第18話 懐かしくも大切な思い出の味
「あの日……アイリス様があの方を連れて、初めて此処にいらっしゃった日の夜。
随分と久しぶりに昔の――私が幼い子供だった頃の、夢を見ました。
恐らくは、昔を思い返しながらあの木の実を食べたからだとは思うのですが……」
「…そういえば、ライラからは貴女が以前に食べた事があると言っていたと聞いて
いたのだったわね?」
「ええ、そうなのです」
アイリスの言葉に頷いて返した後、ステラは視線を少し上に向けると、夢に見た
というその昔の出来事を語り始めた。
「あの木の実……実際に私が口にしたのは、過去にたった一度きりなのですよ」
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「…ステラ。
すまないが……今日のところは一旦、捜索は打ち切るしかないようだ」
「そ、そんな! なんで!?」
今まで森の中を町の皆と探し回っていてくれていた町長が自宅を訪ねて来ては、
開口一番にそう言ってくる。
「もう暗くなってきているというのもあるが……空模様も怪しくてな。
さほど大きくない森だとはいえ、油断は禁物。
下手に無理をさせて、他の者まで危険に晒すわけにはいかないんだよ」
町長の服には雨粒らしき水玉模様がポツポツと見える。
…家の中でじっとしていたステラは気が付かなかったが、外は既に雨が降り始めて
いるらしい。
「…私、やっぱりお母さんを探してくる!」
「いかん! そんな事をしてお前まで行方がわからなくなったらどうする?」
「だって! 雨が降ってきたのなら、体を冷やしたお母さんが病気になってしまう
かもしれないでしょ!?
森の中の何処かで、今も震えているかもしれないのに、放っておけない!」
…山菜を採りに行って来ると言って母が出かけたのは、今日の早朝の事だ。
いつもなら、長くても数時間で返って来るはずの山菜採りが、今日はお昼近くに
なっても帰って来ない。
心配になったステラが森の中へと探しに行ってみるも、いつもの採取場所に着く
までの道中に母の姿は無く、更に町に戻って尋ねて回ってみても、その行方は全く
掴めないままだった。
そこで漸く母が行方不明になったと気が付いたステラは、目の前に居る町長へ
助けを求めたのだった。
「絶対に見つけて来るって言ってたから、言われた通りに大人しく待ってたのに!
もう探してくれないなら、私が探しに行くもん!」
「わかってくれ、ステラ!
これでお前まで行方知れずになったら、都に出稼ぎに出ているお前の父親になんて
言えば良いかわからなくなる」
「………っ!」
悲痛な面持ちの町長の口から出た『父親』の言葉に、ステラは動きを止める。
…確かに、もしも自分まで居なくなってしまったら……お父さんを1人きりにして
しまう。
「…お父さんには、教えてくれたの?」
「念の為に明日まで様子を見て、それでも見つからないようならヘイマン子爵様が
王都に居るという御友人に電話で伝えて、すぐに連絡して頂けるという話だよ」
「…子爵様が?」
「ああ。今日の捜索にも幾人かお屋敷の人員を割いてくださっていた。
…どういう結果になっても、落ち着いたら私と共にお礼を伝えに行かないとな?」
「…うん」
電話はまだ庶民の家には珍しいものであり、余程の余裕があり、尚且つ必要性に
迫られていない限りは設置していないのが普通だ。
かといって、火急の用件には手紙では距離的にも時間が掛かり過ぎる。
そんな中で、町民1人の為に知り合いを通じてまで連絡してくれるというのは、
貴族の中でもヘイマン子爵くらいのものだろう。
「…それにしても、不思議なもんだ。
子爵様の話じゃあ、この町どころか周辺の町でもここ最近は落ち着いていて、誘拐
なんかの事件も一切聞かないという話だし……。
そもそも、あの森は大人が迷うほどは広くないはずなんだが……」
「川に落ちちゃった……とか?」
「いいや、雨で増水していたのならわからなくも無いが……。
降ってきたのはついさっきだし、雨足も特別強いわけじゃない。
もっと下流の方なら流される危険もあるだろうが、この辺りでは考え辛いな」
「そっか……」
ステラは頭の中で、自身の知る川の景色を振り返った。
森の中にある川は、川幅こそある程度はあるものの、水深も中心付近以外は子供
でも安心して遊べるくらいには浅く、また流れも緩やかだ。
町長の言う通り、魚釣りに行ったのでもない限り、川の中にまで入っていく理由
もないだろうし、溺れて流されてしまったという心配はしなくても良いはずだ。
「現場に行く途中の道中で川辺との段差で足を滑らせたって可能性が一番ありえる
だろうから、皆にもその辺りは特に注意して探してもらったんだがな。
人を襲うような獣も居ないはずだし、本当に何処に行っちまったんだか……」
「………」
難しい顔をしながら首を捻っている町長を前に、その日のステラには、何故か
帰って来ない母を思いながらも、大人しく眠りにつく他は無かった。
…そんな不安な夜が明けて、次の日の朝。
「ただいま、ステラ。ごめんね? 心配かけて……」
「…っ! お、お母さんっ!?」
目を覚ましたステラが、今日の捜索には何としても自分も連れて行ってもらおう
と、固く決意していた矢先……。
…あっさりと帰って来た母親が、町長と共に玄関先に立っているのが目に入った。
「実は……山菜を採りに行った帰りに、森の中で可愛らしい猫に出会ってね?
