最終話 その心の声、愛していると啼く
イザベラが引き立てられ、ヴァルデマール公爵が床にひれ伏したことで、建国記念の夜会は、ある意味で歴史に残る、劇的な幕引きを迎えた。
騒ぎが収まると、カイゼル陛下は、何事もなかったかのように、祝宴の閉会を厳かに宣言した。そして、私の手を引き、万雷の拍手と、畏敬の念が入り混じった人々の視線を浴びながら、大広間を後にした。
二人きり。
月明かりが差し込む、長い、長い回廊を、私たちはただ、黙って歩いていた。
握られた彼の手が、驚くほど温かい。その温かさが、先ほどまでの緊張で凍えていた私の心を、ゆっくりと溶かしていくようだった。
最初に沈黙を破ったのは、私だった。
「…陛下。あの、ネックレスのことですが…」
「ん?」
「帝国の秘宝、『氷の涙』というのは…その、本当は…」
私の言葉に、カイゼル陛下は、ぴたりと足を止めた。
そして、ゆっくりとこちらを振り返ると、いつもと変わらぬ無表情のまま、しかし、そのアイスブルーの瞳に、ほんのわずかに、悪戯っぽい光を宿して、こう言ったのだ。
「…信じるか信じないかは、お前次第だ」
『――(すまん! つい、格好つけてしまった! 帝国にそんな秘宝はない! あれはただ、お前に似合いそうだと思って、俺が宝物庫の奥から引っ張り出してきただけのネックレスだ! 嘘をついて、本当にすまない! 軽蔑しないでくれ…!)』
私の頭の中に響き渡る、必死すぎる謝罪。
その心の声と、目の前の、どこか得意げな表情で澄ましている彼とのギャップに、私は、もう、堪えることができなかった。
「…ふふっ」
「…何がおかしい」
「ふふ、ふふふっ、あははははっ!」
一度笑い出したら、もう止まらなかった。
腹を抱えて笑う私を、カイゼル陛下は、呆然と、そして少しだけむっとした顔で見ている。
『――(な、なぜ笑うんだ!? 俺は何かおかしなことを言ったか!? 確かにハッタリだったが、そんなに面白いか!? いや、でも、笑った顔が可愛いから許す! もっと笑え! 俺のために!)』
「申し訳…ございません、陛下…」
涙を拭いながら、私はようやく笑いを収めた。
「ただ…陛下は、本当に、素敵な方なのだと、改めて思いまして」
「…戯言を」
彼は、ぷいっと顔をそむける。その仕草が、今となっては愛おしくてたまらない。
私は、彼の温かい手を、もう一度、ぎゅっと握りしめた。
「陛下。全て、ご存じだったのですね。イザベラ様たちの企みも、あのネックレスのことも」
「……」
彼は答えなかった。けれど、その沈黙は、肯定と同じだった。
「どうして…わたくしに、何も教えてくださらなかったのですか? もし、わたくしが、陛下の贈ってくださったドレスを着ていたら、と考えると…」
「…お前は、着ないと思ったからだ」
静かな、確信に満ちた声だった。
私は、驚いて彼の顔を見上げる。
「あの夜、図書室で、お前は不安だと言った。だが、俺の手を握り返した。…お前は、俺を信じてくれた。だからこそ、危険の可能性があるものには、自ら近づかないだろうと。そう、信じていた」
『――(本当はめちゃくちゃ不安だった! もし俺の勘違いで、リリアンナがあのドレスを着てしまったらどうしようかと、生きた心地がしなかった! だがお前は、俺の信じた通りの選択をしてくれた! ありがとう、リリアンナ…!)』
不器用な言葉の裏側にある、むき出しの、純粋な信頼。
その想いが、温かい奔流となって、私の心の奥深くまで、一気に流れ込んでくる。
ああ、もうダメだ。
もう、この気持ちを、隠しておくことなんてできない。
私は、意を決して、彼の前に回り込むようにして、その場に立ち塞がった。
そして、彼の美しいアイスブルーの瞳を、まっすぐに見つめて、こう言ったのだ。
「陛下。わたくし、呪われているのです」
「…なに?」
彼の眉が、ぴくりと動く。
「わたくしには、人の心の声が、微かに聞こえてしまうのです。それは、ずっと、わたくしを苦しめるだけの、忌まわしい力でした」
私は、自分の全てを、彼に打ち明けた。
この力があるせいで、人の本音に晒され、人間不信になったこと。
憐れみや侮蔑の声に、どれだけ心を傷つけられてきたか。
だから、自分の感情を殺して、息を潜めるように生きてきたこと。
彼は、黙って、私の告白を、ただ静かに聞いてくれていた。
「この帝国に来た時も、そうでした。わたくしは、生贄なのだと、ここで静かに朽ちていくだけなのだと、そう思っていました。…陛下の、心の声を聞くまでは」
