落ちた空
第一章:落ちた空
春の終わり、東京の空はやけに青かった。
綾野悠真は、四月の強い日差しを顔に受けながら、早稲田大学の広大なキャンパスをひとり歩いていた。周囲には新入生らしい学生たちが、SNSで見かけたような笑顔と軽い冗談を交わし合い、陽気な春の空気に浮かされていた。だが、悠真の心だけは、四月どころか、まだ三月の終わりに取り残されていた。
あの日、東京大学の合格発表。
パソコンの画面に、自分の受験番号がなかったとき、まず心が凍った。その数秒後、何かが砕ける音が頭の奥で響いた。無言で立ち尽くす彼の背後から、母のため息と、父の短い沈黙が重く響いた。
「まあ……早稲田があるだけマシか」
父の口から出たその言葉は、慰めのつもりだったのかもしれない。だが悠真には、それが自分の人生への及第点の宣告に聞こえた。そうして彼の中で何かが決定的に変わった。
合格通知が届いたときも、喜びはなかった。ただ、これ以上浪人するのは許されない、という家庭の空気が、彼をこの地に引きずり込んだ。
早稲田の赤茶色の校舎を見上げながら、悠真は何度も心の中で呟いた。
——ここは、本来、俺が来るはずの場所じゃなかった。
⸻
入学式の翌週、最初のガイダンスの教室に入った瞬間、彼は違和感を覚えた。周囲の学生たちの服装、話し方、笑い声。どこか軽薄で、表面的なものばかりが耳に入ってくるように思えた。
「マジでさ〜、第一志望落ちたけど早稲田でよかったわ!遊べるし」
「え、共通テスト英語180点だったよ。ギリで通った〜」
そんな声が教室の隅から聞こえるたび、悠真の胃のあたりがきゅっと縮まった。
——これが、同級生?
彼は、確かに努力した。塾も予備校も、模試の偏差値も、どれも一流の戦場を歩んできた。だがそこには、結果という「証明」が欠けていた。そして今、彼の周りには「その証明を必要としなかった者たち」が笑い合っている。
惨めだった。
だが、それを誰にも言えなかった。
⸻
悠真には、かつて憧れていた女性がいた。高校の同級生、香月里奈。知的で聡明で、いつも冷静にものを見ていた。生徒会では副会長を務め、模試でも常に校内一位。彼女こそ、「理想の東大生」だった。
そして実際に、彼女は東大に受かった。
合格発表の日、悠真はLINEを開けなかった。通知は「おめでとう!すごいね!」の言葉で溢れていたが、彼は何一つ返せなかった。里奈からも一通だけ「そっちはどうだった?」と来ていた。だが、返せなかった。
自尊心が邪魔をした。
いや、自尊心しか残っていなかった。
⸻
講義のない午後、悠真は大学図書館の隅に座って、ひとりで教科書を開いていた。周囲にはカップル、友人同士のグループ、講義後にスタバで喋っていたような学生たちの気配。だが彼は、自分の机だけが密閉空間のように冷たく静かだった。
ふと、後ろの席から女の子たちの会話が聞こえてくる。
「え〜、でも彼氏、慶應なのよ。早稲田の人とか、無理かも(笑)」
——この大学の中で、もう誰かが“格付け”をしている。
彼は、その言葉に殺意すら覚えた。だが振り返ることも、言い返すこともできない。そういう「場の空気」や「余裕」が、彼には致命的に欠けていた。
大学名とは、自分を守るための盾であり、相手を傷つけるための剣でもある。悠真はその両方を奪われたまま、この大学で生きている。
彼は顔を伏せ、ペンを走らせた。
「早稲田の女とは付き合いたくない」
そう書いて、ページを破り、そっと机の下で握り潰した。