表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

中山裕介VS奥村真子シリーズ第1弾

皆さんは自分の夫、妻や家族、恋人や昵懇の仲の友人がうつ病になってしまったら、一体どうするのだろう。  

笑顔を見せるのも少なくなって行き、会話をしていても表情は上の空。

 何を思念しているのか何が辛いのかさえ読み取れない。

 大切な人がそんな状態に陥ってしまった時、皆さんならどう対応して行くのだろう――

 想えば九ヶ月前、私はもっと彼の事を見ておくべきだった。



 後数日で年が明けようとする十二月下旬。オレは教育係を担当し、今年正式に放送作家として自立した本田岬と共に、所属する放送作家事務所〈マウンテンビュー〉の社長、陣内美貴から「話があるから、夜に事務所に寄って」と呼び出された。

 特番か新番(組)の話だな。直ぐに予測は付く。陣内社長からプライベートな事で呼び出されたりするのは滅多にないから。

 岬を助手席に乗せ、南青山(港区)の事務所が入るビルに到着し、最寄の駐車場に停車して、エレベーターで六階へ上がる。

 〈マウンテンビュー〉のオフィスエリアに入ると、社長は満面の笑みを湛えて「待ってたよ」と迎えて立ち上がった。

 その欣欣然とした表情からすると、新番だな。特番やイベントの時にはクールに。新番だと欣欣然。態と分かり易いようにしているのかは知らないが、陣内美貴という社長はそういう人。

「THS(東京放送システム)から新番のオファーがあってね」

「まあそうだろうと予測はしてましたよ」

「流石は中山君。察しが良いね」

 表情を見れば、うちのスタッフなら誰にだって分かります。

「来春からの番組なんだけど、うちから二名、中山君と岬ちゃんに構成に携わって貰おうと決めたの」

「私もですか!? ありがとうございます!」

 岬も欣欣然としているが……。社長はいつも専決してから告げて来る。これ、スタッフ全員に対しての鉄則。

 放送作家が仕事のオファーを受ける際、今回のように放送局からの場合もあれば番組サイドから、または制作プロダクションからと特に決まった通念はなくケースバイケースだ。

「中山君、レギュラー九本目、おめでとう」

「仕事を貰えるのはありがたいですけど、別に祝福される事では……」

 ない。

「新番は平松絵美プロデューサーから中山君をぜひ! って希望があったらしいの。中山君、作家成り立ての頃は随分とお世話になったよね」

「まあ、そうですけど」

 平松絵美プロデューサー。THSの局P(放送局社員のプロデューサー)。オレが正式に放送作家として採用された時にはまだディレクターだった。

 確かに新人の頃は企画書の書き方など、色々とお世話にはなったが……。

 ユースケさん、なーんか乗り気ではない雰囲気を醸し出しちゃって。平松さんっていうプロデューサーの人が苦手なのかな?

「中山君、また微妙そうな顔してるけど、今度は音楽番組だよ。岬ちゃんも確り勉強しておいで」

「はい! そのつもりです」

 音楽番組だったら打ち合わせとかで好きなアーティストと逢えるかもしれないし、私は楽しみ。

「中山君も返事は?」

「はい。懸命にやらさせて頂きます。平松さんとも久しぶりですし」

「君はいつもローテンションというか冷静っていうのか。まあ中山君のキャラだから良いけどさっ。早速年明けの会議に行って来い!」

 ニヤリとする社長。有無も言わせずGOサインを出す。これも、鉄則。



 岬を実家近くまで送り、文京区音羽の自宅マンションに帰宅。

 余り物の仕出し弁当を夕食にして、ホン(台本)の手直しや録画したレギュラー番組をチェックしていると、

「ただいまー」

二五時近くに相方が帰宅した。

「おかえり」

「相方お風呂まだでしょ? 入ろう」

「ああ」

 相方こと妻の奥村真子。元某キー局のアナウンサー兼報道記者だったが、現在は退社しフリーで二二時からTHSにて、『報道LIVE 22(トゥエンティーツー)』のメインキャスターを務めている。場合によっては今でも記者として現場に出たりとご活躍。

 本名は「中山」だが仕事では奥村姓で通している。

 東大の理系出身でミス東大にも選ばれたお方。

 入籍したのは約二年前だが、その前から同棲していた。きっかけは西麻布(港区)にある、真子の行きつけの居酒屋に誘われ、「私と交際して! っていうか同棲して!」と告白されたから。最終的には、「YESなの? NOなの?」と詰め寄られ「YES」と返答……するしかなかった。

 お互いを「相方」と呼び合おうと提案したのも真子。擦れ違いが多い仕事をしている為、時間が合えば入浴は「コミュニケーションの時間」と決めたのも真子だ。

 別に尻に敷かれている訳ではないが、オレは唯唯「はい。はい」と承諾した。特に不満もなかったので。

 但し、最初に相方の全身を洗うのはオレから。これは相方から求められた訳ではなく、自然とそうなった。

 だが、一見積極的な性質に見えて、実は極度の上がり症という性質もある。新人の頃、BSの番組でアシスタントに抜擢されたのだが、FAX番号を「ゼェロチャン」と噛んだりメールアドレスも「アッチョマーク」とまた噛む始末。

 他にも三十分のニュース番組のキャスターを担当する事になり、前日に先輩アナからOJTを受けて臨んだが緊張から夜眠れない程だったという。これは『22』のオンエア開始前日の時も同様だった。

「来春からレギュラー九本になるよ。今度は音楽番組だってさ。THSで」

 相方の背中を洗いながらぼやく。

「凄いじゃない! しかも同じ局でさ」

 後頭部しか見えないが、声からして満面の笑みを湛えているのは分かる。でも、ギャラは相方の『22』一回よりも安いのだが。

「同じ局だからって、別に送り迎えが出来る訳じゃねえよ」

「別にそんな事求めてはないよ。レギュラー九本かあ。この売れっ子作家!」

「そりゃどうも。改編期に終了予定の番組もないからな」

 振り返ると、ユースケの表情は何処か複雑そうで、嬉しさを感じない。彼は基本マイペースな性質だから、時間を失うのが惜しいのだろう、きっと。

 でも私も退社してフリーになったし、放送作家も先の保証は何もない職業。幸いお互いレギュラーが貰えているものの、今後どうなるかは分からないのが現実。

「何なのその顔は? 仕事があるのはありがたい事なんだぞ!」

「分かってるよ。だから社長にも懸命にやらさせて頂きますって言ったよ」

「なら良いけど」

 そう言って正面を向く。ユースケは真面目で地道にやる性質も併せ持っているから、仕事をなおざりにはしないだろう。その証拠がレギュラー九本なのだから。

 


 元日。午後だけ打ち合わせも会議も入っていない為、久しぶりに羽村市の実家に帰った。

 相方は数日間だけ完全OFFだ。本当は彼女の両親にも挨拶しなければならないのだが、オレには中々時間がない。仕事のせいにしてはいけない事は承知しているが、真子は「私の実家はいつでも良いから」とは言ってくれてはいるものの、その言葉にも甘えてはいけない。

 十三時頃に実家に到着すると、弟の秋久の黒のワゴンが停まっていた。

「秋久さんも来てるんだね」

「そのようだね」

 秋久はオレより一年前に結婚し、授かり婚で長女が一人いる。

 気弱で消極的な兄とは違い、秋久は負けん気が強く、中、高校時代には野球部に所属。勉学も疎かにはせず進学クラスに籍を置き大学は大学院にまで進んだ。

 現在は神奈川県内の病院で臨床心理士として勤務している。何でも兄の先を行く秀才だ。それだけ彼は頑張ったという証だが。

 一応持っている玄関の鍵を開け、「ただいま」と言いながらドアを開ける。リビングから出て来て出迎えたのは、母の小枝子だ。

「おかえり。もうちょっと早くに来るかと思ってたのよ」

「午前中に仕事があったんだよ」

 放送作家は急な打ち合わせやらで、「年中無休」の状態だ。

「済みません。明けましておめでとうございます」

「真子さんも態々ありがとう。おめでとうございます」

 中からは姪の知衣美が遊んでいるのか、子供用の音が鳴る椅子の『パフッ、パフッ』という音も聞こえる。それに続き、

「ちーちゃんちゃんと座って食べて」

秋久の妻で義理の妹のあいさんの声も。

「秋久達も三十分くらい前に来たんだけどね。貴方達ご飯は?」

「まだ」

「なら早く上がって」

「お邪魔します」

 真子はブーツを脱いで一番右端に揃える。オレは気兼ねなくスニーカーをど真ん中に脱いだけど。



 リビングに入ると真っ先にあいさんと目が合い、お互い会釈で挨拶。父の譲一とも目が合ったが、同じくお互い会釈だけ。真子は「皆さん、明けましておめでとうございます」とアナウンサーらしく全員に挨拶。

 譲一は「おめでとう」と微笑を浮かべて返し、あいさんは「おめでとうございます」と笑顔で返した。秋久は会釈だけして直ぐに携帯に目を移す。子供の頃は泣き虫だった奴がすっかりクールになりやがって。照れ臭いのもあるのだろうが。

 とにかくうちは小枝子と真子、あいさん。真子とあいさんが確執を生じさせなかっただけ良かった。

 譲一はソファに座り「ここに座れ」と指定した為、オレ達は秋久一家の向かいのテーブルに座る。

 テーブルの上には数の子や伊達巻といったオーソドックスなお節の他、巻き寿司や空揚げ、うどんまで用意されていた。

 知衣美は最初、オレ達を不思議そうに見ていたが、それはつかの間。直ぐに笑顔を見せる。もう二歳三ヶ月だ。

 その隙きを狙って席を立ち、

「知衣美、写真撮らせてくれ」

ポケットから携帯を出して知衣美に向ける。

「ご飯食べ終わってからでも良いんじゃない」

 小枝子は言うが、

「いや、機嫌が良い内に」

カメラ機能を起動させた。

 すると知衣美は「撮るよ」とも言っていないのに、両手の人差し指を頬に当てるポーズを取って、満面の笑み。これはシャッターチャンスだと思い画面をタッチした。これは去年では考えられなかった事。盆時期にも実家で秋久一家と鉢合わせして、姪の写真を同じように撮ったが、「写真撮らせてくれ」と言っても無反応。小枝子やあいさんが「ちーちゃんピース」と呼び掛けても駄目。

やっとこっちを向いてくれても、仏頂面で撮ったものだった。それが二歳も過ぎればこうも変わるのか。子供の成長は早いなと思うやら、自分もこうだったのかなと回想してみるやら。

「裕介、もう良いでしょ。ちーちゃん、おやつがあるわよ。おやつが欲しい人」

「はーい!」

 知衣美が右手を挙げるが、

「ちーちゃん、まだご飯が食べ終わってないでしよ」

あいさんが制する。

「相方、忘れない内に」

 席を立った相方に耳打ちされた。

「おっ、そうだったな」

 リュックからポチ袋を取り出し、

「知衣美、ご飯を食べた人にはおやつもあるしお年玉もあるぞ」

「「お姉ちゃん」からもあるよ」

大した額は入っていないが、二人で知衣美に差し出す。相方は幾ら入れたか知らないが。

 知衣美は受け取ったが、

「済みません。ほらちーちゃん、黙って貰わないで」

あいさんが促す。

「オレは「伯父さん」で、君は「お姉ちゃん」かい」

「良いでしょ別に」

 ユースケは自分から「伯父さん」と言っているのだから、私は「お姉ちゃん」で貫穿する。

 夫婦で突っ込み合っている時、

「ありがとう」

知衣美は笑顔で言う。

「はい」

「どう致しましまして」

「ほら、裕介と真子さんもご飯食べて」

 小枝子に促され、オレ達夫婦もやる事はやったので、遅い昼食を摂る。



 食事を終え、コーヒーで一息着く。

 知衣美は秋久のニット帽を鼻まで下げ、また目まで上げて「パパー!」と笑って遊んでいる。

「これからがやんちゃ盛りですよ、あいさん」

「そうですね」

 自分の弟が「パパ」と呼ばれている。オレ達もそんな年齢になったか。

 秋久が授かり婚をすると小枝子から聞かされた時、先を越されて「なーんだバカ野郎!」と荒井注ではないがギャグが浮かんだり、オレにも義理ではあっても妹が出来るんだ。と万感もありつつ、でも子供が生まれても可愛いなんて思わねえぞ! などと変に意地を張ったものだが、笑顔を見せ喋り出した姪を見ていると、可愛いと思ってしまう。親はこれからが大変だろうが。

「裕介、仕事の方は順調なの」

 小枝子が訊く。

「順調かどうかは分からないけど、一応仕事は貰えてる」

「順調じゃない。春から新番組がはじまって、レギュラー九本になるんですよ」

 相方よ、欣欣然とした口振りで言わなくても良い。

「えっ、凄いですね」

 あいさんの方が小枝子よりも早くに反応。

「それはありがたい事じゃない」

「不安定な職業だからな。感謝の心を忘れずに今を大事にする事だ」

 小枝子も譲一も、レギュラー九本と聞いて一応安心しているようだ。

「心得てるよ」

 ユースケはぶっきらぼうに言う。本当は嬉しいくせに。面映いのだ。この時はそう思っていた。いつも通りだったし、まだ元気だったから――



 年が明けて一週間。いよいよ春からの新番の会議が始まる。

 いつも通り岬を助手席に乗せ、THSへ向かう。到着すれば、入館手続きを済ませエレベーターを待つ。

「テレビ局のエレベーターって、何処の局も遅いですよね」

「うん。特にTHSは酷い」

 二人で表示版を見詰めるばかりなり。

 五、六分は待っただろうか。やっとエレベーターが下りて来た。そうでなくとも拘束時間が長い生業なのに、エレベーターにも拘束されては堪らない。そのエレベーターの中で……。

 四階まで辿り着きドアが開くと、平松絵美プロデューサーが乗って来たではないか。

「ユースケくん久しぶりだね。またヨロピクー」

 昔と変わらない笑顔。

「ご無沙汰でした。こちらこそヨロピクお願いします」

「隣の子は新人だよね」

「はい。本田岬です。宜しくお願いします」

 岬は会釈して名刺入れから一枚抜き出し、差し出す。

 名刺を受け取りながら、

「プロデューサーの平松です。ヨロピク」

 何「ヨロピク」って? 古過ぎなのではないかなあ。フレンドリーに接しようと敢えての「ヨロピク」なの?

 岬の戸惑った顔。初対面した時の記憶が頭を過る。



 当時平松さんはまだディレクターだった。

「君が新人の中山裕介君? 私はディレクターの平松絵美。ヨロピクー」

 オレは普通に「宜しくお願いします」と頭を下げたが、

「僕もヨロピクって返した方が良かったですか」

念の為に確認。

「そうだよ」

 当時から誰に対してもフレンドリーだったが、仕事になると……。

 企画書を添削して貰った時、「この部分は余計だね」「小説家じゃないんだから、難しい言葉は使わなくても良いよ。もっと分かり易く。せっかく書いたのにボツにされるよ」などと真顔でバッサリ。まあ、当然といえば当然なのだが。

 新人の頃は大変お世話になった。その人が今やプロデューサー。オレも教育係を任されるようになったし、時の流れをまざまざと痛切する。



「平松さん、新番に何でオレを指名したんですか」

 別に訊かなくても良いが、目的の階に着くまでのぼやき。

「特に理由はないよ。久しぶりに逢いたいなあって思ったから」

「それだけですか?」

「うん。それだけ。うちの番組が始まればレギュラー九本になるんだってね。逞しくなった姿を見たかったのもあるけど」

 あっさりした返答。

「久しぶりに逢って、ユースケさん、逞しくなりましたか」

 岬よ……悪戯な顔して訊くな!

「レギュラー九本がその証だよ。真面目だから仕事は来るだろうなあとは思ってたけど、正直ここまで売れっ子作家になるとは思わなかった」

「売れっ子かどうかは扠置いて、自分でも思ってましたよ」

 またまたユースケさん謙遜して。十分売れっ子ですよ。

 何だかんだ話している内に目的の階に、やっと到着。



「もう皆集まってるかもね」

「かもしれませんね。もう定刻の五分前ですから」

 平松プロデューサーと共に、早足でH2 会議室へ向かう。

 会議室に入ると、

「おはよう! 今日から改めてヨロピクね!」

集合した全員に挨拶。

「平松さんって、誰に対しても「ヨロピク」なんですね」

 岬が声を落とす。

「そう。気さくな人。だから肩肘張ったり気後れする必要はないよ」

「そうですか。ならそうします」

 今回ご一緒するスタッフは……。

「平松さんおはようございます。ユースケ君達もまた今年も宜しくね」

 枦山夕貴ディレクターは立ち上がり真っ先に挨拶。

「こちらこそ宜しく」

「今年もお世話になります」

 制作プロダクション〈ワークベース〉の社員。ディレクターに成る前は芸能事務所に所属していた、元モデルという異色の経歴の持ち主。

 テレビにも何度か出演経験があるらしいが、本人曰く「私はタレントには向いていないから、裏方ならどうだろう」というのが、現在の会社に入社した動機。

 鼻と目を整形していて、未だに「美」やファッションについては拘りが強い。そういう意味ではディレクターらしからぬ人。

 自分達の席に向かっていると、

「おはようユースケ君。久しぶりだね」

「おはようございます。ご無沙汰でした」

次に声を掛けてくれたのは、作家の岡本真司さん。平松さんとほぼ同期。

 この人も気さくでフレンドリーな、頼れる先輩。インディーズバンドのライブを観覧するのが好きな人でもあり、オレも一度だけ誘われた事がある。

 パソコンの扱いにも精通していて、ブラインドタッチでさっさと企画書やナレ原(ナレーション原稿)を書いてしまう。未だにキーボードを見ながらでしかタイピング出来ないオレからすれば、尊台な人だ。

「その子は新人?」

「本田です。宜しくお願いします」

 岬が名刺を差し出す。

「岬ちゃんかあ。岡本です。こちらこそ宜しくね!」

 岡本さんも名刺を差し出した。 

 オレ達が席に着くと、

「ユースケ。今年も宜しくな」

「こちらこそ宜しくお願いします」

向かいの席に座るのは、宮崎哲哉さん。この人も作家だ。

 この人も良くいえばフレンドリーなのだが、馴れ馴れしく何処か尊大な感もあるのは否めない。オレにとっては苦手なタイプだ。

「何か怖そうな人ですね。私の事にも触れなかったし」

 隣の岬が耳打ちして来た。

「別に怖くはないんだけど、オレも一緒に仕事するのはやり辛い」

 オレも耳打ちで返す。

「ユースケさんがやり辛いんなら、皆そうなんじゃないですか」

「そんなに気後れしなくても大丈夫だよ。平松さんや岡本さん、枦山さんもいるし」

「ハアー……どうなんだろう」

 岬は途方に暮れた表情。開始前から悪い情報を吹き込んでしまったか。

「今のは飽く迄も「オレは」だからさ」

 自責の念に駆られる。

 会議開始の時刻は疾うに過ぎているが、

「まだ一人来てないね」

 平松さんの悪戯っぽい笑み。

「そのようですね」

 宮崎さんは椅子に背中を預け、両手を後頭部に当てる。

「彼もエレベーター待ちなんでしょう。きっと」

 噂をしている刹那……。

「済みません遅くなって! この局のエレベーター、中々来ないっすよね」

 NARINAKA君、十五分遅れで登場。

「それはTHSの社長に成り代わってお詫びします」

 平松さんは別に怒ってはいない。笑顔だし。

「ほんと申し訳ないっす。もっと早くに入れば良かった」

「珍しいね。NARI君が遅刻するって」

 枦山さんも然り。

 「ぜーぜー」と息を切らしながら席に着くNARINAKA君。通称NARI君。本名は牧田成央なりなか。彼の家柄は江戸時代、譜代八万石の大名家という、由緒ある家柄。

 だが語調は、「マジっすか」「ハンパねえ」など基本は敬語だが典型的な若者言葉。そのギャップが面白い。

 「役者」が揃った所で、漸く会議開始。拘束時間が更に長くなった。



「放送時間はもう決まってるの。今までの二十時から一時間遅くなって、ニ一時からの一時間。ステレス(ステーションブレイクレス。番組と番組の間にCMを挟まない)放送になるんだって。曜日は変わらず毎週火曜日ね。ユースケ君、奥さんの番組の前だから責任あるよ」