私の言葉に、カイゼル陛下の肩が、ほんのわずかに、震えたのがわかった。
「冷たい言葉とは裏腹の、温かくて、優しくて、少しだけ慌てん坊な、陛下の本当の声。その声が、凍てついていたわたくしの心を、少しずつ溶かしてくれました。わたくしを救ってくれたのは、陛下、あなたなのです」
もう、涙は出ていなかった。
ただ、晴れやかな、満たされた気持ちで、私は、心からの感謝と、そして、愛を告げた。
「この力は、呪いなどではありませんでした。あなたという、たった一人の人の、本当の心に触れることを許された…奇跡だったのです。わたくし、この力があって、本当によかった」
私の告白を聞き終えたカイゼル陛下は、しばらくの間、何も言わなかった。
ただ、その完璧な無表情のまま、私をじっと見つめている。
やがて、彼は、ゆっくりと、私の頬に手を伸ばした。その指先は、少しだけ、震えていた。
「…そうか」
長い、長い沈黙の後。
彼が、絞り出すように、そう呟いた。
「全部、聞こえていたのか…」
『――(全部!? 最初から!? 謁見の間での「可愛い小動物」から!? 毎日のストーカーみたいな心の声も!? 昨日の夜の「愛していると叫びたい」も!? 全部、全部、全部、ダダ漏れだったというのか!?)』
彼の頭の中が、建国以来、最大のパニックに陥っているのが、手に取るようにわかる。
その狼狽ぶりは、あまりにもおかしくて、愛おしくて、私は、再び笑い出してしまいそうになる。
「…ああ、もう、終わりだ…」
彼は、天を仰ぎ、がっくりと肩を落とした。氷帝の威厳も何もあったものではない。
そして、次の瞬間。
彼は、観念したかのように、大きな溜息をつくと、私を、その逞しい腕の中に、強く、強く、抱きしめた。
「ああ、もういい! 全部、そうだ!」
私の耳元で、彼の、少しだけ掠れた、本物の声が響く。
「初めて会った時から、お前が可愛くて仕方がなかった! 毎日、お前のことばかり考えて、仕事も手につかなかった! 心配で、気になって、どうしようもなかった! 離したくない! 誰にも渡したくない! 俺だけのものにしたいと、ずっと思っていた!」
それは、今まで私が聞いてきた、心の声と同じ。
けれど、彼の口から、彼の声で、直接伝えられる言葉は、その何百倍も、何千倍も、甘く、熱く、私の心を震わせた。
「リリアンナ」
彼は、そっと体を離すと、私の両肩を掴み、そのアイスブルーの瞳で、私を射抜くように見つめた。
その瞳には、もう、一片の氷もなかった。ただ、燃えるような、熱い、熱い情熱の炎だけが、揺らめいていた。
「俺は、お前を愛している」
はっきりと、告げられた言葉。
私は、涙で滲む視界の中で、最高の笑顔で、彼に答えた。
「はい、存じております。わたくしも…わたくしも、あなたを愛しております、カイゼル様」
そして、私たちは、どちらからともなく、唇を重ねた。
それは、雪解け水のように清らかで、春の陽だまりのように温かい、初めての口づけだった。
――冷酷と噂の氷帝陛下の心の声が、私にだけダダ漏れな件。
それは、呪われた姫と、孤独な皇帝が出会い、不器用な心を寄せ合い、やがて真実の愛を見つけるまでの、ほんの数ヶ月の物語。
後日、ヴァルデマール公爵はその地位を剥奪され、北の果ての地に幽閉されたと聞いた。
そして、私を「国を救った賢妃」として称える声が、帝国中に広まった。
けれど、そんなことは、もう、どうでもいい。
私には、ただ、この人の隣で笑っていられるだけで、それ以上の幸せは、何もいらなかった。
「おい、リリアンナ。今、何を考えている?」
「ふふ、内緒ですわ」
「…教えろ」
『――(俺の心の声はお前に筒抜けなのに、お前の考えていることがわからないなんて、不公平だ! 俺も、お前の心の声が聞きたい! 可愛いことでも考えているんだろう! ずるい! 俺だけがドキドキしているなんて、ずるすぎるぞ!)』
今日も、私の愛しい皇帝陛下は、その頭の中で、盛大に愛を叫んでいる。
その、誰にも聞こえないはずの愛の言葉を、世界でただ一人、私だけが聞いている。
「わたくしの心の中ですか? それはもう…あなたのことで、いっぱいですわ」
そう囁くと、彼は一瞬目を見開き、次の瞬間、耳まで真っ赤に染め上げて、私を再び、腕の中に閉じ込めた。
その強さと温かさを感じながら、私は、そっと、目を閉じた。
氷の帝国に、ようやく訪れた、春の温もりの中で。
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