Phase.18 邂逅
18
セーフティ・ハウスはラリー・オロークの酒場の小さな裏庭にあった。長家が肩を寄せ合うようにして並んでいるこみごみとした一角に増設された場所で、塀を乗り越えれば、そのまま裏手のブレシットン・コートに逃れるようになっている。
部屋にはベッドとクローゼット、書き物机、錆びかけた身だしなみ用の鏡台が申し訳程度に置かれているのみで、グレシャム・ホテルの内装に比べると悲惨で目も当てられなかった。
着いて一時間ほどすると、レオポルド・ブルームが〈マスター〉の返信を持ってきてくれた。
『応援ヲ寄越ス。ソコデ待機セヨ』との簡潔な指示で、カネトリはひとまず孤立してないことに安堵し、ごわごわした安ベッドの上で襲撃に備えて仮眠をとることにした。
「ねー、カネトリ。なんでIRBの襲撃犯は僕たちの顔を知ってたのかな? ギルドの名簿にクラッキングしたとか?」
「いや……多分、あの写真家だろうな。ただの物乞いと思っていたが……クソ! こんなことならカメラ壊して警察に突き出してりゃよかった!」
「手口を知ってたのが逆に仇になったねぇ」
「……グレグスン警部に連絡しなくていいの?」
リジルのその問いに、カネトリは考えるように黙って、「いや」と首を振った。
「警察の保護を求める手もあるが……タイミングから見て、情報が漏れたのはRICからだ。おそらく、グレグスン警部がカイロ・ギャングのメンバーをIRBに潜入させているように、IRB側もRICに人員を潜入させているんだろう。それか、グレグスンの部下が二重スパイである可能性が高い」
「ひゃー、フクザツー!!」
「ああ。ここは完全に敵地だからな。ひとまず、スパイを炙り出すのは後にしてギルドの応援を待つしかない。……リジル、今の内に休んでおけ。今夜は忙しくなるぞ」
「わかった」
三時間交代でリジルに見張りを引き継ぐと、ホテルを脱出した時からずっと気を張っていたためか、カネトリはすぐに眠気に襲われた。
初めはどうにか意識を保とうと頑張るが、先ほどからクローがぐーすかと眠りこけてるのを見て、せめて浅い眠りに留めようと目を閉じた。
「……リジル。俺も少し寝るかな。何かあれば、起こしてくれ」
「わかった」
「頼ん……だ」
少しとしない内に、武器商人はぐうぐうといびきをかいて眠りに落ちた。
リジルはそんな男の顔を不思議そうにじっと見つめていたが、やがてヒギンズ教授から課題としてもらったノートを開いて小声でアルファベットの書き取りを始める。
「イン・ハートフォード・ヘリフォード・ハンプシャー……」
部屋には時計がないので、板張りの窓から微かに差し込む光の筋だけが時間の経過を示している。
しばらくして、コンコンと軽いノックがした。
「!」
リジルは咄嗟にホルスターからリボルバーを抜くが、扉の前に立つ人物が一人だけで、銃や火薬の匂いがしないことに気づいた。
カネトリとクローを起こそうかと迷うが、一応、危険はないと判断し、フードを被って後ろ手に銃を握ったまま扉を開く。
「はい……?」
「ああ、外の人がこれをあんたに渡せって。表の通りで待ってるってさ」
酒場の手伝いらしい青年はそれだけ言うと、封筒を手渡して去って行った。
首を傾げてその場で開封すると、中には『Come out, Puppy(出て来い、子犬)』と少女でもわかる英単語が一文だけ書かれた手紙と、一発の弾薬が入っていた。
鉛玉が薬莢の先に出ている通常の弾薬とは異なり、平たい弾頭をした円柱形の弾丸が完全に薬莢の内に埋め込まれている特殊な形状。これは発射時に薬莢の先端が薬室と銃身との隙間に蓋のように重なって燃焼ガス漏れを防ぐ機構からだ。
ベルギー製の七ミリ・ナガン弾。
つまりは、少女がいつも使っている弾丸。それの意味するところは、明白だった。
「! こ、これって……」
まさかこのタイミングでこのメッセージが届くとは思わず、〈黒犬〉は目を丸くした。懐かしさと不安が入り混じった複雑な気持ちで、少女は手紙を胸に抱えたまま一歩も動けずにいたが、逡巡の末、足音を忍ばせてそっとセーフティ・ハウスを出る。
酒場のホールを突っ切るとドーセット・ストリートの人混みに出た。
丁度、帰宅ラッシュの時間帯で疲れ顔の労働者が目立つ。近所の公園には露店が並び、カートを引くフィッシュ・アンド・チップス売りや売れ残り品を大声で叫ぶ八百屋の前には群衆ができている。
「シグ……!? 一体、どうして……」
リジルはギュッと拳を握り、男の影を探して足早に駆けた。
一ブロックほど行って大通りに出たところで、王立ダブリン歩兵連隊の巡回に出くわした。
夕焼けにしゅうしゅうと蒸気を吐き出しながら、一台の戦闘ガーニーが横切っていく。
乗合馬車ほどの大きさを持った六角形の蒸気要塞。アームストロング社製の鋳鉄装甲を持ち、可動式の銃座と一五ポンド砲で武装している。車体の正面には連隊の記章である、シャムロックの輪っかに囲まれたダブリン市の紋章が刻まれていた。
それを見送る住人の表情は様々だ。一方は誇らしげな目で見守り、もう一方は憎しみの目で睨みつける。
アイルランド統治の中心だったダブリンには英国寄りの連合派が多いが、最近ではIRBのような独立派もまた増えているのだ。
リジルはそんな隊列を横目にきょろきょろと当たりを見回していたが、
