優秀な劣等生(後半)
六月のある週末、悠真は珍しく高校の同級生たちと会うことになった。地元に戻る用事のついでに、数人で集まって食事でもしようという話だった。
場所は新宿。改札前で待っていたのは、東大文二に進学した柴田、理一の福山、そして文一の香月里奈だった。
「久しぶり!相変わらず痩せたね〜綾野くん」
里奈はあの頃と変わらない笑顔で声をかけてきた。周囲のざわめきの中でも、彼女の声だけは妙に澄んでいた。
「……まあ、大学忙しいからな」
無難に返したつもりだったが、柴田がすかさず突っ込んだ。
「いや、お前相変わらず根詰めすぎなんだよ。大学なんてもっとサボって遊ぶもんだろ」
「福山なんか毎日卓球サークルと麻雀でしょ」
「俺の学問は“運”と“流れ”なんで」
そんなくだらない冗談に、里奈もクスリと笑った。悠真も笑おうとしたが、喉元で引っかかって出なかった。
——この空気に、自分はもう属していない気がした。
話題は自然と大学生活の話へと流れていった。教授のクセ、進振りの話、東大生専用のSlackグループ、東大新聞に載った同級生の話。
悠真は頷くだけだった。話についていけないわけではなかった。だが、“東京大学生である”という空気感に、自分だけがいなかった。
「そういえば、綾野ってどこゼミ入ったの?」
「……政治学基礎演習」
「えっ、あれって上位しか入れないやつじゃん。さすが」
里奈の言葉に、一瞬だけ胸が膨らんだ。だがその後に続いた一言で、すべてが萎んだ。
「でも、早稲田って意識高い人と、逆に遊びに全振りな人の差が激しいって聞いたよ」
——まただ。また、“早稲田”という括りで語られる。
悠真は、自分という個人ではなく、大学名というラベルで値踏みされるのが耐えられなかった。
「……まあ、どこも似たようなもんだよ」
自嘲気味に返すと、里奈は少しだけ視線を逸らした。
その沈黙が、痛かった。
⸻
翌週、ゼミ内に妙な噂が広がった。
「ねえ、美月って、隣の経済の森田くんと付き合ってるってマジ?」
「インスタ見た?一緒に京都行ってたっぽいよね」
——ああ、そういうことか。
悠真は心のどこかで、予想していた。いや、願っていたのかもしれない。あの女が、誰かと付き合って、くだらない恋愛をして、自分と同じ次元に落ちてくれたら——と。
そのくせ、胸がざわついた。
森田。地味な顔立ちだが、英語が得意でゼミのディスカッションでも冴えていた男だ。家が裕福らしく、夏休みには留学すると話していた。
美月とは正反対に見えたが、なぜか調和が取れていた。
悠真は、その“調和”が許せなかった。
——なぜ、彼女はあれほど堂々としていて、恋愛までうまくやれるのか。
——なぜ、俺は、勉強すら満足に肯定されないのか。
美月の笑顔が、脳裏に浮かぶたびに、苛立ちが募った。
彼女は、「賢く、明るく、誰からも好かれる」早稲田の象徴だった。
だがそれは、悠真の中に巣食う“理想の女”像を壊す存在でもあった。
彼女のような人間が“モテる”から、早稲田は“バカの巣窟”だと烙印を押される。
俺のような人間は、そこでは生きられない。
だからこそ、断罪するしかなかった。
——早稲田の女は、バカだ。
——勉強ができても、中身が空っぽだ。
——だから俺は、誰も好きにならない。誰からも、好かれなくていい。
そう心に言い聞かせた瞬間、不思議なほど気持ちが軽くなった。
愛されなくていいと思えば、人と関わらなくて済む。
恋をしないと決めれば、敗北を味わわずに済む。
誰にも期待しなければ、自分が否定されることもない。
孤独とは、最強の自己防衛だった。