檻の中の鳥
午前四時、まだ夜のなかにいるはずの世界が、わずかに明るみ始めていた。
アパートの扉を閉める音が、やけに大きく響いた。
綾野悠真は、黒いフードのついたパーカーのポケットに手を入れたまま、何も持たず、何も言葉にせず、街のなかへと歩き出した。
季節は、まだ夏と呼ぶには肌寒く、しかし秋と名乗るには早すぎる不確かな時期だった。
街灯の切れかかった光が、歩道の石を斑に染める。
人のいない時間帯の道路は、冷たく、生気のない皮膚のようだった。
彼の歩みは遅かった。
目的地は、遠くなかった。
それでも彼は、何かを引きずるように歩いていた。
生ではなく、死を。
⸻
大学の正門は閉ざされていなかった。
鉄の門を抜けて、石畳の小道を歩く。
かつて、何百回と通ったはずの道。
そのすべてが、今は初めて触れるもののように感じられた。
誰にも会わなかった。
誰にも見つからなかった。
見つけてほしいとも、思わなかった。
彼はただ、講堂を目指した。
あの場所だけが、彼の「生きよう」とした記憶の残る唯一の場所だった。
⸻
講堂の扉は開いていた。
理由はわからない。だが、開いていた。
まるで、死を選ぼうとする者にだけ開く、秘密の扉のようだった。
階段を上がる。
舞台へと続く階段は、誰にも踏まれないまま、埃だけが薄く積もっていた。
悠真は壇上の中央に立った。
かつて、彼が必死に言葉を尽くし、誰かに届くことを願った場所。
そのときの震えも、声の裏返りも、質疑応答の沈黙も、すべてがここに残っていた。
だが今は、何ひとつ意味を持たなかった。
静かな舞台。
空席の客席。
無音の空間。
悠真は、舞台の端に立った。
下を見た。
その高さは、十分だった。
だが、彼は一歩も動かなかった。
ただ、思った。
——ここじゃない。
ここでは死ねない、と。
この場所は、自分が“人間であろうとした”最後の舞台だった。
もしここで死ねば、それは演出になってしまう。
自分の死が、まるで計算された最期として解釈されることが、耐えられなかった。
「……違うな」
声は出なかったが、たしかに心の奥で響いた。
彼は舞台から降りた。
重い足音だけが、誰もいない講堂に反響していた。
⸻
講堂を出て、悠真は歩き続けた。
まるで、死ぬ場所を探しているようだった。
いや、実際そうだった。
彼は、自分が死ねる場所を探していた。
世界に拒まれた者が、最期に踏み入れるべき場所を。
誰にも気づかれず、誰にも邪魔されず、誰にも意味づけられない終わりを遂げる場所を。
それは、たったひとつでいい。
ただ、「この世界が自分に死を許した」と思える空間であれば。
⸻
そして、見つけた。
理工学部の裏手にある、古びた校舎。
誰も通らない時間帯に、誰にも気づかれない場所で。
金属製の扉に、何気なく手をかけた。
開いた。
何の抵抗もなく、扉は音もなく開いた。
そして悠真は思った。
——やっぱり、この世界は、俺に死ねって言ってるんだ。
階段を上がる。
薄暗い照明。
錆びついた手すり。
軋む床板。
何も言わない壁。
屋上に続く扉に、彼は触れた。
貼り紙には、赤字で「立入禁止」。
それでも、扉は開いた。
⸻
風が吹いた。
空は、白みかけていた。
朝になろうとしていた。
だが、悠真にとってそれは「始まり」ではなかった。
それは、「今日もまた、生きなければならない」と告げる脅迫だった。
屋上の縁に歩み寄る。
金属の柵が風に揺れていた。
足元を見下ろす。
世界があった。
知らない誰かの世界が。
自分のいない、まっとうな世界が。
悠真は、目を閉じた。
風が、頬を撫でた。
心臓が、静かに脈を打っていた。
耳鳴りのような沈黙のなかで、彼は、最後の選択をした。
誰にも呼ばれず、誰にも期待されず、誰にも拒まれない。
それが、彼の人生で初めての、完全な自由だった。
そして、彼は飛んだ。