 平松プロデューサーはニヤリ。

「まあそうですけど、放送時間の繰り下げは、これまでの視聴習慣が壊れてしまうのは明白ですね」

「それは私も同感だよ、ユースケ君。でも編成の人達が決めちゃったんだから、仕方なくない?」

「そうだぞユースケ。上の人達が決めたんなら逆らえないだろ。それより奥さんの番組を良い数字(視聴率)でつなぐのが先決だろ」

 宮崎さんは諭すような口振りで、姿勢は椅子に背中を預けたまま。

「それはそうですけどね」

 納得したように言ってはみたが……。

 ユースケさんは全くもって解せないといった表情。

 この人は私の教育係をしていた時からそう。表情に出易い。そんな顔していたら周りに悟られてしまいますよ。

 でも私もユースケさんの危惧に同感。視聴習慣が壊れてしまえば、THSにチャンネルを合わせる視聴者が少なくなる可能性も否定出来ない。罷りそうなってしまえば、数字は今までよりも低くなってしまう。編成の人達はそこの所を分かっているのだろうか。

 岡本さんが笑顔でオレの右肩を『ポンポン』と叩く。目を合わせると「オレもそう思うよ」と言ってくれているようだ。

「MCは今まで通りSTATION CLUB(ステクラ。アイドルグループ)のリーダーの中越智哉君と女優の町田翼ちゃん、後女性アイドルグループのスカッシュ4(スカフォー)の四組に決めちゃった」 

「MCだけで六人もいるんですか?」

「一々口挟んで来る奴だなお前。六人のMCでどう面白くするかがオレ達作家の仕事だろ」 

 宮崎さんはまた同じ姿勢のままで。悔しいが一理あるのは確かだ。

「とにかく番組に活気を付けようと思ってね」

 平松さんは得意げな笑み。

「活気を付ける、ですか」

 というよりMCだけでごちゃごちゃしそうな気もするのだが。

「後はどういうコンテンツにして行くかだね。岡本さん達作家さん、頭をフル回転させてよ」

 枦山ディレクターが眼光鋭く念押し。

「分かってるって」

 MC六人で番組を回す……しかもMC経験がないに等しい女優に女性アイドル四人。町田とスカフォーをどう扱い分けるか、これは本当に活気どころかややこしい番組になるぞ。きっと。



 初会議後、喫煙ルームで一服していると、枦山さんが入って来る。彼女は喫煙者ではない。

「どうしたの?」

「ユースケ君、今晩空いてる?」

 何か思い詰めた表情。

「オレは今の所予定はないけど、本田さんは打ち合わせがあるそうだから、送って行こうかなって。何かあったの?」

「ちょと飲みに付き合って欲しいの」

「別に良いけど、二人で?」

「じゃあ希も誘ってみる。ユースケ君結婚してるしね」

 枦山さんはこの場で電話を掛ける。また拘束されるぞこりゃ……。

「もしもし希、今晩空いてない? そう、じゃあユースケ君と三人で飲みに付き合ってくれない? 分かった、三軒茶屋の居酒屋で待ってる」 

 彼女は世田谷在住。自分のうちの近くを選んだのは明白。その為下平希とオレはタクシーで帰るか、迎えに来て貰うしかない。終電に間に合わなかったらの話だが、枦山さんの様子からして多分間に合わないだろう。

 二十時半に待ち合わせをし、オレは打ち合わせがある岬をキー局まで送った後、一旦自宅マンションに帰った。

 車を駐車場に停車させ、部屋に入ってから相方に、

「今日は友達のディレクター達と飲みに行く事になったから夕飯はいらない。せっかく用意してくれてるけどごめん。場所は三軒茶屋なんだけど多分遅くなると思う。迎えに来れる?」

とメールする。

 でも直ぐには確認出来ないだろう。相方は今、THSで二二時から月〜金で放送されている『報道LIVE 22』の打ち合わせ中の筈、というか打ち合わせ中だから。

 同じTHSにいたのなら報道センターまで行っても良かったかもしれないが、邪魔になるしプライベートな事を告げている暇はないだろう。

 オレは時計で時間に間に合うように着替えもせずマンションを出て、最寄駅から三軒茶屋へ向かった。



 だが三軒茶屋駅に到着したのは、二十時三五分頃だった。

『今どこ?』

 案の定枦山さんからのメール。

「今駅に着いたよ」

『じゃあ駅前で希と待ってる』

 下平はもう来ていたか。仕事場からそのまま直行したな。

 下平希プロデューサー殿。制作プロダクション〈プラン9〉の社員で、お互いAD、新人作家の頃から知り合いの昵懇。

 元ヤンキーにして、下平も元読者モデル出身という経歴。その為、下平は整形はしていないが未だにファッションには気を遣っている。

 読モ時代はキャバクラやスナックでアルバイトをしていたという。客がいない時には仲の良い従業員達と、ただ酒を飲んでいたらしい。そのせいか声はハスキーで、酒やけした感がある。

 業界歴も年齢も一つ上だが、同期を「枦山さん」と呼ぶのに対し、初対面の時から「元ヤン読モ」「下平」と呼び捨てにしている。別に差別している訳ではないし、特に理由は、なし。

「遅いよユースケ! 作家は時間にルーズになりがちなんだから」

「オレや一部の人だけだよ。作家全体で一括にすんな!」

「まあ二人共揉めないでよ。今日は楽しく飲みたいんだからさ」

「下平とオレが揉めるのはいつもの事だよ。挨拶替わり」

「そういう事」

「なら良いけど、あそこにしない? 普通の居酒屋より安いだろうし、仕切りがあって個室みたいになってるから」

「夕貴がそれで良いんならあたしは構わないけど」

「ああ」

 三人で居酒屋チェーン店が入るビルに横断歩道を渡って入って行く。



「いらっしゃいませ! 三名様ですね。こちらへどうぞ!」

 四人掛けの席に案内され、下平と枦山さんは隣同士に、オレは向かいの席に座った。

 下平とオレは生中、枦山さんはハイボールを注文。「これは長くなるな」下平に目で合図すると軽く頷かれた。つまみには空揚げと枝豆を頼んだ。

 暫くして運ばれて来た生中とハイボール。空揚げと枝豆。

「それで、浮かない顔してるけど何があったの? 夕貴は最近はあまりないけど仕事でミスしてもそんな顔しないもんね」

 その通り。枦山さんは基本ポジティブな性質。

「実は、彼氏と別れたの」

「そんな事だろうと思った。喧嘩したか別れたか、大体予想はしてたけど。でもあんなにラブラブだって楽しそうだったのにどうして?」

 話は終始下平がリードして行く。

「ふーん。そんなにラブラブだったのか」

「うん。あたしなんかには彼と撮った写真まで送って来てさ」

「浮気されたんだよ! 私、二番目の女だったの! それでカッと来て一発平手打ちして「さよなら!」って言ってそれっきり」

 枦山さんはハイボールを一気飲みし、おかわりを注文した。

「正しくは浮気されたんじゃなくてされてたんだな」

「ユースケ、冷静な思考は今は良いって。で、何で自分が二番目の女だったって分かったの?」

「携帯見ちゃったの」

「ありがちだな」

「そしたら全然知らない女と映った写真があって」

 そこまで確認したとは細かい。

「「誰なのこれ!?」って問い詰めたら「夕貴は二番目の彼女なんだ」って言われて、それで余計にカッと来ちゃったの」

「まあ、誰だってムカつくよな。そんな事言われたら」

「そんな男だったら別れて正解だったんじゃないの。どうせ成就しないんだしさ」

 下平はあっさりとした表情と口振り。マジで他人事。

「そうなんだけど、夜になるとやっぱり思い出しちゃうの」

「夜は何やってるの?」

「企画考えたり見直したり、編集作業やったりして仕事してる」

「じゃあ良いじゃん。やる事一杯あるんだし」

 下平は優しく枦山さんの背中を摩った。

「夜やるのは仕事だけ?」

「ストレッチとかちょっと筋トレとか、後は彼氏を思い出しながらオナニーしてるか」

 訊くんじゃなかった……いらない情報ハラスメント。下平の目が「責任取れ!」と言っている。「オレには無理!」と目で返す。

「……別れたっていうか振ったんでしょ。だったらもう忘れなよ」

「下平の言う通りかもな」

「都合の良い時だけ口挟んで来んな! ユースケ」

「悪かったな。気の利いた事言えなくて」

 枦山さんは何故、男のオレを誘ったのか?



「そう言う希は旦那と上手く行ってるの?」

「あたしはそろそろ子供が欲しいから、夫ックスが多いかな。一日一回か二回」

 聞きたくもない情報ハラスメント……。

「子供が欲しいねえ。でも一日二回もヤッてんの? あんた」

「ユースケは嫁ックスしないの」

「オレにも訊くか。うちはお互い不規則な生活だから、あんた達よりも少ないかもな」

 愚直に答えてしまうハラスメント……。

「嫁ニーとかもしないの?」

 枦山さんまで……。

「何だよその表現。それもしないな」

「でも奥村さん真面目そうだし、メインキャスターもやってるから浮気の心配はないかもね」

「ユースケ君も女遊びしてるとか見聞きした事ないもんね」

 下平、枦山の順で宥められる。何だこの展開は……。

「そりゃどうも」

 礼を言わされるハラスメント。

 悩みを聞いたり下らない話をしている内に、二三時近くになっていた。

「よし! 枦山さんは少しは気持ちが吹っ切れただろう。オレ達電車だしそろそろ帰るか」

「そうだね。まだ終電には時間があるけど」

 下平もバッグを手にする。

「えーっ、もう帰っちゃうの?」

「だって終電過ぎちゃったら迎えに来て貰わなきゃいけないもん。旦那も飲んでたらタクシーになるし。ユースケもそうでしょ」

「ああ」

「だったら私のマンションに来ない。ここから十五分くらい歩くけど、ビールはあるからさ」

「そう言われてもさあ……」

 流石に下平も困惑顔。

「我々は困ってしまうね。それにオレ異性だし、幾ら友達でもさ」

「ねえお願い! 今日は一人で帰りたくないの!」

 合掌までしやがって……。もうあたしが散々話しを聞いてあげたじゃんか……。

「お願い! 今日だけで良いの!」

 枦山さんは合掌を止めない。よっぽど一人になりたくない気持ちは分からなくもないが……「仕方ないな」また下平と目で合図した。

「ハー……。ほんとに今日だけだからね。あたし、旦那に迎えに来れるかどうか電話して来るから。ユースケは?」

「オレは長くなるなって予想してたから、事前にカミさんにメール送っといた」

「でも今生放送中じゃね?」

「終わったら確認するだろうよ」

「相変わらず用意周到だな。じゃああたし、電話して来るから」

 下平は一旦席を外す。

「ごめんねユースケ君。幾ら友達とはいえ、異性のうちに連れて行く事になっちゃって。奥さん怒るかなあ」

「どうだろう。まっ、下平もいるんだし、何も疚しい事もないんだったら、バレても昔からの友達だって言えば大丈夫だよ」

 何を今更……。白々しいにも程があるぞ。

「旦那、迎えオッケーだってさ」

「希もごめんね。私の我儘でうちまで来させる事になって」

「もう良いよ、別に」

 夕貴、謝られてももう遅いし逆に困るんだけど。

 下平の表情を見ていると、オレと同じような事を思念したな。

「あたしは同性だから良いけど、ユースケの方が大変だよ」

「ユースケ君にもさっき謝ったよ」

「下平もいるから大丈夫だろう」

「まあ、夕貴と二人っきりじゃないしね」

 会計を済ませ居酒屋が入るビルを出て、枦山さんの自宅マンションを目指す。

 


 歩く事約十五分、

「そこ左ね」

住宅街に入って直ぐに十階建てのマンションに到着した。

「ここの六階なの」

 鍵を開けてエレベーターに乗り六○八号室の枦山さんの自宅前へ。ドアの鍵を開け、

「さあ入って。ちょっと片付けるから」

笑顔で招かれたのは良いが、ここまで下平もオレも何も喋らず只周辺を見ているだけ。

「夕貴、中々良いとこ住んでるじゃん」

「窓の外には三軒茶屋のビルの明かりも見えるしな」

「パパにちょっとだけ頼ってるから」

 あっけらかんとした口振り。

「あんたまだパパ活してる人に頼ってんの!?」

 下平は目を丸くする。オレは前に聞いて既知していたけど。

「フフンッ!」

「フフンッじゃないよ!」

「元カレが元カレなら」

「夕貴も夕貴だよね」

 窓の外を見ながら声のボリュームを落として言う。

 ソファの方を見ると洗濯したと思われる下着が散乱。黒や赤はないが、水色やピンクの物ばかり。これで普段、彼女がどんな下着を着けているのか知ってしまった。知らなくても良い情報ハラスメント……。

「あっ、これも片付けないとね」

 急いで隣の寝室かは知らないが、部屋に仕舞う、というより投げ込む。

「はいビール。つまみは柿の種かスナックくらいしかないんだけどね」

「良いよそのくらいで。居酒屋で食べて来たしさ」

「そうだな。頂きます」

 缶ビールを開け一口。

 一人では十分過ぎるくらいの大画面のテレビの横には、デスクが置いてありデスクトップのパソコンと、編集に使うのだろう、何か機材も置かれている。

「あのパソコンで編集とかしてるんだ」

「そう。新しく機材買うの高かったんだから」

「どうせパパに強請したんでしょ」

 下平はビール片手に冷めた口振りで枦山さんをジロリ。

「違うよ! 仕事で使う物は全部自分で稼いだお金で買ったの!」

「どうだか」

「ムキになるって事は本当なんじゃねえの」

「ユースケはお人好しだね」

「だって追究したって仕方なくね?」

「そりゃそうだけどさっ」

「あのパソコンだったら編集だけじゃなくて、ナレ原とかも動画観ながら書けそうだな」

「まあね。ユースケ君達作家さんが書いたナレ原を修正したりするのも、結構大変なんだから」

「そりゃ申し訳ない」

 オレ達作家だって、パソコンで動画観たり資料に目を通して必死に書いてるんだぞ!

