第三話 氷の執務室と甘すぎる心の声
「妃殿下が、陛下に…謁見を?」
私の申し出を聞いた筆頭侍女のアーデルハイドは、一瞬、完璧なポーカーフェイスを崩して、素で驚いた顔をした。彼女だけでなく、部屋にいた他の侍女たちも、揃って息を呑むのがわかった。
(ご乱心だわ…)
(あの氷帝陛下に、自ら会いにいくだなんて…)
(何か、ご不満でもあったのかしら。もし陛下の逆鱗に触れたら…)
彼女たちの心配と不安が入り混じった心の声が、さざ波のように私の頭に流れ込んでくる。普通に考えれば、彼女たちの反応は当然のものだろう。
昨日まで「生贄」として憐れまれていた小国の姫が、一夜明けて、大陸で最も恐れられている皇帝に「会いたい」と言い出したのだ。正気の沙汰ではないと思われても仕方がない。
けれど、私の決意は揺らがなかった。
肩にかけられた、この雪狐のショールの温もり。そして、あの冷たい仮面の下に隠された、驚くほど不器用で優しい心の声。
それを知ってしまった今、私はもう、ただ怯えて過ごすだけの「人形」でいることはできなかった。
「ええ。いただいたショールのお礼を、直接申し上げたいのです。それだけよ」
私が穏やかに、しかしはっきりとそう告げると、アーデルハイドは数秒間逡巡したのち、深く、覚悟を決めたように頭を下げた。
「…承知いたしました。陛下にお伺いを立ててまいります」
彼女のプロ意識に感謝しつつ、私は侍女たちが用意してくれたドレスの中から、一番地味で、けれど一番気品のある濃紺のドレスを選んだ。故郷の父から、唯一の餞別として持たされた、アザレアの夜空を思わせる色のドレスだ。
これを着ていると、少しだけ、一人ではないような気がした。
陛下の執務室からの許可が下りたのは、それから一時間ほど経った後のことだった。
案内されたのは、離宮とは渡り廊下で繋がった本城の一角。謁見の間のような公的な場所ではなく、皇帝の私的な仕事場。
重厚な黒檀の扉の前で、侍従が厳かに私の来訪を告げる。
「妃殿下、リリアンナ様が、ご挨拶にお見えになりました」
数秒の沈黙。
扉の向こうから聞こえてきたのは、たった一言。
「…入れ」
昨日と同じ、温度のない声。
その声に、私の心臓がきゅっと縮こまるのを感じる。
侍従がゆっくりと扉を開ける。その隙間から、部屋の様子が垣間見えた。
壁一面に、天井まで届くほどの本棚。そこには、膨大な量の書物や資料がぎっしりと詰まっている。部屋の中央には、大きな執務机。そして、その向こう側。
山と積まれた書類の合間から、白銀の髪が、ちらりと見えた。
「失礼いたします、陛下」
私は意を決して、一歩、部屋の中へと足を踏み入れた。
カイゼル陛下は、書類から一切顔を上げようとしない。まるで、私のことなど存在しないかのように、羽根ペンを走らせる音だけが、静かな部屋に響いている。
冷たい、拒絶の態度。
やはり、来るべきではなかったのかもしれない。そう後悔しかけた、その時だった。
**『――(来た来た来た来た来たァァァァ!!! 本当に来た! あのリリアンナが! 俺の執務室に! なぜ!? どうして!? あ、そうかお礼か! ショールのお礼だ! アーデルハイドからの報告で聞いたぞ! 俺の贈ったショールを気に入ってくれたのか! やった! やったぞ俺!)』**
「…………っ」
思わず、口元が綻びそうになるのを、必死で堪える。
目の前の光景と、頭の中に響き渡る声のギャップが、あまりにも激しすぎる。
彼は、顔も上げず、完璧に仕事をこなす冷徹な皇帝を演じているというのに、その頭の中は、歓喜の嵐が吹き荒れていた。
**『――(それにしても、今日のドレス…! なんて美しいんだ! 深い青色が、彼女の白い肌と黒髪を際立たせている! 清楚で、気品があって、最高に可愛い! 天使か! いや、夜空の女神か!? 直視できない! 直視したら、俺の理性が崩壊する! だから今は書類に集中するんだ俺! 集中しろ! …無理だ!!)』**
もうダメだ。笑いを堪えるのに必死で、下唇をぎゅっと噛む。
私が返事をしないのを不審に思ったのか、カイゼル陛下は、ようやく、ゆっくりと書類から顔を上げた。
そして、そのアイスブルーの瞳が、真正面から私を捉える。
「…何の用だ」
声は、冷たい。
けれど、その心の声は。
**『――(ああ、目が合ってしまった…! やはり可愛い…! 困ったような、少し緊張したような顔、たまらない! 守りたい! この笑顔を、俺が守るんだ…! …って、俺は今、どんな顔をしてる!? ちゃんと氷帝の顔になってるか!? 変な顔してないか!?)』**
私は、込み上げてくる笑いの代わりに、一つ、深呼吸をした。
そして、できる限り優雅にカーテシーをしてみせる。
「昨日は、素晴らしいショールを賜り、誠にありがとうございました。とても暖かく…心まで温まる思いがいたしました」
**『――(心まで温まる思い!!! いただきましたーーーっ!!! 俺の勝ちだ! 何に勝ったのかはわからんが、とにかく俺の勝ちだ! 俺の贈ったショールが、あの子の心を温めたんだぞ! 全世界に自慢したい!)』**
カイゼル陛下は、完璧な無表情のまま、私の言葉を聞いている。
