理想の女、現実の檻
八月。講義のない夏休みの午後、悠真は部屋の片隅でスマートフォンを見つめていた。
開いていたのは、マッチングアプリ。
始めたのは気まぐれだった。恋をするつもりはなかった。ただ、「誰かから好かれる自分」がまだ存在するのか、試してみたくなった。
年収欄には「家業手伝い」と曖昧に記し、学歴は「早稲田大学・政経」と正直に記載した。
何件かの“いいね”がつき、その中に一人、目を引く女性がいた。
橘 秋穂
22歳。聖心女子大学。写真の中の彼女は、白いワンピースに身を包み、少し伏し目がちに笑っていた。
その姿に、“東大女子の威圧感”も、“早稲田女子の騒がしさ”もなかった。
——おそらく、支配できる。
そう思った。
メッセージのやりとりは驚くほどスムーズだった。彼女は礼儀正しく、丁寧で、いつも気を遣ってくれた。
二度目の食事の帰り道、秋穂が言った。
「悠真さんって、すごく頭いいですよね。話してると勉強になる」
その一言で、心がざわめいた。
里奈には、そんなふうに言われたことはなかった。
美月には、そんな目で見られたことはなかった。
秋穂といると、自分が“選ばれる側”になったような気がした。
⸻
九月のある日、二人で映画を見た帰り、秋穂がふと漏らした。
「……実はね、私、昔すごく東大に憧れてたの。でも成績が足りなくて、私立一本にして、ここに来たの」
悠真はうなずきながら、内心で計算していた。
この子は、俺を尊敬している。
この子は、俺のコンプレックスを刺激しない。
この子は、“下”だ。
——これなら壊れない。
自分が“上”に立てる関係。自分が“負けない”相手。そういう恋なら、してもいい。
そう思った。
やがて、交際が始まった。秋穂は素直だった。何を言っても、受け入れた。デートの時間も、食事の場所も、悠真の都合に合わせてくれた。
最初のうちは心地よかった。
だが、三ヶ月が過ぎた頃、何かが狂い始めた。
⸻
十月、秋穂の誕生日。レストランでケーキが運ばれたあと、彼女がぽつりと漏らした。
「……でも私、東大の人と付き合ってみたかったなあ」
冗談だった。
笑いながら言ったのだ。
だが、悠真の中で何かが凍った。
「……は?」
声が低くなった。
秋穂は慌てて笑いながら付け加えた。
「ごめんごめん!比べてるわけじゃないよ?ただ、なんとなく……夢だったというか」
その瞬間、悠真は彼女が“見下した”ように感じた。
——お前もか。
——お前も、結局“大学名”で人を選ぶのか。
理性が吹き飛びそうだった。
「……俺、帰るわ」
「え、ちょっと待って、誕生日なのに……!」
彼女の手を振り払い、会計もせずに店を出た。
夜の街を歩きながら、息が荒くなった。頭の中で、彼女の笑い声が繰り返された。
“東大の人と付き合ってみたかったなあ”
その一言が、脳の奥で何度も爆ぜた。
⸻
帰宅後、悠真は秋穂とのLINEを未読のままアーカイブに放り込んだ。
次の日も、その次の日も、連絡を返さなかった。
やがて彼女から、「ごめんなさい、あのときのこと、本当に無神経だった」とメッセージが届いた。
だが彼はもう、興味を失っていた。
壊れたものには、もう価値はない。
彼女は、自分の“優位”を感じさせてくれる存在だったはずだ。
でも、たった一言で、すべてが崩れた。
悠真は、ようやく気づいた。
自分が求めていたのは、恋愛ではなかった。
「絶対に裏切らない優越感」だったのだ。
それが一瞬でも崩れたとき、彼に残るのは憎しみだけだった。