 未だにパパ活をしている人を利用している事に呆れたり、仕事の愚痴を聞かされたり言い合ったりしている内に、ニ時間は経った。



 枦山さんも自然な笑顔を見せるようになって来ているから、もう大丈夫だろう。そう思っていた刹那。

「私、シャワー浴びて来ても良い?」

「ご自宅だから随分お寛ぎのようで」

 下平は呆れ返った口振り。

 自宅まで連れて来られた挙げ句にシャワーを浴びたい……。幾ら自宅だとはいえ、自由、唐突過ぎではないか。

「どうぞ。下平と二人で飲んでるから」

「ビールは冷蔵庫にまだあるから。私がシャワー浴びてる間に帰らないでよ」

「分かってるって。ありがとよ」

 何でそこまで付き合わなきゃいけないの? あたしもそうだけど、ユースケの顔も疲れ切っている。

 枦山さんが浴室へ行った後、携帯がバイブスした。

『迎えに行くくらいなら良いよ。まだ三軒茶屋なの? 後どのくらい掛かる?』

「カミさんからメールだ。迎えくらいはオッケーだとさ」

「良い奥さんだね」

 下平はからかった笑みを浮かべて、オレの左肩を肘で突く。

「自分だって同じじゃねえか。お互い良い伴侶を持ったな」

「まあね」

「場所はまだ三軒茶屋。後もうちょっと掛かる。終わったらまた連絡する」

 直ぐに返信した。

「あたしちょっとトイレに行って来るわ」

「うん」

 下平がトイレに行っている間に枦山さんが浴室から出て来る。しかも、バスタオル一枚纏っただけで……。

「希は?」

「その前にパジャマか部屋着くらい着なよ。トイレだよ」

 オレが答えた刹那、

「ユースケ君!」

枦山さんが抱きついて来た。しかも小走りした弾みでバスタオルが落ちる。という事は……。

「駄目だよ枦山さん! 何かごめん。駄目だよごめん。駄目ごめん……」

「夕貴、もう上がってんの?……って、あんた達何やってんの!?」

 最悪のタイミング……。

「駄目ごめん……オレから抱いたんじゃなくて枦山さんから抱きついて来たんだよ!」

「夕貴もいつまでそうやってるの! 早く服着な」

 下平が両手で枦山さんをオレから引き離す。

 やっと冷静になって枦山さんの目を見ると潤んでいる。

「ごめんねユースケ君」

 その言葉、今日何回聞いた事か……。

「何か男の人が恋しくなっちゃったの」

「良いんだよ、別に」

 全然良くはないのだけれど、そう返すしか仕方あるまい。

「夕貴、気持ちは分かるけど元カレとはもう終わった事なんだよ! 早く吹っ切れな」

「ごめん。部屋着に着替えて来る」

 そう言い残して寝室と思われる部屋へ入って行った。

「ユースケ、飛んだ災難だったろうけど、今の事はもし奥村さんに会っても黙っておくから」

「ああ。ありがとうよ」

「今日はもう帰ろう。何だかあたしも疲れた」

 オレも最後の最後でどっと疲労感を感じる。

 下平は旦那に「終わったから三軒茶屋駅まで迎えに来て」と電話する。

 オレもベランダに出て相方に「終わったよ。駅まで来てくれたら良いから」と電話を入れる。

『三軒茶屋だね』

「うん」

『相方、何か声が疲れてるけど大丈夫?』

「愚痴を散々聞かされたからね」

『そう。じゃあ駅まで行くわ』

「うん。頼むよ」

 幾ら枦山さんの方から抱きつかれたとはいえ、何れにせよ真子を裏切る行為をしたのには変わりない。だからって突き飛ばす訳にはいかなかったし、悩ましい所だ。

 枦山さんが部屋着に着替えた所で、下平は「今日はもう帰るから」と告げ、お開きとなった。

「さっきはほんとにごめん、ユースケ君。希もだけど。私もお酒入ってたからさ。私も忘れるからユースケ君も忘れて」

「酒が入ってたんだから仕方ないよ。じゃあまた」

 酒のせいにして貰っても、困惑するのはどうせ、オレ。



 下平と二人で駅へと向かう。

「ユースケ、改めて言うけど奥村さんには内密にしておくから」

「ああ。オレも抱きつかれる前に手で止めるとか、何か方法があったんだ」

「かもね。ああいう時の男って弱いからねえ。されるがままなんだもん。うちの旦那もヤバいな」

 仰る通りかもしれない。現に何も為す術もなかったのだから。

 駅に着くと下平の旦那はもう到着していて、シルバーのワゴンの運転席から手を振っている。下平は助手席のドアを開け「早かったね」と笑顔を見せた。

「じゃあユースケ、またね」

「ああ。今日は「色々と」お疲れ。夫ックスは程々にな」

「オットックス? 何それ?」

 旦那は不思議そう。

「しっ! 余計な事言わないでよ。この人、友達の放送作家。ちょっと変わってるの」

 あんたに言われたくはない。

「どうも。希がいつもお世話になってます」

「いや、いつもダメ出しされて泣かされてます。お世話になってるのはこっちの方です」

「それは済みません。希、あんまり友達に意地悪するなよ」

「ユースケ、そんなのお互い様じゃん。じゃあお先に失礼。あんたもたまには嫁ックスしなきゃ駄目だよ」

「なあ、さっきからオットックスとかヨメックスとか何なんだ?」

 訳が分からないのも無理はない。

「業界用語だよ。ね?」

「はいはい」

 投げやりな口振りで返す。当然そんな業界用語は、ない。

 乗車してドアを閉め、下平夫妻のワゴンは発進した。

 数分後、真子が運転するオレの青のハッチバックが到着。助手席のドアを開けて乗車すると、

「ごめん。ちょっと遅かった?」

「いいや。仕事終わりに悪かったな」

「良いのよ、別に」

「ハアー……」

 溜息が出てしまう。

「随分と疲れる飲み会だったんだね」

「まあ「色々と」ね」

「付き合いも大変だ」

 真子は労いの笑みを見せるが、オレは後暗くて苦笑いしか見せられない。

「早く帰ってお風呂入って寝よ」

「うん。そうするか」

 相方は自宅マンションへ向け発進させた。今日起きた事を知ってしまったら、真子はどんな反応をするのだろう。多分平手打ちだけでは済まないな……。

 ニ五時過ぎにやっとマンションに到着し、早速二人で入浴する。相方は夫婦で入浴するのを「コミュニケーションの時間」だと大切にしているから。

 いつものように、オレから相方の全身を洗って差し上げる。女性の裸体を見るのは、本日二度目なんだよな……。



 こうして開始前から暗雲、オレだけにだが、漂う新番の音楽番組。

 翌週、会議に出席する為、まだほぼ現場が一緒の岬を助手席に乗せ、THSへ向かっていた。

「やっぱり宮崎さんって人、何か怖いですよね。ユースケさんも初会議で色々注意されてたし。言ってる事は間違ってはないですけど、私もガチで苦手なタイプかもしれません」

 岬の表情にも、「暗雲」が表れている。

「あの人はいつも、誰に対してもあんな感じなんだよ。只、もっと言えば先週は定刻通りに来てたけど、遅刻の常習犯でもあるんだよ。三十分、四十分は当たり前」

「前の仕事が押してる(時間が長引く)んじゃないんですか」

「それもあるかもしれないけど、済みませんの一言もないんだから」

「何かもう大物の風格って感じですね」

 また余計な情報を吹き込んでしまったが、岬は笑う。



 THSに到着し、長い待ち時間のエレベーターに乗って今日はD2会議室に入ると、

「あっ、ユースケ君と岬ちゃんおはよう」

枦山さんは会議五分前には席に着き携帯を弄っていた。が、いつも通りの屈託のない笑顔。

 だからオレも「おはよう」といつも通りを装った。「おはようございます」岬は当然普通だ。

 あれからメールも来てないしこの前の「一件」には全く触れない。彼女の中ではもう「過去」なのか。それともオレを気遣っているのか。皆目見当が付かない。

「皆おはよう」

 間を置かずに平松絵美プロデューサーも入室。こちらも屈託のない笑顔。

「おはようございます」

 全員で返し、オレ達も席に着いた。

「ああヤバかった! 今日は間に合った!」

 NARI君も入室する。

「ギリギリセーフだね」

「ユースケさんも忙しい筈なのに、あんまり遅刻しないっすよね」

「まあ大した事じゃないけど気を付けてはいるからね」

 確かにレギュラー九本、会議や打ち合わせ、ロケハン(ロケ地で何処からVを始めるか、出演者に何をさせるかなどをディレクターと打ち合わせする)がある割には、自分でも不思議だが会議に遅刻する事は少ない。

「良いよ良いよ。ギリギリでも。いつも遅刻する人よりかは。さあ、一人いないけど他の人は揃ってるし、始めちゃおうか」

 平松さんの子細ある笑み。

「ほんとですね。宮崎さん来てない」

 岬が耳打ちして来る。オレは「だろう?」と頷いた。



「それにしても由衣ちゃん、随分おしゃれなバッグ持ってるし腕時計も高そうなのしてるね」

 平松さん、会議を始めるのではなかったのですか? 会議よりもスタッフの私物にアンテナが引っ掛かってしまったか……。

「父に買って貰ったんです。去年の誕生日プレゼントに買ってくれただけですから」

 そう言って微笑む彼女は後藤由衣。彼女も作家だ。

「羽振りの良いお父さんだね。私なんかプロデューサーに昇進したよって伝えても、頑張れよの一言だけだった」

「平松さんは大人の女性なんですから」

「でも何かお祝いしてくれても良いくない?」

「オレも作家に成っても、親からのお祝いは何にもなかったよ」

 岡本さんも苦笑して入って来る。ここはプロデューサーに付き合おうという事だろう。

「差し支えなかったらで良いんだけど、お父さんは仕事何やってる人なの」

 平松さん、そこまで訊くのか。

「実は、サンダース(世界的に有名なファッションブランド)の社員なんです」

「ええーーっ!!」

 室内の全員が声を揃えて飛び上がる程だ。オレも噂にも聞いた事はなく、初耳。

「サンダースっていったら、特に日本じゃ若者から年配の女性に人気のあるブランドっすよね」

 大名家の子孫のNARI君でさえ興奮気味。

「元々父は日本の会社でスーツのデザイナーをしていたんですけど、私が生まれる前にサンダースにトレードしたらしくって」

「ヘッドハンティングって事」

 オレも興味本位で訊いてしまった。だって室内全体が会議そっちのけで、後藤の父親の話題で持ち切りだから。

「ええ。そんな感じです。今も男女用のスーツのデザイナーをやってます」

「由衣ちゃんが持ってるバッグと腕時計もサンダースの商品?」

 枦山さんも興味津々。プロデューサーどころかディレクターまでもが会議を忘れている。

「いや、これは別のブランドですけど」

 後藤は苦笑するが、父親が世界的人気のあるファッションブランドの会社にヘッドハンティングされたのは、確かに凄い、としか表現のしようがあるまい。

「因みにお母さんは何やってるの? 差し支えなかったらで良いけど」

「岡本さん、そんな根掘り葉掘り」

「だって興味涌いちゃったんだもん。ユースケ君は興味ない?」

 にやついた顔を向けられる。

「……ないと言ったら嘘になりますけど」

「ほら、やっぱあるんじゃん!」

「でも人のプライベートな事ですから」

「良いですよユースケさん。母は東大出身の弁護士で、今は個人事務所を持ってます」

「おーーっ!」

 また室内の全員が声を揃えた。

「もうお嬢様じゃない」

 後藤が打ち明けた話が全て真実ならば、彼女は唖然とした口振りの平松さんの言葉通りだ。

「両親共に凄いし、別に後藤さんが平凡って言う訳じゃないけど、何故放送作家に成ったの?」

「ユースケさんだって岡本さんの事言えないっすよ」

 NARI君に指摘されてハッとする。オレもすっかり室内の雰囲気に呑み込まれていた。

「そうだよねえ」

 岡本さんに右肩を『パシン!』と叩かれる。

「単純にテレビっ子だったからです。子供の頃から志村けんさんやとんねるずさん、ダウンタウンさんにウンナンさんの番組が好きで。自分もこういう番組に携わりたい! って思うようになったんです。両親には動機が不純だ! って怒られましたけど」

「でも親子揃って志を手に入れちゃった訳だもんね」

 枦山さんは唯唯感嘆。

「まっ、凄い一家だよね」

 凄いとしか表現出来ない、我ながら語彙の乏しさ……。

 気が付けば後藤由衣のプライベートの話に夢中になり過ぎて、一時間くらいはたっていた。

 オレも含めてだが、大丈夫なのか? 今回の新番は。



 その刹那、宮崎さんが入室して来た。「遅れて済みません」の一言もなく、淡々とした表情で席に着く。人の事を気に掛ける立場ではないが、この人こそ大丈夫なのか?

「ほんとだ。宮崎さん何も言わないんですね」

 岬がまた耳打ちして来る。オレは「な?」と頷く。だがこの人は違った。

「宮崎君、遅刻するんなら電話かメールくらいして来てよね」

 いつも笑顔の平松プロデューサーも流石に真顔。

「前の仕事が押したんです」

「それは分かるけど、電車で移動するんならメールくらいは送れるよね」

「次から気を付けます」

 真顔の平松さんに対し、宮崎さんは入室してから表情一つ変えない。

「私も「遅刻の常習犯」って知ってた上でオファーしたけどさ、今回の新番にやる気あるの? なければ辞めて貰っても良いんだよ。こっちは」

 温厚な平松さんの口から「辞めても良い」という言葉が出るとは……やはりプロデューサーに昇進してからは厳格だ。そこまで言われても宮崎さんは、

「……」

無言で表情も変わらず。

「まあ平松さん、今日はその辺にして。それより宮崎君、由衣ちゃんの父親、あのサンダースのデザイナーやってるんだって」

「へえ、それは凄いし後藤さんはお嬢様ですね」

 微笑は浮かべたものの、興味はなさそうだ。

「別にお嬢様じゃないですよ、私」

 寧ろ後藤の方が苦笑だが笑っている。

 普段から何を思念しているのか全く読み取れない、オレも同じような事を言われた事があるから人の事はいえないが、宮崎さんはその倍。それが、宮崎哲哉という人物だ。



 二月に入り、番組のコンセプトも大分煮詰まって来た。宮崎哲哉の三、四十分、酷ければ一時間の遅刻は相変わらずだが……。

 電話やメールも、なし。平松プロデューサーは諦めたのか、もう何も咎めず素知らぬ顔をしている。

 そのコンセプトは、「トークとライブ中心の新しいスタイルの音楽ライブバラエティ」。自分も携わっているので批評は出来ないのだが、巨視的にいえば我ながら随分大きく出たものだ。

 毎週ゲストを三、四組迎え、MCの中越智哉、町田翼、スカッシュ4とのトークを中心に、ゲストのライブの他、新譜情報も織り交ぜるという構成。

 番組タイトルは初め、『音楽の時間!』が仮題だったが、平松プロデューサーの他岡本さんも、「何か堅苦しいね」と再考し始めた為、『音楽アワー!』『LIVE』『オンガクのジカン!』と色々案は出たが二人は中々承諾せず、最終的に『オンガク!』で、「子供にも分かり易くて良いね」とやっと平松さんから許諾を得た。

 岡本さんは、「もっと良いタイトルがあるかもしれないよ」と不服だったが、仮題がそのまま採用されるのは極希であるから。



 二月の末にはTHS社長の定例会見で、編成を見直す事が正式発表され、三月中旬には番組ホームページも開設された。内容は……。

『THSが満を持して、ゴールデンタイムで音楽番組をスタートさせます!! 題して、『オンガク!』。

MC陣は、TV音楽番組史上「最強」メンバー!! 数多の番組のMCをこなし、今や押しも押されもせぬトップアイドルとなったSTATION CLUBのリーダー中越智哉! そして近年ではドラマの主演のみならず、バラエティやトーク番組での活躍が目覚ましく、女性からの好感度も圧倒的に高い町田翼! さらにヒット曲を連発し、その愛らしさから「美女アイドル」との呼び声も高いスカッシュ4の4人! 初取り組みとなる3組の最強レギュラーMCだけでも何が起こるかわからないドキドキ感が漂っているというのに、今をときめくアーティストがゲストにやってきて音楽の力が加わったら、それはもう爆発的な「新感覚」を味わえること間違いなし! 見たことのない音楽バラエティの誕生に、THSが戦々恐々の臨戦態勢で挑みます!


今まで見たことのない組み合わせのレギュラー陣と、今一番みたい&聞きたいアーティストゲストとの顔合わせで、どんな音楽番組が生まれるのか!? 「音楽バラエティ」と「音楽ライブショー」と「音楽ニュース」を縦横無尽に駆使した、新しいスタイルの「教えあう=音楽ライブバラエティ」! THSが誇る音楽番組の歴史に新たなページが幕を開ける、その瞬間! 感動と興奮のお祭り騒ぎで、日本全国遍く元気になる体験をぜひ! 皆さん一緒に日本の音楽シーンの「旬」をシェアして盛り上がりましょう!!』

 文面は岡本さんと何故かオレが選ばれ、岡本さんの講評を得ながら二人で執筆し、枦山さんらディレクター陣が修正して平松プロデューサーが最終チェックした。

 これも批評は出来ないが、まさかこんなに如何にも「画期的!」「見損なったら損をする!」「涙あり笑いあり!」といった内容になるとは。少し照れ臭くて笑ってしまう。

 見所をアピールするのだからこのくらい大きく確言して当然であり、他の番組も同様なのだが。



 しかしTHSが火曜ゴールデンタイムの編成を見直す事がスポーツ紙、ネットニュースで報じられると、『中越くんがMCなら見たいけど、ドラマと被っちゃうじゃん』『アイドルの司会はもういい』『7時からはクイズ。8時からは予想的中なら有名飲食店の一流メニューが食べられる。みたいなクイズ要素が入った番組が続けば、さすがにクドいっしょ』などと、視聴者からは不満の声が上がっているそうだ。

 また別のネットニュースの記事では、『21時からに放送時間が決まった『オンガク!』は、前番組が長年20時からの放送だったこともあり、視聴習慣が崩れるほか、もし生放送だと未成年のアーティストが出演できなくなるなど、マイナス面も危惧されている。(中略)更に近年は音楽不況に伴い、ヒット曲が生まれづらくなっており、音楽番組自体への関心も低くなってきている』。

 やはり出て来た「視聴習慣の崩壊」というワード。因みに『オンガク!』は今の所収録放送の予定だが。

 別の記事では「キー局の関係者」の話として、『音楽番組は特番となると、各局高視聴率を取りますから、もう30分や1時間の番組で歌を聞かせる時代は終わり、半期に一度のお祭り形式でイベント化していくのが、音楽番組の流れでしょう』とあった。何処のキー局関係者かは知らないが、確かにレギュラーの音楽番組は減少している。



 四月下旬、憂い漂う中開始された『オンガク!』。

 気にはなるし責任もある立場なので、二一時前にはTHSにチャンネルを合わせていた。

 初回のゲストは男性ユニット一組に、ソロの男性アーティスト一人。女性アーティストが一人の計四人。MCの方が人数が多いのは歴然。

 最初から終わりまで、相方の『報道LIVE 22』まで観ていたが、中越はMCに慣れているので上手くて面白いし、町田もMC初体験ながらも、他のバラエティやトーク番組にゲスト出演した経験が多いのもあって、ホンに沿ってだが健闘していた。が……。

 スカフォーはMCの筈だがどうしても「アシスタント的」扱いになってしまう。 

しかもリーダーの押尾玲奈だけが喋り、他の三人は笑ったり頷いたり相槌のみ。勿論ホンにはスカフォー四人の台詞は書いてあるのだが、まだMCに慣れず緊張もあり入って行けなかったのか、将又あまりに台詞が棒読み過ぎてカットされたのか、進行は殆ど中越と町田のみが担当し、スカフォーのコメントは少ないオンエアとなっていた。

 


翌日、午前中にキー局での打ち合わせを終え、昨日の数字を確認する為〈マウンテンビュー〉に立ち寄る。オレが事務所に入ると陣内社長は休憩エリアにいて、

「昨日の『オンガク!』の数字だね。はい、視聴率表」

看破していた笑みを浮かべて渡して来た。

「よくオレが来るって分かりましたね」

「うちの事務所じゃ新番が始まると真っ先に数字の確認に来るのは、中山君くらいだもん。新人の頃から仕事熱心で感心だね」

「からかわないでくださいよ。どうせ昔っから仕事しかやる事がない人間ですので」

「からかってなんかないよ。また卑下しちゃって。岬ちゃんなんかさっき、後でユースケさんに聞こう、なんて言ってたんだから」

 あいつそんな事を……それは良いとして早速表を確認する。

「……六・七%、かっ」

「低調なスタート、幸先良いとは言えないね。でも『オンガク!』の時間帯だけガクーンと落ちてるでしょ」

 十九時台が十・五%。二十時台が九・三%。

「確かにそうですね」

「それで君の奥さんのニュース番組からまた上がってるの」

 『報道LIVE 22』の数字は十二・七%。という結果だ。

「音楽番組の需要が下がっているって証ですよね、これ。典型的な」

「CDは売れない時代たけど、ドラマの主題歌とかヒットする曲はヒットするじゃない? 今は態々テレビで情報を得るんじゃなくて、ネットの時代だよね。やっぱ」

「テレビ離れって事ですか……フー」

「溜息も出るよね。私達がこんな話してちゃいけないんだけどさっ」

 陣内社長と共に切なく苦笑するしかない。これが現実、時代の流れなのだから。



 翌週の会議。

「あー……せめて八パーか九%台は行くと思ってたんだけどなあ」

 平松プロデューサーの溜息&ぼやきで会議はスタート。宮崎さんはいつも通りまだ来ていない。

「そりゃ浮かない顔にもなるよね。あんな数字じゃさ」

 岡本さんは笑みを見せてはいるが、目は痛惜の気持ちが滲んでいるのは否めない。

「私そんなに落ち込んだ顔してる!?」

「だって言葉が落ち込んでるんだもん」

「ああ駄目駄目! プロデューサーがそんな顔してたら益々数字に響くね」

「まだ初回がオンエアされただけですし、時間帯が変わって番組自体が浸透してないんですから。今は様子見の期間ですよ」

「ユースケ君の言う通りかもね」

「そうだよね。まだこれからだし!」

 岡本さんの目からは痛惜の念は消え、平松さんにもいつものスマイルが戻った。オレも憂いが消えた訳ではないが、たまにはポジティブな事も言わないと。

 今日決まった事は番組のフォーマットは変えず、暫く静観する。あまりマイナーチェンジを繰り返していると視聴者は混乱し、更に数字を落とす事になり兼ねない。

 それとスカフォーのメンバーを火急にMCに慣れさせ、四人の役割分担を勘考した上ではっきりさせる。現状ではMCなのかアシスタントなのか曖昧だ。

 その為には四人のキャラクターを熟知し、ホンにもキャラに合ったインタビュー、コメントを執筆しなければならない。言うは易く行うは難しだが、これも作家の仕事の一つであるから。



 会議後、今日はオレも岬も別々にキー局でディレクターとの打ち合わせが入っている為、岬は先にTHSを後にし電車で現場へ向かった。オレはまだ時間があるので喫煙ルームで一服。すると平松さんが喫煙ルームに近付いて来て、オレを確認すると破顔して入室して来た。

