第25話 身分違いの恋愛事情
「あ、あの……イザベラ様?」
「ん? 何だよ?」
「いえ、その……本当に宜しいのでしょうか?」
「…何が言いたいんだ? メアリー。
言いたい事があるなら、もっとはっきりと言ってくれ。
流石にそれじゃあ言葉が足りなさ過ぎて、全く意味が判らん」
戸惑いの隠せない様子で恐る恐る尋ねてくるメアリーに、イザベラはそんな言葉
を返す。
…ただ、現状を鑑みてみれば、何となくメアリーのその質問の意図くらいは簡単に
読み取れそうなものだったが。
「あの……来週から実施される授業に向けて、資料の作成があるから忙しい……と
昨日聞いたのは、私の記憶違いだったでしょうか?」
「いいや? それは合ってると思うぞ?」
イザベラに足りない分の言葉を請われた為、その前に先ずは念の為に重要な部分
の確認からとっておこうと考えたメアリーだったが……。
そんな回答を受け取った事で……逆に頭を抱えて混乱する羽目になった。
「そ、それでしたら、何故……我々は今、こうして川辺で魚釣りの準備をしている
のでしょう?」
…そう。
週明けから始める勉強会に向けて、諸々の準備や打ち合わせをしなければならない
はずのメアリー達は――何故か、森の中にある川へ釣りにやって来ていた。
「ねぇ! イザベラーっ! 用意する釣竿って、本当に3本で良いのねー!?」
「ああ! さっきも言ったがアタシは自前のがあるから、竿はオマエらの分だけで
良いぞーっ!」
少し離れた場所からアイリスが叫ぶような大きな声で尋ねてきた質問に対して、
イザベラも口元に片手を添えつつ、彼女には珍しく大きな声でそれに答え返す。
流れが穏やかでそれほど大きな川でもないとはいえ、水が岩などにぶつかる音は
それなりに周囲の他の音を掻き消してしまう。
そういう理由から、イザベラ達が立っている川辺からは少し離れた位置に建って
いるアレクサンダーが管理している物置き小屋の近くに居るアイリスとの会話は、
通常よりも大きな声を用いる必要があった。
「あ、メアリー……悪いが今日のオマエはアイリスじゃなく、ライラの補助をして
やってくれるとありがたい。
この辺りには引き込まれるような大きさの魚は居ないはずだが、幼い子供の場合は
どう動くかの予想が難しいからな……。
一応は川に落ちる可能性も考えておかないといけないだろう?」
ぴょんぴょんとその場で飛び跳ねて、アイリスの隣で全身で楽しんでいるライラ
の姿を視界に捉えたイザベラは、そうメアリーに依頼する。
折角の“お遊び”なのだから、水難事故を起こしては興醒めも良いところだ。
「は、はぁ……それは、構いませんが……」
しかし、対するメアリーはというと、やはり今の状況を素直に飲み込みきれない
のか……微妙に煮え切らない態度のままだ。
「ハァ……心配しなくとも、授業の準備はきっちり間に合わせる。
それより、オマエは来週からはあまり顔を出せないんじゃなかったか?
暫くの間は、愛しのお嬢様とはこうして遊べなくなるんだ。
今は他の事を気にしなくても良いと思うんだがな?」
溜め息混じりにそんな言葉を口にしつつ、イザベラは離れた場所に居るアイリス
達へと視線を移す。
「ねぇ、アイお姉ちゃん! お魚ってどうやって――」
「こうして石をどけると、土の中にミミズが――」
すると、偶然にもそのタイミングで、それまで緩やかにふいていた風が一時的に
止み、微かに2人の会話がイザベラ達の耳にまで届いた。
アイリス達は楽しげに足元の石を持ち上げて、その下の土を弄っている。
その光景は、これ以上無いくらいに長閑なものだった。
「それに……だ。
ロジャーにはこれまで通り相手をさせるつもりではあるが、これからアタシやアイ
は小難しい勉強ばかりして、碌に構ってやる暇も無くなるだろうからな……。
…今日くらい、ライラを楽しませるのに充ててやっても良いとは思わないか?」
そこには『面倒だ』『どうでもいい』と愚痴る、いつもの魔女の姿は無く、その
瞳は、まるでやんちゃな妹達を優しく見守る姉のようですらあった。
「…なるほど、そういった趣向でしたか」
「ククッ……オマエにしては察しが悪かったな?」
「はい、申し訳ございません。
少々、野暮な事を言ってしまっていたようです」
ここにきて、漸くイザベラの考えを正しく理解できたメアリーは、クスリと薄く
笑いながら、静かに目を閉じてお辞儀して返した。
(それにしても……普段のイザベラ様なら、仮にそういった思惑があったとしても
わざわざ『ライラ様の為』という部分までは明かされないと思うのですが……。
…何か、大きな心境の変化でもあったのでしょうか?)
