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  作者: 高橋 淳
12/12

誰も、見ていなかった

最初に異変に気づいたのは、朝六時半すぎだった。

構内清掃のために来ていた外部業者のひとりが、理工学部裏の通用口近くで、うずくまるように倒れている人影を見つけた。


人影は、動かなかった。

声をかけても反応はなく、近づいたときにはすでに、体温はわずかしか残っていなかった。


通報はすぐに行われ、警察と救急隊が現場に駆けつけた。

しかしその時点で、彼の名前を知る者は、誰もいなかった。


財布もスマートフォンも持っておらず、学生証もなかった。

大学側の職員が到着しても、「どこの学部の者か」「どのゼミか」すらわからなかった。


朝の構内は、すでに少しずつ人で賑わい始めていた。

就活中の学生がスーツ姿で集まり、カフェテリアには開店待ちの列ができ、キャンパスの掲示板には新しいサークルの勧誘ポスターが貼られていた。


ニュースが一報として出たのは、それから数時間後のことだった。


《大学構内で男子学生が死亡。自殺か事故か、現在調査中》


記事は端に追いやられた簡素なベタ記事だった。

名前も、年齢も、写真もなかった。


世界にとって、彼の死は「事件」ではなかった。



彼の部屋は数日後、アパートの大家によって開けられた。

警察の立ち合いのもと、室内の確認が行われた。


家具は最低限。

冷蔵庫には、消費期限を過ぎた牛乳とカット野菜。

テーブルの上には、開きかけのノートと、使いかけのボールペン。

本棚には、大学受験用の参考書が数冊、並んでいた。


一部の本は、使用感がほとんどなかった。

ページをめくった形跡も、書き込みも少ない。

「なりたかった誰か」になるための道具たちだけが、静かに置かれていた。


その日から数日間、彼の部屋には誰も訪れなかった。



彼の身元が判明したのは、その五日後だった。


アパートの契約情報をもとに、ようやく家族に連絡がついた。

電話を受けた母親は、最初に「すみません、人違いでは…」と言い、確認の末に数秒沈黙したあと、ただ「そうですか……」とだけ返した。


葬儀は、家族だけでひっそりと行われた。

大学関係者の参列はなかった。


香典も弔電もなかった。

遺影は、中学の卒業アルバムの一部を拡大コピーしたものだった。

家族の誰もが、直近の彼の写真を持っていなかった。



大学側は、週明けにメールで「一部報道についてのご報告」を学生宛に送った。


《大学構内において、学生が死亡するという痛ましい出来事がありました。詳細については警察の捜査が続いておりますが、今後、同様のことが起こらないよう、より一層の安全対策を講じて参ります》


それだけだった。


ゼミでは一度だけ、担当教授が「少し時間を取りましょう」と五分間の黙祷を促した。

だが、誰の名前も呼ばれず、何についての死かも語られなかった。


席に座っていた学生たちの何人かは、その間にスマートフォンを確認していた。

ひとりが帰り道に「ねえ、あれって誰だったんだろ」と言ったが、答える者はいなかった。



美月は、報道の見出しを見た夜、奇妙な既視感に襲われた。

名前は出ていなかった。

それでも、なぜか胸騒ぎがした。


翌日、彼女は講義の合間に、理工学部の古い校舎の屋上へと足を運んだ。

立入禁止の貼り紙は新しくなっていた。テープの端がまだ白く光っていた。


彼女はフェンスの前でしばらく立ち尽くした。

何かを思い出そうとして、何も思い出せなかった。


目を閉じると、春の頃に彼とすれ違った記憶が一瞬だけ浮かんだ。

だが、彼が何を言ったのか、どんな顔をしていたのか、それは思い出せなかった。


花を手向けることもなかった。

手を合わせることもなかった。


ただ、風が吹いた。

髪が揺れ、空の青さが一層遠く感じられた。


彼女は何も言わず、屋上を後にした。



そして、時間は流れていった。


年度が変わり、構内には新入生の姿が増えた。

新しい名前、新しい笑い声、新しい失敗、新しい恋が生まれた。


だが、綾野悠真の名前がその中で語られることは、二度となかった。


彼のことを“知っていた”人たちでさえ、日々の忙しさのなかで、徐々にその存在を曖昧な記憶のなかへと押し込めていった。


やがて、彼の顔も、声も、大学のシステムから完全に消えた。


まるで、最初から存在しなかったかのように。



誰も、彼を殺したわけではなかった。


誰も、彼を引き止めなかったわけでもなかった。


ただ、誰も、彼を見ていなかった。


それが、彼を殺した唯一の理由だった。


など、展開可能です。続けますか?

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