「……久しぶりだな、子犬」
背中越しに懐かしい声がかかり、ピタリと足を止めた。
「……っ、シグルド!」
「〈黒犬〉と名乗っているそうだな、子犬。まさか、お前がロンドン・シンジケートに属しているとは思わなかった」
振り返ると、夢にまで見た恩人が、まるで幻のように立っていた。
昔とまったく変わらず、黒づくめの格好で、鷹のような鋭い眼光で辺りを警戒しつつ、街路樹に持たれかけている。
「三年ぶりぐらいか。迎えにくるのが遅くなったな。……俺がいなくて寂しかったか?」
「…………。……どうして」
少女はギュッと拳を握り、外套の男――シグルド・ヴァン・クリーフを睨みつける。
「どうして、私を捨てたの?」
「…………。……捨てたわけじゃない。迎えに戻るのが少し遅れただけだ」
「迎えに来るなんて聞いてなかった! 手紙だって、一度も!」
「出してもどうせ読めないだろう。それに俺の組織は少し特殊でな。落ち着いて手紙を出せるような状況じゃなかった。……本当はこの件を片付けてからロンドンに行くつもりだった」
「嘘!」
「嘘じゃない」
頑なに頭を振るリジルに、シグルドはふっと笑って腕を組んだ。
「一年前まで俺はキューバにいた。ホセ・マルティという革命党のリーダーを暗殺するためだ。……ああ、キューバつっても知らないか。ロンドンからずっと西にある北アメリカ大陸ってところの少し下にある島のことだ。あとで世界地図を教えて」
「世界地図は知ってる」
リジルは端的に言って、その目をじっと見つめた。
「カネトリが教えてくれたから」
「カネトリ……? ……ああ、あの男か。そう言えば、前に比べて発音がかなり上品になったな。上流階級の話し方でも勉強してるのか?」
「……なんで、アメリカなんかに」
その軽口にぎゅっと唇を噛み締め、リジルはほとんど怒鳴るように言った。
「どうして、行くなら行くで……なぜ、私に黙って行ったっ!?」
「…………。……この際だ。正直に話そう」
周りの群集が何事かと視線を向ける。その強い言葉にシグルドは一瞬戸惑いの色を見せたが、やがて深く息を吐いて語り出した。
「子犬、お前の言う通り、俺はお前を捨てようとした。それは事実だ。……一度はな、おまえと真っ当に生きてみようと思ったこともあった。だが、それは無理だと悟った。牙を持つ狼は羊の中では暮らせない。それと同じことだ」
「シグは……私のことが……」
「そうじゃない。逆だ。……二年前のあの時、俺はとにかくひどい憂鬱症にかかってしまってな、死のうと思ってたんだ。貴族や知識人にありがちな世紀末病ってやつかもしれん」
「それなら……辛かったのなら、どうして私に相談してくれなかったの!?」
「危うくお前を殺してしまうところだったからだ」
そう端的に伝えられ、はっとリジルは口を閉ざした。
「あの時、何も言わなかったのはすまなかったが、きっと何を言ってもお前はついてきただろう。そして俺はお前を殺してた。……これが芸術家なら、今流行りの世紀末芸術なんてので発散できただろうが、俺はそうじゃなかった。そのままテムズ川に身を投げてもよかったが、死ぬ前にせめて少しでも善行を積もうと思ってな、西部の無法者どもを片っ端からぶち殺して回ることにした。その内に死ねるんじゃないかと考えていたが、銃弾に当たる前にスカウトされてな。ヤンキーと仕事をする内に、なぜか英国に帰ってきたというわけだ」
「…………」
「今となっては……お前を連れて行けばよかったと思う時もあるが、それが正解だったのかも正直よくわからん。ただ、お前のことを忘れたことはなかった。これは本当だ。結局、俺は何も捨てることができなかったってわけだ。命も、お前のことも」
「そんなの……勝手すぎる……」
「ああ、すまなかった。……こっちに来い、子犬」
「……っ、もう……」
手を伸ばすかつての恩人に逆らうように、リジルは一歩後ずさった。
「もう、子犬じゃ、ない。……私は、リジル!」
「…………。……ああ、そうだな、リジル」
それは本来なら男の役目であるはずだった。一瞬、その瞳に寂しげな影を宿し、シグルドは頷いた。それまでの優しい声色を変え、敵として冷徹に命じる。
「カードを持って俺のところに来い。そうすれば、あの男は見逃してやる」
「…………」
「俺は裏社会の人間だ。これまで力で奪って生きてきた。今度もそうだ。セーフティ・ハウスはすでに包囲してある。力で奪い取ることはできるが……お前に免じて、日付が変わるまでは待ってやる。せいぜい、あの男とよく話し合って決めろ」
「っ! ……シグルドッ!!」
淡々と告げるシグルドに、リジルは咄嗟にホルスターに手を伸ばし、
「――抜かないほうが身のためだ」
「!」
背後でそう警告するもう一人の男の手は、外套の内側のホルスターに伸びていた。
「おい、小娘。周りをよく見ろ。ここは西部じゃないんだぞ。カウボーイが言うのもなんだがな」
「…………。一体、いつから……」
その時になって初めて、リジルは周囲の人混みに混じる男たちに気づいた。
「リジル、お前もプロフェッショナルなら腹をくくれ。……断れば、あの男を殺す」
「シグルド……」
消沈した少女はガクリと膝をついて空を仰いだ。
夏の夕暮れが世界を侵食する。太陽は遥か西の彼方に傾き、やがて世界を宵闇が包む。