惑
_____10月1日
暑さも漸く過ぎ去り、涼しい風の吹く季節になった。
『また来てくれたのね、ありがとう。』
あれから秋斗のお母さんは精神を病んでしまった。精神科に通いながらもなんとか普通に暮らせているようだ。
僕と琴里は頻繁に家に通い、お母さんが作ってくれたご飯を食べて、沢山話す。
それが唯一僕達に出来る事だった。
僕はあの男が憎かった。
秋斗を奪った事。そして秋斗のお母さんから全てを奪ったこと。
そもそもあの男が居なければ、秋斗の事だって。
だけど僕にはあの男の事も、秋斗の事も、どうしようもなかった。何も出来なかった。
それがもどかしくて、悔しかった。
「で、話ってどうしたんですか?」
仕事終わりに話したいことがあると言った若菜さんは、実は…と切り出す。
『大した話じゃないんだけどね。
私のお母さん、再婚するらしいの。』
その言葉に僕の思考は一瞬停止してしまった。
再婚?このタイミングで?
嫌な予想が脳を横切った僕は若菜さんを問い詰める。
「再婚って…。
相手の苗字は?」
『サイトウさん。だったかな。…どうしたの?』
突然の僕の動揺に驚いた様子の若菜さんも困惑する。
僕の脳内には秋斗のお父さんと腕を組み笑う女性の姿が映し出される。
転々としているお母さんと、姉と二人暮しの若菜さん。
嫌な予感のピースが嵌っていく音がする。
「…お母さん、今名古屋に住んでる?」
若菜さんは驚いたように頷く。
「ごめん。ちょっと帰る。」
『…え?橘くん?どうしたの?』
慌てて立ち上がる若菜さんを置いて僕は逃げるようにその場を離れた。
頭の中が真っ白だった。
居なくなった秋斗の父親と、若菜さんのお母さんが再婚?
意味がわからない。そんな偶然ってあるのか?
これは仕組まれた事?
若菜さんはなにか策略の上で僕と仲良くしようとしたのか?
突然若菜さんの今迄の言動が怖くなってきた僕は走って家に帰り、布団に倒れ込む。
「もう、どういう事だよ…。」
秋斗の失踪に若菜さんが関わっている?
.....
『私だって人に言えない事、沢山あるの。
言ったら私の人生が終わっちゃうくらいの秘密もね。』
.....
あの日、グラスを片手にそう言った若菜さん。
まさか。まさか。
琴里に連絡を取る為携帯を開くと、ちょうど携帯のバイブレーションが鳴り出す。若菜さんからだ。
応答ボタンを押した僕は若菜さんの言葉も聞かず一方的に話し出す。
「若菜さんがやったのか?
若菜さんの母親か?
こんな偶然あるはずないだろ。
なんの作戦だよ。なんの嫌がらせなんだよ!
僕に恨みがあるのなら何か言えよ。
分からないよ。
僕にはもう、意味が分からないよ。
なあ。」
今にも泣き出してしまいそうな僕の携帯電話を持つ手は怒りと混乱で震えていた。
『待って、橘くん。
本当になんの事だかわからないよ。
急にどうしたの?』
混乱する若菜さん。それさえも演技のように思えてしまう。
「惚けるなよ。」
僕は若菜さんの返事を聞かずに通話を切った。
通話を切った後、静寂になった部屋の中で僕は泣いた。
上手く頭が回らない。
何が起こっているのか分からない。
冷静になれない。
僕は自分を落ち着かせる為、琴里に電話をかけた。
『もしもし?こんな時間にどうしたの?
純人、泣いてる?』
聞き慣れた琴里の声がして、僕は深呼吸して息を整える。
僕は経緯を琴里に説明すると、
琴里もうーん、と考え込む。
『偶然にしては出来すぎてると思う。
でも純人への嫌がらせの為に仲良くする?
それにその人と出会ったのだって、たまたま職場が同じだったからだよね?
無関係では無いかもしれないけど。
私、やっぱり秋斗のお父さんとあの女の人が怪しい気がする。』
僕とは対象に珍しく冷静な琴里。
『もう1回落ち着いて、ちゃんと話してみれば?』
「明日話してみる。ありがとう琴里。」
僕は電話を切り、頭の中を整理する。
琴里の言う通り、若菜さんは本当に何も知らないのかもしれない。
まだ、分からないけれど。
全てを決めつけるには、早すぎる。
「さっきは動揺していてごめん。明日話そう。」
若菜さんにメッセージを送った僕はそのまま眠りについた。
_____10月11日
休日なのに珍しく早起きした僕は、職場近くのカフェに若菜さんを呼び、先に店に入る。
数十分後、若菜さんは息を荒らしながら店に入る。僕を見つけると直ぐに僕の前の席に座った。
『橘くん、あの、』
「昨日は本当にごめんなさい。」
若菜さんの言葉を遮るように僕は頭を下げる。
『何があったのか、教えて欲しい。』
普段と変わらず真っ直ぐと僕の目を見て話す若菜さん。
「前に話した、失踪した僕の親友、秋斗って言うんだ。斎藤秋斗。
そのお父さんが斎藤真斗。若菜さんのお母さんの再婚相手だと思うよ。」
若菜さんは目を見開き、言葉が出ないようだった。
「僕はお父さんのことも、若菜さんのお母さんのことも疑ってたんだ。
だから若菜さんも何か秋斗について知っていると思って、混乱してしまってた。
昨日は酷い事を言ってしまってごめん。」
『…あ、あきとくんって人、写真、ある?』
頭を下げる僕に未だ理解が追いついて居ない様子の若菜さんは、吃りながら震える声で言う。
僕は3人で撮った昔の写真をフォルダから探すと、若菜さんに差し出した。
そして、若菜さんは衝撃的な事を口にする。
『私……知ってるよ。この子。
お姉ちゃんの、好きな人。』
僕と若菜さんは目を合わせたまま、互いに暫く何も言えなかった。
「…お姉さんと暮らしてたんだよね?