いつものイザベラと比較すると、少し感傷的過ぎるように思えた、メアリー。
…だが、それを口にするのは、それこそ“野暮な事”だ。
「お待たせ、2人とも!」
そんな会話を交わしているうちに、アイリス達が傍まで戻って来ていた。
此処に来るまでに捕まえたらしきミミズだけが数匹入った空のバケツを片手に、
ニコニコ顔で明るくそう声をかけてきた。
…そして、その後ろには3人分の釣竿や、その他の釣具を抱えたアレクサンダーの
姿も共に目に入ってくる。
「ほら! 人数分の釣具の準備も整ったわ! 早速、始めましょう!」
「…いや、アイは俺について来ただけで、殆ど何もしてなかったじゃねえか。
なんでそんなに偉そうにしてんだよ……」
「あら、それなら私が1人で道具を運んでくれば良かったとでも?
女の私が3人分の荷物を持って、その隣をアレックスが手ぶらで歩くのが正解だと
でも言うつもりなのかしら。
それはそれで、貴方がとっても格好悪いと思うのだけれど……違った?」
「そ、それは……そうかもしれないけどよ……」
思わず突っ込まずには居られなかったアレクサンダーだったが、そこはアイリス
が一枚上手だったらしく……。
「…やめとけ。
普通の女が相手でも男が口で勝つのは難しいってのは定説みたいなものなんだ。
それが、一癖も二癖もあるアイが相手になろうものなら、オマエじゃほぼ勝ち目が
無いと言って良いくらいだ……時間の無駄遣いにしかならん」
「ふふっ……良く解ってるじゃない。流石はフィーね?」
予想に反してイザベラが自分の味方になってくれた事に気を良くしたアイリスは
そう言って可愛らしくパチリと片目を瞑って見せる。
…ただ、イザベラの口はそこで止まらない。
「それにな、アレックス?
子供がはしゃいでるのを見ていちいち腹を立てていたら、キリがないだろう?
ここは、オマエが大人の余裕を見せてやらないと」
「ああ……そうですね。
それは、言われてみればその通りでした……」
続くイザベラの言に同意したアレクサンダーは、そう答えて「はぁ……」と溜め
息を一つ吐き出して、肩を落とす。
…すると、そんな一連の流れを眺めていたライラが、不思議そうに首を傾げた。
「? アイお姉ちゃんって、こんなにおっきいのに、まだ子供なの……?」
「え、ええっ!? そ、それは、その~……。
ちょ、ちょっと、フィー!? 今の発言を即刻、撤回してくれないかしら!?
此処に現在進行形で、おかしな誤解が生まれてしまっているわよ!?」
ライラの純粋無垢な瞳でそんな質問を投げ掛けられたアイリスは、返答に窮して
その矛先をイザベラへと向けようと試みるが――
「ハァ? そんなもん、誤解でもなんでもないっての。
気分が高揚してるからか、単純に照れ臭いからかは知らんが、世話になっておいて
素直に礼の一つも言えないようなら、オマエはまだまだ子供だよ」
…という、反論のしようがない正論で返されてしまい、「…む、ぐぅ……」という
唸り声を発する事しか出来なくなってしまったのだった。
「………アレックス、その……ありがとう」
「あ、ああ……うん。
まぁ、俺も本気で怒ってた訳じゃないから、別にそれは構わないんだけど……」
結果、微妙に照れ臭さを感じながらも、ライラの手本となるべく、素直にお礼を
口にしたアイリス……。
そして、こちらもまた、慣れない言葉を受け取ったアレクサンダーが、居心地の
悪そうな様子で後ろ手に頭を掻きながら答える。
…幼馴染で、気の置けない間柄だとは思えない、初々しさだった。
「クスッ……これは、お嬢様の完敗ですね?」
「くっ……」
一部始終を黙って見守っていたメアリーに、そんな言葉で締め括られたアイリス
は、何故か『これで終わってなるものか!』と言わんばかりにイザベラに向かって
鋭い視線を送り、こう言い放った。
「フィー! こうなったら、釣りで勝負しましょう!!」
「…何がどうなって『こうなったら』なのか、さっぱり理解できないんだが?」
ビシッと音が聞こえてきそうなくらいに勢い良く指をさして、そんな宣戦布告を
するアイリスだったが……。
ほぼ八つ当たりと言っても良いその発言に対するイザベラの反応は、相変わらず
の酷く冷めたものだった。
…しかし、その提案そのものには、どうやら彼女も賛成だったらしい。
「…まぁ、良いか。
ただ、アタシと勝負するにしても此処には他に釣りをする人間が2人も居る。
どうせなら、2人1組に分かれての勝負にした方が良いと思うが……どうだ?」
そんな返答と共に、イザベラはこの謎の魚釣り勝負にアレクサンダーとライラも
巻き込もうと提案してくる。