その子の後を追いかけて行くうちに、知らない道に迷い込んじゃって。
森を突っ切って、強引にでも帰って来れば良かったんだろうけれど、雨も降って
きて、辺りも暗くなってきちゃったからね……。
変に動くより安心だと思って、夜が明けるまで森の中で待っていたのよ」
「もう! 何よそれ! 心配したんだから!!」
申し訳なさそうな顔をしながらも、何処か緊張感の無い様子でそう答える母に、
ステラは大きな声で抗議した。
そして、そんな声に続くようにして、傍らの町長も重々しく口を開く。
「本当にステラの言う通りだぞ。
お前さんが人一倍暢気な性格だってのは知っているが、猫を追いかけて迷子になる
なんてのは、小さな子供でも珍しい話だ。
いったい、あの小さい森の何処に迷い込んでいたってんだ?」
「それは……私にもわかりません。
夜が明けて、真っ直ぐに歩いていたら、いつもの道まで戻って来られたので……」
「全くもって人騒がせな話だが……まぁ、無事に帰って良かったよ。
昨日は子爵様のお屋敷の方も含めて、沢山の町の者達が捜索に協力してくれていた
からな……。
…後で全員の名前を教えてやるから、怒られるのを覚悟の上で、明日にでも謝って
回りなさい」
町長はそう言うと、自身はステラの母が無事に帰って来た事を皆に知らせてくる
と言って、そのまま去ろうとする。
そんな町長に、慌てて母は声をかけて呼び止めた。
「町長さん、それでしたら私もご一緒致します。
ご迷惑をお掛けした方々への謝罪なら、少しでも早い方が良いでしょうし……」
皆に知らせて来るというのなら、同行して頭を下げて回るのが礼儀だろう。
町長が今から各人の下に向かうのならば、自分も付いて行かせて貰おうと考える
のは当たり前だった。
…しかし、振り返った町長は厳しい表情を作って、こう返してくる。
「…馬鹿を言うもんじゃない。
理由はどうあれ、丸一日、森の中で過ごしていた状態のお前さんを引きずり回せる
もんか。
…それに、今のあんたが最も優先すべきなのは、一番自分を心配していた愛娘の傍
に居てやる事だろう?」
「そ、それは……」
その言葉にハッとして、再び視線を戻した先には、幼い我が子が涙を堪えて町長
との会話が終わるのを黙って待っていた。
「…はい、そうですね……ありがとうございます。
それでは、本日はお言葉に甘えさせていただきます」
「うむ、そうしなさい。
但し、明日は心配をかけた者達全員に、こっ酷く怒られる覚悟をしておく事だ。
…お前さんの身を案じていたのは、ステラだけじゃないんだぞ?」
「ふふっ、はい。覚悟しておきます」
母親の返答を聞いて、やっと表情を穏やかなものへと戻した町長は、今度こそ
ステラの家を後にした。
そんな町長の後姿が扉の向こうに消えたかと思うと――腰の辺りに小さな衝撃を
感じた。
「お母さんっ!!」
2人きりになった途端、ステラは母に走り寄って、そのままの勢いで抱き付いて
きていたのだ。
そうして抱きついたままで、彼女は懸命な声で母に向かって叱り付ける。
「お母さんの馬鹿っ! 居なくなっちゃうかと思った!
いくら可愛い猫を見つけたからって、迷うまで追いかけちゃ駄目でしょ!!」
そんな当たり前の事を言い、ステラは流れ出した涙を母の服に顔ごと押し付けて
隠した。
…だが、そんなステラに母親は、その頭を撫でながらも、思ってもみない言葉を
返してきたのだった。
「そうね……ごめんなさい、ステラ。
…でも、昨日は仕様がなかったのよ。
山菜採りから帰る途中で足を滑らせて、酷い怪我をしてしまったのだから」
「――えっ!?」
その台詞を聞いたステラは、泣いていたのも忘れて、バッと勢い良く母から身を
離すと、頭からつま先まで眺めては注意深く観察する。
…しかし、その体の何処にも、傷が付いている様子は無い。
「怪我って……いったい何処? も、もう大丈夫なの?」
見た目ではわからない怪我なのかもしれない……と、ステラは慌てて母に尋ねて
怪我の具合を確認しようとした。
…けれど、母はニコリと微笑んで、ゆっくりと首を横に振った
「ああ……それなら、もう大丈夫。
怪我の方は森の妖精さんに治してもらったから」
「………え? 森の……妖精さん?」
「ええ、そうよ。森の妖精さん」
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そこまで話したところで、ステラはアイリスに視線を戻すと、『ふふっ』と軽く
笑って見せた。
「可笑しいでしょう?
