落ちた空(後半)
三月の卒業式。教室の黒板には「卒業おめでとう」の文字と、担任が書いた「努力は未来をつくる」という言葉が白く残っていた。
誰かが黒板の前で自撮りをしていた。学ランの第二ボタンを渡す男子、制服のスカートに寄せ書きを求める女子、生徒たちの笑い声が校舎中に響いていた。
だが、悠真はその輪の中に入れなかった。
教室の後ろの窓際で、ひとり静かに立っていた。胸元のボタンは固く留めたまま。机の中には寄せ書きノートが一冊もない。
周囲の会話は、自然と「進学先」の話題へと移っていった。
「里奈、やっぱ文一だっけ?かっこいいな〜!」
「○○くんは京大?まじで!東大京大多すぎじゃね今年」
「まあ、早慶組も強いよ。あ、綾野は?」
その言葉に、悠真は一瞬固まった。数人の視線が向く。
「……早稲田。政経」
「えっ、政経かー。頭いいじゃん!」
そう言われても、虚しかった。**彼にとって政経は“滑り止め”だった。**第一志望を失った者にとって、評価の言葉ほど残酷なものはない。
「……うん」とだけ答えて、悠真はロッカーに鞄を押し込んだ。
その瞬間、斜め後ろから聞き慣れた声がした。
「政経か。私の友達もそこ行くよ」
振り返ると、香月里奈が立っていた。卒業式のブレザー姿のまま、どこか清潔で、落ち着いていた。彼女もまた、東大に合格した“勝者”のひとり。
「そっちは……やっぱ、文一?」
「ああ。なんとかね」
言い方は控えめだったが、確かな自信がにじんでいた。
「……おめでとう」
「ありがとう」
その短いやり取りのあいだ、悠真はずっと目をそらしていた。
香月里奈は、しばらく沈黙したあとで、ふと口を開いた。
「でもさ、どこ行っても結局は自分次第だよね。大学って」
その言葉に、悠真はうなずくことも、否定することもできなかった。自分の中で渦巻く感情を、言語化できるだけの余裕はなかった。
結局その後、二人は卒業アルバムの交換すらしなかった。
それが、春の記憶のすべてだった。
⸻
四月、早稲田大学入学式の日。
大隈講堂の前は、花束を抱えた新入生たちと保護者で溢れていた。晴れ着姿の女子、革靴に履き慣れないスーツを着た男子、祝いの写真を撮る列。
悠真は、目立たない場所でスーツの裾を直しながら、自分がこの群れの一部であることに納得できずにいた。
大学名は、ブランドだ。けれど彼の中では、「早稲田」というラベルは傷ついていた。何を言われても、「本当は東大志望だったんだろ」と思われる気がしてならなかった。
だが、それを言葉にするのは惨めすぎた。
唯一の救いは、成績だけは良かったことだった。
最初の履修相談でも「政経でその点数?東大落ち組?」と先輩に言われた。だが、それすらも傷ついた。自分の現在地を「落ち組」と定義されることの屈辱。
——“落ちた”という事実だけが、何よりも彼を規定していた。
⸻
入学からしばらく経ったある日。
大学の講義棟のエントランスに貼られたポスターに目が止まった。
《東大・早稲田交流会》《本郷・早稲田 学問の交差点》という文字。
目を細めて見ていると、右下の集合写真の中に香月里奈の姿があった。
何かが喉の奥に詰まったような感覚。
連絡する気などなかったはずだった。だが、気づけばスマートフォンを取り出し、彼女のLINEを開いていた。
——既読がつかないまま、数時間。
夜、ふいに返信が来た。
「久しぶり。交流会、来る?」
その一文に、返事を打つ手が止まる。
「行く」と答えるには勇気が足りなかった。「行かない」と答えるには、未練が大きすぎた。
彼は、何も送らず、スマホを伏せた。