第8話 捜索者は苦労人?
その日、イザベラの棲む森には、アイリスとは違った……しかし、やはり森の中
には似つかわしくない出で立ちの人物が、思案顔で佇んでいた。
「…やはり、この森はどこかおかしいですね。
これは何か私の与り知れない事態が起こっていると見て、間違いないのでしょう」
今はたまたま人気が無いタイミングだったから良かったものの、握りこんだ手で
口元を隠すようにしてブツブツと一人呟くその姿は、非常に怪しく、そして近寄り
難い雰囲気を醸し出している。
眼鏡の奥のその鋭い眼光も、偶然に通りかかった者が見れば恐怖すら感じる程に
研ぎ澄まされていて、不審者としての条件も十分だった。
「あのお嬢様のこと……誰かに騙されているとか、悪人に関わっているという心配
はあまり無いのでしょうが……。
それでも、傍仕えの私が、何をなさっているのか以前に、その所在すら把握して
いないというのは……問題以外の何物でもないですね」
『お嬢様』という言葉の通り、よくよく見ると彼女の格好はいわゆる使用人が身に
つける“給仕服”のような特徴が所々に見つけられるものだ。
…ただ、それはあくまでも『よく観察すると』といった程度のもので、一見すると
普通の小奇麗なドレスに見える。
貴族の傍仕えとして社交場に帯同することもある彼女、メアリー・スチュアート
にとって、主であるアイリスに恥をかかせない為に、この装飾が施された給仕服と
呼ぶには少々華美過ぎる服装も、最低限必要なものだった。
ただでさえ、子爵は貴族の爵位の上では比較的下位に属している。
人柄や能力などは度外視、身分のみで相手を評価するような者が多い貴族の世界
では、アイリスの後ろに控える彼女が粗末な装いでは、更に甘く見られてしまう。
そして、そうなれば見目麗しく整った容姿に、美しい金髪碧眼を持って生まれた
彼女の主は、他の貴族達の恰好の的となってしまいかねなかった。
…だが、そこにこのメアリーが加わる事で、周囲からの認識が一変する。
メアリーの、主とはまた違った整った容姿と、そこから来る何処か人を寄せ付け
ない冷たい雰囲気、そして極めつけに、その引き締めた鉄面皮のような表情。
そこに、見るからに品質の高い生地を使った、決して“下位貴族だ”と侮る事を
許さない豪華な給仕服、と……。
そういったあらゆる要素が揃ったメアリーがたった1人、傍に控えているという
だけで、一気にアイリスを迂闊に近寄り難い、高貴な存在へと変えることが出来る
のだった。
だから、とても給仕服には見えない程に華美なその姿は、実のところ、大切な主
を守る為に必要な、最低限の嗜みでもあるのだ。
…ただ、今はそんな服を着た女性が、何故か森の中で一人で突っ立っている……。
これ以上に目立つものは、何の変哲も無いこの森にはそうそう存在しない。
美しい金色の髪を持つアイリスに対して、メアリーは、まるでそんなアイリスの
髪と一対にする為に存在するかのような、透き通るような白銀の髪……。
そして、まだ十代のアイリスと違い、二十代前半である彼女には、若さから来る
無邪気さとは異なった“大人の女性”としての落ち着きが色濃く感じられる分、ある
意味ではアイリスよりも強い違和感を、この時のメアリーは放っていた。
…だが、主の行方を突き止める事に必死な今の彼女には、そんな自分と周囲の景色
とのアンバランスさから発生する違和感になどに、気付く余裕は無い。
「ふむ……どう考えてもおかしいですね。
確かにここまでは何の問題も無く、尾行できていたはずなのですが……。
これはどうした事でしょう?」
そう……その程度に彼女は真面目で――少しばかり、過保護な人物でもあった。
「………これは、もしかすると危険な状況かもしれません」
森の中を探し回ること、約一時間。
時間が過ぎるにつれて、彼女の落ち着き過ぎていると言える程の冷静さは、徐々
に余裕の無さに塗りつぶされていった。
公の場では文字通り、鉄面皮と言って良いほど無感情な印象の彼女。
しかし、それはあくまでもそういった場面では、そう振る舞うことでアイリスを
守っているというだけであり、実際のメアリーは、そんな世間の印象とはちょっと
違う一面を持った人物だった。
「今日こそ、全く気付かれずに尾行は出来ていたはずなのに……。
突然、消えてしまったように見失うとは……私は疲れているのでしょうか?」
まるで迷子になった我が子を探す母親のように、忙しく周囲を見回す。
その目にはもう、必死さ以上の何かが感じ取れる程で……。
先程とはまた違った意味で、周囲に恐怖を感じさせるものだった。
「ああっ! 早くあの子を見つけないと!