「あ、それは良いわね! 是非、そうしましょう!!」
発案者のアイリスとしても、皆で楽しめる分には、それに越した事は無い。
二つ返事で、その提案を受け入れては、直ぐに具体的なチーム分けを口にしよう
と声を発した……のだが――
「よ~しっ! それじゃあ、私はアレック――」
「よし、それならアレックス……オマエはアタシと組め。
今日のメアリーは、主にライラの補助に付いて貰うつもりだからな……。
この組み合わせなら、メアリーもアイとライラの2人を同時に世話が出来るから、
何かと都合が良いだろう?」
…といった具合に、見事にイザベラに言葉を被せられてしまう……。
しかも、その選定理由も比較的しっかりしたものであった為、『私がアレックス
と同じチームになりたいから嫌よ!』とは、口が裂けても言えない空気だ。
「…ん? すまん、アイ。
今、ちょっと聞こえなかったんだが……何か言おうとしてなかったか?」
「い、いいえ? そうね、それでいきましょう……」
「…?」
急に大人しくなったアイリスに、ライラが不思議そうな表情を浮かべる中……。
クスクスと笑いを零しながら、メアリーは「それでは、失礼します」とイザベラ
に告げて、より安全な、流れが緩やかになる下流の方へとライラの手を引いて歩く
主人の後を静かについて行くのだった……。
・
・
・
「ええっと……それでは、宜しくお願いします」
「…ああ、こっちこそ宜しく」
緊張した面持ちで声をかけて来るアレクサンダーを前に、『ああ……そういえば
2人きりで会話するのは、これが初めてか』と、イザベラは心の中で呟く。
『それじゃあ、とりあえずは昼になるまでに何匹釣れるかにするか?』
『ぐっ……絶対に負けないわよ!』
『今日のアイお姉ちゃん、なんだかちょっと怖い……かも』
直前まで此処に居た、騒がしい代表の2人の少女との会話を振り返りつつ、今の
微妙な緊張感の漂う雰囲気との落差に、自然と口元が緩む、イザベラ。
「…さて、移動するのも面倒だし、アタシ達はこの辺で釣るとしようか?」
「はい、そうですね。
この辺りは流れこそ緩いですが、石が多めで釣果も期待も出来そうですし……」
そう言いながら、アレクサンダーの視線は徐々に川を下って行き、やがて下流で
わいわい騒いでいる3つの影に固定される。
「ククッ……やはり、アイが気になるか?」
「あ、いえ――俺は、てっきりイザベラさんはライラと組むのだと思ってたんで、
ちょっと意外だったと言いますか……」
自分が何を見ていたのかを察知されたアレクサンダーは、サッと視線をイザベラ
へと戻しながら、誤魔化すようにそう答えた。
「アタシがライラと……?」
「ええ。
確かにライラは、あの黒猫のロジャーと遊ぶのが好きみたいですけれど、イザベラ
さんとも凄く仲が良いみたいに見えましたから」
イザベラは荒い口調と冷めた目つきで、いかにも近寄り難い雰囲気を持っている
のだが、ライラはそれらを気にする事も無く『フィーお姉ちゃん!』と、自分から
抱きついたりしている。
それに対して、当のイザベラも『危ないから急に抱きついて来るな』と言いつつ
頭を撫でる手は優しげだったりと、まんざらでもないように見えた。
昨日だけでもそんな様子を何度か見てきたアレクサンダーからすれば、アイリス
の面倒を自分に任せて、自身はライラと共に過ごしても何ら不思議ではなかったの
だが……。
「まぁ、ステラ……アイツの母親の症状が改善してから随分と懐かれてはいるが、
元来アタシは子供が特別得意って訳じゃないからな……。
それに、ライラも明るく話せるアイと一緒の方が、きっと楽しめるだろうよ」
「そんな事は無いと思いますけど……」
謙遜か本気なのかの判断がつき辛い口調で、そう答えるイザベラ。
アレクサンダーは、そんな彼女に何とも言えない微妙な感想を持っていた。
アイリスと接している際にはお互いにからかい合う同年代のような雰囲気を感じ
させ、メアリーと接する際には、時折、相手を諭すかのような年上の余裕を見せ、
ライラと接する際には、母親のような慈愛の表情を浮かべる……。
相手によって態度や接し方が違うのは、誰しもが少なからず持っている性質では
あるのだろうが、それにしても、その印象に差があり過ぎるのだ。
しかも、容姿については、そのどれもが当てはまらないような年下の少女のもの
である為に、アレクサンダーにとってイザベラは『常に見た目の印象と一致しない
内面を見せる、何処か不思議な存在』であった。
「…それよりも、だ。
アレックス、オマエはアイの事を本当はどういう風に思ってるんだ?」
「え? 俺がアイを……ですか?
