第一話 氷の皇帝と生贄の姫君
私の人生は、どうやら今日、ここで終わるらしい。
大理石の床は氷のように冷たく、私のみすぼらしいドレスの裾から覗くつま先は、とっくの昔に感覚を失っていた。
謁見の間。
あまりにも広大で、だだっ広いその空間の、遥か奥。玉座に座す一人の男が、私という異物を値踏みするように見下ろしている。
カイゼル・フォン・グラキエス。
大陸の北方を支配する大帝国グラキエスの若き皇帝。
血も涙もない冷酷な支配者。領土拡大のためには、実の親族さえ躊躇なく粛清する、氷のような心を持つ男――『氷帝』。
そして今日から、私の夫となる人。
(可哀想に、あんなお方が…)
(まるで生贄じゃないか)
(陛下の機嫌を損ねたら、明日の朝日を拝めないかもしれないな)
ひそひそと交わされる会話よりも鮮明に、謁見の間に集う貴族たちの「心の声」が、私の頭の中に直接流れ込んでくる。
そう、私には人の心の声が、微かに聞こえてしまう呪いのような力があった。
この力が発覚すれば、きっと「魔女」として断罪される。だから私は、物心ついた時からずっと、この忌ましい力を隠し、感情を殺し、息を潜めて生きてきた。
私の故郷は、南方の小国アザレア。
年中花が咲き乱れる、暖かく、そして貧しい国。その国が帝国から負った莫大な借金の返済が、ついに滞った時。
帝国から突きつけられたのは、あまりにも残酷な選択だった。
『――リリアンナ王女を、我が妃として差し出すこと』
それは、事実上の人質。あるいは、生贄。
父である国王は泣いて反対し、母である王妃は気絶した。けれど、私にはわかっていた。私が断れば、私の愛する故郷は、この氷帝の手によって、瞬く間に地図の上から消されてしまうだろう、と。
だから私は、笑って言ったのだ。
「お受けいたします。私がこの国のために役立てるのなら、これ以上の喜びはございません」と。
(リリアンナ、すまない…!)
(私の可愛い娘を、化け物への生贄に差し出すなど…!)
そんな父と母の悲痛な心の声を聞きながら、私はただ、静かに微笑み続けることしかできなかった。
帝国までの長い旅路。そして、この壮麗な皇城に足を踏み入れてから今まで、私が向けられた感情は、憐れみ、好奇、そして侮蔑。
それらの声は、まるで無数の小さな針のように、私の心を絶え間なく突き刺し続けた。
「顔を上げよ」
凛として、けれど温度のない声が、玉座から降ってくる。
私はゆっくりと顔を上げた。
そこにいたのは、噂に違わぬ、氷の彫像のような美貌を持つ青年だった。
切り揃えられた白銀の髪。凍てついた湖面を思わせる、冷たいアイスブルーの瞳。陶器のように白い肌には、一切の感情が浮かんでいない。
ただ、そこにいるだけで、周囲の温度が数度下がったかのような錯覚に陥る。
これが、氷帝カイゼル。
彼は私を、まるで道端の石ころでも見るかのような無感情な目で見つめている。
(……これが、アザレアの姫か。噂通りの、小動物のような女だな)
彼の、最初の心の声。
それは、彼の表情と同じくらい、冷たく、何の感情も含まないものに聞こえた。
ああ、やはり。
この人も、他の人たちと同じ。私のことなど、国のための道具としか見ていない。
そう思った瞬間、張り詰めていた心の糸が、ぷつりと音を立てて切れそうになる。
絶望が、冷たい霧のように心を覆い尽くしていく。
カイゼル陛下は、感情の読めない瞳で私を射抜きながら、ゆっくりと口を開いた。
「遠路ご苦労。お前が今日から俺の妃、リリアンナか」
「……はい。リリアンナと、申します」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。
彼の冷たい視線が、私の頭の先からつま先までを、ゆっくりと、品定めするように撫でる。その視線に晒されるだけで、身も心も凍り付いてしまいそうだった。
「国を売ってまで手に入れた地位だ。精々、帝国の土を汚さぬよう、慎ましく暮らすがいい」
言い放たれた言葉は、刃のように鋭く、私の胸を抉った。
謁見の間の貴族たちが、息を飲む気配がする。
(ひどい…初対面の妃殿下に、なんてお言葉だ)
(やはり陛下は、この婚姻をお喜びではないのだ)
(あの姫も、長くはないかもしれんな…)
侮蔑と憐れみが入り混じった心の声が、嵐のように私に襲いかかる。
もう、何もかもどうでもよかった。
故郷は、私がここに来たことで、一時的に救われたはずだ。ならば、私の役目はもう終わったのかもしれない。
このまま、この冷たい場所で、誰にも知られず、静かに朽ちていくだけなのだろう。