もし、森の動物に襲われたりなどしていたら……大変です!!」
つい、主であるはずのアイリスを『あの子』と言ってしまうメアリー。
…だが、それにはとある理由があった。
メアリーとアイリスは、血縁的には母親同士が姉妹……いわゆる従姉妹にあたる
間柄だった。
少しでも自らに危害を加えられる可能性を無くすべく、貴族の中には自分に近い
立場には、素性が明らかな親類縁者を指名するケースは珍しくない。
メアリーもその例に漏れず、幼い頃から将来的に仕えることを前提に多くの時間
をアイリスと共有し、その流れのまま、予定通りに専属の従者として傍に就くこと
になった……という経緯があった。
だから、メアリーの中では今でも、潜在的にその頃の意識が残っているのだ。
そのため、今も自分を『メアリーお姉ちゃん!』と呼んで慕ってくれていた最愛
の妹の身の回りの世話をさせてもらっている……という感覚が片隅に残っている。
そして、それについてはアイリス自身もそうなのだろう。
時折、『私のことは昔のように“アイリス”と呼んでくれても構わないのよ?』と
メアリーに直接、言ってきたりもする程だった。
その関係性は、表向きには主と従者ではあるものの、精神的な意味では仲の良い
姉妹と言う方がしっくりくる。
だがそれ故に、時にその想いの強さからか……メアリーはアイリスの事となると
途端に冷静さを失ってしまう所があった。
…例えば今回のように、アイリスの関わる物事において、自分が把握出来ていない
状況に直面した時などには。
「は、早く……早くしないと!
このままずっと私が見つけられずに、もしもの事があったら……!」
…メアリーは必要以上に焦っているが、この森に危険な動物が生息していない事は
既に確認されている。
町の者達が野草の採集や、中程に流れる小川で魚を釣ったりという目的で出入り
する場面も多い事もあり、この森は普段から担当する町人達によってしっかり管理
されており、そこに生息する動植物も、ほぼ完全に判明している。
その点で言えば、害のある存在は確認されていないという事は、地元の者達には
広く知られていた。
野生の生物で言えば、一応は兎くらいは目撃されているものの……凶暴な動物は
熊どころか猪ですら一度も確認されていない。
仮にそれ以外に人間の前に現れることがあったとしても、精々が野良猫や野鳥と
いった程度のものだろう。
「ええっと……この辺りに、昼寝に適した陽だまりはあったでしょうか。
それとも、魚を欲っして川辺に集まったりもするものなのでしょうか……?」
メアリーの調査では、アイリスはここ最近、調理を担当する者に、自分には内緒
で猫が好みそうな食べ物を作って貰っており、毎回必ずそれを持って外出している
らしかった。
その情報を鑑みれば、先ず間違いなく、アイリスはこの森で隠れて猫に餌付けを
しているのだろう。
…屋敷では調度品などを傷つける可能性があるため、猫は飼えないからこそだ。
とはいえ、餌付けされるくらいには人に慣れた猫ならば、森の中と言っても町に
近い場所に居るのだろう……と高をくくっていたのだが。
その油断が災いしたのか……。
ほんの数秒、目を離した隙に、見事にアイリスを見失ったというわけだ。
「そこまで広い森でもないはずなのに、まさかこんなに簡単に見失うとは……。
ああっ! お腹を空かせた猫達があの子に襲い掛かったりしたら……大変!!」
一向に見つからないアイリスに更に焦りが募り、素に返っていくメアリー。
その様子は、彼女をよく知らない者が見れば、もう兵に相談して捜索してもらう
ように助言したくなるくらいには、十分に錯乱しつつある状態だった。
…しかし、果たしてメアリーは、沢山の猫にアイリスが一斉にじゃれつかれたから
といって、いったいどうなってしまうと思っているのだろうか……。
「こ、こうなったら、私より森に詳しい彼にも協力を求めるべき?