「ああ」
「それは、また……突然ですね……」
アレクサンダーが未だイザベラとの精神的な距離を計りかねていると……。
唐突に向こうから、そんな距離感をものともしない無遠慮な質問が飛んでくる。
そんな状況に、アレクサンダーは戸惑いを隠せない様子だった。
「以前から、オマエの名前だけは頻繁に話題に挙がっていたからな……。
実際に会う事があったら、色々と聞いてみたいとは思っていたんだ」
「…それにしたって、よりによって最初の話題がそれなんですか?」
存在だけ知っていたから興味をもっている……というのは理解できるが、それに
しても一歩目から踏み込み過ぎているように思える。
普通なら『休日は何をして過ごしているんだ?』といった所から始めるものでは
ないだろうか?
「女は誰だって他人の色恋の話題が大好きなものなんだよ。
心配しなくても、これだけ離れていれば欠片も声なんて聞こえやしないさ」
「は、はぁ……」
そんな返答を受けて、アレクサンダーは更に戸惑いの感情を膨らませる……。
果たして、この自称『森の魔女』たる彼女が、そんな普通の少女のような感覚で
他人の恋愛話に興味を抱くものなのだろうか?
イザベラと知り合ってから日が浅い……というより、まだニ度目である彼にして
みれば、その辺りをどう判断して良いのかが、全くわからない。
「それで、実際のところどうなんだ?」
「それは……」
「どうした? アイとは幼馴染だって話だし、気心も知れている仲だろう?」
「………」
アレクサンダーは、そこで言葉に詰まって黙り込んでしまった。
正直に言えば、イザベラを信用していないという訳ではないが、だからといって
そこまで心を開いている訳でもない。
尋ねられたからといって、そんな心の中の繊細な部分ををホイホイ晒す必要性も
意味も無いし、何よりも一つとして得になる要素が見当たらない。
ここで『一人の女性として好意を持っている』といった内容を馬鹿正直に言った
ところで、それをネタにされるだけなら、単純に不愉快なだけだろう。
「アイの見た目が綺麗なのは認めます……けれど、だからといってそれだけで好き
になるかって言うと、それはそうでもない――」
「…おい。先に言っておくが……アタシは本気で訊いているんだからな?
オマエがどうしても適当にはぐらかしたいってんなら、別にそれでも良いが……。
後で後悔する羽目になっても知らないぞ?」
「…どういう意味ですか?」
釣りをしている間の暇潰し代わりにからかわれては堪らない……と、適当な言葉
で誤魔化そうとしたアレクサンダーだったが……。
予想外に深刻な声と表情で、自身の発言を遮ってきたイザベラに驚かされる。
…しかも、言葉の最後には脅しとも取れるような不穏な台詞が含まれていたのだ。
アレクサンダーとしても、その真意を尋ねずには居られない。
「ああ、勘違いするなよ?
別にアタシがオマエ等の恋路を妨害するとかって話じゃない。
…だけどな、アイツはあれでも一応は子爵家……貴族の一人娘なんだ。
それが世間的にどういう意味を持っているのかは、流石に解っているんだろう?」
「…まぁ、そうなんですけど……」
イザベラのそんな返答に、アレクサンダーは再び言葉を詰まらせる。
幼馴染ゆえの気安さで見失いがちになってしまうが、アイリスは歴とした貴族
の家柄の一人娘であるのは、疑いようのない事実なのだ。
…単なる町娘とは、その辺りの事情が異なるのは確かだった。
「…でも、それとイザベラさんと、どういう関係があるって言うんです?
