崩壊(後編)
七月、梅雨が明けたその週の金曜日。
正午過ぎ、構内の中庭を歩いていた綾野悠真は、珍しく呼び止められた。
「綾野くん、ちょっといい?」
振り返ると、美月だった。淡いグレーのシャツに白いパンツ、相変わらず姿勢が良く、声はまっすぐ届いてきた。目の奥に、少しだけためらいのような翳りがあった。
「ゼミのこと、夏期論文のテーマとか、話したくて」
「……俺、出すつもりないから」
「あれ、教授には出すって……」
「やめた。内定もないし、就活も終わってない。学問してる場合じゃない」
悠真はそう言って、歩き出そうとした。だが美月はその袖を、指先だけで掴んだ。
「待って」
その言葉には、妙な熱がこもっていた。
「なんで、そんなふうに全部自分から切り捨てちゃうの?」
悠真は足を止めた。だが、振り返らなかった。
「……捨てたんじゃない。どうせ全部、俺を捨てるんだよ」
「誰も、捨ててない」
「だったら、なんでお前は俺を“好きだった”なんて、過去形で言うんだ?」
一瞬、空気が凍った。
美月は何かを言いかけたが、その言葉は声になる前に宙で溶けた。
悠真は続けた。
「俺をわかるふりして、何も見てない。自分で決めたくせに、まだ“希望”を持ってる顔して。……ずるいよ、お前は」
「ずるいのは、あなたよ」
美月の声が鋭くなった。
「最初から全部、“傷つくのが怖い”って逃げて、自分のことは何も語らない。人を試して、見下して、黙って離れていって、でもどこかで“わかってほしい”って思ってる。……それ、全部自分で壊してるだけじゃない」
「……うるさいよ」
「本当は誰より愛されたかったくせに、ずっと見捨てられる前提でしか人を見てない。そんなんじゃ、誰にも届かないよ」
その一言が、致命傷だった。
悠真は黙って、美月を振り切った。
⸻
それが、彼女と交わした最後の会話だった。
夏の間、ゼミにも来なくなった。
キャンパスにいても、誰にも話しかけられなかった。目すら合わなかった。
誰も自分に関心を持たないことが、少しだけ安堵だった。
誰も自分を必要としないことが、唯一の“安心”だった。
孤独は、最初は痛かった。
でも今では、それだけが“当たり前”になっていた。
⸻
八月の終わり、就職活動を完全に諦めた。
大学のキャリアセンターから電話がかかってきたが、出なかった。留守電には「最終登録確認のお知らせ」とだけ残っていた。
返信も、削除も、しなかった。
講義のないキャンパスを歩く。
ベンチに座り、空を見上げる。
そこには青があるだけで、何も語りかけてはこなかった。
自分という存在が、この世界から“見えなくなっていく”感覚。
それは、どこか懐かしいものだった。
——小学生のころ、教室の隅でひとり黙っていたときのあの感じに、似ていた。
誰も自分を見ていない。
だから、間違えない。
だから、否定されない。
だから、傷つかない。
けれど、それは生きているとは言えなかった。
⸻
ある夜、スマホのフォルダを開いた。
スクリーンには、過去に撮った写真たち。
高校の卒業式。
模試の成績表。
秋穂と行った映画の半券。
母と作ったカレー。
ゼミ合宿で撮られた、無表情な自分。
美月がふざけて送ってきた変顔のLINEスタンプ。
スクロールする指が止まった。
自分の顔が、ひとつも笑っていないことに気づいた。
⸻
九月、大学の講堂。
誰もいない午後、悠真はその壇上に立っていた。
客席は空だった。スポットライトもなかった。マイクも電源は入っていない。
それでも、彼はそこに立ち、誰にも届かない言葉を口にした。
「偏差値があれば、人生は勝ちだと思ってた」
「東大に入って、すべて手に入ると思ってた」
「努力すれば、誰かが見てくれると思ってた」
「報われるって、思ってた」
「でも――誰も、見てなかった」
目を閉じると、空気が耳の奥で響いた。
誰も拍手しない講堂。
誰も評価しない言葉。
誰もいない舞台。
それでも、彼は話し続けた。
「愛されなかったんじゃない。愛するのを、やめたんだ。俺が」
「わかってほしかったんじゃない。最初から、誰も信じてなかっただけだ」
「それを“賢さ”だと思ってた。自分を守る“知性”だと思ってた」
「でも、本当はただ――」
言葉が止まった。
代わりに、涙が頬を伝った。
誰にも見られない涙。
誰にも知られない後悔。
そのすべてが、自分の中だけで完結していった。
⸻
彼は、ゆっくりと講堂の端に歩いていく。
壇上の一番端に立ち、静かに、真下を見下ろす。
視界の中には、誰もいない。
たったひとり。
ずっと、ひとり。
誰にも見つけられず、誰にも理解されず、誰にも愛されなかった存在として――
このまま、何もなかったように、消えるのが相応しいと思った。
でも、ほんの一瞬だけ。
ほんの、ほんの一瞬だけ――
**「もしも、誰かがこの姿を見ていたら」**と思った。
けれど、誰も来なかった。
誰も、来なかった。