涙が、零れ落ちそうになるのを必死で堪える。
唇をぎゅっと噛みしめて、ただ、床の一点を見つめた。
これ以上、彼の顔を見る勇気もなかった。
彼の心の声を、これ以上聞きたくなかった。
きっと、聞こえてくるのは「つまらない女だ」「さっさと下がれ」そんな、氷のように冷たい本音に決まっているのだから。
だから、私は気づかなかった。
玉座に座る彼の表情が、ほんのわずかに、本当に、誰にも気づかれないほど微かに、揺らいだことにも。
そして、私の呪われた耳が、ありえない「声」を拾ってしまうまでは。
静寂。
誰もが、氷帝の次の言葉を待っている。
私も、断罪の言葉を待つ罪人のように、ただうなだれていた。
その、一瞬にも永遠にも思える沈黙の中で。
それは、突然、私の頭の中に響いてきた。
他の誰の声とも違う。
今、目の前で、私に冷たい言葉を浴びせた、その人の声。
低く、落ち着いていて、それでいて、どこか必死な響きを帯びた、心の声。
**『――(か、可愛い…! なんだこの小動物は!? 震えている…可哀想に、俺が怖がらせてしまったのか!? すまない、だがここで威厳を崩すわけには…! しかし、あの潤んだ瞳は反則だろう! 守ってやりたい…! 今すぐ抱きしめて、大丈夫だと、もう何も心配いらないのだと、頭を撫で回してやりたい…!!)』**
「………………え?」
私の口から、素っ頓狂な声が漏れた。
今、聞こえたのは、何?
幻聴? あまりの緊張と絶望に、ついに私の頭はおかしくなってしまったのだろうか?
私は恐る恐る、ゆっくりと顔を上げた。
視線の先、玉座に座る氷帝カイゼルは、先程と寸分違わぬ、能面のような無表情で私を見下ろしている。
そのアイスブルーの瞳には、何の感情も浮かんでいないように、見える。
――見える、けれど。
**『――(顔を上げた! 目が合った! やはり可愛い…! 困ったような、少し戸惑ったような顔、最高だ! もっと見ていたい! いや待て、見すぎると不審に思われるか? だが視線が外せない! 助けてくれ! 誰か、この可愛すぎる生き物をどうすればいいか教えてくれ!)」**
嵐のように吹き荒れる、情熱的な心の声。
その声と、目の前の氷像のような皇帝の姿が、まったく、これっぽっちも、結びつかない。
私は、自分の耳を疑った。
いや、違う。これは耳で聞いているのではない。頭に直接響いているのだ。
これは、紛れもなく、目の前にいるカイゼル陛下の「心の声」。
……嘘でしょう?
冷酷非道。血も涙もない氷の皇帝。
その頭の中が、こんなことになっているなんて。
私が呆然と彼を見つめていると、彼はすっと立ち上がり、ゆっくりと玉座の階段を下りてきた。
一歩、また一歩と彼が近づくたびに、周囲の貴族たちが緊張に身を固くする。
**『――(いかん、黙っていると威圧感を与えてしまう! 何か話さなければ! だが何を!? 頑張ったな、とか、可愛いな、とか言えるわけがない! とりあえず、何か優しい言葉を…! いや無理だ、そんなキャラじゃない! どうすればいいんだ俺は!)』**
内心でパニックに陥っているらしい心の声とは裏腹に、私の目の前で歩みを止めたカイゼル陛下の表情は、完璧な無表情のままだった。
彼は、そっと私の前に跪いている私の手を取った。
彼の指は、噂通り氷のように冷たい。けれど、その冷たさの奥に、確かな熱を感じたのは、気のせいだろうか。
「……離宮を用意させてある。今日はもう、そこで休むといい」
告げられたのは、やはり事務的で、冷たい言葉。
けれど、私の頭の中には、まったく別の言葉が響き渡っていた。
**『――(よく頑張ったな。疲れただろう。温かい部屋と、美味しい食事と、ふかふかのベッドを用意した。だから、もう何も心配するな。俺が必ず、お前を守るから)』**
言葉と、心の声が、違いすぎる。
これが、氷帝?
これが、私の夫となる人?
私は、目の前の男を見つめたまま、完全に思考を停止させていた。
私の人生は、今日終わるのだと思っていた。
けれど、どうやら。
私の人生は、今日、想像もしていなかった方向へと、大きく舵を切ったらしい。
氷の皇帝の、甘すぎる心の声を聞いてしまった、その瞬間から。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
★~★★★★★の段階で評価していただけると、モチベーション爆上がりです!
リアクションや感想もお待ちしております!
ぜひよろしくお願いいたします!