俗世には極力、関わらない主義だって、アイからは聞いてますけど」
それでも、これは自身とアイリスとの問題だ。
森の魔女だか何だか知らないが、ぽっと出の他人に口出しされる筋合いはない。
しかし、イザベラは少し困った顔を浮かべながら、尚も食い下がって来る。
「そうだな……まぁ、こんな事は今後も絶対に本人には言わないだろうが――」
…と、そこまで言ったところで、イザベラは口元を綻ばせる。
ただ……その時の顔は、いつもの相手をからかうような笑みではなく、付き合い
の浅いアレクサンダーですら読み取れるくらいに、純粋に相手を思い遣るが故の、
優しさの篭もった“温かみを感じさせる微笑み”だった。
「アイツはな……アタシの『親友』なんだそうだ。
だからな? アイがアタシの親友だっていうのなら、アタシだって世界で一番……
誰よりもアイには幸せになって欲しいと、そう思うもんだろう?」
「それは…………ええ、そうかもしれません」
ここに来て、漸くアレクサンダーはイザベラの目の奥の真剣さに気がついた。
その表情や選ぶ言葉から、今のイザベラが、自分をからかう為の材料を得ようと
しているのではないのだと、確信できたのだ。
「…それで? 改めて訊くが、オマエの本心はどうなんだよ?
…アイは初めから隠す気なんてさらさら無さそうだし、まさか全く気がついてない
って訳でもないんだろう?」
「それは……はい。
女心に敏感だとは言えませんけど……流石にそこまで鈍いつもりもありませんよ」
恋愛に詳しい訳でも、経験豊富な訳でもないアレクサンダーだったが、それでも
アイリスがずっと自分を好きでいてくれているという事くらいは察していた。
その程度には、幼い頃からずっとアイリスは真っ直ぐにアレクサンダーへと好意
を向け続けてくれている。
「まぁ、オマエの家もこの町の中ではそれなりの資産がある部類だし……。
もしかして、アタシ達が知らないだけで、既に親が決めた相手が別に居るってオチ
だったりするのか?」
「! いいえ! そんな事実はありません! ありません、けど……」
そんなイザベラによる斜め上を行く見当外れな予想に、驚きながら即座に否定の
言葉を返す、アレクサンダー。
…しかし、その次に続く言葉は、やはり直ぐには見つけられない。
そんな中……イザベラは静かな声で、こう続ける。
「…これも、わざわざ言わなくても解っているんだろうが……。
アイの方は、このままずっと放っておけば、確実にそうなるんだからな?」
敢えて直接的な表現を避けて口にされたその言葉は、解りやすいくらいに正確に
アレクサンダーへと伝わってきた。
貴族の家に生まれた一人娘ともなれば、家を継ぐための相手が必要になってくる
のが当たり前だ。
そうしなけば、王から賜った爵位をみすみす手放してしまう事になる。
しかも、それは単に権力を無くすという事だけに留まらず、領民の立場や生活を
不安定なものにさせかねないという、重大な事態だとも言えた。
アイリスの場合、普通に考えれば、他の貴族の血筋で婿養子としてヘイマン家に
入ってくれる相手を探すか、そういった相手からの申し入れを受けて、その縁談を
進める……という形になるだろう。
これが上に兄か姉が居る場合なら、アイリスは他の貴族の家に嫁ぐ可能性が高く
なってくるのだろうが、『ヘイマン家』というものを存続させようと考えるなら、
一人娘であるアイリスは、名前がなくならないように相手を家に迎える選択をする
必要が出てくるからだ。
それでも通例に倣うのなら、その相手も貴族に連なる者になってくるはずだが、
当主であるヘイマン子爵は、その辺りの部分には特に拘っていないようで……。
「アタシも全く外の事を知らないって訳じゃないからな……。
今のところは、仮にオマエが相手でも子爵は構わないって方針なんだろう?」
「………イザベラさんには、きっと解りませんよ」
…ただ、それはあくまでも世間一般での話。
実際に当事者になってみると、色々な考えが頭の中で飛び交うものなのだろう。
そういう意味では、確かにイザベラにも簡単には理解が出来ないのかもしれない。
「…ああ、そうだな。
自慢じゃないが、アタシはそういうのには特に興味は無いし、仮にそういう相手が
居たとしても、魔女として生きている以上、アタシの場合は、相手がどういう立場
であるかは、気にする意味が無いからな……」
