理想の女、現実の檻(前半)
七月の夕暮れ、悠真は久しぶりに東京大学・本郷キャンパスを訪れた。
「東早学術交流会」と銘打たれたシンポジウムがあり、早稲田側からも十数名の学生が招待されていた。教授から半ば強制的に「行ってこい」と言われたのだ。
赤門をくぐった瞬間、胸の奥に冷たいものが走った。かつて「ここに受かるはずだった自分」がいた。だが今は、客人として立っている。
受付を済ませ、広い講堂に入った。座席にはすでに何人かが着席していた。その中に、いた。
香月里奈。
グレーのパンツスーツに身を包み、髪は低い位置でまとめられていた。彼女はノートPCを開き、真剣な表情でスライドを確認していた。
まるで社会人のようだった。
「あ……久しぶり」
悠真が声をかけると、里奈は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「綾野くん。来てくれたんだね」
それだけの言葉なのに、なぜか胸が詰まった。
彼女は、彼が夢見ていた「理想の女」そのものだった。頭が良くて、落ち着いていて、媚びず、気高く、どこまでも“東京大学の女”だった。
——だが、それは同時に、彼が絶対に手に入らない存在でもあった。
⸻
シンポジウムでは、東大・早稲田の学生混合チームで政策提言のディスカッションが行われた。
里奈は、要点を的確にまとめ、論理的に話し、場を引き締めていた。悠真は、彼女の言葉を聞きながら、自分の中のなにかがざわついているのを感じていた。
「綾野くん、何か意見ある?」
その一言で、全員の視線がこちらに向いた。
「あ……いや、特には」
咄嗟に答えた声が震えていた。自分が、里奈と同じステージに立てていないことを、痛いほど感じていた。
——これはもう、勝ち負けの話じゃない。
存在の格差だった。
⸻
懇親会が終わり、帰り道でふたりきりになった。
「前より痩せた?」
里奈がふいに言った。
「……勉強ばっかしてるからな」
「無理してない?なんか……自分に厳しすぎるよね、昔から」
その言葉は、優しさだった。でも悠真には、刃だった。
「……東大生に言われたくないな」
声が低くなった。
里奈は一瞬、足を止めた。
「そういうこと、まだ気にしてるの?」
「気にするなって方が無理だろ。お前は勝者だよ。俺は敗者だ」
「違うよ。大学なんて……」
「じゃあ聞くけど、もし俺が東大受かってて、お前が落ちて早稲田だったら、今みたいに話してたか?」
沈黙。
里奈は答えなかった。ただ、静かに視線を逸らした。
——それが答えだった。
悠真は苦笑して、歩き出した。
「やっぱりな。もういいよ。じゃあな」
その背中に、彼女は何も言わなかった。
⸻
その夜、自宅に戻った悠真は机に突っ伏したまま、深夜まで動けなかった。
里奈の表情が、言葉が、沈黙が、脳裏に焼きついて離れなかった。
理想の女は、自分を肯定してはくれなかった。
夢見た存在は、彼を現実に突き落とした。
——ならもう、そんな“理想”などいらない。
——俺は、恋愛を捨てる。
——東大の女も、早稲田の女も、全員。
そう誓ったとき、不思議なほど冷静になれた。
人を愛さない人生は、案外、生きやすいかもしれない。