「私もお付き合いしても良い?」

「どうぞ。平松さんの会社なんですから。でもタバコ吸ってましたっけ?」

 初対面した当時は非喫煙者だった筈だ。

「三、四年前から。チーフディレクターやプロデューサーを任せられるようになると、何か紛らわせる物が欲しくなっちゃって」

「大変なのは分かりますけど、何でまたこんな身体に害にしかならない物に」

「ユースケ君は初めて逢った時から吸ってたもんね。私は一日十数本しか吸ってない。今より値段が上がれば止めるつもりだし」

 破顔し火を点けた。だがその破顔には疲れと憂いが滲んでいる。プロデューサー、番組の最高責任者だからな。

「あのう」

「何?」

「またネガティブな事を言いますけど、時間帯が変わって視聴習慣が壊れた事も要因なんでしょうね。前身番組の方が八〜九パーは取ってましたし」

「時間帯に拘るね。さっきは番組自体が浸透してないって言って励ましてくれたのに」

 ニヤリとして左肘で腕を小突かれた。

「済みません」

「別に謝らなくても良いけど、本音を言えば私もそれは思ってた。社長や編成局長はその辺の事を分かってるのかなあって」

 無機質な表情で天井を見上げ、紫煙を吐く。上層部から告げられた時の心境を振り返っている。その時も無機質な心境だったのかもしれない。

「そうでしたか。でも決定されちゃった事は仕方ないですし、第一番組は開始された訳ですから、今後どうやって巻き返しを図るかですよね」

「フフンッ。ユースケ君昔っから変わらないね。ネガティブな発言をしたかと思えばポジティブな事も言う。マイペースかと思えば仕事は地道にこなす。色んなキャラを併せ持ってて掴み所がない。ハハハハハッ!」

 爆笑され今度は左手で身体を揺蕩させられた。 

「難解な人間で悪うございます」

「批判してるんじゃないよ。そこがユースケ君の面白いとこなんだからさ。他のプロデューサーも分かってるからオファーするんだよ」

 これを面白いと評価出来るのだろうか? 事実ならありがたい事だけど。

「爆笑されたんでもう一言ネガティブな事を言います。やっぱりMC六人は多過ぎです。スカフォーも彼女達の個性を活かす策を講じなきゃいけませんし」

「確かに。実はさ、スカフォーがキャスティングされたのは事務所社長のごり押しがあったからなの。うちの編成局長と社長は友達とまでは行かないけど、お互い見知った仲みたいでさ。一緒にゴルフを初めて回った時に局長が、今度の改編で音楽番組を刷新するって軽く言ったみたいなの。局長にしたら今後もゲスト出演を宜しく、みたいなつもりだったらしいけど、社長は「だったらうちのスカッシュ4を遣って欲しい。ぜひ遣ってくれ!」って迫って来たんだって。あまりの気魄に局長は根負けしたみたい。社長はTHSの社長にまで売り込んだらしいし」

 平松さんは思い出して吹き出す。

「そうだったんですか。そんな裏事情があったんですね」

 人気が上昇傾向にある所属タレントをごり押しで売り込む。この業界では日常茶飯事だ。

 オレも笑ってしまい、

「ね? 笑っちゃうでしょ」

平松さんと共に吸煙機に向け紫煙を吐き出した。



 五月も下旬に入った。『オンガク!』の平均視聴率は六%台のまま推移している状態。

 枦山さん始めディレクター陣、オレ達作家陣も「どうにか数字を上げる企画はないものか……」とあれこれ勘考し、頭を抱えているのだが、

「何とか起死回生が図れるコンテンツはないのかなあ」

頭を抱えているのは平松プロデューサーも、然り。

「今はどの局の音楽番組も数字は芳しくないからね」

 岡本さんは苦笑を浮かべてフォローするが、

「だからって現状が続けば、番組の存続にも関わって来るよ」

平松さんが頭をもたげる事は、ない。

 でもフォーマットは変えていない。只、中越智哉と町田翼は「番組の顔」として。課題だったスカッシュ4は「番組の花」として、時にはにこやかに。時には真面目に番組の引き立て役に徹して貰う事になった。が、焼け石に水だっのか。

 中越、町田、スカフォーといった人気者達がレギュラーだからとはいえ、数字に結び付く程世の中甘くはない。それはスタッフ一同甘受している。

「新譜情報は後半に残して、一度『懐メロ特集』とかやってみたらどうですかねえ」

「懐メロねえ……他局でもやってるじゃない?」

「でも昭和から平成、令和と広げれば、老若男女幅広い世代が視聴してくれるんじゃないかなあ」

「そうっすよね。世代に関係なく皆思い出の曲はあるでしょうから」

「令和まであるんだったら、私も一視聴者として観てみたい気がしますね」

 岡本、NARI、後藤の順での助け船。放送作家は「個」でもあり「集団」でもあるのだ。

「令和まで広げるねえ……」

 平松さんの微妙な表情……駄目か?

「分かった。編成と掛け合ってみる。二時間か、十九時からの三時間スペシャルとしてね。良し、その方向で行こう!」

 平松さんはやっと頭をもたげ、笑みを浮かべて『パンッ!』と柏手を打ったのは良かった。が……まさか特番にするとは。まあ三世代まで広げれば、一時間のレギュラー放送では収まらないだろうけど。



 そんな折、下平から電話が掛かって来た。

『今度特番で親が富豪な芸能人や素人を集めた番組やる事になったんだけど、誰か知らない』

「そんないきなり訊かれてもなあ」

『芸能人は直ぐ見付かったっていうか、それを売りにしてる人もいるから容易いんだけど、素人は中々いなくてさ。業界の人とか一般の友達にも訊いてるんだけど、それでも中々』

「集まらないよな」

『そう。スタッフ総出で探してるんだけど、素人だから断られちゃったりさ。後三、四人は欲しいの。誰か一人でも良いんだよ』

 オレも中流の会社員とパートの家庭で育てられた身。同級生達もあまりうちと変わらなかった。

「親が富豪な人を知ってるのは、自分も富豪な家庭で育った人くらいだろう」

『そうかもしれないけど、何とか絞り出して。今度飲み奢るからさ』

「しつこいなあ、あんたも」

 しつこいのは下平だけではない。この業界、特にADやディレクター経験者はしつこくてしぶとい人が多い。一般人に街頭インタビューをしたり、企業の社長などに出演交渉したりするのだから、自然とそうなって行くのだろう。

『親が社長やってるとか、経験者でも良いからさ』

 電話の向こうで懇願する下平の表情が目に浮かぶ。友人としては、何とか力になってあげたいが……。

 オレも困惑している刹那、後藤由衣が脳裏に浮かんだ。彼女なら業界人だし出演してくれるかもしれない。下平プロデューサー殿の目に留まればだけれど。

「富豪かどうかは分からないけど、『オンガク!』の作家に父親がサンダースにヘッドハンティングされて、母親は東大出身の弁護士だっていう女性はいる」

『サンダースってブランドの?』

「そうらしいけど」

『やっぱ知ってんじゃん! ユースケ』

 多分、とうか声からして明らかに破顔しているな。奴は。

「出演してくれるかは断言出来ないけど、普通の会社員家庭よりかは給料は多いだろうな」

『そうなんだ。ぜひその子紹介して!』

「安堵するのはまだ早いかもだぞ。まあ、君が良いんだったら本人に伝えてみる」

『絶対富豪だよ。世界的ブランドの社員だったら。頼んだよ』

「はいはい」



 早速、後藤由衣に電話。別に『オンガク!』の会議前か後でも良いのだろうけれど。これも業界人の性で、なるべく早くと気持ちが逸り、電話を掛けたりメールを送信したりしてしまう。

『もしもし。どうかしたんですか? ユースケさん』

「ちょっと友達のプロデューサーに相談されたんだけど……」

 下平から聞いた通りに内容を伝える。

『私がテレビ出演ですか!? そんなおこがましい。うちは富豪じゃないですよ』

 後藤は電話の向こうで困惑し、苦笑いをしながら言う。

「まあ本音でプライベートな事をトークするだけだろうから。どうしても無理だったらそのプロデューサーに断われば良いよ。多分無理強いはしないだろうからさ」

 いや、下平の事だから無理強い、食い下がる可能性は大だ。我ながら無責任だが。

『分かりました。ちょっと考えてみます』

「ごめんね。オレが余計な事を言っちゃったから」

『ユースケさんは悪くないですよ。そもそもは私が調子に乗ってペラペラ喋ったのがいけないんですし』

 今の言葉は自省しているのか、将又遠回しに批判されているのか。

「今回は無理なお願いを本当に申し訳ない」

 二言謝罪して下平の電話番号を教えた。

 下平にも「考えてみるだってさ」と後藤の意思と彼女の番号を、メールで伝えた。後は下平の仕事だ。



 あれから一ヶ月近く経った六月中旬。『オンガク!』の会議後、後藤がオレに近付いて来た。

「昨日、下平さんの特番の収録があったんです」

「出演したんだ。何か悪かったね」

「いえ、結構楽しかったですよ。でも下平さんの気魄、凄いですね。私も押しに弱いですから」

 下平の奴、やはり気魄とごり押しで無理強いをさせたな。

「友達に変わってお詫びします」

「良いですよ全然。お力になれて良かったです。確り『オンガク!』の番宣もしておきましたから。他局なのに」

 後藤はニヤリとし照れ笑いを見せたが、オレも無理強いをさせた張本人の一人。何か自省の念が生じ、申し訳ない気持ちになってしまう。終わった事は仕方がないのだが……。

 そして七月上旬、例の特番はオンエアされた。

 まずはMCの人気女装タレントと男性芸人が父親、または母親の年収が一千万円以上のタレント、素人を選んで行くゲームから番組はスタート。四人クリアすれば次回オンエアされる機会に、自分達が呼びたいタレント、素人を希望出来るというルール付き。

「どっちかと付き合っても良いイケメンか美女を呼んでも良いんだね?」

 MC二人はガチで低額か高額かを相談しながら選んで行くのだが、

「親の職業くらい教えてくれないと分からないよ」

女装タレントが注文を付け、全員がフリップのシールを剥がす。改めて選ばれた四人の中には、

「デザイナーだから絶対あの放送作家の子の父親の年収は高額だよ」

後藤も選ばれて立ち上がる。

 MCの二人は見事クリア。後藤の父親の年収は、六千五百万円と、集められたタレントや素人の中でトップクラスだった。

「お父さんは何処のブランドのデザイナー」

 女装タレントが訊く。

「サンダースジャパンでメンズとレディースのスーツのデザインをしてます。世界的には十五、六人しかいないって言ってました」

「世界的にもたったそれだけしかいないの!?」

 MC二人は目を丸くし驚愕。

「自分は放送作家だけど、何の番組やってるの」

 芸人が訊く。

「他局なんですけど、THSの『オンガク!』とかをやってます」

「ああ、中越君がMCのやつね」

 シークレットを告白するコーナーでは、

「じゃあ後藤ちゃん剥がしちゃって」

芸人に促され剥がすと、「大物芸人と合コン」と書かれている。

「友達の紹介で、大阪の放送局の……」

「あっ、分かった。あの合コン好きの人でしょ? 僕もたまにお世話になってるんだけど」

 無論名前は音声で口元も声も消されていた。

 番宣もしてくれていたし、他には「父親はホストクラブの社長だが、実は酒に弱い」とか、「母親はよく当たると評判の占い師だが、息子の自分は三十人以上にフラれている」。「父親は現在オカマバーの社長でオカマだが、前職は自衛官」などユニークな素人が多く、普通に笑って観ていた。

 翌日の夜。下平から『おかげで良い数字が取れたよ! 注目を引く子を紹介してくれてありがとさん!』と感謝よりも喜びを伝えるメールが受信されていた。



 特番がオンエアされた週の『オンガク!』の会議後。

「由衣ちゃん、この前特番に出てたね」

 NARI君が笑顔を浮かべて後藤に話し掛ける。

「NARI君観たの? 誰にも言ってなかったのに」

「私も観ましたよ。お父さんの年収が六千万以上もあって大金持ちですね」

 岬も声を弾ませて二人に近付いて行く。下世話な事を……興味が涌くのは分かるけど。

「そんなにお金持ちでもないんだよ。その分税金で持って行かれるし」

「でも面白かったよねえ。岬ちゃん」

「そうですね。タレントや他の人達にも負けてませんでしたよ」

「私そんなに目立ってた? もっとあくの強い素人の人もいたと思うんだけどなあ」

 後藤は苦笑して返す他、ないだろう。

 この間にもオレが何気なく発案、というより発した『懐メロ特集』の企画は着々と具現化して行き、準備は整いつつあった。

 


同日の二五時過ぎ、録画したレギュラー番組をチェックしていると「ただいまー」相方が生放送を終え帰宅する。

「おかえり」

「ディレクターのお母さんが地獄谷温泉に行ったんだって。それで皆さんでってお土産を買って来てくれたみたいなの。夜中だけど食べない?」

「うん。夜食として一つ頂こうかな」

「奥村さんは結婚してるからって四つ貰ったから、一人二つずつあるんだよ。一つで良いの?」

「今日は一つで良いよ。もう一つは明日食べるから」

「そう。なら私も一つ食べよう」

 相方は洗面所で手を洗ってうがいをしリビングに戻ると、ソファに座るオレの隣に座り、饅頭を食べ始めた。

「美味しいね。このお饅頭」

「うん。旨い」

「相方お風呂まだでしょ? これ食べたら入ろう」

 出た出た。「コミュニケーションの時間」。オレも楽しみにしているのかどうなのか、全く自覚は、ない。嫌だったら先に入浴している筈。入っていないとなれば、無意識の内に楽しみにしているのか、将又真子に付き合っているだけなのか、これにも自覚は、ない。

 いつもと同じく真子の全身を洗って差し上げた後はオレの番。背中を洗いながら、

「相方の『オンガク!』、苦戦してるみたいだね。幸いって言ったら悪いけど『22』にはあまり影響はないみたいだけどさ」

 夫の番組も気掛かりだが自分の番組もぞんざいには出来ない。真子にとっては痛し痒しだろう。

「今月オレが出した『懐メロ特集』がスペシャルでオンエアされる。昭和から平成、令和にまで幅を広げて。それがどうなるか」

「それは凄いじゃない! 企画が採用されたんだね!」

「まあ出したというか思い付きで提案しただけなんだけどね。令和にまで幅を広げようって提案したのは先輩の作家だし」

「思い付きでも良かったじゃない。具現化されるんだから。スペシャルがどれくらいの数字を取るかだね」

「そこなんだよなあ問題は。スペシャルにしてもコケて貰っちゃあ困る」

 ユースケは湯気が上がって行く天井を見上げる。「大丈夫だよ!」と無責任な事も言えないし、こんな時何と言ってあげたら良いのか……。

 


この時のユースケもまだ普通。基本ローテンションだけど元気だった。

 まさかこの三ヶ月後に、さっき食べたお饅頭の包み紙に書いてあった「地獄」という言葉が頭を過る事態となるとは、ユースケ本人も予知していなかっただろうし、私も予期出来なかった――



 七月下旬。『懐メロ特集』は『真夏の昭和・平成・令和の国民的名曲スペシャル!!』と題され、本当に十九時からの三時間特番として、しかも生でオンエアされた。労働基準法の為、十八歳未満のアーティストやグループは二二時までの出演とせざるを得ない。

 ゲストは全十一組。トップバッターは男性アイドルグループ。令和の名曲から賑やかに番組はスタートする。

 その後は昭和、平成の名曲がゲスト本人の歌唱で次々と披露され、令和の名曲は番組後半となるが、十八歳未満のゲストもいるので順不同で差し込まれる対応がなされた。

 中越がリーダーのSTATION CLUBとスカッシュ4の名曲も披露され、MCだけではなくゲストも観客も大いに盛り上がった状況のまま、相方の『22』にバトンが渡された。

 大盛況なのは演出もあるし良いのだが、これが「スタジオだけ」で終わってしまっては元も子もない。

 翌日、言い出しっぺはオレなので数字は誰よりも気になり、正午ちょい過ぎにまた〈マウンテンビュー〉へ。事務所に入ると休憩エリアには誰もおらず、オフィスエリアへ入る。すると岬は自分のデスクで仕事中。

「おはようございます」

「おはよう。社長は?」

「喫煙エリアじゃないですか。中山君は絶対に顔を出すからって、にやついてましたよ」

「本田さんもニヤニヤしてオレの顔を見るんじゃない! 昨日の数字は確認したの?」

「いや、まだです。ホンを書く仕事があるんで。どうせユースケさんが来るんならその時確認しようと思って」

「そう」

 ニヤニヤした顔も何かムカつくし、人を暇人みたいな口振りで。オレだって神奈川県内でロケハンの仕事を一つ終わらせて来ているんだぞ!

 だがにやついてしまう心境にもなるのは、オレを熟知している人ならばそうだろうなと理解は出来る。小心者で気が急く姿を、幾多と見られて来たから。

「あら中山君。「今日も」早かったね」

 一服を終えた陣内社長が中に入って来た。岬の言う通り、にやついて。

「はいこれ。さっきFAXされて来たばっかりだから」

 黙って視聴率表を受け取る。もう社長も分かり切った事。

「どうでした?」

 岬が席を立ち近付いて来る。

「まだ見ておりません」

 その表を確認すると……十三・五%。発案した自分でもびっくりの数字だ。

「最初の発案者は中山君なんだってね。岬ちゃんから聞いたよ。良かったじゃない。流石は私の教え子!」

 オレの教育係は社長に就任する前の、今破顔している陣内美貴だった。

「本田さん、余計な事吹き込まなくて良いから」

 人の事は言えないが。だが岬は……。

「ほんとあり得ない数字! これはスタッフ皆歓喜しますよ!」

 全く意に介さず破顔……かっ。

「後は今回の数字をどう維持して行くかだね」

 社長の表情が微笑に変わる。

「そうですね。一番の課題はそこだ」

「また極端に下がらなければ良いけど」

 岬も一喜一憂。放送作家としての自覚が芽生えて来たな。教育係を担当していた者からすれば、その成長は嬉しい事。



 その週の『オンガク!』の会議はのっけから……。

「流石はユースケ君だね! やる時はやる!」

「ほんとにこんなに数字が上がるなんて思ってなかった! ユースケ君にオファーして良かったー!」

「お手柄っすね!」

「私も勉強になりました」

 岡本、平松、NARI、後藤は一喜一憂どころか破顔して一喜のみ。

「そんな事ないですよ。皆で肉付けした企画なんですから」

 面映いがそれは違う。ディレクター陣や作家陣、数多の人の援助があっての十三・五%なのだから。

「でも来週、レギュラー放送になった時の数字も気になりません?」

「それもそうだよな」

 枦山さんらディレクター達の方が余程冷静だ。

「ああ、確かに二桁一回で終わっても意味ないしね」

 平松プロデューサーがやっと冷静な顔付になった。

「どういう企画、コンテンツにすれば、レギュラー放送でもいきなり二桁までは行かなくとも、それに近い数字が取れるか。ですよね」

「うーん。そうだよねえ」

 岡本さんも破顔から真顔に変化し、腕組をする。

「只でさえ厳しい音楽番組なのに、結局は数字が良いか悪いかなんっすよね」

 NARI君も両腕を後頭部に回した。

 作家も冷静にならざるを得ない。会議室内は一気に重い雰囲気に包まれる。「音楽バラエティ」と銘打っているからとはいえ、制作する現場はみな真剣そのもの。笑いが絶えない会議などないのだ。

 結局この日に出された結論は、コンテンツ、フォーマットも変えずに様子を見ようという事だった。スペシャルとレギュラー放送とではどれくらい数字に差が出るのか、一度試してみようというもの。

 翌週、気掛かりだったオンエアと会議。

「私から言わなくても皆承知してるだろうけど、様子を見た結果、八・六%。以前よりも増しな数字ではあるんだけどね」

 平松プロデューサーの安心した訳でも痛惜を感じている訳でもなさそうな、何とも微妙な表情。でも一桁は一桁。現在の音楽番組としては、中々健闘した数字ではあるかもしれないが。

