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閑話 とある領民の憂い

「いや~、あの時は本当に驚いたよ。

まさか、長年使っていた染料の中に、あんな成分があったなんてな……」


「ああ……アイリス様が研究調査して判ったっていう、あの染料の話かい?」


 職場から自宅へと帰って来た男が、彼の妻の用意してくれていた食事を前にして

他愛のない世間話をし始める。


 「おう、そうさ!

よくお屋敷を抜け出して、町で過ごしていらっしゃるってのは聞いてたが……。

まさか町でも端っこにある俺の工房なんかに従者を引き連れて、“正式な査察官”と

して現れるとは、思ってもみなかったからな……」


 男の職場では、衣服や布製の日用品などに特殊な染料を用いて色を付ける染色の

作業を行っていた。


 伝統的に使われているその染料は、砕いて湯に溶かし込むと鮮やかな色合いへと

変わる岩石を使用しているのだが、色を出す過程で煮込む際には独特の強い臭いを

発する為に、市街地からは外れた場所に職場を設けていたのだ。


 そして、それに合わせて自宅の場所も町の中では端に位置していたため、屋敷を

抜け出して町の中を歩いているのをよく見かけるというアイリスの姿を近くで見る

のは勿論、言葉を交わすのも、彼にとっては初めての事だった。


「…聞くところによると、どうやら先日倒れちまったルースさんとアイリス様とは

知り合いだったらしくてな?

あの後、すぐに回復できたのも、貴族様お抱えの腕の良い医者を連れて行ったから

だって噂だぜ?」


「へぇ……あのルースさんところの奥さんが、かい?

意外だねぇ……旦那さんが亡くなる前から知ってるけれど、貴族の方と直接繋がり

があるだなんて話、今まで聞いたことも無いけれどね?」


 妻は夫の話に耳を傾けながら、頭の中で話題に挙がった人物を思い返す。


 特に忙しい時期には妻である彼女自身も夫の職場に手伝いに入るのだが、その時

のステラ・ルースという人の印象は、とても真面目な性格で、その仕事ぶりも手を

抜く心配の要らない、信頼できる従業員という良好なものだった。


…ただ、そんな彼女に貴族社会という華やかな世界の雰囲気を感じ取ったことは、

今のところ一度も無い。


「ああ……それがな、どうも知り合いだったのは子供の方だったらしい。

確か、娘さんはライラちゃんっていったか?

