第19話 頼み事と、不器用な優しさ
「あ、あの……」
軽く談笑した後、不意に会話が途切れたタイミングで、ステラが何かをこちらに
言うべきかを逡巡するような様子を見せる。
「…? 何かしら? どうか遠慮しないで、言ってくれない?」
そんな彼女に、アイリスは不思議そうにしながらも、その先を促した。
そもそも自身は偉ぶる気など欠片もないのだが、あちらからすれば一応は貴族の
家柄の者であるのには違いない。
何を言い澱んでいるのかまではまだわからないが、そういった際にきちんと聞き
出すべくこうして尋ねるのは、ある意味では必要な行為だとも言える。
あまりに気安過ぎるのも、それはそれで問題になりかねないが、恐れや遠慮から
領民が口を噤んで耐えるようでは、領主の娘として失格だろう。
「…それでは、恐れながら失礼致します。
ただ、これもわたしの個人的な事情で、単なる我が侭でしかないのですが……。
娘のライラとは、また機会があれば一緒に遊んでやってくださいませんか?」
そう口にした後、ステラは視線を落とし、自らの足元へとそれを向けた。
「夫に先立たれてからというもの、私が働きに出ないと生活が立ち行きません。
…けれど、子供を預けておけるような身内も私には居りませんし、歳の近い子供も
この辺りには居ないもので……」
両手を組んで胸の前に持ってきたステラは、まるで神に祈っているような姿勢に
なりながら、更に続ける。
「寂しい思いをさせている事は、私なりに理解している……つもりでした。
…ですが、今回の件で身をもってそれを痛感したのです。
病に倒れた私にあの子が必死に『一人にしないで』『一緒に居て』『寂しいよ』と
呟くような声でそう繰り返して縋りつく姿を、実際にこの目で見てしまって……。
…それが、あの日の母の帰りを待つ不安だった自分に重なって見えました」
その時の我が子の姿を思い返しているのだろう。
ステラはギュッと強く目を瞑って、眉を寄せた。
「あの時、私は『ああ、私はこんなにも我が子を寂しがらせていたのか……』と。
…情けない話ですが、言葉にされて初めてその重さに気付かされました」
そこまで話したステラは、一呼吸「スゥ……」と息を吸い込んだ。
そうして吸い込んだ息を静かに吐くのと共に、閉じた目をゆっくりと開きながら
視線をアイリスへと戻す。
…その時には、彼女の眉間からは皺もなくなり、表情も穏やかな物へと代わって
いた。
「そんなあの子が、あの日を境に以前よりも目に見えて明るくなったんです。
『森の奥の大きなお屋敷で、とっても頭の良い黒猫さんといっぱい遊んだんだ』と
言って……私が完全に元気になるまで、枕元で沢山の話を聞かせてくれました。
その顔が今までにも見た事が無いくらいに、とっても楽しそうで……。
きっと、アイリス様達と過ごした時間が、あの子にとってそれほど素晴らしくて、
輝いていたのでしょう」
もう出会ってから何度目かわからないくらいだが、またも後頭部が見える程に
ペコリと深く頭を下げてくる、ステラ。
その頭を下げた姿勢のまま、今度は言い澱む事も無く、はっきりとその頼み事を
改めて口にする。
「最初に申し上げました通り、手前勝手で失礼なお願いですし、私がこのような事
をアイリス様に直接お願いできる身分でないのは、十分に解ってはいるつもりなの
ですが……。
それでも、どうかもう少しだけでも……お願い出来ないでしょうか?」
返事を聞くまでは、そのままでいるつもりなのだろう……。
深く下げられたままのステラの頭に向かって、アイリスは出来る限り明るい声と、
軽い口調で、そのお願いに対する答えを返した。
「…ええ、わかりました。
そんなに気にしないでいて構わないわ。
ライラの遊び相手くらいなら、私で良ければ喜んで引き受けます」
「…! 本当ですか!?」
「そういう頼みなら、私は大歓迎よ。
ライラは明るくて元気だけれど、きちんと言うことは聞いてくれる良い子だから、
私の方もきっと楽しいでしょうし」
これが仮に、もっとライラとの時間を取れるように稼ぎの良い仕事を斡旋して
もらえるように……といった類の願いであれば、アイリスには了承出来なかった