 だが、問題は数字だけではなかった……。



 後藤由衣の、自分の父親はサンダースジャパンのデザイナーとの話は大嘘だった事が判明したのだ。

 発端となったのは下平が担当した特番のオンエアから数週間後、サンダースジャパンから「当社にはスーツのデザインを手掛ける「後藤」というデザイナー、社員はいない」とオンエアした局に抗議の電話が入ったというもの。

 下平が後藤にコンタクトを取ったそうだが、電話にもメールにも応答はないそうだ。

 それはこちらも一緒。平松さんが、

「私も何度も時間をずらして電話したし、「誰も怒ってないから」ってメールも送ったんだけどね」

応答は、なし……。

「プロデューサーに対してもそんな態度って、後藤さん良い度胸してますね」

「本田さん、そういう問題じゃないよ」

 岬はたまにピントがずれた発言をする。まあ、おかげで場には「失」が付くが笑いは起きたけど。

 後藤の所属事務所も連絡が着かない状況だという。

 この事態を受け、事務所は後藤由衣を解雇処分とし、彼女の番組も、

「事務所をクビになったんなら、こっちも辞めて貰うしかないね」

全レギュラー番組のプロデューサーも同様の処分を下した。

 平松さんの顔はやり切れなさと、苦渋に満ちた表情だ。

「済みません。オレが彼女の話を鵜呑みにするから」

「ユースケ君が謝る事じゃないよ。私達も鵜呑みにしちゃったし」

 平松さんは右手を左右に振りながらフォローしてくれるが……。

「こうなると母親が東大出の弁護士っていうのも怪しいね」

 岡本さんは言葉通り疑義を抱いた顔。

「年齢も二五って言ってましたけど、サバを読んでた可能性が高いっすね」

 NARI君も然り。

 あそこまで確言されてそれが全て嘘だったのなら、全人格に疑義を抱いてしまうのも、人間の性。

 只でさえ『オンガク!』の数字は芳しくないというのに、会議室内の雰囲気は更にどんよりとなってしまう。

 下平にも電話を入れ、

「今回の一件は悪かったな」

謝罪する他ない。

『別に謝らなくても良いよ。あたしも見抜けなかったんだから。上手い事騙されちゃったね、お互い』

「そうだな。やられた」

『洞察力のなかったあたしは、プロデューサー失格だよ』

「オレも放送作家失格だ」

 下平には本当に申し訳ないが、二人で苦笑するしかなかった。

 後日特番枠を観ていると、エンディング後に、

『先月放送致しました番組にて、自分の父親はサンダースのデザイナーだと発言しておりました女性の告白は、事実ではないことが判明致しました。 視聴者の皆様へ誤解を与え、サンダースジャパン株式会社の皆様に多大なご迷惑をお掛けしてしまいましたことを、心よりお詫び申し上げます』

と字幕と、女性アナウンサーのナレーションが入っていた。

 枦山さんに有られもない姿で抱きつかれ、真子を裏切る行為をしてしまった時と同様、虚しく、やる瀬なく、自責の念に駆られる。



 後藤が抜けた穴には、臼杵智弥が加入する事が決まった。

 それを知った〈マウンテンビュー〉所属の奈木野淳子は、

「社長! 智弥ちゃんが『オンガク!』の構成に入ったんなら私も入れてください!」

必死に猛アピールしている。

 この奈木野淳子、通称ナギジュン。新人の頃はオレが教育係を担当していたのだが、オレの父方の曾祖父、中山近市と彼女の曾祖母が兄妹らしく、初めて逢った時「私とユースケ君は三いとこなんだよ」と話し掛けて来た。

 三いとこだったらもう遠い親戚、他人も同然だろうと思っているのだが、先輩、増してや教育係のオレを「ユースケ君」と呼ぶなど馴れ馴れしい。

 臼杵智弥は同期であり仲も良さそうだが、何故か臼杵に対してライバル心を燃やしている。当の臼杵は、ナギジュンに対してライバル心を持っているのかいないのかは確認した事はないが。

 ライバル心を持つ事は悪い事ではないのだけれど、ナギジュンの場合、何処かピントがずれているのだ。

 ナギジュンが拘っているのは臼杵とのレギュラー本数。そこにライバル心を燃やすよりも、仕事の「質」で勝負した方が良い。とオレは思うのだが。

「ナギジュンさん、やっぱりああなっちゃいますよね」

 岬が嗤う。ナギジュンが臼杵智弥にライバル心を持っている事は、うちの事務所では周知されている。臼杵が何かやる度に「じゃあ私も!」と陣内社長に猛アピールする光景を見るのは、一度や二度ではないから。

「本当にあいつはどうしようもないな」

 呆れ果ててこれ以上言葉が出ない。

「もううちからは中山君と岬ちゃんが出てるでしょ」

「分かってますけどそこを何とかお願いしたいんです!」

 ナギジュンは陣内社長に食い下がり、一歩も引こうとしない。その情熱を仕事に向けられないものなのか。

「ナギジュン、スタッフの人数には限りがあるの。それは分かってるでしょ」

「それは、分かってますけど……」

 ナギジュンの勢いは減速して来た。形勢逆転。

「とにかく、私の一存では決められないの! 私に猛アピールしたって無理なものは無理! 売り込んであげたい気持ちもあるけど、どうしても『オンガク!』の構成に入りたいんなら、私じゃなくてプロデューサーにアピールしなさい!」

「……」

 社長の困惑顔とナギジュンの悔しそうな顔。この様子を見るのも何回目であろうか。

「ナギジュンさん、ライバルがいるのは良い事ですけど、何かピントがずれてるんですよね」

 岬がまた嗤う。

「その通り」



 後日、臼杵智弥にとっては初の『オンガク!』の会議。

「今日から新たに加入してくれる、臼杵智弥ちゃんです!」

 平松プロデューサーににこやかに紹介され、

「臼杵です。何処までお力になれるか分かりませんが、頑張りますので宜しくお願いします」

慇懃に頭を下げる。臼杵のキャラはとにかく真面目で滅多に取り乱す事がなく、クールだ。

「こちらこそ、肩肘張らずに宜しくね」

 平松さんは気持ちを入れ替え、心機一転といった感じだ。

 だが『オンガク!』にまつわる「事件」はこれで終わりではなかった。

 


九月に入り改編期ではあるが、『オンガク!』は十月以降も継続される事が決定していた。

「取り敢えずは一安心だね。編成局長も、もう少し様子を見て行こうって言ってたから」

 数字は相変わらず六〜七%台のまま。音楽番組としては健闘しているが、オンエアは二一時からと好条件。本来ならばいつ打ち切られてもおかしくはない。

「後は何とか二桁に乗せるコンテンツを練るだけだね」

 平松プロデューサーも岡本さんも希望は捨てていない。それはオレも含め皆も番組に携わるからには同じだと思う。

「話は変わるけど、Snowが電撃引退するって話、皆も知ってるよね」

 平松さんは全員に問い掛けた。

「今朝の新聞で読んだよ。先月にアルバムをリリースしたばっかりだよね」

「オレは朝のワイドショーで知りました。在学中の学校が芸能活動に対して厳しかったとか、学業に専念したいとの本人の意向があったとか、色んな説があるみたいっすね」

 岡本さんもNARI君も釈然としない、不思議そうな顔。

 Snow。弱冠十七歳で普段は都内の私立高校に通う女子高生。このくらいしかプライベートな事は公表されていない。

 学校側が芸能活動に対して厳しい事は事実のようで、テレビ出演は『オンガク!』を入れて二回だけしか公の場で歌唱した事はない。

 有名プロデューサーのプロデュースにより彗星の如く華々しくデビューし、デビュー曲はドラマの主題歌にも採用された。これはプロデューサーサイドからごり押しがあったに違いないだろうが。

 結果的に実質僅か七ヶ月の活動で、Snowはまたもや彗星の如く芸能界から去った。

「新聞には『オンガク!』に出演した際、極度の緊張から声が上擦ったり、音程を外すなど惨憺たる結果となった為、今後の音楽活動に対して自信を失った事も因子ではないか。とも書いてありましたよ」

 臼杵は淡々とした顔付と口振り。

 これも事実。Snowは中越達とのトーク中にも緊張した面持ちで声が上擦っていたし、歌唱中にもミスをした。

「まさかうちの番組が原因?」

「いや、平松さんうちの番組の責任じゃないですよ。確りリハをした上での本番だったんですから」

「そうですよ。気にしない気にしない」

 岬は笑みを浮かべ歯牙にも掛けないといった態度。

「だよね。ミスしたのは彼女だし、うちには責任はないよ」

 平松プロデューサーにも笑顔が戻った所で、やっと会議が始まる。臼杵の挨拶からSnowの話題をしている内に四十分近くが経っていた。雑談により時間が押すのも、この業界では珍しい事ではない。



 十月に入った。個人的な問題ではあるのだが、この時期から何か身体、精神の状態がおかしい。

 まだ寒い季節ではないのに寒気を感じるようになったり、便も下痢に近い物が一日に三、四回も出る。身体はだるくて重く、気分も何があったという訳ではないのに落ち込み、沈んでいた。

 「これはもしや……うつ?」とも思念したが、仕事は何とかこなしてはいる。

 もしうつであれば枦山夕貴との「あの一件」が原因か……。それとも後藤由衣の「あの一件」が原因なのか……。何れにしても人のせいにしてはいけないし、何の問題解決にもならない。

 だが調子が悪いのは紛れもない事実だ。

最近ユースケの様子が何処かおかしい。笑顔を見せるのも少なくなって来ているし、私が話していても「うん。うん」と相槌は打つけど表情は上の空に見える。コミュニケーションの入浴に誘っても、

「ごめん。ちょっと独りで考えたい事があるから」

と断られる日が多くなって来た。

 食欲はない事もなさそうだけれども、表情は暗く何処か疲れが滲んでいるように見えて仕方がない。

「相方、最近何か元気なさそうだけれど、何かあったの?」

「いいや、別に。仕事が忙しいからだろう。お互い様だけど。何せ九本もレギュラー番組を抱えてるんでね。安いギャラで」

「私は一本だけでちょっと気が引けるギャラ貰ってるけどさ。今の嫌み?」

「別に嫌みのつもりはないよ。相方も頑張ってるんだからオレも負けちゃいられないって、自分を鼓舞してるだけ。ごちそう様」

 ユースケは食器をシンクへ持って行く。会話をしてもこのような感じ。

 お土産に貰ったお饅頭の包み紙に書いてあった、「地獄」という文字が頭を過る。ああ、駄目駄目! 私まで暗くなったら夫婦揃って落ちてしまう。

 でも、私は何も彼の力になれないのだろうか。只、見守る事しか出来ないのだろうか。

 このままでは、もどかしい日々が続くだけだ。それに耐え続けるしかないのだろうか――



 十月中旬になり、いよいよ精神状態が悪くなって来た……。無気力感、抑うつ症状、倦怠感が不意に襲って来るのである。

 元々集団行動は苦手な性質ではあるのだが、繰り返しになるが放送作家は「個」でもあり「集団」でもある生業。別にこの条件は、何も放送作家にだけ適応されるものではないだろうが。

 しかし会議に出席するのも打ち合わせに出るのも、増してロケハンで都内から交通機関を利用して何処か地方に向かうのも、辛くて仕方がない。打ち上げと称した飲み会に出席するのでさえ辛いのだから。とにかく、人と接する事自体が苦痛になって来た。これでは放送作家以前に「社会人」としての問題だ。

 また苛められていた頃の記憶や、苛立ちを覚えた時の記憶も、不意にフラッシュバックする現象も出て来た。

 子供の頃のオレは上級生、下級生からも軽侮されたもので、上級生からは大柄の奴に噎せ返る程首を締め付けられたり、下級生からは「人殺し、人殺し」と連呼される。幾ら小学生であっても殺人を犯せば、普通の学校へは通えないと思うのだが。

 また別の下級生からは、同級生と一緒に下校している時に後からそいつが入って来て、冷笑を浮かべて「どっかに行ってよ。あんた」と言われる。そいつは一緒にいる同級生を好いていたのかは知らないが、オレが気に食わないのなら後から入って来た「お前が」どっかに行け!、と思うし悔しかった。

 中学生になってからも同級生の奴から、不意に頭をはたかれたり「いつかは殴るぞ!」と言いながら胸倉を掴まれ、からかわれる。そいつもしつこい奴で、ガンを飛ばしながらオレの顔に自分の顔を近付け、額同士が当たると「汚ねえ」と他の奴と嗤いながら言う。殴りたいのはオレも同じだし、「汚ねえ」のはお互い様。自分から近付けて来たくせに人を不潔扱いしやがって!

 とにかく、これらの反論は今だからこそ浮かぶもの。当時のオレは、今も然程変わってはいないが、言われるがまま。されるがままだった。

 この時期に初めてうつ病と診断され、苛めと精神状態の苦しさから自殺を企図したが、死ぬ事は出来ず、今日まで生きている。

 あれから自殺を企図するまではないものの、それら悔しい思い出と苛立ちを覚えた記憶のフラッシュバックのオンパレード。当然、気分は最悪でまた抑うつ症状の材料となってしまう。



 ある週の『オンガク!』の会議後。喫煙ルームで独り一服していると、平松さんが近付いて来て「お疲れ様ー」といつもの笑顔で入って来る。

「お疲れ様です」

「またご一緒しても良い?」

「どうぞ」

 オレは笑顔になれない、笑顔になる気力がない。

「岬ちゃん、次の現場に行ったけど、ユースケくんは大丈夫なの」

 タバコに火を点けながら訊かれる。

「オレはまだ時間があるんで」

「そう。最近元気ないし調子悪いみたいだけど、何処か悪いの」

 訊かれると思った。

「ちょっと疲れが溜まってるんでしょう。お互い様ですけど。只のスランプなのかもしれませんし」

「スランプなら別に良いけど、調子が悪いんだったら一度病院で診て貰った方が良いかもよ」

「病院、ですか……」

 溜息混じりに紫煙を吐き出した。

「調子が悪そうに見えるだけじゃなくて、溜息を吐くのも多くなってるもん。備えあれば患いなしっていうじゃない」

 平松さんの神妙な顔。流石はプロデューサー。スタッフの事を良く見ている。

 ふとガラスから外を見ると、宮崎哲哉が徐に廊下を歩いて来るのが目に留まった。「入って来るなよ! 入って来るなよ!」と強く念じたが、結局……。

「お疲れ様です」

「お疲れ」

 平松さんは笑顔も見せず目も合わせようとしない。遅刻の常習犯、相変わらず連絡も寄越さないスタッフは放念、といった所か。

「ユースケ、一本くれよ」

 宮崎さんも特に気に掛けている様子はない。それにこの人は普段は吸わないくせにオレが吸っていると、「一本くれ」とたまに要求して来る。

 平松さんがいてくれて良かったと心底思う。宮崎さんと二人っきりでは辛気臭い事甚だしい。仕方がないのでタバコの箱とライターを渡す。

「ユースケ、最近会議でだんまりを決め込んでるし表情も暗いけど、何か辛苦な事でもあったのか?」

 火を点け箱とライターを返して来る。

「別に辛苦な事はないですけどね。元々協調性がない人間ですから」

「協調性がない事ないじゃないか。夏のスペシャルは当たったし、今まで意見を出し合って一緒に仕事して来たんだから。具合が悪いんなら「遠慮しないで」病院で診て貰った方が良いぞ」

 宮崎君何様のつもり? 「遠慮しないで」って。それはプロデューサーの私が言う言葉でしょ!

「その事は私も気に掛けてるし、病院もさっき勧めた」

 平松さんは紫煙を吐きながら正面を向いたまま。

「そうでしたか。最近のお前は何処か病んでるようにしか見えないからな。一度診て貰えよ」

「分かりました。じゃあオレ、次の現場に行きますんで」

 火を消して立ち上がると、平松さんも火を消し喫煙ルームから出た。

「本当に大丈夫? あまり無理して身体壊さない内に処置した方が良いよ」

「大丈夫です。今の所は」

「私達も気が気じゃないんだからね。その事は忘れないでよ」

「はい。ありがとうございます。お疲れ様でした」

 中々上がって来ないエレベーターを待ち地下駐車場まで下りて、運転席に乗車し「ハアー……」と溜息また一つ。

「病院……かっ」

 確かに別番組のプロデューサーの人達からも、「最近あまり発言しないけど大丈夫なのか?」「具合が悪いんなら我慢せずに病院に行け」と指摘される事が多くなったのは事実。

 オレは唯唯「済みません」と謝るしかないばかりなり。これもまた、事実。



 この事は無論、所属事務所〈マウンテンビュー〉の社長、陣内美貴も知る所となり、十月も下旬に差し掛かったある日の午前中、事務所に呼び出された。

「中山君、最近元気なさそうだし私も気に掛けてたけど、会議や打ち合わせでも発言が少ないみたいじゃない。どうかしたの?」

 この人には正直に言うしかあるまい。

「この一ヶ月、無気力感と抑うつ症状、倦怠感が酷いんです」

「それってうつ症状じゃないの!? 更年期にしてはまだ若いし、一度病院の精神科で診て貰った方が絶対良いよ」

 陣内社長もショックだったのだ。ハッとした顔で目を見開きオレの両肩を掴んだかと思えば、直ぐに腕組をし、何やら勘考している。

 中三の時にうつ病と診断されて以来、大学を卒業し派遣社員と成ってからも通院し、治療を続けていた。しかし放送作家と成ってからは不規則な生活だが性に合ったのか、うつ症状は自然と消えて行き、寛解の状態となっていたのだが、ここに来てまた症状が振り返した恰好だ。

「分かりました。精神科に行ってみます」

「もしもの時の為に診断書を書いて貰って提出して。今後の事もあるから」

 「うん。うん」と頷き無言で「了解しました」と相槌を打っていると、

「返事は?」

「はい」

「返事くらい元気良く!」

「はい!」

社長、案じているのか無理をさせようとしているのか、はっきりしてください。



 同日の二五時過ぎ、本当は「最初に」真子に事実を打ち明けなければならなかった。順番が逆になってしまったが、社長に「精神科に行ってみる」と言った以上、もう黙っておく訳にはいかない。静かに相方が帰宅するのを待つ。

「ただいま」

 玄関のドアが開く音がし、真子が帰宅した。何から話そうか、陣内社長に打ち明けた時よりも緊張感が走る。

「おかえり」

「どうしたの? いつもはテレビが点いてたりするのに、今日はリビングだけに電気点けて」

 うつ症状が出始めてからは、レギュラー番組であってもテレビを観る気力もないのだが、仕事、曲がりなりにもスタッフとして携わっている以上、否応なく観ていた。だが今日は気持ちが違う。

「相方が帰って来るのを待ってたんだよ。ちょっと大事な話がある」

 オレの顔を見て勘付いたのだ。真子は真顔になり、

「そうなんだ。その前に手を洗ってうがいして来るね」

「うん」

社長の時と同じように素直に打ち明けるのが一番良い。オレはリビングに戻りオレが座るソファの横に座った相方に、ここ一ヶ月の自分の精神状態、本音を打ち明けた。

「それで社長には精神科に行ってみますって伝えた」

「私も多分そうじゃないかって、その方が先決なんじゃないのかなって考えてたんだよね。社長さんには勿論だけど、何で早くに私に言ってくれなかったの」

 意外にあっさりとした答えと表情。それと態とムッとした顔。真子は竹を割ったような性質だからな。

「今まで黙っててごめん」

 素直に頭を下げるしかあるまい……だろう。でも真子に素直に打ち明けた事で、気持ち的にはホッとする、安心感が広がっている。

「早速精神科に予約入れなきゃな」

「病院は決めてるの?」

「実は中三の時に初めてうつ病って診断されて、作家に成るまで通院してたんだ」

「そう。その事も早く言わなきゃでしょ!」

 またムッとした表情。

「ごめん。作家に成ってからは寛解の状態だったからさ。ええっと、診察券は多分実家だな。お袋が仕舞ってる筈だ」

 ユースケにそんな過去があって、今日の現状があったとは。ちょっとショックだけど、彼の性質を見ているとうつ病になるのもあり得る。と考えてしまう。別に根拠はない。女の勘ってやつだ。