言葉だけ聞くと、アレクサンダーの悩みを切って捨てるかのような冷たい発言と
思えるのだろうが……。
この時の口調は、彼女にしてはとても穏やかなものであり、声色からイザベラが
アレクサンダーに同情をもって話してくれている事が伝わってくる。
そんな風に、こちらを思い遣ってくれているのが判ったから、だろうか……。
気付けば、アレクサンダーは目の前の、貴族でも庶民でもない“魔女”にならば、
自分の心の内を吐き出しても良いのかもしれない……と、思い始めていた。
「…俺の家は、多少の資産があろうが、どうやっても“庶民”なんですよ。
仮に子爵様がお許しになっても、他の貴族様方も同じって訳じゃない。
あんなにもご立派な方なのに、ヘイマン様は爵位があまり高くなく、領地が片田舎
の町だっていうだけで、どこか軽んじられている節があるって話です」
貴族社会といえば聞こえは良いが、結局、その内情は『見栄張り合戦』のような
ものだ。
どこどこよりも私の家の方が歴史が長いだの、同じ爵位でも私の家の方が家格は
上だのといった会話が、日常的に飛び交っているような世界……。
そんな世界で、結婚相手がどういった人物なのかが話題に挙がらない筈がない。
「こんな事、それこそ町中では口が裂けても言えませんが……。
その原因の一端には、『奥様が庶民の出だからだ』とも聞きました。
…もし、俺が先走ってアイとそういう仲になったら……きっとアイにも同じ思いを
させることになってしまうんですよ?」
その言葉が出てきた瞬間、イザベラは心の中で『やはりな……』と思った。
ヘイマン子爵が、その領民からの評判の良さに対して、貴族達からの評価との差
が大きいのには、そういった部分が少なからず関係しているというのは事実だ。
…まぁ、簡単に言えば、『一般庶民から伴侶を選ぶなんて、変わり者に違いない』
というような評価のされ方だった……のだが――
「アレックス、オマエ……案外、面白い事を言うヤツだったんだな?」
「…? 何がです? 別に面白い事なんて、俺は何も――」
唐突にイザベラがそんな事を言い始めたので、アレクサンダーは戸惑いの表情を
浮かべてしまう。
…しかし、そんなアレクサンダーの言葉には反応せずに、イザベラは話を続けた。
「アタシはな? ちょっとした興味本位で、結婚したばかりの時に冷やかし程度に
今のヘイマン子爵夫妻を見に行った事があるんだ。
確かに、当時から既に貴族社会からの評判はいまいちだったようだが……。
少なくともアイツ等は、2人揃ってとても幸せそうに見えたぞ?」
「………」
そんな事は、わざわざイザベラから言われなくとも、この町の人間ならば誰もが
知っている事だった。
ヘイマン子爵が、庶民の出である夫人を決して軽んじる事をせずに、今でも深く
愛していて、大切に想っているという事実は、領民の間では当たり前の話だ。
「それなのに、オマエは自分がアイの思いに応える事が、さも問題になるかような
言い方をしている……。
これが笑い話じゃなければ、いったい何だって言うんだ?
子爵と同じ思いをアイにさせられるってんなら、結構な事じゃねえか」
まるでアイリスが今のヘイマン子爵のような立場に立たされる事が問題しかない
ように言っているアレクサンダーだったが、イザベラにしてみれば着眼点がずれて
いるようにしか思えない。
「いいか? アレックス。
他人の心を勝手に推し量って、自分の基準で決め付けるもんじゃない。
そんな権利は、たとえ神だろうが魔女だろうが持っていないものなんだからな。
他の貴族から軽んじられる? それがどうしたってんだよ。
オマエが言う、その『他の貴族様方』って奴等は、オマエにとってのアイよりも
重要な存在なのか?
アイにとっての『オマエと居られる幸せな時間』が、『他の貴族連中からの評判』
よりも価値が下だと、誰が決めたんだよ?」
「そ、それは……でも……」
そこまで一気に捲し立てるように話すイザベラに圧倒されたのか……。
普段、アイに対して遠慮が無いあのアレクサンダーとは思えないような、弱腰の
態度で、視線を逸らしては必死に言葉を探している……。
…そして、そんなアレクサンダーの狼狽える姿を見て、イザベラはここで当たり前
の事実に、ふと気がついた。
「あー……成る程な。
結局のところ、今はそうやって言い訳していれば良いと思っていたってクチか?