秋斗の事何か知らない?」
漸く口を開いた僕に、若菜さんはハッとしたように話を続ける。
『私のお姉ちゃん、一時期恋愛のことで病んでたことがあって。
突然好きな人が出来たって上機嫌になったの。
お姉ちゃんは手帳に写真を挟んでて…。
その人の事、秋斗くんって呼んでた気がする。
ある時を境に、家に帰ってこないことが増えたから、私、その人と付き合ったのかなって…思い込んでて…。
…お姉ちゃん、その人の事と関係してるのかもしれない。』
若菜さんは話しながら目に涙を浮かべる。
小さな肩は震えていた。
「お姉さんに会わせて欲しい。」
僕がそう言うと、若菜さんは震える手で携帯電話を取り出し、電話をかける。
『おねえちゃん、あの、今、時間ある?』
暫く話して電話を切った若菜さんは、ここにお姉さんを呼んだようだ。
1時間。もっと長かったかもしれない。
僕達は何も話さなかった。
卓上のアイスコーヒーの氷は溶けきっていた。
ドアのベルがなる音がして、すぐに女性の声がする。
『若菜ー、お待たせ!急にどうしたの?』
聞き覚えのあるその声のする方に、顔を上げると僕の頭はさらに真っ白になった。
『あれ?
夏ぶりだね。こんにちは。』
そう笑った"茶髪の巻き髪"の女性を、僕は知っていた。
僕は立ち上がり、その女性に近付く。
「斎藤秋斗を知ってるよな?」
秋斗の名前口に出すと、彼女の顔はぱあっと明るくなり、知ってるよ!と嬉しそうに笑う。
『あのね、私から好きになったの。
お母さんがね、新しいお父さんになる人見つけたって言ってたから、会ったみたの。
そしたらドタイプの子が居たんだけど、まだ中学生だって。私付き合ったら犯罪になっちゃうじゃん?
それに病気があって、私より先に死んじゃったら悲しいから一旦は諦めたの。
お母さんに話を聞いてるうちに、あの子にお兄ちゃんがいることを知ったの。』
唖然とする僕達に構わずペラペラと話し続ける彼女。
『私、沢山探して…やっと見つけたの。
この人だ。って思った。
沢山接点を持てるように頑張った。
そして私のアクセサリーを買ってくれたの。
今思えばあれが2人を繋ぐものになってくれたんだと思うの。
いまはお揃いのペアリングがあるの。
だからあのアクセサリーはもう必要なかった。
だから、
返してあげたでしょ?』
僕の頭の中は真っ白で、それでも拳には血管がちぎれるほど力が入っていた。
「ふざけんな!このストーカー女!」
『まってよ。そんな言いぐさ無くない?
私と秋斗くんは付き合ってるの。』
「そんなわけないだろ!ふざけるのも大概にしろ!」
僕の荒らげた声に、周りの人達の目線がこちらを向く。店のスタッフがこちらに向かってくる。
でも今の僕にはそんな事気にしていられなかった。
今にもこの女を殴ってしまいそうな僕の肩を、若菜さんが抑える。
『け、警察、呼んだから!
落ち着いて。』
僕はお会計だけ済ませると、女を連れ外に出て警察を待った。
ここで言い争っても仕方ない。
警察が来れば秋斗の居場所だって分かるはずだ。
数分後、警察が来て、女は誘拐の容疑で警察の事情聴取を受けることとなった。
警察に事情を話した後、何も分からないまま残される僕と若菜さん。
『あ、あの。橘くん。
謝って許されることじゃないけど、
本当に、本当にごめんなさい。』
若菜さんの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
「若菜さんが悪い訳じゃないよ。」
僕はそれしか言えなかった。
あの女への憎しみの気持ちと、秋斗がまだ生きているかもしれないという期待の気持ちで僕の心もぐしゃぐしゃだった。
でも1つ突っかかっている事があった。
「一緒に住んでた家に、秋斗は居なかったんだよね?」
若菜さんは涙を拭い、頷く。
秋斗は何処に居るんだ。
あの女が何処かで隠している?
協力者が居る?
ふと、僕の携帯の着信音が鳴る。
琴里からだ。
『純人!?
私今ちょうどあきくんのお母さんの家に居て、警察の人から話聞いたよ。
今何処にいる?』
「大通りのカフェの前だよ。」
そう伝えるとすぐ向かう!と言った琴里は直ぐに通話を切った。
「若菜さんは、秋斗の居る場所の心当たり無いかな?」
若菜さんは頭に手を当て暫く考えると、ハッとこちらを向く。
『…もしかしたら、お母さんの別荘かも。
それなら場所、わかるよ。』
「琴里が来たら直ぐに行こう。」
僕は不安と期待に生唾を飲む。
数十分後、琴里は走ってこちらに向かうと、若菜さんにぺこりと頭を下げた。
『若菜さん、ですよね?』
『あ、あの…、私の姉が本当にごめんなさい。』
若菜さんは琴里に深々と頭を下げる。
僕は琴里に事情を説明すると、タクシーに乗り込み、別荘に向かった。
秋斗を絶対に助ける。
何としても見つけてやる。
もう少し、待っていてくれ。