開かれる。
万雷の拍手と、人々の称賛の声。その視線が、一斉に、ただ一点に注がれる。
玉座へと続く、真紅の絨毯の上。
隣には、軍服に身を包んだ、氷の彫像のように美しい皇帝カイゼル。
私は、彼の腕にそっと手を添え、ゆっくりと、一歩を踏み出した。
選んだ濃紺のドレスは、周りの貴婦人たちが着飾る豪奢なドレスに比べれば、ずっと地味なものだったかもしれない。
けれど、胸には、カイゼル陛下から贈られたダイヤモンドのネックレスが、夜空の星々のように、確かな輝きを放っている。これだけは、彼への信頼の証として、どうしても身につけたかった。
「…そのドレス」
人々の歓声にかき消されるほどの、小さな声で、カイゼル陛下が呟いた。
「よく、似合っている」
『――(なぜ、俺の贈ったドレスを着ていないんだ…? 何かあったのか? …だが、この紺のドレスも、初めて執務室で会った時の…。ああ、ダメだ、思い出したらまた心臓が…! とにかく、最高に可愛い! やはり俺の妃は宇宙一だ!)』
彼の心の声は、疑問と、それ以上の喜びで溢れていた。
その声に、私の心もふわりと軽くなる。大丈夫。彼は、私の選択を、受け入れてくれた。
玉座に着き、祝辞の儀式が続く。
私は、妃として完璧な微笑みを浮かべながら、時折、会場に鋭い視線を送っていた。
イザベラと、ヴァルデマール公爵の姿を探す。
彼らは、一体、何を企んでいるのか。
祝宴が始まり、人々が音楽と会話に興じ始めた頃。
その瞬間は、突然訪れた。
一人の侍従が、銀の盆に乗せたグラスを、恭しく私とカイゼル陛下の前に差し出した。
「陛下、妃殿下。今年の豊穣を祝う、記念のワインでございます」
透き通るような、美しい薔薇色のワイン。
カイゼル陛下が、先に自らのグラスを手に取る。そして、私が自分のグラスに手を伸ばそうとした、その時だった。
「まあ、お待ちになって、妃殿下!」
甲高い声と共に、人垣をかき分けるようにして、イザベラが私たちの前に進み出た。
彼女は、燃えるような真紅のドレスを身にまとい、その顔には、悲劇のヒロインのような、悲痛な表情を浮かべている。
「そのワインを、お飲みになってはなりません!」
会場が、一瞬にして静まり返る。
全ての視線が、イザベラと、私の前のグラスに注がれた。
「イザベラ、何の騒ぎだ」
カイゼル陛下の、地を這うような低い声が響く。
だが、イザベラは怯むことなく、震える指で、私のドレスを指さした。…ううん、違う。私の胸で輝く、ダイヤモンドのネックレスを。
「妃殿下が身につけていらっしゃる、そのネックレス…! それは、我がヴァルデマール家に古くから伝わる、“銀の毒”に触れると、黒く変色する性質を持つ、特別なダイヤモンドなのでございます!」
“銀の毒”。
その名に、貴族たちがざわめく。それは、少量でも死に至る、古の禁忌の毒。無味無臭で、銀の食器にだけ反応して、黒いシミを作るという特徴を持つ。
「わたくし、先ほど、妃殿下がお召しになるはずだった、あの純白のドレスの裾に、黒いシミがついているのを見てしまいました! あれは、間違いなく“銀の毒”! 誰かが、陛下から贈られたドレスに毒を塗り、妃殿下を害そうとしたのです!」
イザベラの、悲痛な叫び。
会場が、恐怖と驚愕に満ちたどよめきに包まれる。
「そして、今! 妃殿下のグラスに注がれたワイン…! おそらく、これも同じ犯人の仕業に違いありません! お願いです、妃殿下! そのネックレスを、ワインに浸してみてくださいまし! それで、全てが明らかになりますわ!」
完璧な脚本。
完璧な舞台装置。
私は、一瞬で、彼女の企みの全てを理解した。
もし、私がカイゼル陛下の贈った純白のドレスを着ていたら。私は、毒が塗られたドレスを着た妃として、パニックに陥っていたことだろう。
そして、今、この場で、ネックレスをワインに浸せば。
きっと、ネックレスは黒く変色する。
そして、私は「毒殺されかけた可哀想な妃」として、人々の同情を集める。
…けれど、それは、罠だ。
イザベラの心の声が、勝利を確信した、歓喜の叫びを上げていた。
(そうよ、浸しなさい! そのネックレスこそが、最大の罠! それは、“銀の毒”ではなく、ただの安物のワインに触れるだけで変色するように、父様が細工をさせた偽物の宝石! これで、お前が本物の宝石と偽物の区別もつかない、愚かな田舎娘だということが、皆の前で証明される! 陛下からの贈り物を偽物だと疑い、自分の安物のネックレスを身につけて陛下を侮辱した、不敬な妃だと、断罪されるのよ!)
なんという、二重三重の、悪辣な罠。
私が陛下のドレスを着ていれば「毒殺未遂事件」。
私が別の服を着て、ネックレスをワインに浸せば「皇帝への不敬罪」。
どちらに転んでも、私は破滅する。
イザベラは、私の行動を完璧に予測し、どちらの道にも地獄を用意していたのだ。
会場中の視線が、私に突き刺さる。
どうする、リリアンナ。
絶体絶命。
そう思った、その時。
すっと、私の隣から、大きな手が伸びてきた。
カイゼル陛下の、手だった。
彼は、私が手にしていたグラスを、静かに取り上げる。
そして、私の胸元から、ダイヤモンドのネックレスを、そっと外した。
会場の誰もが、息を呑んで見守っている。
カイゼル陛下は、そのネックレスを、ためらうことなく、薔薇色のワインが注がれたグラスの中へと、静かに、沈めた。
『――(信じている。お前を)』
彼の、短く、しかし何よりも力強い心の声が、私の胸に、まっすぐに響いた。