 翌日の午前中。自分で運転して高速を遣い、羽村市の実家へ向かう。

 一時間ちょっとで実家に到着し、敷地内に停車させて鍵を開け、ドアを開けて「ただいま」と言いながら玄関に入る。

「あら裕介、どうしたの午前中に?」

 出迎えたのはやはり小枝子だ。

「ちょっと荷物取りに。病院の診察券、まだ残してある?」

「多分、捨てた覚えはないからあるとは思うけど、あんたまた調子悪いの?」

 小枝子は不審そうな顔を見せた。

「違うよ。ちょっと仕事で必要になっただけ」

「あんな物仕事でどうやって使うのよ」

「病院を取材するんだよ」

「取材だったらネットで番号調べてアポ取れば良いじゃない」

 ああそうだった。ネットがあったか……。それにしても最近の素人はネットで調べてアポ取ればとか、息子の影響もあるかもしれないが、このくらい誰でも分かるか。

「大牟田先生に取材するんだよ」

「もう覚えてないわよ、大牟田先生も。あんたの事なんか」

 失笑を買ってムカついてしまう。

「大きな病院だからカルテが残ってるかもしれないだろ。ディレクターに言われたんだよ。時間ないから早く探してくれよ!」

「分かったわよ。今探すから」

 小枝子は呆れてリビングに戻る。

 玄関に腰掛け待つ事約十分。

「あったわよ。はい、これで良いんでしょ。そんなとこに座ってないで中に入れば良いのに」

「時間がないんだよ。とにかくありがとう。じゃあオレ帰るから」

 小枝子から診察券を受け取り立ち上がる。

「お茶くらい飲んで行きなさいよ」

「時間に追われてる職業なんでね。じゃあ」

 裕介は玄関のドアを開け、家を後にする。私もリビングへ入った。

「何だ、裕介はもう帰ったのか?」

 夫の譲一はソファに寝転がったままテレビを観ている。

「時間に追われてる職業なんですって」

「時間に追われる内は華だよ、あいつの仕事は」

 息子達の仕事には無頓着に見えても、やっぱり父親として案じているのよね。

 でも、何で子供は態々不安定な職業を選択したりするのかしら。

 それにしても裕介、あの診察券を本当に仕事で使うのかしら? 見た目は普通に見えたけれど、まさかまた精神状態を崩したんじゃ……。あの子も嘘を付くのが下手だから。

 親にとっては子供は幾つになっても子供。気が気ではない。



 高速を走る道すがら。親には嘘を付いてしまう息子。罪悪感はあるが余計な心配は掛けたくはない。

 でも事実を口にすると特に母親は口喧しいからなあ。

 ああ、駄目だ駄目だ。今運転中だった。しかも高速を。余計な事を考えて事故でも起こしたら、その方が口喧しく言われるのは必至。

 


十三時過ぎに文京区音羽の自宅マンションに帰宅。

「おかえり。診察券はあった」

 相方は昼食を用意しながら訊く。

「あったよ。予約の前に飯だな。でも担当してくれてた先生がまだあの病院にいるかだよなあ」

「電話してみないと分からないでしょ、そんな事は。食事の前に手洗いとうがい!」

 昼食後に早速病院の総合窓口に電話。

「精神科にお願いします」

『はい。少々お待ちください』

 窓口の女性に電話をつないで貰う。

『はい。精神科です』

 また女性が出た。

「あのう、六年前くらいまでそちらの大牟田先生の診察を受けていた者なんですが、大牟田先生はまだそちらにいらっしゃいますでしょうか?」

『いえ、大牟田先生は当病院は退職されて、現在は個人でクリニックを経営なさっています』

「ああ、やっぱりそうでしたか。因みにクリニックの名前は分かりますか?」

『ええっとですねえ、少々お待ち頂けますか?』

「はい。お願いします」

 また待たされる羽目に。保留の音楽が却ってもどかしさを加速させてしまう。

『お待たせ致しました。確か、オオムタクリニックだと聞いたという職員がおりましたが、定かではありません』

「そうですか。ありがとうございました」

 電話を切り、「オオムタクリニックだってよ」と相方に告げる。

「じゃあその診察券、結局いらなかったね」

 失笑されたが何も言えない。言葉が出ないのだ。電話だけで極度に緊張し、終ると酷い倦怠感を感じ、疲労してしまう。

 暫く休憩し、ネットで「オオムタクリニック」と入力して検索。確かに「大牟田クリニック」とページが出て来たが、医師は「あの大牟田先生」なのか。

 ページをクリックし、医師紹介欄を閲覧してみる。懐かしい、見覚えがある女性医師の写真。「あの大牟田先生」で間違いない。住所を見てみると文京区内、しかも予約なしで診察が受けられるクリニックだった。

「同じ文京区内。予約の必要はないんだってさ」

「だったら明日の午前中、一緒に行ってみよう」

「良いよ。一人で行けるから」

「良くないよ。良い相方、貴方はもう独身じゃないんだよ! 私達結婚してるんだよ! 今回の病気の再発は貴方だけの問題じゃない。夫婦の問題なんだよ!」

「夫婦の……問題」

 ユースケは何も分かっていないから態と声のボリュー厶を上げて言ってあげた。彼は出来る事は何でも独りでやってしまう。それが助かる事もあるのは確かだけど、却って困惑する時もあるのも確かだ。

 ユースケは呆然とした顔で何やら勘考している。私の言葉が響いたのなら良いのだけれど。



「独身じゃない」、「夫婦の問題」。真子の言う通り、オレはもう独り身ではないのだ。本来ならば守るべき存在がいるのにこうなってしまった、オレ。子供でも分かる事を言われなければ自分が結婚しているのも自覚出来ない、オレ。自分自身に、「なーんだバカ野郎!」だ。

「ごめん。オレが間違ってた。相方が良いんなら明日一緒に来てくれ。今日はこの後会議と夜に打ち合わせが入ってるから。どっち道今日は日曜だし。でも相方は明日からまた生だろ。仕事前にショックを受けるような事言われたりしたら気が散らないか?」

「私は大丈夫。生放送なんていつも何が起きるか分からないし、臨機応変さは併せ持ってるつもり。私より相方は仕事大丈夫なの? キャンセルした方が良いんじゃない」

 真子は笑顔で言って退ける。流石はメインキャスターの風格が付いて来た。だが、相方も極度の上がり症。お互いそこが心配の種なのだが。

「オレも仕事が出来る内は何とかやっとかないとな。前から決まってた事だからキャンセルは出来ないよ」

「本当に大丈夫?」

「ああ。どれだけ意見が出せるかだけどな」

 ユースケは澄ました顔で言うけれど、その顔には不安も裏打ちされているように見える。責任感が強いから無理をしているな。

 明日の診断次第では仕事が出来なくなる、ドクターストップになる可能性だってある。私も覚悟しておかないと。

 長丁場の会議と打ち合わせを終え、二三時過ぎにやっと帰宅。

 抑うつ症状の上に酷い倦怠感が覆い被さる。暫く何も出来ずにソファに深く腰掛けて休憩。症状が出始めてから連日このような感じだ。

 真子はオレの様子を見て察して何も言わず、入浴も「私先に入るから。ゆっくり休んで」と言って気遣ってくれる。申し訳ないがその言葉に甘えた。



 翌日の午前十時を少し過ぎた。クリニックの診察は十時開始。

「そろそろ出ようか?」

 『22』の打ち合わせ時間までまだ余裕がある相方を助手席に乗せ、カーナビに住所を入力して、オレの運転で大牟田クリニックを目指す。同じ文京区内であるから然程時間は掛からない。

 車を走らせる事約三十分足らずでクリニックが入るビルに到着。駐車場に停車させる。

 ビルは三階建て。二階には眼科が入っていて一階は薬局が入っていた。

「クリニックだけど薬局もあるし便利な立地条件だね」

 相方はビルを見ながら白い歯を見せる。

「大きな病院でも薬局は少し離れてるからな」

 エレベーターで三階に上がると女性スタッフが一人出て来て「診察ですか」と訊かれ、「はい」と答えて保険証を呈示し受付を済ませて二人で待合室で待つ。まだ午前中の為か室内には誰もいない。

「何かマンションのリビングみたいじゃない。テレビはないけどその分雑誌とか沢山置いてあるし、ゆったりとした雰囲気だね」

 真子はこういう場所が珍しいらしくソファに座って室内を見渡す。が、オレは緊張MAX状態。大牟田先生はもうオレを忘れているだろうし雰囲気など感じ取っている余裕はない。

「中山裕介さん、お待たせ致しました」

 先程の女性スタッフから呼ばれてソファを立つ。オレだけかと思いきや夫婦揃って同時に。

「診察室にまで付いて来るつもりか?」

「そりゃそうだよ。言ったでしょ「夫婦の問題」だって。私も先生のお話を聞いておきたいし、相方が今医師からどんな診断をされるのか把握しておかなきゃ」

「そりゃそうかもしれないけどさあ……」

 真子がいる状況で自分の心境を上手く伝えられるだろうか、言い辛い事も訊かれるかもしれないし、こっちとしてはここまで付いて来てくれただけでありがたや、ありがたや、なのだが。

「お話はまとまりましたか?」

 女性スタッフはにこやか、内心は「早くして」と苦笑いだろうが。

「はい。問題ありません。さあ行くよ」

「待て待て。オレが診察受けるんだからオレが先に入る」

「じゃあ早くしてよ」

 やっとスタッフの後から廊下を歩き出す。何か今のやり取りだけで緊張が緩和され、症状も改善されたような錯覚に陥ってしまう。もう一言付け足すなら下手な夫婦漫才でも見られたような錯覚も、ある。

「失礼します」

 診察室に入ると……。

「中山裕介さんって聞き覚えがあるなと思いましたけど、やっぱりあの中山君だったんですね」

 大牟田先生が微笑む。

「お久しぶりです。覚えてくれてたんですか」

「長い事診察してたからね。少し痩せて髪も金髪になってるけど、全体的には変わってないね」

 大牟田先生からは敬語が消え、お互い昔に戻った感じだ。医師は数多の患者を診察するのは言わずもがな。何年も顔を合わせていない患者の事を覚えていたとは正直凄いし、何処か安心感を感じる。それに、

「先生も変わりませんね」

お世辞ではなく本音。

「まあ座って」

 診察室は一般的な感じとは異なり、テーブルで医師とは対面式。医師の右隣にはノートパソコンが一台置かれただけと至ってシンプル。

「ここに来院したって事は、また調子が悪くなったって事よね?」

「はい……」

「診察の前にちょっと逸脱するけど、そちらの女性、奥村さんに似てるね。彼女? それとも奥さん?」

「妻です」

「初めまして。奥村真子本人です」

 相方はにこやかに会釈した。

「ですよねえ。余りにも似てたんで。済みません。『22』観てます」

「ありがとうございます」

 本当かどうか疑義があるけれど、私は一応会釈する。

「私もそっくりだなとは思っていたんですよ。どうぞ」

 真子にも出されたのは紅茶。緊張で喉が渇いていたので丁度良かった。

「頂きます」

 このクリニック、大牟田先生と女性スタッフ二人で営んでいるようだ。

「何処で出逢ったのかは知らないし訊かないけど、中山君、奇麗な奥さんを貰ったね」

「ええ。まあ」

 にこやかに会話する二人。診察の方は大丈夫なのか? やはり診察室に私が入室したのは間違いだったのか。

「それで中山君、症状はどういう感じなの」

 大牟田先生はオレの顔に向き直り、表情はにこやかだが目は真面目で訊く。これが当然ではあるが、この表情と目も以前と変わらない。

 オレは包み隠さずに無気力感、抑うつ症状、倦怠感がある事。心的外傷を負った時の記憶のフラッシュバックがあり、対人恐怖がある事を打ち明けた。

 先生は話を聞きながら相槌を打ちパソコンに打ち込んで行く。そして出された診断結果は……。

「うつ病が再発したね」

 先生はにこやかなままだが、その中には痛惜の念も滲んでいるように見える。長年診察し、一度は寛解の状態となった患者が再発したのだから。

「それに記憶のフラッシュバック、再燃があるという事は、自閉症スペクトラム障害もあるね」

「自閉症スペクトラム障害?……」

「平たく言えば発達障害だね」

「発達障害……ですか」

 そんな障害まで抱えていたのか。

「その自閉症スペクトラム障害という障害は寛解するんですか」

 真子が訊く。

「治療をすれば少しは緩和されるでしょうけれど、障害ですから完全に消えるという事はないでしょうね」

「そうですか……」

 私も絶句してしまう。ユースケの顔を見ると呆然としている。でも今日は何かを勘考する事は出来ず、唯唯呆然としている感じ。発達障害と診断されたのだからショックも大きいだろう。



 暫し沈黙が流れた後、

「症状が出始めたのはいつ頃から?」

先生が沈黙を破る。

「ここ一ヶ月くらい前からです」

「まだ最近、直近だね。何かうつ症状が振り返すような事があったとか、思い当たる節はない」

 訊かれるだろうとは予測していたが、真子がいるので枦山夕貴との「あの一件」の事は口が裂けても言えない。「あの一件」は真子を裏切ったショック、罪悪感、自責の念に駆られたのは確かな事実ではあるが、「これだ!」という根拠もないので確言、確答も出来ない。自分自身を誤魔化しているだけなのかもしれないが。

「自分でも何故再発したのかは、はっきりとした原因は分かりません。只、不規則な職業に就いて長いですから、強いて上げればそこかと」

 違う。完全な誤魔化し。妻の前で体裁を守っただけだ。

「不規則な職業ねえ。差し支えなければ現在の仕事は? 何年くらいやってるの」

 訊きながら先生はタイピングを止め、またオレの顔に向き直す。

「放送作家です。もう六年になります」

「えっ!? スゲー!」

 目を見開いて直ぐにハッとした顔を見せ、

「スゲーって言っちゃった。凄い職業に就いたね。だからアナウンサーの人にも出逢う訳か」

苦笑いを浮かべ冷静な口振りで言い直し、合点が行ったようだが、地が出たのは確と見てしまいましたぞ。

「そもそも精神状態を壊したのはいつ頃だったっけ?」

「小学六年生の時に自律神経失調症と診断されました。今でも自律神経症状はあって、三七度台の微熱と脂汗が出ます」

「その後に私がうつ病って診断したんだよね」

 大牟田先生はタイピングしながら訊く。

「そうです」

「成人してからも来院してたけど、ある日を境にパタリと通院を止めたよねえ? 寛解したから?」

「作家に成ってから性に合ったのか、症状が治まりましたので。寛解したと言って良いと思います」

「放送作家に成って六年ってさっき聞いたけれど、その間は特に精神状態を壊す事はなかったの?」

 先生はタイピングを止めパソコンの画面から目を離すと、オレと目を合わせた。その探求する目も懐かしい。

「これは、関係ない話かもしれませんが……」

「一応聞かせて」

 真子がいるので正直話し辛い。が、ここまで来たらもう仕方があるまい。

「話せば長くなりますけど」

「今日は初診だからね。どうぞ」



「多分、二三の時の後味の悪かった経験もあるのかもしれません」

「後味の悪い経験。どんな内容だったの」

 大牟田先生は訊きながら、またパソコンの画面に向き合う。

 当時オレは、後に職業安定法違反で事実上経営破綻した人材派遣会社に登録し、アルバイトをしていた。

 町工場で携帯に付けるストラップを作る仕事、食品倉庫の冷蔵庫の中で食品を仕分ける仕事など、色々な職場に派遣されたものだ。

 登録して間もないある日の夜。登録した支店に立ち寄った時、新たに入った内勤スタッフの女性Yさんを見掛け心が引かれる。唯唯の一目惚れであった。

 それからというもの、電話でYさんと少し話し「今日も頑張ってください」などと言われる度に心が躍り、給料を貰う為や仕事の相談をする際に支店に行く度、極度に緊張しタバコを三、四本も吸ってやっと中に入るといった生活が続く。

そんな折Yさんと支店で少しだけ会話をする機会があり、オレより一つ年上な事、同じ大学出身であるのを知った。

 お互い只見知っている程度の関係だったがYさんはオレを「中山君」と呼ぶようになり、オレもYさんが支店に一人でいる時間帯を見計らって訪ね、五分十分くらいだが言葉を交わすようになる。

 所がYさんは内勤スタッフを辞めたがっている事を本人から聞いた。何とかYさんとコンタクトは取れないものかと勘考した結果、オレは意を決してまたYさんが支店に一人でいる時間に訪ね「メアド訊いても良い」と唐突に訊く。返って来た答えは「用なくなるよ。別に良いけど。支店長のを訊いたら?」。笑みを浮かべて言われてしまう。

 恋愛経験が乏しいオレは友達などに相談した結果、導き出した結論は自分から番号とアドレスを先に教える。だった。メモ用紙に番号とアドレスを書き、いつでも渡せるよう財布に入れて持ち歩く。そしていよいよメモ用紙を渡す機会が訪れる。

 たまたま同じ仕事先に派遣されたのだ。長丁場の仕事が終わりオレの方から「お疲れ様」と声を掛け、バスで駅まで移動。渡すならここだと察した。

「Yさん、オレの方から教えとくから」

 メモ用紙を渡すと、

「分かった分かった。入れとくから」

煩雑そうな口振りで受け取ってはくれたのだが……。

 オレはメモ用紙を渡しただけなのに、バカみたいに一人達成感に浸っていた。だが数日経ってもYさんからはメールも電話さえもなかった。日が経ち頭が冷静になって来ると、「入れとくから」の言葉は自分の携帯に入れておくだけで、自分の連絡先は教えないという事か!? パニックになったが後の祭り。 

後日派遣先の課長にその事を打ち明けてみると、

「それは君の気持ちが全く伝わってないね。「用なくなるよ」とかその惚け方はないね」

言われてみれば「食事にでも行きましょうよ」とも「好きです」とも言っていない。オレの方から用を作らず、気持ちも口にしてはいなかったのだから。

 結局、あの日を最後にYさんと再び逢う事は、二度となかった。                                      



「平たく言えば失恋したって事ね」

 大牟田先生はタイピングしながら訊く。

「ええ、まあそんなとこです。それから暫くはお門違いの苛立ちと悔しさ、悶々としてました。その人からすれば、最初から連絡先を教えるつもりはなかったんでしょうね、今から考えたら。この話が作家に成る前の抑うつ症状です」

「良く話してくれたね、もう思い出したくもないだろう思い出を」

 先生は話の全てをパソコンに打ち込んだ様子。これも治療に役立つのであろうか。只要領が悪かった失恋話が。

「今の記憶が再燃する事は?」 

「ありますね。いつまで「あの人」に拘っていれば良いんだろうって思ってますけど」

「そういう心的外傷を負った時の記憶が再燃するのが、自閉症スペクトラム障害の特徴、抑うつ症状の原因でもあるんだよ。放送作家も大変そうな職業だから、今までは忙しくて忘れていた事も、長年に溜まったストレスで噴出、バーストしたのかもね」

 大牟田先生は終始にこやかだが、オレは笑みを浮かべる気力は、ない。自分から打ち明けた話ではあるのだが、辛苦で憾みの念が強い事柄なのだから。

 先生は穏やかな表情を崩さず、諭すようにユースケの目を見て言っているけれど、彼にそんな失恋、忘れられない女性がいたとは……。

 でも今は私がいるし、結婚もしたのだから、もう忘れても良いのではないのか? ユースケはプライドが高いから心的外傷を負わされた人達を忘れられないという事なのか?