だろう。
せっかくこうして元気になったのだから、ステラにはライラと共に幸せになって
もらいたいとは、個人的には思っている。
だが、だからといって私情で特定の領民への特別扱いは、やはり出来ない。
けれど、子供と一緒に遊ぶくらいならば、特別扱いとまでは思われないだろう。
近所に遊び相手がいない子供と偶然仲良くなった領主の娘が、たまに一緒に遊ぶ
程度の事が問題視される心配は無いと信じたい。
「…けれど、ごめんなさい。
その『楽しく遊んだ』というお屋敷は私の物ではなく、彼女のお屋敷の方なの。
だから、その辺りは……まぁ、先ずは一度、本人に聞いてみることにするわね?」
「アイリス様……本当に、ありがとうございます」
やっと顔を上げたステラの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
(ああ、そうか……。
ライラが母を亡くすかもしれなかったのだと、そればかり気にしていたけれど。
彼女にとっても、我が子と永遠に別れるかもしれなかったのだものね……)
初めに会ったのがライラの方だったこともあり、すっかりそちらを中心に考えて
しまっていたが……それは当たり前と言えば当たり前だった。
まだ幼い我が子が弱っていく自分に縋り付いて来る姿を見て……きっとステラは
そんな子供を置いていくかもしれない事への強い恐怖心を覚えたのだろう。
――この子にこの先もずっとこの寂しさを感じさせてしまうのだろうか、と。
(…けれど、本人がそれを改めて自覚できたからこそ、今度は逆にライラが1人で
家に残される状況を軽視できなくなった……といったところなのでしょうね。
それで仕事を辞める訳にもいかないけれど、毎日家に1人で居させるのは可哀想で
仕方がないから……)
一度、母を亡くすかもしれないという恐怖を味わった後に、再び“留守番”という
1人の時間を幼いライラに強いている事に、過剰に敏感になっているのだ。
勇気を出して貴族の家の者にまでこんな願いを申し出る、彼女の事だ。
きっとこれからは、自身でもより多くライラと共に過ごせる時間を作れるようにと
努めていくことだろう。
そして、そんな彼女がどうしても傍に居られない時間……。
そのタイミングに、たまにでもライラの寂しさを代わりに紛らわせる事が自分に
出来るのなら、それは十分に価値のあるものになると思えた。
(ふふっ……せっかく、『豊富な知識で領民の命を救った才女だ』なんて噂が出て
きていたところなのだけれど――)
これで、また屋敷を抜け出してライラと遊び回っている姿を、そのような評価を
してくれた町の皆に目撃された日には……。
恐らくは、再び『やはりお転婆お嬢様だった』と言われてしまうかもしれない。
…けれど、その時はその時だ。
今はそんな事はどうでも良い。
『それはそれで開き直ってしまおう』と、心の中で笑い飛ばす、アイリスだった。
・
・
・
「…という会話が、ステラさんとの間にあったのだけれど――」
「却下だ……。
…少なくとも、ライラが自由に結界内に出入りする事は、許可出来ない」
ステラと約束を交わした以上、自身の都合のつく日には積極的にライラの相手を
する事にしようと考えていたアイリスだが、これでも一応は領主の娘なのだ。
勉学や習い事は勿論、ここ最近では両親から領主としてどういった者であるべき
かといった心構えを教わりながら手伝う貴族としての仕事等々……予定が詰まって
しまって家を抜け出す余裕すら無い日も少なくはない。
当然ながら、そういった日にはライラの相手をするという理由では外出を許され
るはずも無く……残念ながら諦めるしか無い状態だった。
代わりにメアリーにお願いしようにも、彼女にも自身の世話以外に使用人として
すべき屋敷内での仕事が沢山ある。
少し様子を見てきて貰うくらいならば問題は無いが、ステラが家を空けている朝
から夕方までの間、ずっと面倒を見て貰うというのは難しい。
しかし、その点で言えば、今は息抜きで研究を止めているらしいイザベラになら
その余裕があるかもしれない。
そう考えて、もしかしたらと思い、相談を持ちかけたのだった。
