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  作者: 高橋 淳
9/12

崩壊(前編)

講堂の窓から差し込む光が、木製の長椅子にまばらな影を落としていた。

綾野悠真は、その一番奥の席に座り、ノートを開いていた。


一文字も書くつもりはなかった。ただ、そうするふりをして、自分の存在をこの場所に引き止めておきたかった。


「誰もいない」という現実が、あまりに重たすぎたからだ。


三月の風が、まだ冷たかった。


誰かが笑っている声が、遠くからかすかに聞こえてきた。教室の外。ゼミ棟のあたりだろう。春は近づいているのに、自分だけが、冬の中に取り残されているようだった。


いや、きっと“取り残された”のではない。

“置いてきた”のだ。自分から。


人との関わりも、感情の起伏も、期待も、恋愛も、友情も、未来へのビジョンも。


すべて。



最初に亀裂が入ったのは、あのゼミだった。


年明け最初の発表――「地方行政における合意形成のメカニズム」。

悠真は完璧に準備を整えていた。読み込んだ文献は20冊、PowerPointのスライドは47枚。ロジック、根拠、事例比較。すべて理詰めで練り上げた。


けれど発表の途中、自分の声が震えていることに気づいた。


「……したがって、この提案は……えっと……」


何かが舌の奥で絡まった。


スクリーンに映るグラフがぼやけた。誰の視線にも触れたくなかった。教授の頷きも、美月のペンを走らせる音も、すべてが「審判」のように思えた。


終わったとき、誰も拍手をしなかった。

いや、誰も悪くなかった。

ただ、悠真の言葉が誰の心にも届かなかっただけだった。


美月が質問をした。


それはいつも通りの、論理的で的確な指摘だった。

けれどその言葉の輪郭が、悠真には剣のように感じられた。


「……ありがとう」


そう答えるのが精一杯だった。


教授の評価コメントには、こう記されていた。


「綾野くんの発想は面白いが、聴衆を巻き込む熱量に欠ける。知識の多さが、逆に伝達の障害になっているようにも見える」


そう、それは「お前には、人を動かす力がない」という意味だった。



その帰り道、雨が降った。傘を持っていなかった。


新宿駅の改札口、人混みに押されながら、悠真はふと思った。


——俺って、こんなだったか?


こんな、何を言っても響かない人間だったか?

こんな、誰にも届かない存在だったか?


「知性」があれば、それで人間は認められると思っていた。


けれど今、自分の口から出る言葉は、誰の心にも残らない。


それは、まるで――機械のような存在だった。



就活が始まった。みんなと同じように。


ノートPCを開き、エントリーシートを書いた。形式的な志望動機、型通りの自己PR。


「早稲田政経」という肩書は、ある程度の会社では効いた。


だが、一次、二次、最終。

進めば進むほど、何かが剥がれ落ちていくようだった。


最終面接、役員にこう言われた。


「綾野さんは、頭が良いことはわかる。でも……あなたの話からは、“一緒に働く未来”が見えてこない」


悠真は笑顔で頷いたふりをした。


だが心の中ではこう呟いていた。


——わかってるよ。

俺も、お前たちと働く未来なんて、見えたことないからな。



唯一通った会社は、地方の中堅調査会社だった。


でも、内定をもらってから一週間後、辞退した。


理由は簡単だった。


「負けを認めたくなかった」


自分が落ちた企業の同期になる者たちを、横目に見ながら“そこ”に勤める――それは、「敗者の印」を刻みながら生きるようなものだった。


誰も見ていないかもしれない。


でも自分だけは、ずっと見ている。


自分が、妥協したという事実を。



六月、父親が家を出た。


きっかけは些細な口論だったらしい。定年後の再就職、資産の運用、家庭内での役割――積もった不満が一気に噴き出した。


母は、疲れた笑みを浮かべて言った。


「あなたには関係ないから」


そう言いながらも、彼女は毎晩、息子にLINEを送った。


《夕飯、ちゃんと食べてる?》

《眠れてる?》


どの問いにも、悠真は「うん」とだけ答えた。

それが、唯一の親孝行のつもりだった。


でも本当は、心の底ではこう思っていた。


——あんたらの“期待”が、俺をこうしたんだ。

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