あの子がいつの間にかお嬢様と知り合いになってたらしくて、最近ではルースさん

が働きに来てくれている時間帯には、一緒に遊んでもらったりもしてるって話だ」


 夫のそんな補足情報を聞いて、妻は腑に落ちた様子で首を何度も縦に振った。


「ああ、なるほど……そういう事かい。

そういう事なら、あの奥さんにそんな印象が無かったのも納得だね」


 知り合いなのが子供の方で、しかも、そういった繋がりだったのならば、本人に

貴族との関係性が感じられなかったのも納得だ。


「…ヘイマン子爵様もとても上流階級の方とは思えない程、私ら一般人に偉ぶらず

に接してくださる、貴族の中でも珍しいお方だけれど……。

アイリス様は更に親しげに接してくださる、謙虚な方だって話だからね?」


 妻の方は、日々の買い物をする目的で町の中心地まで足を運ぶ事も少なくないの

だが、その際には様々な噂話も耳に入ってくる。


 そんな噂の中にはアイリスに関わる話も時折含まれているのだが、そのどれもが

とても貴族の話とは思えない程に、親しみやすい内容だった。


…例えば、果物屋でリンゴを買ってそのまま齧って食べようとしたところを、彼女

を探していた侍女らしき人物に見咎められて、そこから町中で2人で追いかけっこ

を繰り広げたり……といったものだ。


「そうなんだよ。

その“やんちゃで明るいお嬢ちゃん”って印象だったアイリス様が、だ。

突然、神妙な顔つきで『…少々、作業場を調べさせて頂きますね?』なんて訪ねて

来たもんだから……俺も正直驚いたよ。

ルースさんを診た医者の見立てから、どうも原因に当たりがついたって話で、ウチ

にその原因になる物が無いかを今から査察したい……ってな」


 臨場感を出す為か、夫は妻に身振り手振りでその時の様子を少々大げさな動きを

交えて話す。


 既に何度か同じ話を聞かされていた妻は、軽く手を振って夫の動きを制しつつ、

軽く笑いながら言葉を返した。


「でも、それだってあのお優しいお嬢様が相手で良かったじゃないか。

これが王都直轄の専門機関から派遣された役人とかだったなら、営業停止どころか

あんたが捕縛されている可能性だってあったんだろう?」


「ああ、そうだな……そこは本当に助かったよ。

『意図していたわけじゃないなら、別に貴方が悪いわけではないわ』って言って、

とりあえず例の染料と原材料の岩石の在庫分を回収しただけで、他には特にお咎め

も無かったからな……」


 妻の指摘に頷きながら、話しながら興奮してつい立ち上がってしまっていた彼は

食卓に再び座って、ホッとした表情を浮かべる。


 その言葉にあった通り、これが国から来た役人が相手なら、これほど簡単に話が

終わってなどいなかったに違いない。


 今の国王も暴君というわけではないので、理不尽に投獄されるような心配までは

無いだろうが……。


 扱っていた物から毒素が検出されたとなれば、一時的に捕縛されて一定の期間は

調査目的で兵士の管理化の下で過ごす事になっていても不思議では無かった。


「おまけに、代わりに出来そうな染料の提案と、その手配までしてくれて……。

ここいらじゃ咲いていない、外国の花の種を原料にするらしいんだが、それも今後

はトラヴィスさんところの商店で取り扱ってもらえる手筈らしい」


 夫が『原料を接収されてしまえば、商品の生産に支障が出る』と訴えると、翌日

にはその代替に成り得る植物の種を持ってアイリスが再び訪問して、しかも、その

手配すらも既に町一番の流通を預かる商店の方に話を通してあると言うのだから、

もう文句の付けようも無かった。


「ふふっ、他の貴族様達の間でも今回の件は随分と噂になったって話だよ?

あの染料を使っていた職人はウチだけじゃなく、他にも多く居たでしょう?

後日、詳細な研究資料を作って、王都にもご報告されたらしいんだけれど――」


 例の岩石から作った染料は、昔から伝統的に使われていたものでもあったので、

当然と言えば当然なのだが、同じ職種の者達も同様の方法で染色業を営んでいた。


 それを知ったアイリスは、これ以降の被害者を出さない為にと、王都の専門機関

に関連書類を提出していたのだ。


「その報告書ってのが形だけ取り繕った物じゃなく、まるで本職の研究員が纏めた

みたいに、それは凄い出来だったらしくてね?

王様も『この説得力のある詳細な資料があったからこそ、速やかな対応が行えて、

結果として多くの職人達の命をも救うことに繋がった』って、感心されたとか。

今度、功績を称えられて、特別な勲章も頂けるかもしれないって話なんだよ?」


「ほぅ! 国王様直々に勲章を! それはまた大きな話になったもんだ!

