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  作者: 高橋 淳
11/12

檻の中の鳥

午前四時、まだ夜のなかにいるはずの世界が、わずかに明るみ始めていた。


アパートの扉を閉める音が、やけに大きく響いた。

綾野悠真は、黒いフードのついたパーカーのポケットに手を入れたまま、何も持たず、何も言葉にせず、街のなかへと歩き出した。


季節は、まだ夏と呼ぶには肌寒く、しかし秋と名乗るには早すぎる不確かな時期だった。

街灯の切れかかった光が、歩道の石を斑に染める。

人のいない時間帯の道路は、冷たく、生気のない皮膚のようだった。


彼の歩みは遅かった。

目的地は、遠くなかった。

それでも彼は、何かを引きずるように歩いていた。


生ではなく、死を。



大学の正門は閉ざされていなかった。

鉄の門を抜けて、石畳の小道を歩く。

かつて、何百回と通ったはずの道。

そのすべてが、今は初めて触れるもののように感じられた。


誰にも会わなかった。

誰にも見つからなかった。

見つけてほしいとも、思わなかった。


彼はただ、講堂を目指した。


あの場所だけが、彼の「生きよう」とした記憶の残る唯一の場所だった。



講堂の扉は開いていた。

理由はわからない。だが、開いていた。


まるで、死を選ぼうとする者にだけ開く、秘密の扉のようだった。


階段を上がる。

舞台へと続く階段は、誰にも踏まれないまま、埃だけが薄く積もっていた。


悠真は壇上の中央に立った。


かつて、彼が必死に言葉を尽くし、誰かに届くことを願った場所。


そのときの震えも、声の裏返りも、質疑応答の沈黙も、すべてがここに残っていた。

だが今は、何ひとつ意味を持たなかった。


静かな舞台。

空席の客席。

無音の空間。


悠真は、舞台の端に立った。

下を見た。

その高さは、十分だった。


だが、彼は一歩も動かなかった。


ただ、思った。


——ここじゃない。


ここでは死ねない、と。


この場所は、自分が“人間であろうとした”最後の舞台だった。

もしここで死ねば、それは演出になってしまう。

自分の死が、まるで計算された最期として解釈されることが、耐えられなかった。


「……違うな」


声は出なかったが、たしかに心の奥で響いた。


彼は舞台から降りた。

重い足音だけが、誰もいない講堂に反響していた。



講堂を出て、悠真は歩き続けた。


まるで、死ぬ場所を探しているようだった。

いや、実際そうだった。


彼は、自分が死ねる場所を探していた。


世界に拒まれた者が、最期に踏み入れるべき場所を。

誰にも気づかれず、誰にも邪魔されず、誰にも意味づけられない終わりを遂げる場所を。


それは、たったひとつでいい。

ただ、「この世界が自分に死を許した」と思える空間であれば。



そして、見つけた。


理工学部の裏手にある、古びた校舎。

誰も通らない時間帯に、誰にも気づかれない場所で。


金属製の扉に、何気なく手をかけた。


開いた。


何の抵抗もなく、扉は音もなく開いた。


そして悠真は思った。


——やっぱり、この世界は、俺に死ねって言ってるんだ。


階段を上がる。

薄暗い照明。

錆びついた手すり。

軋む床板。

何も言わない壁。


屋上に続く扉に、彼は触れた。

貼り紙には、赤字で「立入禁止」。


それでも、扉は開いた。



風が吹いた。


空は、白みかけていた。

朝になろうとしていた。


だが、悠真にとってそれは「始まり」ではなかった。

それは、「今日もまた、生きなければならない」と告げる脅迫だった。


屋上の縁に歩み寄る。

金属の柵が風に揺れていた。


足元を見下ろす。

世界があった。

知らない誰かの世界が。


自分のいない、まっとうな世界が。


悠真は、目を閉じた。


風が、頬を撫でた。


心臓が、静かに脈を打っていた。


耳鳴りのような沈黙のなかで、彼は、最後の選択をした。


誰にも呼ばれず、誰にも期待されず、誰にも拒まれない。


それが、彼の人生で初めての、完全な自由だった。


そして、彼は飛んだ。

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