単に照れ臭いってだけなら、まだ良かったんだが……。
そうか……実際のところは、『貴族との婚姻』への不安や責任に悩んで、そのまま
ずっと踏み出せないでいたってオチかよ……」
とても単純な話なのだが……。
冷静に考えてみると、アレクサンダーは、まだ十代後半の青年に過ぎない。
アイリスのように貴族の家に生まれ、その社会の中で育った者からすれば、自分
の持っている地位や権力、周囲からの評価は自分の身の回りにある当たり前の要素
であり、同時にその価値も、当人の捉え方次第だと考える余裕もできる。
しかし、庶民であるアレクサンダーからすれば、どれほど仲の良い相手だったと
しても、『貴族』という特別な存在の持つ価値を損なう事の大きさが、どれほどの
ものなのかは、はっきりと解らないのだ。
そんな理解の及ばないものを背負う覚悟を、アレクサンダー程度の年頃の人間が
必要以上に重く捉えてしまうのも、仕方が無かった。
アイリスが貴族の娘という事で、そういった件でも早めに決断に迫られてしまう
だけで、庶民同士なら、もっと歳を重ねてから考えても問題は無いはずなのだ。
「…自分でも、情け無い事だってのは判ってます。
けれど、お互いの想いだけでどうにでもなると思えるほど、真っ直ぐに突き進む
勇気が無いのも、確かなんですよ」
俯いて、すっかり元気を無くしてしまった、アレクサンダー。
そこには、年齢のわりにしっかりと父の家業を支えている、いつもの頼りになる
彼の面影は欠片も無く……。
ある意味、歳相応に恋と身分の狭間で思い悩む、ただの青年が居るだけだった。
「ククッ……」
「…笑う事ないじゃないですか。
真面目に考えてくれているみたいだから、正直に話してるのに……」
そんなアレクサンダーの姿を前に、イザベラは何故か突然、笑い始めた。
当然、思い切って心の内を話したアレクサンダーは面白くないので、その態度に
抗議の視線を向けたのだが……。
イザベラは、笑い声を漏らしながらも、手の平をひらひらと振って、何か否定の
意思を伝えて来た。
「ああ、いや悪い……そうじゃないんだ。
別に馬鹿にしてるとか、そういう意味で笑ったんじゃない。
ただ、『これじゃあ、全くの逆だな』と思ってな?」
「逆……ですか?」
いまいち発言の意味が伝わってこなかったアレクサンダーは、そのまま言葉を
返すように質問し返した。
「いやな? こういうのは、よくある物語の中じゃあ、普通は貴族の側が身分の差
を気にして、それを庶民側が勢いや情熱で考え無しに突っ走る……ってのが、定番
の流れなんじゃないかと、そう思ってな?」
「ああ、そういう意味ですか……」
確かに、これが本の中の恋物語なら、愛情を優先した庶民の青年が貴族のお屋敷
から令嬢を攫って逃避行する展開が盛り上がるのだろう。
…けれど、それを期待されるのは、アレクサンダーには厳しいものがあった。
「まぁ、とりあえずはオマエの考えはわかったよ。
ただ、『周囲から見た幸せ』じゃなく、『アイの幸せ』が何なのか……。
それをしっかり考えて、出来る限り早くその“勇気”ってヤツを身につけてやれ。
どう転がっても、誰にも知られずに恋を育む……なんてのは、初めから無理な相手
なんだからな」
「………はい」
アイリスが貴族の一人娘である事実は変えられないし、そんなアイリスとの恋愛
を一時的に秘密にしたところで、最終的には誰にも知られずに結婚まで辿り付ける
未来なんてものは訪れない。
ただ、幸いにも現状はヘイマン子爵を含めてアレクサンダーとの間に何か致命的
な障害があるわけでもなく……。
つまりは、今現在に限って言えば、アイリスとアレクサンダーの間の恋愛事情は
あくまでも“当人同士の問題”でしかないのだ。
「良くも悪くも、これから数ヶ月に亘って一緒に過ごす大義名分が出来たんだ。
勉強会の合間にでも改めてアイとのこれからを真剣に考えて、お互いに話し合って
みれば良い」
そう言ったイザベラは、まるで幼い子供にするかのように、アレクサンダーの頭
に軽くポンポンと触れる。
「何か協力して欲しい事があれば、遠慮せずにどんどん言って来い。
アタシの出来る範囲でなら、それくらいの面倒はみてやるさ」
「はい……ありがとう、ございます」
釣竿を垂らしている手前、岩場に腰かけている状態だったので、イザベラの背丈
でも何とかアレクサンダーの頭に触れる事が出来ている、今の状態……。
これがお互いに立っている状態だったのなら、イザベラとの体格差の関係上、頭
に触れようとすれば、無理に手を伸ばす必要があるので、酷く滑稽に見えていた事
だろう。
だが、アレクサンダーが座っていて、イザベラが立っている今の状態では、特に
違和感が感じられなかった。
(いや……これはきっと、そういう事でもないのかもしれないな……)
髪越しに感じた魔女の手の平の温かさは、不思議な程に穏やかなものだった。
そこからじわりと伝わってくる心の安らかさの中には……年長者が持つ、確かな
包容力が感じられた……。
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「………意外と仲が良さそうにしているのね。
でも、あの2人の共通の話題って、何かあるのかしら?