これを機にヘイマン子爵様の評価も一緒に上がってくれれば、俺らとしても嬉しい

限りなんだがなぁ……」


 妻からもたらされた続報を聞いた夫は、そう言って困ったような顔をする。


 商品の買い付けにと他の町の商人が自分を訪ねて来る事もあるが、ヘイマン子爵

ほどに領民との距離が近い貴族の話は聞いた事が無い。


 気位が高く、庶民と自分達との間には埋め難い溝があるという思考が当然である

貴族社会において、そういった事実が逆に評価を下げる事に繋がりかねないという

のは、彼ら領民側も承知している。


 それでも、そんな領主を誇らしくも思っている彼らにとって、ヘイマン子爵家の

評価が上がる事は、喜ばしい事以外の何物でもないし、心から願ってもいた。


…ただ、こういった功績によって爵位が上がるといった可能性は残念ながら低く、

やはり有事の際にいかに戦果を挙げたかといった物でしか、それは望めない。


――たった一つ、例外的な場合を除いては。


「しっかりお会いして話したのは、あの時が初めてだったけれど……。

以前から知っていたつもりだが、アイリス様は本当に特別お美しい方だったよ。

整った容姿も勿論なんだが……そのお優しい心の方もな。

今までは普段のお転婆な印象ばかりが目立っていて、そんな風に思った事はあまり

無かったんだが……。

…本来はこんな田舎の町にずっといらっしゃるような方では無いのかもしれん」


 これもあくまでも噂程度ではあるが、その飛び抜けて美しい容姿も相まって、

本来であればあまり考えられないであろう高い地位を持つ貴族からも縁談の話が

囁かれているという話だ。


 ヘイマン家には現状、一人娘のアイリスしか子供が居ない為、いずれは婿養子を

迎えるか、どこか別の貴族の家柄に嫁ぐ事になるだろう。


 しかし、それが更に高い爵位を持つ家柄ともなれば、後のアイリスの子供がこの

ヘイマン家の領地を継ぐという展開になった際に、場合によっては連鎖的に家格が

上がっている……といった事も考えられる。


 争い事とは別の平和的な方法でヘイマン家の評価も上がり、アイリス自身もより

良い環境で暮らせる……そんな未来が約束されるはずだ。


「あらあら……そんな事を言っているのを聞かれたら、へそを曲げられてあんたに

その染料の材料とやらを売ってくれなくなるかもしれないよ?

これからは、あのトラヴィスさんのところから買う予定なんだろ?」


「ああ、そういや……あの商店の息子とアイリス様は、仲が良いんだったか?」


…と、夫は妻のそんな一言で現実に引き戻される事となった。


 よく町の中で見かけるという事と共に耳に入ってくる話では、従者らしき女性や

トラヴィス商店の息子が一緒に歩いていたという目撃情報が殆どだ。


「ええ、そうですよ?

ヘイマン子爵様も自分は貴族としてはあまり爵位が高くないからって理由で、娘の

アイリス様が本当にお好きな相手なら、将来の伴侶はどのような出自の者でも一向

に構わないと、普段からおっしゃているって話だからね」


「なるほどねぇ、そりゃまた……微笑ましい限りだ」


 流通の関係で、町の商会の纏め役も担っているトラヴィス商店にはこれまでにも

何度も足を運んでいる夫。


 そんな商店の跡取りでもある息子の印象は、真面目で働き者というものだ。


 家の金で遊び呆けている道楽息子というわけでも無く、そういう意味では周囲も

安心して見守れる組み合わせでもあった。


「…ただ、今回の件で貴族様方の間でもアイリス様は随分と覚えが良くなったって

噂だからな……」


 自身も深く関わりのある事柄だけに、色々と詳しい話を聞いていた夫……。


 最新情報である国王からの勲章の噂までは知らなかったが、アイリスの貴族の間

での扱いがガラリと変化したという話は聞き及んでいた。


 これまでは『所詮は田舎町を治める下位貴族の娘』と、軽んじられていたらしい

のだが、今回の件を受けて『貴族が手本とすべき類稀な才媛』という、見事なまで

の手の平返しを披露されているという……。


 話を聞いた身からすれば『まったく、現金なものだな』と思うものの、良いもの

へと変化したのであれば、素直に喜ばしい事だとも言えよう。


 そんなこんなで、アイリスの株は貴族間では非常に高くなっているのだとか。

…それこそ、高位の貴族の下に嫁いでも全く問題が無い程には。


「――色々と、おかしな事にならなけりゃ良いんだがな」


 夫のそんな呟きは、町外れの家の食卓の上に静かに消えていくのだった……。

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