表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者: 高橋 淳
1/12

落ちた空

第一章:落ちた空


春の終わり、東京の空はやけに青かった。


綾野悠真は、四月の強い日差しを顔に受けながら、早稲田大学の広大なキャンパスをひとり歩いていた。周囲には新入生らしい学生たちが、SNSで見かけたような笑顔と軽い冗談を交わし合い、陽気な春の空気に浮かされていた。だが、悠真の心だけは、四月どころか、まだ三月の終わりに取り残されていた。


あの日、東京大学の合格発表。


パソコンの画面に、自分の受験番号がなかったとき、まず心が凍った。その数秒後、何かが砕ける音が頭の奥で響いた。無言で立ち尽くす彼の背後から、母のため息と、父の短い沈黙が重く響いた。


「まあ……早稲田があるだけマシか」


父の口から出たその言葉は、慰めのつもりだったのかもしれない。だが悠真には、それが自分の人生への及第点の宣告に聞こえた。そうして彼の中で何かが決定的に変わった。


合格通知が届いたときも、喜びはなかった。ただ、これ以上浪人するのは許されない、という家庭の空気が、彼をこの地に引きずり込んだ。


早稲田の赤茶色の校舎を見上げながら、悠真は何度も心の中で呟いた。


——ここは、本来、俺が来るはずの場所じゃなかった。



入学式の翌週、最初のガイダンスの教室に入った瞬間、彼は違和感を覚えた。周囲の学生たちの服装、話し方、笑い声。どこか軽薄で、表面的なものばかりが耳に入ってくるように思えた。


「マジでさ〜、第一志望落ちたけど早稲田でよかったわ!遊べるし」


「え、共通テスト英語180点だったよ。ギリで通った〜」


そんな声が教室の隅から聞こえるたび、悠真の胃のあたりがきゅっと縮まった。


——これが、同級生?


彼は、確かに努力した。塾も予備校も、模試の偏差値も、どれも一流の戦場を歩んできた。だがそこには、結果という「証明」が欠けていた。そして今、彼の周りには「その証明を必要としなかった者たち」が笑い合っている。


惨めだった。


だが、それを誰にも言えなかった。



悠真には、かつて憧れていた女性がいた。高校の同級生、香月里奈。知的で聡明で、いつも冷静にものを見ていた。生徒会では副会長を務め、模試でも常に校内一位。彼女こそ、「理想の東大生」だった。


そして実際に、彼女は東大に受かった。


合格発表の日、悠真はLINEを開けなかった。通知は「おめでとう!すごいね!」の言葉で溢れていたが、彼は何一つ返せなかった。里奈からも一通だけ「そっちはどうだった?」と来ていた。だが、返せなかった。


自尊心が邪魔をした。


いや、自尊心しか残っていなかった。



講義のない午後、悠真は大学図書館の隅に座って、ひとりで教科書を開いていた。周囲にはカップル、友人同士のグループ、講義後にスタバで喋っていたような学生たちの気配。だが彼は、自分の机だけが密閉空間のように冷たく静かだった。


ふと、後ろの席から女の子たちの会話が聞こえてくる。


「え〜、でも彼氏、慶應なのよ。早稲田の人とか、無理かも(笑)」


——この大学の中で、もう誰かが“格付け”をしている。


彼は、その言葉に殺意すら覚えた。だが振り返ることも、言い返すこともできない。そういう「場の空気」や「余裕」が、彼には致命的に欠けていた。


大学名とは、自分を守るための盾であり、相手を傷つけるための剣でもある。悠真はその両方を奪われたまま、この大学で生きている。


彼は顔を伏せ、ペンを走らせた。


「早稲田の女とは付き合いたくない」


そう書いて、ページを破り、そっと机の下で握り潰した。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