誰も、見ていなかった
最初に異変に気づいたのは、朝六時半すぎだった。
構内清掃のために来ていた外部業者のひとりが、理工学部裏の通用口近くで、うずくまるように倒れている人影を見つけた。
人影は、動かなかった。
声をかけても反応はなく、近づいたときにはすでに、体温はわずかしか残っていなかった。
通報はすぐに行われ、警察と救急隊が現場に駆けつけた。
しかしその時点で、彼の名前を知る者は、誰もいなかった。
財布もスマートフォンも持っておらず、学生証もなかった。
大学側の職員が到着しても、「どこの学部の者か」「どのゼミか」すらわからなかった。
朝の構内は、すでに少しずつ人で賑わい始めていた。
就活中の学生がスーツ姿で集まり、カフェテリアには開店待ちの列ができ、キャンパスの掲示板には新しいサークルの勧誘ポスターが貼られていた。
ニュースが一報として出たのは、それから数時間後のことだった。
《大学構内で男子学生が死亡。自殺か事故か、現在調査中》
記事は端に追いやられた簡素なベタ記事だった。
名前も、年齢も、写真もなかった。
世界にとって、彼の死は「事件」ではなかった。
⸻
彼の部屋は数日後、アパートの大家によって開けられた。
警察の立ち合いのもと、室内の確認が行われた。
家具は最低限。
冷蔵庫には、消費期限を過ぎた牛乳とカット野菜。
テーブルの上には、開きかけのノートと、使いかけのボールペン。
本棚には、大学受験用の参考書が数冊、並んでいた。
一部の本は、使用感がほとんどなかった。
ページをめくった形跡も、書き込みも少ない。
「なりたかった誰か」になるための道具たちだけが、静かに置かれていた。
その日から数日間、彼の部屋には誰も訪れなかった。
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彼の身元が判明したのは、その五日後だった。
アパートの契約情報をもとに、ようやく家族に連絡がついた。
電話を受けた母親は、最初に「すみません、人違いでは…」と言い、確認の末に数秒沈黙したあと、ただ「そうですか……」とだけ返した。
葬儀は、家族だけでひっそりと行われた。
大学関係者の参列はなかった。
香典も弔電もなかった。
遺影は、中学の卒業アルバムの一部を拡大コピーしたものだった。
家族の誰もが、直近の彼の写真を持っていなかった。
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大学側は、週明けにメールで「一部報道についてのご報告」を学生宛に送った。
《大学構内において、学生が死亡するという痛ましい出来事がありました。詳細については警察の捜査が続いておりますが、今後、同様のことが起こらないよう、より一層の安全対策を講じて参ります》
それだけだった。
ゼミでは一度だけ、担当教授が「少し時間を取りましょう」と五分間の黙祷を促した。
だが、誰の名前も呼ばれず、何についての死かも語られなかった。
席に座っていた学生たちの何人かは、その間にスマートフォンを確認していた。
ひとりが帰り道に「ねえ、あれって誰だったんだろ」と言ったが、答える者はいなかった。
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美月は、報道の見出しを見た夜、奇妙な既視感に襲われた。
名前は出ていなかった。
それでも、なぜか胸騒ぎがした。
翌日、彼女は講義の合間に、理工学部の古い校舎の屋上へと足を運んだ。
立入禁止の貼り紙は新しくなっていた。テープの端がまだ白く光っていた。
彼女はフェンスの前でしばらく立ち尽くした。
何かを思い出そうとして、何も思い出せなかった。
目を閉じると、春の頃に彼とすれ違った記憶が一瞬だけ浮かんだ。
だが、彼が何を言ったのか、どんな顔をしていたのか、それは思い出せなかった。
花を手向けることもなかった。
手を合わせることもなかった。
ただ、風が吹いた。
髪が揺れ、空の青さが一層遠く感じられた。
彼女は何も言わず、屋上を後にした。
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そして、時間は流れていった。
年度が変わり、構内には新入生の姿が増えた。
新しい名前、新しい笑い声、新しい失敗、新しい恋が生まれた。
だが、綾野悠真の名前がその中で語られることは、二度となかった。
彼のことを“知っていた”人たちでさえ、日々の忙しさのなかで、徐々にその存在を曖昧な記憶のなかへと押し込めていった。
やがて、彼の顔も、声も、大学のシステムから完全に消えた。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
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誰も、彼を殺したわけではなかった。
誰も、彼を引き止めなかったわけでもなかった。
ただ、誰も、彼を見ていなかった。
それが、彼を殺した唯一の理由だった。
など、展開可能です。続けますか?