そして、ただ一言、こう返した。
「…当然だ。風邪でも引かれては、帝国の沽券に関わる」
ツン、という言葉が、これほど似合う人がいるだろうか。
けれど、もう私にはわかる。その言葉が、彼の最大限の照れ隠しなのだということが。
「ふふっ…」
「…何がおかしい」
ついに、堪えきれずに小さな笑い声が漏れてしまった私を、カイゼル陛下が訝しげに睨む。
ああ、その心の声も、私には聞こえている。
**『――(笑った! 今、笑ったぞ! 俺の妃が、俺の前で笑った! なんて可愛いんだ! 天使の微笑みか! もう一度! もう一度笑ってくれ! その笑顔のためなら、俺は国でも何でも捧げよう!)』**
「いえ…陛下は、とてもお優しい方なのだと、改めて思いまして」
「…戯言を」
彼は、ぷいっと私から視線を逸らし、再び書類の山へと目を落とした。
その仕草が、まるで拗ねた子供のようで、私の胸の中に、ふわりと温かいものが込み上げてくる。
この人は、怖くない。
この人は、ただ、不器用なだけなのだ。
もっと、この人のことを知りたい。
もっと、この人の心の声を聞いてみたい。
そう思った、その時だった。
コンコン、と執務室の扉がノックされ、侍従の声が響いた。
「陛下、ヴァルデマール公爵様がお見えです」
その名を聞いた瞬間、カイゼル陛下の空気が、一瞬にして変わった。
先ほどまでの、内心お祭り騒ぎだった気配が嘘のように消え去り、本物の、絶対零度の氷のような覇気が、彼の全身から立ち上る。
**『――(…あの男が、なぜこの時間に? リリアンナがいると知って来たのか…?)』**
心の声も、先ほどまでとは打って変わって、低く、鋭い警戒心に満ちている。
ヴァルデマール公爵。
確か、カイゼル陛下の叔父にあたる人物。先帝の弟であり、現皇帝の後見人…と、表向きはなっている人物だ。
許可を得て入ってきたのは、恰幅のいい、人の良さそうな笑みを浮かべた中年男性だった。
けれど、その目に宿る光は、蛇のように冷たく、ねっとりとした光を放っている。
「これは陛下。ご多忙のところ、失礼いたします。…おや、こちらはもしや、アザレアからいらっしゃった妃殿下ではございませんか」
公爵は、私に気づくと、わざとらしく驚いたような声を上げた。
そして、にこやかな笑みのまま、私に近づいてくる。
「はじめまして、妃殿下。陛下の叔父、ヴァルデマールと申します。どうぞ、お見知りおきを」
優雅に差し出された手。私は、戸惑いながらも、その手を取ろうとして――
(これが、噂の南の小娘か。カイゼルの奴め、こんなか弱い雛鳥にうつつを抜かしているとはな。だが、好都合だ。利用価値はありそうだ)
聞こえてきた心の声に、私の指先が、凍りついた。
笑顔の仮面の下に隠された、どす黒い侮蔑と、私を「道具」としてしか見ていない、冷たい計算。
その悪意に、背筋がぞっとする。
「…妃、下がっていろ」
私の震えに気づいたのか、カイゼル陛下の、低く、鋭い声が響いた。
気づけば、彼はいつの間にか立ち上がり、私と公爵の間に、庇うように立っていた。
その背中は、決して大きくはないけれど、どんな壁よりも頑丈で、頼もしく見えた。
『――(この男の邪気に、彼女を晒すな。リリアンナに近づくな、ヴァルデマール…!)』
彼の心の声は、怒りと、そして私を案じる気持ちで満ち溢れていた。
「これはこれは、陛下。叔父に対して、随分と冷たい態度ではございませんか。私はただ、可愛らしい姪御にご挨拶を、と思ったまでですのに」
ヴァルデマール公爵は、肩をすくめて芝居がかった仕草をする。
けれど、その目だけは、笑っていなかった。
「妃は長旅で疲れている。今日はもう下がらせる。…下がれ、リリアンナ」
カイゼル陛下は、私の方を一度も見ずに、そう命じた。
その声は、拒絶するように冷たい。
けれど、私には聞こえていた。彼の、本当の声が。
『――(すまない、リリアンナ。怖がらせてしまったな。今は、お前をこの男から遠ざけることしかできない。だが、必ず俺がお前を守るから。だから、今は下がってくれ)』
「…はい、陛下。失礼いたします」
私は、深く一礼すると、二人の男に背を向け、執務室を後にした。
扉が閉まる直前、カイゼル陛下の心配そうな心の声と、ヴァルデマール公爵の探るような心の声が、混じり合って聞こえてきた。
一人、長い廊下を歩きながら、私は自分の胸に手を当てた。
心臓が、ドキドキと音を立てている。
それは、ヴァルデマール公爵に向けられた悪意への恐怖だけではない。
私を、守ろうとしてくれた、カイゼル陛下の不器用な優しさ。
その温かさが、私の胸を満たしていた。
ただの生贄。ただの人形。
そう思っていたはずなのに。
いつの間にか私は、あの氷の仮面を被った皇帝の、力になりたい、と願い始めていた。
この冷たい帝国で、彼もまた、たった一人で戦っている。
その孤独を、ほんの少しでも、私が和らげることができたなら――。
肩にかけられたショールの温もりを、私はもう一度、ぎゅっと強く握りしめた。