 未だに忘れられない女性がいるという事は、私では彼の心に開いた穴を埋められないという意味なのか?

 だったら何の為に結婚し、私の存在価値、アイデンティティーは何処にあるのだろうか?

 治療の為、発達障害によるもの、それは分かるけれども、私の方がパニックを起こしそうになる。

 私は手を付けていなかった温くなった紅茶を啜った。

 真子の複雑そうな顔。だから言い辛かったのであって、「夫婦の問題」とはいえ、診察室まで付いて来る必要はなかったのだ。でも喋ってしまったものは仕方がない。

「取り敢えず抗うつ剤と、苛立ちが起きた時に飲む精神安定剤を処方しておくから」

 先生、「夫婦の問題」が生じている時に淡々と診察を進めないで頂きたい。

「二週間後にまた来院して」 

「二週間後ですか?」

 病院で初診を受けた当時は三週間後だった記憶があるのだが。

「暫くは様子を見ないとね。薬がちゃんと効いているのかも確かめなくちゃいけないし」

「分かりました。後、事務所の社長から診断書を書いて貰って来いって言われてるんで、それもお願いします」

「放送作家って事務所に所属してるんだ」

 大牟田先生の物珍しそうな顔。これまでに放送作家の人を診る事はなかっただろうからな。

「僕みたいに事務所に所属してる人もいれば、フリーで活動してる人もいるんです」

「そうなんだ。でも診察代に薬代、診断書と今日は高いよお」

 先生は洒落っぽくニヤリ。

「分かってます。ちゃんと考慮して来院しましたから」

「そう。うつの治療は初めてじゃないから大体予測出来るんだね。じゃあ二週間後、またお待ちしてます」

 こうして診察は終わったが、隣の真子はさっきから一言も発しない。

「ありがとうございました」

「失礼します」

 やっと喋った。ああ、この後夫婦二人になるのは正直怖い……。



 待合室に戻ると一気に倦怠感が押し寄せ、「ハアー……」と溜息を吐きながら力なくソファに深く腰掛けた。

 真子は無言で、表情も無機質のまま隣に座る。最後の話は彼女にとって、妻としては刺激的で憤怒に値する内容だっただろう。その証が無言、無機質なのだろうから。

「相方、未だに心残りの女性がいたんだね。私と結婚したのにさっ」

 そら来た。

「別に心残りなんじゃなくて、後味が悪い苦い思い出だよ。そんな経験を味わった人は少なからずいるだろう。未だにその人に好意を寄せてるとか、そういうんじゃないから」

「引きずる人は引きずるから、どうだか」

 真子の顔が不愉快な表情に変わる。気持ちは察するが、「だったら診察室まで付いて来なきゃ良かっただろう!」なんて言おうものなら喧嘩になるだろう。

 オレは甘受して、相方の機嫌が治るまで黙っておく事にした。ここで売り言葉に買い言葉になっても仕方がない。それ以前に、今は喧嘩なんてする気力はない。精神状態が揺蕩しているのだから。

 十分、十五分くらい経ち、

「中山さん、お待たせ致しました。処方箋と診断書です」

スタッフに渡され代金を支払う。診断書もあったので一万くらい掛かった。これに薬代も重なるのだから……。

 こんな事でまた気落ちしている場合ではない。領収書を貰いクリニックを後にし、一階の薬局へ。

 ここでも女性スタッフに「お願いします」と告げて処方箋を渡し、また十分くらい待つ。

 薬剤師は男女ニ、三名。呼ばれたのは男性薬剤師だった。薬の説明を聞き、またはこっちから訊いたりしながらやっと薬を手にし、会計を済ませて駐車場に出た。何とか一万円以内で収まったが。

 クリニック、薬局の領収書は確定申告の時に必要かもしれないので、なくさないよう保管しておく。因みにここまでで、真子は一緒に付いて来るだけで夫婦の会話は一言も……なし。

 全てを終えた所で車の側で一服。腕時計を見ると正午近くになっていた。

 さあ、これからどうしたものか……途方に暮れ、日中に決まったように襲って来る無気力感と抑うつ症状を感じていると、

「公共施設の敷地は禁煙なんだー」

「やっと微笑を浮かべて喋り掛けて来たかと思えば……」

「だってそうじゃない?」

相方は運転席の方に近付いて来る。 

「帰りは私が運転しようか?」

「ああ。その方がありがたい」

 抑うつ状態での運転は正直危険だ。

「それとさあ相方、暫く仕事を休職したら?」

「休職って言っても、そう上手く行くものか」

「だって今の状態だったら単なるギャラ泥棒じゃない!」

 洒落っぽくではなく真顔。

「ギャラ泥棒……っか」

 確かに相方の言う通りかもしれない。殆ど意見が出せていない状況なのだから。

 ギャラ泥棒は少し言い過ぎたかもしれない。ユースケは放送作家の仕事が本当は好きなんだ。それは私も分かっている。

 でもこのままの状態だったら精神だけではなく、身体まで壊してしまい兼ねない。そうなったら元も子もないじゃない!

「診断書も書いて貰ったし、休職願も書いてみるか」

 ユースケは無表情ではあるけれど、青空に向かって紫煙を吐き出した。私の想いが通じたのかもしれない。

「さあ、そう決めたんなら早く帰ろう」

 ユースケから鍵を受け取り、帰りは私の運転で音羽のマンションへと帰る。



 帰宅し、簡単なお昼を済ませると、ユースケは早速食後の薬と精神安定剤を飲んだ。その光景を見てから私は直ぐに白い封筒と便箋を用意した。

「オレ、こういうの書いた事ないんだよなあ」

「書けないんだったら私が代筆しようか?」

「いや、そこまでしてくれなくても良い」

 ユースケは慣れない作業に書いては考え、書いては考えを繰り返している。私もキー局を退社すると決意した時、辞表を書くのに苦心したっけ。

「一応書いてみたけど、チェックお願い出来る」

 便箋を差し出す。

「どれどれ。「わたくし、中山裕介は、この度うつ病と自閉症スペクトラム障害(発達障害)と診断され、このままの状態では仕事を続行して行くのは困難であると判断し、誠に勝手ながら暫く仕事を一旦中断させて頂き、治療に専念させて頂きたいと思います。 この度は誠に申し訳ありません」。まあ正直に自分の気持ちを書いて良いとは思うけど、「治療に専念させて頂きたいと思います」じゃなくて「専念させて頂く事と致しました」って確言してしまった方が良いよ」

「そうか。後の文面は同じで良いんだね」

「うん。後は良いと思う。後は社長さんがどう判断するかだね」

 オレは早速真子のアドバイスに従い、書き直して最後に元号と日付、名前を記入し、薬が効いたのか気分が少し楽になったので、自分で運転し港区南青山の〈マウンテンビュー〉へ向かった。

 相方は「付いて行ってあげようか」と言ってくれたがオレは「良いよ」と断った。そこまで甘える程、もう子供ではないのだから。



 いつものパーキングに停車し事務所が入るビルの六階を目指す。

 オフィスエリアに入るなり、

「あっ、中山君、病院には行った」

仕事中だった陣内社長は一旦手を止め立ち上がり、心配顔で訊く。

「ええ、今日の午前中に行って来ました。それで、診断書とこれを持参して来ました」

 「休職願」と書かれた封筒を見た社長は、

「えっ!?」

目を見開き丸くした。まさかそこまでとは、意想外だっただろうからな。

 だが陣内社長は直ぐにいつもの冷静さを取り戻し、

「分かった。まずは診断書から見せて」

社長に封筒を渡す。陣内社長は席に着き読み始めた。

 内容はオレも自宅で読んで把握している。オレが告げた症状プラス、心的外傷、対人恐怖、後は「日中の活動能力は著しく低下しており、軽作業が出来る程度である」。一時間くらいの診察で、大牟田先生も良くこれだけ看破したものだ。

 次に社長は休職願に目を通す。

 全てを読み終えた所で、

「なるほどね。レギュラーを九本も抱えてる中山君が休職するのは社長として正直痛いけど、病気なら仕方ないね。各局のプロデューサーには私から事情を説明しておくけど、中山君も可能ならお詫びを入れといて」

「分かりました」

陣内社長の顔には心配と痛惜がない交ぜになっている。オレもまさか休職願まで提出する事になるとは夢想だもしていなかった。しかし真子に「ギャラ泥棒」とまで言われ、自分の現状を鑑みればオレが会議や打ち合わせに出るのは、却って心配と迷惑を掛けているだろう。

「中山君、今日も会議だったんだよね」

「そうでした」

 レギュラー九本を抱えていれば連日会議や打ち合わせ、ホンの執筆、ロケハンの日々である。

「でも休むんなら中途半端にしないで、今日からにしなさい。暫く治療に専念して、早く元気になると良いね」 

陣内社長は微笑を浮かべる。こんなに優しそうな表情を見せる事はあまりない。社長という立場上、無論社員一人一人を良く見ている証だ。

「ありがとうございます。もしメールでも意見が言えるようであれば、徐々に仕事を再開して行きます」

「そうね。無理のない範囲内で。何もしないよりギャラが入った方が良いだろうから。奥さんの為にもね」

 社長は悪戯っぽく釘を刺してニヤリ。今のは聞き流し見なかった事にしよう。

「じゃあ、本当に勝手な事を言いに来て、社長にも煩雑な仕事をさせてしまって申し訳ありませんが、今日から休職させて頂きます」

 慇懃に、深々と頭を下げた。

「ほんとだよ。九人のプロデューサーにお詫びしなきゃいけないんだから。でも私とは普通に会話してるし、見た目は大丈夫そうなんだけどね」

 社長は腕組をして考え込み、不思議そうな顔を見せる。

「一見普通そうに見えてもうつ病は「脳の病」だから、これ以上酷くなって再起不能になってしまわれても困るしね」

 陣内社長はオレの病を気遣いながらも、飽く迄「経営者」としての考え。「再起不能になっても困る」これが本音だろう。

「お詫びは電話の方が良いんでしょうけれど、無理そうだったらメールで失礼しておきます」

「うん。当然電話の方が良いけど、無理させてもね。その旨も私から説明しておくから。レギュラーの全員にだよ。一人たりとも無視はしないで」

「心得ております」

「早く完全復帰が出来ますように。マウンテンビューのホープさん」

 社長はまたニヤリ。今度は聞き流せない。

「まだ治療は始まったばかりなんですよ。またそうやってプレッシャーを……」

 掛けて来るな!

「だって九本もレギュラー抱えてるの、うちの事務所じゃ中山君くらいだもん」

 そうは言いながらも、陣内社長はまた優しい微笑みを消さない。経営者としての痛手、社員の病を気遣う気持ち、社長という立場は重責を伴う。陣内美貴という人の優しさと切なさを、まざまざと感じ取れた気がした。

 〈マウンテンビュー〉を後にしてオレは自宅へ真っ直ぐ帰宅する。



「おかえり。どうだった」

 相方は早く結果が聞きたそうに、不安げな顔付で訊く。

「本当は今日も会議があるんだけど、休むんなら今日から休め、だってさ」

「良かったじゃない、受け入れて貰えて」

 安心した表情を見せられたが、

「まだ何か不安があるの? それとも症状が出始めたの?」

「メールでもレギュラーの全プロデューサーにはオレからもお詫びを入れとけだってよ」

「そりゃそうだよ。社長さんにだけ全部を任せる訳にはいかない」

真子は頷きながら言う。社会人としての見識、だ。

「うちの社長は社員の背中を押すというより、蹴飛ばして仕事にGOサインを出す人だから、復帰したらまた背中を蹴られるだろうな」

 ユースケはもう復帰した後の事を考えている。やっぱり放送作家の仕事が大好きなのだ。本当は……。でも、

「あんまり先を急ごうとすると却って病気を悪くさせるよ」

警鐘も鳴らしておかないと。

「ああ。分かってる」

 彼が今日初めて、苦笑だけど笑った。だけどユースケの性格は真面目で衝動的に早く問題を解決させようと焦る所があるから、そこが一番の心配だ。

 十六時半になり、

「じゃあ私、仕事に行くけど一人で大丈夫だよね」

「大丈夫だよ」

気に掛けてくれるのはありがたいが、子供の留守番ではない。

「ご飯は冷蔵庫の中に入れておいたから、温めて食べて」

「ああ、ありがとう」

「手持ち無沙汰だったら『22』でも観てよ」

 真子は子細ありげににやつく。

「夫にまで番宣するか」

「だってニュースくらいは観られるでしょ」

「分かった。番組が終わったら寝てしまうかもしれない」

「良いよ。規則正しい生活が治療の第一歩なんだから」

「そうだな。じゃあ今日も頑張って」

「うん。行って来ます」

 相方は微笑んで玄関を出て行く。

 打ち合わせは十八時からだが、場合によっては真子が「記者」として現場に向かう回もある。今日はお互い午前中に時間が空いていたのは良かった。が……。

 九本のレギュラー番組を全て休む。無収入……という事は暫くは相方、妻の収入に頼らざるを得ない訳だ。考えただけでも心が萎えてしまうが、紛れのない事実……である。



 陣内社長は今日の内に九本のレギュラー番組の各局のプロデューサーに、オレの病気、現状を伝えてくれたらしく、プロデューサーの人達からは、『ユースケ大丈夫か? 早く帰って来いよ!』『今は治療に専念して』とメールが届き始めた。

 平松絵美プロデューサーからも、『ユースケ君がいなくなるなんて寂しいよー。そんなに具合が悪かったんだね。今は番組の事は忘れて、早く元気になる、病気を治す事に集中して! 私は番組が継続している限り、いつでもユースケ君の席は空けて待ってるからね!!』皆さん忙しい時間を割いているだろうに、他の人よりも長いメールが届く。

 陣内社長からも夜に電話があり、

『九人全員に連絡して事情を説明して、謝るの大変だったんだから。病気が治ったら今回の借りは確り返して貰うよ』

案の定な、社長らしい言葉で切り出される。電話の向こうでは悪戯ににやついている顔が手に取るように浮かぶ。

「ご苦労様でした。プロデューサーの人達からもメールが来てます。全員納得して貰えたんですか?」

『一応ね。今の状態じゃ仕方ないって、皆さん言ってたよ。各局のプロデューサーさんは全員復帰するまで待ってくれるって。ありがたい事だね』

 陣内社長も安心した様子。

「本当に、ありがたいですね」

 「復帰まで待つ」としてくれたのも、自分でいうのは僭越だが、レギュラー番組一本一本に真摯に向き合い、取り組んで来たからだろう。なおざりだったら今日でクビだ。絶対に。公務員や会社員とは違い、それだけ保証がない生業だから。

 本当は電話にした方が良いのだが、今は掛ける気力がないので全レギュラーのプロデューサーに対しメールで、「メールで失礼します。この度は勝手なお願いをし、誠に申し訳ありません。早く復帰出来るよう、治療に専念致します」とお詫びを送信した。

 やがて二二時となり、相方の「勧め通り」『報道LIVE 22』を観た。「良いのか? お前は働かなくて」また心が萎えてしまうが、相方はスタート当初は緊張もあって表情も硬かったが、今は慣れもあり表情が柔和になっている。数字も十二、三%と安定している状態だ。

 天気情報まで観終わった所で、まだ番組は終わっていないが就寝前の薬を服用し、二三時には就寝した。



 うつ病の再発と診断され、自閉症スペクトラム障害もあると告げられた。だが休職が承諾され少し安心感はあったが、うつの地獄は翌日からだった。

 朝六時には相方を起こさないように起床。起きて暫くは精神も落ち着いた状態なのだが、相方が作ってくれた朝食を九時頃に食べると、丁度その時間帯から無気力感と抑うつ症状が襲って来るのだ。

「ああ、酒が飲みたい」

「まだ午前中だよ」

 相方は怪訝な表情をして目を丸くする。

「抑うつ症状を紛らわせたいんだよ」

「駄目。何の為に薬を処方して貰ったと思ってるの?」

 確かに仰る通り。でも藁にも縋りたいのだ。薬も無論服用したが、今日は効いているのかいないのだか……。

 「もしメールでも意見が出せるようであれば」と陣内社長に言っておきながら、会議の時間になってもメールを送信する気力が、ない。

 企画書を書いてみようかとも思うのだが、パソコンを起動させて打ち込む気力が、ない。

 「何もしない訳にはいかない」そう思念するのだが、メールもパソコンも文面は浮かんでも身体がいう事を聞かないのだ。

「只ボーッとして過ごすのも悪いから、洗濯くらいはオレがやるわ」

「そう。ありがとう。後は身体を動かす事だよ。ジョギングかウォーキングでもしてみれば? うちに籠もってばかりいたら余計に気分は落ちるよ」

 真子は以前にうつ病患者を取材した事があるのか、ネットで昨晩勉強したのかは知らないが、確言と確答が早い。顔にも「確信」が浮き出ている。

「そうだな。ウォーキングにしよう」



 翌日から朝食前に洗濯機を掛け、干し終えたら食事と薬を服用。十時過ぎにウォーキングするようにしたのだが、洗濯は苦にはならないが問題はウォーキング。外に出たくないのではなく、歩く事さえ億劫なのだ。歩き始めても直ぐに帰りたいと思ってしまう。

 それでも腕時計を見ながら一時間ちょっとはウォーキングしている。だが無気力感と抑うつ症状が改善される訳でもなく、ウォーキング中に症状が襲って来てしまう。

 それでも、「あっ、こんな所にコンビニがあったんだ」普段は気付かなかった小さな発見があったり、たまに高年の男女を見掛け、男性は携帯のラジオを聴きながら歩いているのだが、「毎回同じ時間帯に。夫婦なのかな? 定年して二人でウォーキングといった所か」と想像してみたり。毎日のように幼稚園の前を通るのだが、園児達が運動スペースで無邪気に保育士に見守られながら遊んでいる。その様子に「子供は元気だなあ。オレにもこんな時期があったんだ。うつ病なんて病気も知らず、あの子達と同じように無邪気に遊んでたのかなあ」ふと思ったりもする。懐かしいやら微笑ましいやら、一時的に少し癒やされるような気持ちにはなる。

 腹を空かせて帰宅し、精神安定剤を一錠服用して昼食。その後はちょっと休憩というのか、昼寝を一時間くらい。

 眠れる日と目を瞑っても寝付けない日があり区々ではあるのだが、寝ると少しは症状が落ち着き、その隙きに洗濯物を取り込んで畳んだりしているが、後は何もしない。夕方から夜に掛けてまた無気力感と抑うつ症状、夜にはプラス倦怠感が覆い被さる。

 大した事はしていないのにぐったりなのだ。「これだけ時間があるのに罰が当たるぞ」「お前みたいな奴を世間では怠け者っていうんだよ」自分を責めてばかり。また抑うつ症状に拍車を掛けるのだ。