…いいえ! あの子を見失ったのは、確かにこの辺りで間違いはないはず……。
彼が森に来ているとしても、川の辺りで釣りでもしているのでしょうから……今、
私がここから必要以上に離れるというのも、得策ではないですね。
ああっ! でも、ぐずぐずして本格的に遭難でもしてしまったら!」
僅かな手がかりすら掴めないまま、時間だけが過ぎていく中……唯一、自分以外
にもアイリスの所在を知っていそうな人物が、メアリーの頭を過ぎる。
…だが、やはりその人物に尋ねるよりも先に、まずは自分一人でもう一度、徹底的
に捜索しようと考えを改め、再び走り出そうとした――まさに、その時だった。
『今…は、…めんな…い。
あ…り時間が……なく…、今度は…っと…く遊べ……うにする…ね?』
――それは、とても奇妙な感覚だった。
聞こえてくる声は間違いなく、今まさに探し求めていたアイリスのもの。
ただ、海に打ち寄せる波のように、その声が遠ざかったり近付いたりとブツブツと
途切れ途切れに聞こえてくる。
メアリーはピタリと動きを止め、耳を澄ませてその声に集中することにした。
「…………? こ、これは……いったい……」
『おかしい』と繰り返し言っていたメアリーだったが、本物の異常事態の発生に、
瞬時に先程までの錯乱しかけた状態から一転、いつもの冷静さを取り戻していく。
そして、そのまま彼女は……今度は真剣な目つきで周囲を警戒し始めた。
主へのほんの少しだけ行き過ぎた過保護さは別としても、彼女は使用人としては
他とは比べられない程に優秀な能力を有している。
そんな彼女だからこそ、この時も正確かつ的確に声の発生方向を、瞬きをする程
の僅かな時間で見事に探り当てることに成功し――その場所をジーッ……と、凝視
し続けることが出来たのだった。
そして、次の瞬間。
メアリーが見つめ続ける、その何も無いはずの場所で、自らの目を疑うような現象
が前触れも無く……起こった。
「……シは別に、そんなのはどうでも良い。
ただ、次回からは来る時間くらいは予告しておいてもらいたいってだけだ。
毎度毎度、唐突に訪ねて来られる方の身にもなれっての……」
「う~ん……でも、それはやはり難しいわ。
これでも、一応は外せない用事もあったりする身だから……。
それも、事前の予定にないものが突然、入ってしまったりも――って、あら?」
「…ん? 何だ? いきなりどうした――」
本当に……本当に、瞬きの一瞬。
一秒にも満たない、目を閉じたその一瞬の後に、アイリスの姿がそこにポンッと
音も無く唐突に現れたのだ。
「あー……しまったな。
境界を越える際の人払いを、すっかり忘れちまってたか……」
…そして、その隣には、アイリスより頭一つ分ほど低い背の少女が、黒い猫を胸に
抱いて立っていた。
…こちらもアイリスと同じく、何の前兆も気配も無く、いきなりそこに居た。
2人は会話をしながら現れると、その話の途中で不意にこちらの存在に気付いて
振り返り……そのまま揃って黙り込んでしまう。
「…こ、これは……?」
対して、メアリーの方も、あまりのことに絶句して固まってしまった。
探し求めていたアイリスの無事が確認できたのは喜ばしいことだったが……。
この登場の仕方は流石に予想外であり、想像の範疇を軽く越えていたからだ。
「…おい。まさかとは思うが……コイツはオマエの知り合いか?
まぁ、確かに見るからに一般人とは思えないような見た目のヤツだが……」
数秒間のにらめっこの後、イザベラはメアリーの一般人とは思えないその服装の
派手さに気が付き、そう言って彼女の顔面に向けて指をさしながら、面倒そうに顔
を顰めてアイリスに尋ねてみる。
すると、驚きで固まっていたアイリスがハッとなり、すぐに口を開いた。
「えっ? あ、あー……ええっと、先ずは紹介するわね?
彼女は私専属の使用人をしてくれている、メアリー・スチュアート。
…恐らくは家を抜け出した私を探して、ここに来ていたのだと思うわ」
「あぁ、そうか……。
コイツが、あのメアリーだったか……」
驚きからか、固まっていたメアリーとアイリスの両者。
アイリスの方は、イザベラから話を振られる事で先に硬直から復活し、何処か
戸惑いを残しつつも、なんとか自身の使用人であるメアリーの紹介を無事にして
みせた……のだが――
「あ、あの……お嬢様?
何故、私は初めてお会いしたはずの方から、こんなにも可哀想な者を見るような目
で見つめられているのでしょう?」
「えっ……? そ、それは……」
…過保護というだけではなく、本来は優秀な使用人であるはずのメアリーだ。
主によって初対面の誰かに紹介してもらったのならば、直ちに背筋を伸ばし、頭
を下げつつ、簡単な挨拶を交えて自己紹介をするのが普通だったろう。
だが、今だに混乱しつつあるこの時のメアリーには、アイリスの言葉はまともに
耳に入ってはいなかった。
(どういう原理で突然、出現したのでしょう?)
