第七話 陰謀の影と、不器用な誓い
建国記念の夜会を数日後に控え、皇城は浮き足立ったような華やかな空気に包まれていた。
私の離宮にも、毎日のように仕立て屋や宝飾師が訪れ、夜会のための準備が着々と進められていく。
カイゼル陛下の名で届けられたのは、月光を溶かして織り上げたかのような、息を呑むほど美しいシルクのドレス。そして、それに合わせるための、氷の結晶を繋いだようなダイヤモンドのネックレス。
「まあ、素晴らしい…! これほどのドレス、わたくし、生まれて初めて目にしましたわ!」
「このネックレス一つで、小さな国が買えてしまいますわね…!」
侍女たちは、うっとりと溜息を漏らす。
けれど、私の心は、晴れない曇り空のように、どこまでも重く沈んでいた。
これら全ては、私のためのものではない。皇帝の妃という「役職」を飾るための、ただの道具。カイゼル陛下は、帝国の威信を保つために、妃という名の美しい人形を完璧に飾り立てようとしているだけなのだ。
そう思うと、どんなに美しいドレスも、冷たい鉄の枷のようにしか感じられなかった。
そんなある日の午後。
ドレスの仮縫いを終えた私の部屋に、招かれざる客が訪れた。
「ごきげんよう、妃殿下。夜会のご準備、順調かしら?」
イザベラ・フォン・ヴァルデマールが、侍女の一人だけを連れて、にこやかに立っていた。
「まあ、素敵なドレスですこと!」
ハンガーにかけられた純白のドレスを一目見るなり、彼女はわざとらしく声を弾ませる。
「カイゼル様は、本当に妃殿下のことを大切に思っていらっしゃるのね。思い出しますわ。わたくしが初めて夜会に出た時も、カイゼル様が最高のドレスを誂えてくださったの。『イザベラには、誰よりも美しいドレスを着せてやりたい』と、そうおっしゃって…」
まただ。
彼女は、そうやって、私とカイゼル陛下の間に、自分との過去を割り込ませてくる。
私が黙っていると、彼女はドレスに近づき、その滑らかな生地をそっと撫でた。
(せいぜい、お喜びなさいな、田舎姫。その美しいドレスが、あなたの罪を暴き、断罪台へと導くための、見事な罠になるのですから…!)
「…っ!」
聞こえてきた、あまりにも邪悪な心の声に、私は全身の血が凍りつくのを感じた。
罠? 罪? 断罪台?
一体、何を言っているの?
私が恐怖に目を見開いていると、イザベラは何も気づかないふりをして、にっこりと私に微笑みかけた。
「夜会、楽しみですわね。妃殿下の美しいお姿を、皆様にお披露目できるのですもの。きっと、カイゼル様もお喜びになるわ」
そう言い残して、彼女は嵐のように去っていった。
後に残されたのは、不気味な予告と、私の胸の中で鳴り響く警鐘だけ。
どうしよう。
このドレスに、何か罠が仕掛けられている。
カイゼル陛下に、伝えなければ。でも、どうやって?「イザベラ様の心の声が聞こえました」なんて、言えるはずがない。
私の嫉妬が生んだ、ただの妄想だと思われてしまったら? 彼に、余計な心配と迷惑をかけてしまったら?
その夜、私は全く眠ることができなかった。
不安と恐怖で、胸が張り裂けそうだった。
私は、誰にも告げずにそっと離宮を抜け出し、一人、月明かりに照らされた夜の図書室へと向かった。静かな場所で、少しでも心を落ち着けたかったのだ。
ひんやりとした空気の中、高い天井まで続く本棚を見上げていると、不意に、背後で扉の開く音がした。
振り返ると、そこに立っていたのは、部屋着のような簡素な服を着た、カイゼル陛下だった。
「…お前か」
驚いたのは、彼も同じようだった。そのアイスブルーの瞳が、わずかに見開かれている。
二人きり。
静寂が、私たちの間に重くのしかかる。
『――(こんな夜更けに、一人で何を…? 眠れないのか? やはり、悩んでいるのか…?)』
彼の、心配そうな心の声が聞こえる。
その声に、張り詰めていた私の心の糸が、ぷつりと切れた。
「…何か、悩み事でもあるのか」
彼が、ためらうように、けれどまっすぐに、そう問いかけてきた。
私は、答えることができない。ただ、俯いて、唇をぎゅっと噛みしめるだけ。
イザベラ様のことも、罠のことも、何も言えない。
『――(頼む、話してくれ。お前が何に苦しんでいるのか、俺に教えてくれ。俺は、お前の力になりたいんだ…! 俺は、ただ、お前の笑顔が見たいだけなんだ…!)』
その、あまりにも必死な、悲痛な心の声を聞いて。
私の瞳から、堪えていた涙が、一筋、ぽろりと零れ落ちた。
「わたくし…この帝国で、妃として、陛下のお隣に立つ資格があるのでしょうか」
それは、やっとのことで絞り出した、私の本当の不安だった。
イザベラの罠のことではない。もっと根源的な、私の存在価値そのものについての問い。
私の言葉に、カイゼル陛下は、息を呑んだようだった。
そして、次の瞬間。
彼は、ゆっくりと私に近づくと、ためらいがちに、そっと、私の手を取った。
初めて触れた、彼の大きな手。噂とは違う、温かい手。
「資格など、俺が決めればいいことだ」
彼は、私の濡れた瞳を、まっすぐに見つめて、そう言った。
不器用で、ぶっきらぼうな言葉。
けれど、その声は、今まで聞いたどの言葉よりも、力強く、私の心に響いた。
「夜会では、堂々と俺の隣にいろ。…お前は、俺の、たった一人の妃なのだから」
『――(愛している、とどうして言えないんだ俺は! 馬鹿野郎! だが、伝われ! これが俺の、精一杯の本当の気持ちだ! お前だけなんだ、リリアンナ…!)』
彼の、心の絶叫が、温かい奔流となって、私の凍てついた心を溶かしていく。
ああ、私は、なんて愚かだったのだろう。
この人の優しさを、疑うなんて。
この人の愛を、見過ごそうとするなんて。
「…はい」
私は、涙で濡れた顔のまま、それでも、精一杯の力で、彼に微笑みかけた。
「はい、陛下」
イザベラの罠が、どんなものかはわからない。
夜会で、私にどんな屈辱が待ち受けているのかも、わからない。
けれど、もう、怖くはなかった。
この温かい手を、この真っ直ぐな心の声を、信じられるから。
この人の隣に、たとえ人形としてでも、最後まで立ち続けよう。
私は、カイゼル陛下の手を、そっと握り返した。
それは、嵐の夜に臨む、私たちの、不器用な、けれど確かな誓いだった。