 確かにこの国には未だに、うつ病は「怠け病」「家庭内暴力を振るう」「心の風邪」「休めば治る」といった偏見があるのも事実。

 オレもまだ派遣社員をやっていた時に同じグループの人に、「精神科に通っている」と漏らしてしまい、それが社員の人に伝わった結果「中山さんには重要な仕事は頼めない」と偏見を持たれ、主任から派遣会社の社員に「人をチェンジしてくれ」と言われたらしく、即日解雇となった事例を持つ。



 気を紛らわせたいのか時間潰しか、タバコの量も多くなって来た。

「ねえ相方、ちょっと吸い過ぎじゃない?」

「分かってる。別に気分が落ち着く訳でもないし旨くもない。でもどうしてもタバコやアルコールに縋りたくなるんだよ。それに時間を無駄にして罰が当たるとか、病気を理由にして怠けてるだけって、自分を責めるんだ」

 嘘偽りのない本音。

「あんまり考え込まない方が良いんじゃない。そうやって自分の事がどんどん嫌いになって行ってない? クリニックにも行って薬も処方して貰ってるんだから、いつか寛解する日が来る! 仕事も徐々に再開出来るようになる! って、自分の事くらいは信じていても良いんじゃないの。出来れば、私の事もね」

 真子は声を弾ませ優しい笑みを浮かべる。満面の笑みだ。抑うつ症状が出ていても心にグッと来るものがあった。

「自分の事、妻を信じる、かっ」

 ユースケは換気扇に向け紫煙を吐き出したけれど、目は潤んでいるように見える。涙が頬を伝うまでは行かないけれど、彼の潤んだ目を見るのは初めてだ。

 彼と結婚したのは間違いではなかったと改めて思うし、ユースケの素直な人間味が大好きだ。

「ほら、目に涙溜めてないで、これをきっかけに本数を減らすかガムか、禁煙パッチで止めてみるか考えて行こう」

「別に泣いてねえし」

「両目が光ってるんだよ!」

「ちっ、もう一服」

 仕方のない奴だな、本当に。ユースケは態とムッとした顔付をして私に背を向けて紫煙を吐き出した。袖で目の辺りを拭ったという事は、今度はもっと涙が流れて来たな。

 別に隠さなくても良いのに人前で涙を見せない、「男の意地」というやつだな。そういう所も好きだよ、ユースケ。

 それからユースケは禁煙はしなかったけれど本数は以前より減らしてくれた。

 コーヒーやお茶を飲みながら目を閉じ何やらジーっとして勘考している様子。多分企画の事とか何かを考えているのだろう。

 私には「一々換気扇を付けるのが面倒臭い」と強がりを言っているけれど、病気の為、身体の為と考え方を改めてくれたのだろう。



 ユースケが侵されている病、障害をもっと熟知する為、私も彼が就寝した後にネットではあるけれど調べてみた。

まずはうつ病から。

「気分障害の一種であり、抑うつ気分、意欲・興味・精神活動の低下、焦燥、食欲低下、不眠、持続する悲しみ・不安などを特徴とした精神障害である。」

 うん。このくらいの知識は私にもある。でもまだユースケには食欲低下はない。

「有病者数は世界で三・五億人ほどで一般的であり、世界の障害調整生命年において第三位(四・三%)に位置づけられている。

 うつ病は他の精神障害と同様、原因は特定されていないため、原因によってうつ病を分類したり定義したりすることは現時点では困難である。

 広い意味でのうつ病は、一般的には抑うつ症状が前景にたっている精神医学的障害を含める。その中には気分変調症障害をはじめとする様々なカテゴリーが含まれている。

 「うつ病」であっても異なる概念であるが、このことが専門家の間でさえもあまり意識されずに使用されている場合があり、時にはそれを混交して使用しているものも多い。そのため一般社会でも、精神医学会においても、うつ病に対する大きな混乱が生まれている。つまり、うつ病という言葉の意味が異なっている場合がある。

 抑うつの症状を呈し、うつ状態であるからといって、うつ病であるとは限らない。抑うつ状態は、精神医療において最も頻繁に見られる状態像であり、診療においては「熱が三八度ある」程度の情報でしかない。状態像と診断名は一対一で対応するものではなく、抑うつ状態は、うつ病以外にも様々な原因によって引き起こされる。」

 精神疾患は難しい。医師でも認識が曖昧なのだから。

「「ほとんど一日中、ほとんど毎日の」抑うつ気分、あるいは興味、喜びの著しい減退の他、「ほとんど毎日の」不眠あるいは過眠、易疲労性、精神の焦燥や制止、無価値感や罪の意識、思考力や集中力の減退、体重の減少や増加、反復的な希死念慮などがみられる。」

 放送作家にとって思考力や集中力の減退は死活問題だろう。

 それに、うつ病で自殺した人がいるというのは認識があるけれど、この事も注意しておかなくては。

「うつ病の発病メカニズムは未だ不明であり、社会的相互作用、心理社会的、生物学的らの複雑な要素によるとされ、様々な仮説が提唱されている。現在、動物実験によって、抑うつ状態に特有の神経回路機構が徐々に明らかとなりつつある。」

 億単位で患者がいるというのにまだ動物実験の現状なのだ。

「近年MRIなどの画像診断の進歩に伴い、うつ病において、脳の海馬領域での神経損傷があるのではないかという仮説が唱えられている。そして、このような海馬の神経損傷には、遺伝子レベルでの基礎が存在するとも言われている。

 また、海馬の神経損傷は幼少期の心的外傷体験を持つ症例に認められるとの研究結果から、神経損傷が幼少期の体験によってもたらされ、それがうつ病発病の基礎となっているとの仮説もある。」

 海馬の損傷……やはりうつ病は「脳の病」なのだ。

 ユースケは幼少期は知らないけれど心的外傷は負い易い性質。そこがこれまでは仕事に活かされて来た面もあるだろうけれど。

「アルコール依存症または過度のアルコール消費は、うつ病の発症リスクを大幅に増加させる。また、逆にうつ病が原因となってアルコール依存症になる場合もある(誤った自己治療)。」

 これも注意しなければ。ユースケはアルコールにあまり強くはない。お酒で気を紛らわせようとして別の病気になっても大変。

「成人では、ストレスの多い生活上の出来事が強くうつ病の発症に関連付けられている。生活上のストレス、社会的支援の欠如がうつ病につながる可能性がある。」

 放送作家も様々な分野にアンテナを張っておく事が必要で、多忙な職業。ストレスがない訳がない。家族の理解が必要不可欠なのだな。

「抑うつ状態は、次のような原因によって引き起こされる。

 正常な落ち込みは生活上の正常な苦痛や苦悩であり、対して、うつ病ではそれが一日のうちほとんど、ほとんど毎日であり「濃く」、機能の障害を起こし重症である。

 治療の前提として、治療者は、患者と信頼関係を結び、治療の基本的原則についてしっかりと説明を行い、患者が納得して治療に取り組むことが必要である。患者も、分からないことは質問していくことが必要である(患者教育)。」

 医師と患者のコミュニケーションが治療の成功には不可欠なのだな。

「うつ病の症状の一つに、将来を悲観してしまうことがある。それは症状であり、軽快するに連れ希望が持てるようになる。

 以前に興味を持っていた事項については、億劫であっても、それを放棄せず可能な限り継続すべきである。

 可能な限り、定期的な運動を継続すべきである。また、運動療法は薬物療法に比べてうつが再発する可能性が低い。」

 なるほど。運動させるべきだ。まずは身体を動かすという事だな。

「日本うつ病学会のガイドラインには、薬を飲んで休んでいればいいというような説明では、患者側の積極的な治療への参加が放棄されることもあり、生活上の工夫やリハビリについての説明も必要であるとされる。

 心因が強く影響していると考えられるうつ病の場合、環境のストレスが大きい場合は調整可能かどうかを検討し、対応する。」

 休んだり気分転換に旅行するなどすれば治る。これも誤解され易いだろう。やはり周囲の理解が必要。人間の脳はそう簡単な構造ではないのだ。

「うつ病を経験した人の八十%が一生で一回以上の再発を経験し、その平均は四回であった。他の一般的な調査では、約半数が治療を行ったかどうかに関わらず回復しているが、残りの半数は最低一回は再発し、およそ十五%は慢性的な再発を繰り返す。

 再発率は、うつを繰り返す度に高くなる傾向にあり、初発の場合の次回再発率は五十%、二回目の場合七五%、三回目の場合は九十%にものぼる。」

 ユースケも再発。今の所重症ではないみたいだけれど、これから注意が必要だ。

「十年以上の喫煙歴がある四十・九十歳の男女計六百人を対象にインターネットで行った調査によると、ニコチン依存症の人の十六・八%にはうつ病やうつ状態の疑いがあり、ニコチン依存症でない人でのその割合は六・三%のため、ニコチン依存症の人ほど、うつ病・うつ状態の可能性が高いと報告している。

 但し、喫煙者であって重症のうつ病の間の禁煙は医師との相談が必要である。ニコチン離脱時にうつ病が再燃しやすいのである。」

 そうなのか。身体には良くない物でも無理に禁煙を勧めても駄目なのかもしれない。 



次に自閉症スペクトラム障害のページを閲覧させる。

「神経発達症群に分類される一つの診断名で、コミュニケーションや言語に関する症状があり、常同行動を示すといった様々な状態を連続体スペクトラムとして包含する診断名である。

 原因については現時点では脳機能の変異とされているが、親の子育て能力は関係しないと判明している。他の神経発達症と同様、一般的には治療法は存在せず、一生続き、治療より療育や支援に重きが置かれる。」

 義父と義母の教育や躾、家庭環境は関係ないのだな。

「社会的コミュニケーションや社会的相互作用における持続的な欠落。

 興味が限定的、行動が反復的、または活動の様式。

 この障害を持つ児童は限定的な行動に特別な興味を持ち、変化に抵抗し、仲間に合わせて社会的状況に反応しないことがある。

 日常的な習慣を邪魔されると強い不安を感じる(程度は人により差はある)。

 言語の発達や使用の障害。約五十%は、有効な会話能力が発達しない。一方で、ハイパーレクシア(過読症)なども見られる。」

 ユースケは特に言語や会話能力には問題ないとは思うのだけれど、たまに過激な下ネタを言って周囲を困惑させる。私も恥ずかしい思いをした事はあるのは事実。あれも一種の症状なのだろうか。

「周辺症状としては、易刺激性。攻撃性、自傷行為、癇癪など。気分と感情の不安定性。感覚刺激に対する反応。多動と不注意。などがある。

 男性の割合が非常に多いとされる。自閉症全体の割合でも半数以上を占めているという。一歳時前後からはっきりと特徴は現れるものの、健康状態には問題はないという。

 状態の変化を嫌ってパニックを起こすことが絶え間ないこともある。こだわりの要因が非常に強く、様々な病気を引き起こすことがよく知られる。

 自閉症スペクトラムの遺伝要因の影響度(遺伝率)は九十%と非常に高い。近年ではこれより低い推定もあるが、いずれにせよ遺伝的要因が大きい。」

 ユースケの両親のどちらかが自閉症スペクトラム障害なのだろうか。もし遺伝であれば致し方ない。

 


別のホームページも閲覧してみる事にした。 

「対人関係の障害

 社会で常識とされるようなことや、暗黙のルールといったものに無頓着であるという特性です。この特性は、周囲に関係なく自由な発想ができる、孤立してもやり続けられる・やり遂げられる、周囲の感情に惑わされないといった、長所となることでもあります。

 一方で、その場の空気や相手の様子などを読むことができない、周囲に配慮しながら行動することができない、挨拶や礼儀をわきまえない、間違っていても謝らないといった行動に結びつきがちです。そのため、ご自身には全く悪気はないのに、「非常識」「自己中心的」と見られやすくなり、他人の怒りをかってしまうことにつながる場合があります。」

 自由な発想が出来るという点では、ユースケは放送作家に向いているのだろう。発想が浮かんでなんぼの職業だから。

「コミュニケーションの障害

 自分の興味のあることや、頭に浮かぶことを次々話すといった特性です。この特性は、印象に残ったことを率直に話せる、独特の言い回しなどが面白い、あることについてとことん話を続けられるといった長所となることです。

 しかし、それは、相手に興味があるかないかに関わらず話し続ける、相手の話は全く聞かず一方通行で話す、相手が話している途中で他のことを始めるといった行動に結びがちです。

 仲間と一緒に何かをやるといった場面で他人の言うことは全く聞かなかったり、休憩時間と勉強時間などの切り替えができずに話し続けたりといった問題を起こす場合があります。

興味や行動の偏り・こだわり(パターン化した興味や活動)

 決められた手順や一度決めたルールなどに徹底してこだわるという特性です。

 物事に真剣に取り込む、単純作業などを嫌がらずに続けられる、規則正しく生活できる、記憶力が高い、などの長所となって現れる面があります。

 その反面、突然のスケジュール変更や中止、ルール変更、などを極端に嫌がり、時にパニック状態になったりする場合もあります。

 これは、次に何が起こるか、どんなことが起きる可能性があるかといった想像力を働かせることが苦手であることが原因です。また、例外を認めなかったり、他人の誤りを許さなかったりといったことも、同じ特性が原因で現れがちです。」

 確かにユースケはアドリブが利かない。急な予定変更にパニックとまでは行かないけれど弱い。

 一見冷静そうに見えても目や表情には焦りを感じ、気持ちは動揺しているのは目に見えて分かる。性格もあるのかもしれないけれど、これも障害の典型的な症状、影響なのかもしれない。

「青年期の症状

 障害とうまく折り合う方法を身につけてきた場合とそうでない場合や、障害の程度などにより、症状が多様化していくと言えます。

 幼いうちに診断を受け、その後周囲の理解を受けながら成長できた方々は、成長とともに症状が目立たなくなる場合が多いと考えられています。強みを生かし社会で目を見張るような活躍をされている場合もあります。」

 ああ、ユースケは幼い内からは診断されてはいない。放送作家としては九本のレギュラー番組を抱えて活躍してはいるが、障害がある事を本人も両親も知らないままもう青年期。

 身内の理解は勉強すれば早いかもしれないけれど、職場、周囲の人達が何処まで理解してくれるかが心配……。

「一方で、次のような問題を抱える場合も見られるようです。

一、仕事が臨機応変にこなせない、職場での対人関係などに悩む

ニ、不安症状やうつ症状などの二次障害を発症する

現代の医学では自閉症の根本的な原因を治療する事は不可能とされています。

 しかし、早期の段階から自閉症スペクトラム障害のあるご本人がその困りごとへの対応法を学んだり、保護者を中心としたご家族の方や、周囲の方々が困りごとを未然に防ぐための支援方法を学んだり、また、生活の場である学校や職場での理解が深まるといったことを通じて、症状を緩和したり、困りごとを軽減することができると考えられます。

 また、自閉症スペクトラム障害特有の症状が軽減しても、それは我慢を強いているだけで、そのストレスなどにより他の症状が生じる場合もあり得ます。

 よって、発達段階を通じて、自閉症スペクトラム障害の症状の現れ方だけでなく、生活全般に渡る行動に目を配り続けることが最も望ましい在り方と考えられています。」

 やっぱり私も気に掛け続ける必要があるな。人間独りでは生きていけないという事だ。周囲の理解、サポートがあってこそ成立する。独りの力だけでは駄目なのだ。



 治療に専念し始めて四ヶ月が経ってしまった。幸いレギュラー番組九本は『オンガク!』も入れて改編期にも打ち切りにはならず、継続される事が決まっている。

 が、依然として会議中にメールで意見を出したり、企画書を執筆する気力は、ない状態。「もう皆、オレの事など忘れているのではないか?」そんな言葉さえ頭を過る。クリニックも二週間に一遍のままだ。

 正月は羽村の実家は「今年は夫婦揃って仕事が入ったから」と嘘を付いてはぐらかしたが、真子の実家には彼女独りで帰省した。本当はオレも、夫婦揃って挨拶しなければ不躾なのは承知しているが、今年も真子からの「病気が善くなってからで良いから」の言葉に甘えてしまう。

 その代わり、でもないが「ご無沙汰しております。今年も仕事で両家には挨拶出来ません。誠に失礼な事ですが、今年も宜しくお願い致します」と妻に両親へのメッセージを託した。

 思い返せば妻の実家には、去年の真子の夏休み中に少しだけ顔を出して挨拶したっきりだ。同日の夜。実家から帰宅した相方に、

「ご両親は怒ってたろう」

白々しく訊いてみる。

「怒る訳ないじゃない。私も業界人だから両親は理解してくれてる。男は働き盛りが華だって、お父さんも笑顔だったから」

「そう」

 働き盛りが華……本当は休職中、妻の収入に頼る無収入の身。切ないとしか表現のしようがない。実の所最近は、「オレは何で生き続けているんだ?」。希死念慮の言葉さえ頭を過り始めるようになっていた。



 二週分しか薬は処方されていない為、大牟田クリニックには来院せざるを得ないし診察も受けざるを得ない。

「症状は相変わらず?」

「はい。無気力感、抑うつ症状、倦怠感は不意に襲って来ます。特に日中から夜に掛けて、日によって区々ですけど何も手に付かない、気力がない時は抗う事も出来ずにそのままでいるしかありません」

「うーん。相変わらず精神状態は揺蕩してるんだね」

 大牟田先生は「カタカタカタ」とタイピングの音を響かせながら相槌を打つ。

 この頃になると相方は仕事の都合もあるが来院はしなくなり、オレ独りで診察を受けるようになっていた。

「年末くらいからは希死念慮も浮かんで、寝付きも悪くなって来てます」

「そっかあ」

 先生は逐一タイピングする手を止めない。

「でも、今の自分に出来る事を何かしようと思って、毎朝洗濯機を掛けて干して取り込んでっていう作業と、一時間ちょっとのウォーキングは雨が降っても毎日やってはいますけど」

「それは良いね。何もしないより少しでも身体を動かした方が。ウォーキングは発散にもなるし」

 大牟田先生はタイピングの手を止め、いつものにこやかな表情を見せる。

「でも市街地を一周するくらいです。本当は歩くのも億劫で抑うつ症状が出たままですけどね。毎日、昨日はこっちに行ったから今日はこっちから行ってみようって、道順は変えてます」

「良いんじゃない、それでもウォーキングはしてるんだからさ。うちの部屋にずっと籠もっているよりかは増しだよ」

 真子と同じような事を確言する。やっぱり相方、密かに勉強したな。

「後は、少しでも落ち着いてる時間を見計らって、企画書とか執筆出来るようになれば。でも今は、レギュラー番組や動画を観る気力がなくて。観ると更に気持ちが落ちてしまうんです」

「そっかあ。レギュラー番組ってテレビに出演した事あるの?」

「レギュラーは構成を担当してるだけです。僕は放送作家ですから」

「ああ、そういう意味ね。じゃあ今の中山君に合った薬に変更して、含有量を上げてみよう。寝付けない日の為に含有量が少ない睡眠導入剤も処方しておくから」

 先生が再びパソコンに目を向けタイピングを始める。

 現在服用している薬を全て見直し、含有量も上げる。大丈夫なのだろうか。

「身体の負担を考えたら、含有量は本当は上げたくないんだけど、もし倦怠感が強くなったとか、今までと変わった事があったら直ぐに言って」

 やはり身体への負担が、大牟田先生もオレも気に掛かる所だ。

「じゃあまた二週間後に。これで様子を見てみよう」

 先生はにこやかにプリントアウトし捺印した処方箋を渡して来た。さあ、薬が変更された事が吉と出るか凶と出るか……。


後半は下巻に続く――


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