むぅ……本当に、何の話をしているんでしょうね……」
ちらちらと上流に居る2人の様子を窺う、アイリス。
初めは、まだ慣れない間柄だろうイザベラ達を純粋に心配する感情の方が強かった
のだが……。
内容までは判らないものの、思いの外、話が弾んでいる様子を見て、ホッとする
反面、今度は複雑な感情に襲われていた。
そんな事は起こらないだろうとは思うが、イザベラは見た目こそ少女だが、中身
は立派な女性ではあるし、よく知ればその性格も非常に魅力的だ。
それに見た目が少女だと言っても、その容姿は15歳程度のものであり、決して
『ただ幼いだけ』とは言い切れない。
「………あ! あれって、まさか……頭を撫でてる!?
本当に何の話の流れであんな事になっているのよ!?」
…と、そうこうしている内に、何故かイザベラがアレクサンダーの頭を撫でている
状態になってしまった。
…これは、後ほどじっくりとアレクサンダーを問い詰める必要がありそうだ。
「ふふっ……やはり、あちらが気になりますか? お嬢様」
そんな、感情がぐるぐると目まぐるしく変わっていく中、メアリーが愉快そうな
表情で、そう尋ねてくる。
きっと今の自分は、彼女にとって非常に面白いものに映っているに違いない。
…だが、ここで動揺を見せるわけにもいかない……と、アイリスの中のちっぽけな
プライドが警告してくる。
「…いいえ、別に」
「あら? 左様でございますか」
口元が若干、引き攣っているような気がしないでもないが……。
まぁ、何とか涼しげな表情で自然に受け流せたなと、安堵するアイリス。
…しかし、目の前のメアリーの目元が、不自然にピクピクと小刻みに震えていた。
「…なあに? 何か言いたい事でもあるのかしら?」
「『…いいえ、別に』で、ございます」
「くっ……」
ついさっき、精一杯のすまし顔で返したはずの台詞をそっくりそのまま使って、
憎らしいくらいに完璧な、お手本のような『すまし顔』を披露する従者……。
…主は悔しさに、奥歯を噛み締める。
「アイお姉ちゃんは、フィーお姉ちゃんと本当に仲良しなんだね!」
「………え? ええっと……急にどうしたの? ライラ」
そんな従者との静かな戦いに明け暮れていたアイリスだったが……。
傍らで楽しそうに鼻歌を歌いながら釣り糸を垂らしていたライラからの言葉で、
一気に毒気が抜かれてしまう。
「だって、ずうっとフィーお姉ちゃんの方を何回も見てたじゃない。
やっぱり、本当は一緒に並んで、お魚釣りをしたかったんでしょう?」
「あ、あー……うん。そうね……」
…どうやら、あちらの様子を窺っていた事は、ライラにすらバレていたらしい。
曖昧に誤魔化しつつも、そこまで判り易かったのだと自覚してしまい、急激に
メアリーに対して惚けていたのが馬鹿馬鹿しくなってしまった……。
「でも、ライラとこうして一緒に遊ぶのも私は大好きだから、今だってとっても
楽しいわよ?」
「あ、そうなんだ! やったぁ!」
イザベラ達ばかりが気になって、ライラをないがしろにしていたような気分に
なったアイリスは、『今の状態も十分に楽しい』という意思を伝える。
すると、ライラは無邪気な笑顔で、元気良く答え返してくる。
「私も! 私もお姉ちゃん達と一緒に遊ぶの、大好きだよ!!」
「ふふっ、ありがとう」
そうして、笑うライラの頭を優しく撫でてみると……スッと胸の中のもやもや
が薄れていった。
(あ……そうか。
イザベラからすれば、私もアレックスも子供みたいなものだものね?)
抱き締めたり、口づけしたというのならともかく、ただ頭を撫でただけならば、
イザベラとアレクサンダーの年齢差を考えれば、深い意味があるとは限らない。
…いや、イザベラの人格を考慮すれば、そこに恋愛が絡んでいる可能性は、むしろ
限りなくゼロに近いだろう。
(…けれど、面白そうだから、アレックスは予定通りに後で問い詰めましょう)
ちなみに……この日の最後、別れ際にアレクサンダーを問い詰めようとこの時の
話題を意気揚々と口にして『盗み見が得意というのは、貴族としてどうなんだ?』
と返されたアイリスが落ち込んでしまうのは、また別の話なのだった……。




