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  作者: 高橋 淳
10/12

崩壊(後編)

七月、梅雨が明けたその週の金曜日。


正午過ぎ、構内の中庭を歩いていた綾野悠真は、珍しく呼び止められた。


「綾野くん、ちょっといい?」


振り返ると、美月だった。淡いグレーのシャツに白いパンツ、相変わらず姿勢が良く、声はまっすぐ届いてきた。目の奥に、少しだけためらいのような翳りがあった。


「ゼミのこと、夏期論文のテーマとか、話したくて」


「……俺、出すつもりないから」


「あれ、教授には出すって……」


「やめた。内定もないし、就活も終わってない。学問してる場合じゃない」


悠真はそう言って、歩き出そうとした。だが美月はその袖を、指先だけで掴んだ。


「待って」


その言葉には、妙な熱がこもっていた。


「なんで、そんなふうに全部自分から切り捨てちゃうの?」


悠真は足を止めた。だが、振り返らなかった。


「……捨てたんじゃない。どうせ全部、俺を捨てるんだよ」


「誰も、捨ててない」


「だったら、なんでお前は俺を“好きだった”なんて、過去形で言うんだ?」


一瞬、空気が凍った。


美月は何かを言いかけたが、その言葉は声になる前に宙で溶けた。

悠真は続けた。


「俺をわかるふりして、何も見てない。自分で決めたくせに、まだ“希望”を持ってる顔して。……ずるいよ、お前は」


「ずるいのは、あなたよ」


美月の声が鋭くなった。


「最初から全部、“傷つくのが怖い”って逃げて、自分のことは何も語らない。人を試して、見下して、黙って離れていって、でもどこかで“わかってほしい”って思ってる。……それ、全部自分で壊してるだけじゃない」


「……うるさいよ」


「本当は誰より愛されたかったくせに、ずっと見捨てられる前提でしか人を見てない。そんなんじゃ、誰にも届かないよ」


その一言が、致命傷だった。


悠真は黙って、美月を振り切った。



それが、彼女と交わした最後の会話だった。


夏の間、ゼミにも来なくなった。


キャンパスにいても、誰にも話しかけられなかった。目すら合わなかった。


誰も自分に関心を持たないことが、少しだけ安堵だった。

誰も自分を必要としないことが、唯一の“安心”だった。


孤独は、最初は痛かった。

でも今では、それだけが“当たり前”になっていた。



八月の終わり、就職活動を完全に諦めた。


大学のキャリアセンターから電話がかかってきたが、出なかった。留守電には「最終登録確認のお知らせ」とだけ残っていた。


返信も、削除も、しなかった。


講義のないキャンパスを歩く。


ベンチに座り、空を見上げる。


そこには青があるだけで、何も語りかけてはこなかった。


自分という存在が、この世界から“見えなくなっていく”感覚。


それは、どこか懐かしいものだった。


——小学生のころ、教室の隅でひとり黙っていたときのあの感じに、似ていた。


誰も自分を見ていない。

だから、間違えない。

だから、否定されない。

だから、傷つかない。


けれど、それは生きているとは言えなかった。



ある夜、スマホのフォルダを開いた。


スクリーンには、過去に撮った写真たち。


高校の卒業式。

模試の成績表。

秋穂と行った映画の半券。

母と作ったカレー。

ゼミ合宿で撮られた、無表情な自分。

美月がふざけて送ってきた変顔のLINEスタンプ。


スクロールする指が止まった。


自分の顔が、ひとつも笑っていないことに気づいた。



九月、大学の講堂。


誰もいない午後、悠真はその壇上に立っていた。


客席は空だった。スポットライトもなかった。マイクも電源は入っていない。


それでも、彼はそこに立ち、誰にも届かない言葉を口にした。


「偏差値があれば、人生は勝ちだと思ってた」


「東大に入って、すべて手に入ると思ってた」


「努力すれば、誰かが見てくれると思ってた」


「報われるって、思ってた」


「でも――誰も、見てなかった」


目を閉じると、空気が耳の奥で響いた。


誰も拍手しない講堂。

誰も評価しない言葉。

誰もいない舞台。


それでも、彼は話し続けた。


「愛されなかったんじゃない。愛するのを、やめたんだ。俺が」


「わかってほしかったんじゃない。最初から、誰も信じてなかっただけだ」


「それを“賢さ”だと思ってた。自分を守る“知性”だと思ってた」


「でも、本当はただ――」


言葉が止まった。


代わりに、涙が頬を伝った。


誰にも見られない涙。

誰にも知られない後悔。


そのすべてが、自分の中だけで完結していった。



彼は、ゆっくりと講堂の端に歩いていく。


壇上の一番端に立ち、静かに、真下を見下ろす。


視界の中には、誰もいない。


たったひとり。


ずっと、ひとり。


誰にも見つけられず、誰にも理解されず、誰にも愛されなかった存在として――


このまま、何もなかったように、消えるのが相応しいと思った。


でも、ほんの一瞬だけ。


ほんの、ほんの一瞬だけ――


**「もしも、誰かがこの姿を見ていたら」**と思った。


けれど、誰も来なかった。


誰も、来なかった。

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