(この黒猫を抱いた少女は、いったい何者なのでしょう?)
(この方は仮にも貴族であるお嬢様や、初対面の自分に対して、どうしてこれほど
までに偉そうな態度なのでしょうか?)
当然の疑問から別にどうでもいいであろう疑問まで。
メアリーの頭の中で様々な思考が、次々と忙しなく乱雑に飛び交っていく……。
しかし、やはり良く見知ったアイリスではない、初めて見るイザベラという存在
へと意識が向かい――
…そこで何故か初対面としてはありえない程に哀れんだ視線を向けられている事
が他の何よりも気になって仕様が無くなって、すぐにその意図を主に尋ねずには
いられなくなってしまったのだった……。
「あー……それは、だな……」
…一方、尋ねられたアイリスがなんとも言えない微妙な表情で黙っている中、当の
本人であるイザベラが、意味の無い言葉を発しつつ『ここは自分が代わりに答える
べきか?』と、悩むような素振りを見せる。
…が、次の瞬間には『…まぁ、どうでも良いか』と言わんばかりに、急に投げやり
な表情になったイザベラは、そのままアイリスの代わりに答え返してきた。
「別に、そんなに小難しい理由があるわけじゃないさ。
ただ『コイツがこのお転婆お嬢様に普段から振り回されてる、噂のメアリーか』と
思ってな。
…コイツの世話はさぞかし大変だろうと、同情の念が急激に湧いただけだよ」
「あ、ああ……そういう事でしたか」
言葉こそ、酷く荒っぽいものだったが、イザベラの返答は思いの外、理解に足る
内容だった。
そして、だから……というわけではないのだが、混乱は残しつつも、メアリーの
中に存在する“礼節”が、イザベラの言葉を切欠に刺激され、その返答に対して自ら
も丁重に言葉を返すべく、急激に脳内で言葉が整頓されていく。
「…ええ、はい。なるほど……納得できました。
お嬢様に代わって非常に解り易いご返答をして頂き、有難う御座います。
それと、お気遣い頂きましたお嬢様のお世話についてなのですが……。
『これ以上無い程に、やり甲斐があります』とだけ、お答えしておきます」
言葉を発する間に、更に自然と落ち着きを取り戻せてきたのか……。
そう返答する頃には、すっかりメアリーは普段の冷静さを取り戻しつつあった。
いつも通りの、いまいち感情の読みきれない硬い口調で、少しだけ笑顔を混ぜて
答えるその姿は、貴族であるアイリスの従者としても十分な説得力があった。
「…つまり……やはり大変だったんだな?」
…まぁ、説得力は確かにあったのだが……肝心の部分だけは妙に婉曲的な言い回し
であって、それが逆に真実を語っているように思えてならない。
だから、イザベラはその部分を明言させようと、更に追い討ちをかけて、今度は
『大変』の部分を多少、強調しながら質問し直してみた、のだが――
「ふふっ、いいえ。違いますよ?
『大変』ではなく、あくまでも『飽きが来ない、素晴らしい仕事』ですので」
しかし、やはり……と言うべきか。
メアリーは再び、受け手からすればどうとでも解釈できるような、微妙な言葉で
返してくる。
従者として、主の前で嘘を答えるわけにはいかないという考えなのか。
それとも単純に、言葉遊びを仕掛けてきているだけなのか……。
再び微妙な表現で言葉を濁して、イザベラの問いをかわしてみせる、メアリー。
『……………』
沈黙と共に、何とも言えない緊張感が2人の間に流れる。
はっきりと『ええ、とても大変です』と言わせたい魔女と、それをはっきりとは
否定せず上手くかわしてみせる、従者。
…そのまま数秒間、両者の睨み合いは続いた。
口角の下がった仏頂面で、じとっ……と目付きで見つめるイザベラ。
それに対し、メアリーは逆に口角を僅かに上げ、口元だけで微笑んだような表情で
真っ直ぐに見つめ返したまま……。
「――ねぇ、ふたりとも……? 私、そろそろ泣いても良いのかしら?」
…近しい2人の、遠回しで――ある意味では直接的な謎の非難を前に、アイリスが
沈黙を破って、堪らずそう呟く。
『……ふわぁ~……ねむ、い……』
そんな中、イザベラの腕の中で、だらんとぶら下がった姿勢のまま抱かれていた
ロジャーが、大きな欠伸と共に静かに夢の中へと旅立っていく。
3人の初めての邂逅は、そんな……何処か緊張を伴いつつも、何とも平和なもの
であった……。