君よ、幸せであれ。
夢占いができるかたがいらっしゃったら、おしえてください。
妹の夢をみた。
私はひとりきりで、どこだかよくわからない田舎の細道を駆けていた。名前も知らない葉の硬い木がずっとずっと続いていた。すぐ左手に民家があったので、もしかしたら生垣の内側、ひとさまのお庭を無断で走っていたのかもしれない。古い民家の木の雨戸はきっちりと閉まっていた。来た道にも行く先にも、人影は見当たらない。
なぜだか妹を探さなくてははいけない、と感じて、私は走りながら思いっきり大声を上げた。
「Kちゃん」
響く。返事はない。
「Kちゃん」
もういちど。
「おかあさん」
どこか遠くでいとけない声が上がった。とても小さい声だったのに、私はそれが妹の声だとすぐにわかった。風が強く吹いていて、山がザワザワとうるさかった。
「Kちゃん」
私はもういちど叫んで、いっそう速く駆けた。足下はいつもの7センチヒールではなくて、黒いスニーカーのようなものを履いていた。現実の私はスニーカーなんて持っていないのに。
生垣を抜けると少し下がったところに道が通っていて、目線だけで道を渡ると高い土壁が立ちはだかっていた。遠くには山が見えた。山肌には段々に田が連なっていて、まだ青い稲たちが風にそよいでいた。土壁には雑草が茂っていて、蛙が喧しく鳴いていた。空は突き抜けるように青かった。蝉の声は聴こえなかったし、暑さもさして感じなかったけれど、夏だったように思う。
階段があった。私の足下には石段があり、十ほどきれいに切り揃えられた石がきちんと詰んで段にしてあった。手すりはなかった。土壁の上は田になっていて、土をえぐって作ったような簡素な階段がそこへ続いていた。田があまりにも高くて、私には田の端の雑草の生い茂った畦と、そのてっぺんから空を指すわずかな稲の先しか見えない。もしかしたら、私も小さな子どもだったのかもしれない。よく覚えていない。
階段の下にはアスファルトの細い細い小さな道があって、それが私の走ってきた道と、向かいの田を分けていた。あんなに走ったのに、私は息ひとつ乱していなかった。Kちゃん、と声をあげようとして口を開いたのに、私は左向かいの高い畔に小さな影を見つけて声を出せなかった。
「おかあさん」
小さな影はそうやって叫んで、必死に周りを見渡していた。濃紺のノーカラージャケットとプリーツスカートと、エンジのベレー帽を身につけた妹だった。それが私たちが通っていた幼稚園の制服だということに、私はすぐに気がついた。なにも不思議に思わなかった。そういえば妹はまだ幼稚園の星組さんなんだっけ。どうして忘れていたんだろうとすら思った。
妹の後ろにはお友達らしき影が二つあった。どちらも同じ格好をしていて、ひとりは肩から黄色いカバンを下げていた。もうひとりは虫取り網を持っていた。網の先はまっすぐ天を突き刺すようにそびえ立っていて、それが大名行列の毛槍みたいで怖かった。
「おかあさん」
妹は私ではなく、空に向かって泣きながらそう叫んでいた。頼りないくらい震える声で、姉である私ではなく、探しに来た私ではなく、声を上げて彼女の名を呼んでいた私ではなく、必死に母を探していた。助けを求めているような声だった。そういえば幼いころから妹はいつだって、必ず母に助けを求めていた。心細くなったら、いつだって「おかあさん」と泣いていた。
「そこにいて」
私は叫んだ。拍子にポイと何かを放り投げた気がするから、それまでずっと何かを握って走って来たのかもしれない。ちょうどカラオケのマイクくらいの太さの、ピカピカ光る銀色のものだった。あれはなんだったんだろう。強く握っていたのか、私の体温であたたかくなっていた。私はなにを握りしめて走って来たのだろうか。
「ぜったい、そこにいて」
声の限りに叫んだけど、妹にはまるで私の声が聞こえないようで、彼女はついに私の方を向かなかった。
目が覚めたとき、忘れてはだめだと思った。
どこかに書き留めておかなければ、と真っ先に思った。これを書いている今も心臓がバクバクしている。いまは真夜中の、三時十二分だ。オバケが出てくるような怖い夢ではなかったはずなのに、なぜだかよくわからないまま、とてもおそろしかった。
泣かないでほしい、と思う。どこにいるんだろう。何をしているんだろう。ある日ふらりといなくなったきり、もう何年も会っていないけれど、たった一人の妹だ。あんな幼い声で、あんなか細い声で、母に助けを求めるくらいなら電話をしてくればいいのに、と思った。わからない。妹はもしかしたら、私や母や父がなにかしらの理由でわずらわしくなっただけかもしれない。あんなふうに助けを求めてほしいと、私が傲慢に思っているだけかもしれない。
どこにいるかもわからない。電話はいつのまにか通じないようになっていたし、メッセージツールも既読はつかない。メールはエラーで手元に返ってくる。仕事もいつのまにか辞めてしまっていた。彼女が三十二の時に買った持家は、いつ売りに出していたのかもわからないままいつのまにか売れてしまい、今は知らない人が住んでいる。
私も母も父も、行方知らずになった妹の所在を掴めないでいる。ずっと探しているけれど、見つからないまま。幼い子どもならともかく、自分の意思でふらりといなくなった大人を探すには、世界はあまりにも広すぎる。私は妹がどんな声で「ねえねえ」と私を呼んでいたか、もう思い出せない。
病気をしていませんように、と願わずにはいられない。もう妹もいい大人だけれど。きちんと健康でいますように、と。
そうして、美味しいものを食べていますように。
恵まれた環境で働けていますように。
整ったところに住んで、清潔な服を着ていますように。
愛してくれる人が周りにいますように。
悪いことに巻き込まれていませんように。
ひとりぼっちじゃありませんように。
生きていますように。
願わくば、私のたったひとりの妹が、どうか世界のどこかで幸せでありますように。