「…そう。それなら、仕方が無いわね……」
「…? オマエにしては、いやに素直だな……気味が悪いくらいに」
軽口を交えながらも、いつもと様子の違うアイリスに眉を潜めるイザベラ。
「アイのことだから、てっきりもう少し食い下がるかと思ったんだが。
…何か、心境の変化でもあったのか?」
これまでなら、あの手この手で言葉巧みにこちらを押し切るようにしてでも望み
を通そうとしてきたアイリスにしては、今日のあまりにもあっけない引き下がり方
には、イザベラも拍子抜けする思いだった。
何というか……大人し過ぎる。
「そういう訳でもないのだけれど……ちょっと、ね」
「…あん? 何だよ?」
歯切れの悪い反応を返して来るアイリスに、更に眉間の皺を深くしたイザベラが
その先を促す。
…すると、アイリスは少し間をおいてから、重々しく口を開く。
「…ステラさんがフィーに対して敢えて強くは踏み込んでこなかったのを見て……
今の私が貴女からいかに特別な扱いを得られているのかを、改めて実感したのよ」
自分はイザベラの友人であり、だからこそ自由に家を訪ねられるし、自分の都合
に巻き込む事もお互いにある程度は許される……そう思っていた。
…しかし、イザベラが普通の薬師ではないと気がついている様子だったステラが、
『追求すれば困らせてしまうだろう』と考え、敢えて深くは尋ねてこなかったのを
見た事が、イザベラの今の環境を再確認する切欠になったのだ。
「…フィーが森に隠れて暮らしているのは、世の混乱を避ける為なのでしょう?
誤解だとすぐにわかって貰えたから、あの時はそのままにしていたけれど……。
花畑で見つけたライラをこの屋敷まで連れてきた私が貴女に警告されかけた時に、
実は内心ではこう思ってしまっていたのよ。
『子供を1人連れて来た程度で、そんなに怒る必要があるのかしら?』って」
良くも悪くもライラは普通の幼い子供でしかなく、野心に塗れた権力者とは全く
正反対のものだ。
そんな無邪気な存在が1人加わったところで、大した影響など無いだろう。
「けれど、貴女が結界を用意してまで問題が起きぬように努めているのに、出入り
を許可して貰えているというだけで、それを軽んじるのはあまりに失礼だわ。
…いいえ、それ以前に私がこうして自由に訪れられているのだって、本来なら感謝
しないといけないくらいなのに……」
…けれど、そもそもがそういう問題ではないのだと、ステラには気付かされた。
直接の悪影響があるかどうかという話ではなく、『知っている者が居る』という
こと、ただそれだけでも負担になってしまう。
万が一にでも、イザベラが可能としている『不老の魔法』の情報を得た者が他国
の統治者に漏らそうものなら、国全体を危機に晒し、この長閑で平和な町を戦火で
焼く結果になるだろう。
イザベラが神経質過ぎたのではなく、アイリスが暢気過ぎたのだ。
「今更な事を言うようだけれど、私やメアリーが此処に来ている事で貴女に迷惑に
なっていないかしら?
もしも負担になっているのなら、残念だけれど通う頻度を減らすようにするわ」
本来なら『二度と此処へは来ないようにする』と言うべきなのは解っているが、
アイリスにとってのイザベラは、既にそんなに簡単に関係を断ち切れるような軽い
ものではなくなってしまっていた。
知り合ってからの時間で言えば、まだ半年にも満たないのだが、腹の探り合いを
必要とせず、身分による立場を全く意識しなくて済む相手であるこの『森の魔女』
の友人はどうしても諦めきれない存在へと変わっていたのだ。
「ああ……そんなことか」
暗い表情でそんな心の内を明かしたアイリスに、イザベラはそんな一言で返す。
「それなら、理由が『単なるアタシの気まぐれ』なんだ。
何もオマエがそこまで深刻になって、噛み締めるようなもんでもないっての。
毎日のように来られると面倒なのは嘘じゃないが、それは単純におまえが騒がしい
からってだけだよ」
言外に『オマエ達が通って来るのはあたしの望んだ結果だから、気にするな』と
伝えるイザベラだったが――
「…ありがとう、フィー。
それじゃあ、今日の話は忘れてくれるかしら?
ライラの件は、別の方法を考えてみるから……変な相談をして、ごめんなさいね」
…今日のアイリスは、そんな言葉程度では浮上してこなかった。
ステラの行動から過去の考えを振り返って落ち込んだのもそうだが、ライラへの
今後の対策や、町の者達からの自身への認識の明確な変化など……。
様々な要因が重なって、一時的に限界近くまで精神的な負荷が掛かっている状態
なのだ。
「………はぁ。
…どうしてもライラを結界内に入れたい時には、先にアタシへ断りをいれろ。
アタシが事前に許可を出した上でなら、既に出入りが許されている誰かが同伴して
一緒に結界に入ってくる条件付きで構わないって事にしておいてやる」
「………えっ?」
俯き気味になっていたアイリスが驚いたように目を見開いて、イザベラに視線を
送る。
「…要はアタシが魔女だと気付かせなければ良いってだけの話なんだ。
幸いな事にライラのお気に入りはアタシじゃなく、ロジャーの方だからな……。
ステラの帰宅する時間頃までアイツに適当に遊び相手になってもらっていれば、
それで良いだけなんだろ?」
そう言った後、「だから、アイよりは手が掛からなくて、むしろ良いくらいだ」
と続けて、ニヤリとこちらを挑発するように笑う。
…その顔を見て、アイリスは彼女が自分を元気付けようとしているのを察する。
考える事が多過ぎて、気持ちが沈み気味になっていたのを見抜かれたのだ。
「…これも結果論ではあるが、既にアイツは一度は此処を訪れているしな。
それが今後、何度か増えたところで大差ないって考え方も、一応はあるだろうよ」
「………それって……」
確かにその条件なら、自分1人では自由に結界を越えられないままなのだから、
ライラ本人には出入りを許可した事にはならず、以前に自分で言っていた発言を
反故にした事にはならないだろう。
しかし、よく考えなくとも、その解釈は理屈なんてものは無いに等しく……。
ただただ判り易いくらいの“気遣い”が見え隠れしているだけだった。
「……………ぷっ……ふふっ……」
本当に、こういうところは不器用な人……いや、不器用な魔女だ。
時折、垣間見せる達観した眼差しや行動には、長く生きてきた経験や重みを感じ
させるものがある彼女。
だが、外の人と接した時間自体は短いからか……こういう場面ではこちらが驚く
ほど幼く見える時があった。
――それが、今のアイリスには無性に可愛らしく……また、魅力的に映った。
「…フィーって、実は結構な天邪鬼さんよね?」
もうそこまで許すのなら、事実上はライラにも許可を出しているようなものなの
だが、あくまでも過去の自分の発言を嘘にしない為に、微妙にひねくれた解決策を
提示してきた事が、まるで子供の負け惜しみのようで……。
アイリスは思わずそんな言葉を漏らして、笑ってしまった。
「…前言撤回だ。
ライラがどうのじゃなく、今後はお前を出入り禁止にしてやる」
完全に元通り……とまでは行かないが、調子を取り戻しつつあったアイリス。
…ただ、今度は逆に少々調子に乗り過ぎたようで、イザベラの機嫌を一瞬で損ねて
しまったらしい。
「ああっ! ごめんなさい! 嘘よ、嘘! ちょっとした冗談じゃない!
それじゃあ、私が遊んであげられない日はメアリーに頼んで連れて来て貰うように
したいと思っているから、ライラの事を是非お願いするわね!」
慌てて漏れ出た本音を冗談にすり替えて、早口で挽回しようとする、アイリス。
そんな彼女にやっといつもの強かさを見て内心ではホッとしつつも、天邪鬼な
魔女は、まだ素直になりきれない言葉でその会話を締め括るのだった。
「フンッ……他人の好意は素直に受け取っておくのが、長生きのコツだ。
…アイ、オマエはその辺りの事を良~く覚えておくと良い」