もともと私の母は物凄くのんびりとした性格で……子供だった私ですら、その話は
失敗を誤魔化す為の単なる妄言だと思ったものです。
でも、詳しく聞いてみると、どうにも嘘を吐いているようにも思えなくて……」
彼女の母の話では、当時の町長が懸念していた通り、川辺の段差に足を滑らせて
しまい、その拍子に運悪く片足を骨折してしまったのだそうだ。
それでも娘を心配させまいと痛む足を引き摺るようにして、何とか森の出口付近
までは辿り付いたものの……いよいよ痛みが酷くなり、そこからは一歩も進めなく
なってしまい――
「それ以上は自力で帰るのが難しいと判断した母はその場に腰を下ろして、手近な
木の幹を背もたれ代わりにして、休んでいたんだそうです。
後は、痛みと眠気でから徐々に意識が朦朧となっていって……」
山菜採りに出かける為に通常よりも早起きだった影響からか、彼女はいつもより
注意力が散漫になっていたそうで、通い慣れているはずの道で誤って足を滑らせて
しまったのも、どうやらそれが理由らしかった。
しかし、誰かが通りかかるまでは休もうと思うと、それまで張りつめていた気が
緩んだのが切欠になり、怪我を負った足で歩いてきた疲れも手伝って、一気に眠気
が意識に勝ってしまった、という状況らしく……。
「気が付いた時には、母は既に見た事も無い部屋に寝かされていたのだそうです。
そこには自分以外の誰かが居て、その誰かにこう言われたのだとか――」
『足の傷は治しておいてあげたから、もう大丈夫。
…けれど、もう日も暮れて外は真っ暗だし、雨も降ってきてしまったから、今夜は
ここに泊まっていきなさいな』
「朝になってから、その誰かにお礼を言って森を出てきた、らしいのですが……。
不思議な事に、会話の大まかな内容は思い出せるのに、その人の顔や声は何故だか
すっかり記憶から抜け落ちてしまっていたらしくて」
その話を聞きながら、アイリスは内心で確信していた。
ステラの母が遭遇したのは、恐らくは『森の妖精』などではない。
当の本人も『記憶を曖昧にしてから帰すようにしている』と言っていたし……。
…彼女が出会ったのは、ほぼ間違いなく『魔女』の方だろう。
『妖精』という言葉を使ったのは、その方が善良に思えるから、彼女の母が咄嗟に
そう名付けたに違いなかった。
「話が一通り終わっても、まだ疑いの目を向けていた私でしたが……。
そんな私に、母がその話が本当にあった事なのだという証拠として、山菜と一緒に
籠の中から取り出したのが、あの不思議な木の実だったのです」
「木の実って……ライラが探していた、あの木の実のことよね?」
「…はい。あの木の実を見せてきた母が、自慢げに私に言ってきたのです。
『娘が心配しているだろうと伝えたら、お土産にコレを貰ったの。「帰ったらその
娘にこの実を食べさせてあげなさい。珍しいものだから、きっと喜ぶわ」と言って
帰ろうとする私に持たせてくれたのよ? 凄いでしょう?』と」
その時の記憶が余程楽しいものだったのだろう……。
ステラはクスッと噴き出すように小さく笑っては、言葉を続ける。
「…その妖精さんの言葉の通りに、私は木の実を母に食べさせてもらいました。
そして、森の中どころか町の中をどれだけ探してもあの木の実が見つからなかった
事で、ようやく私は母のその話を信じようかと思えたのです」
「………そ、そう……」
なんとか返事を返したものの、アイリスは冷や汗が止まらなかった。
折れた足を一晩で治した『妖精』と、命にかかわる病を一晩で治した『薬師』。
どちらも話に聞く分には、『夢でも見たんじゃないか?』で終わる程度の話なの
だろうが……親子揃って我が身で体験したとなれば、そうもいかない。
…このままステラに追求されてしまった場合、何と返すべきなのだろうか……と、
密かに頭をフル回転させる、アイリスだったが――
「…ふふっ、そんなに困ったお顔をなさらないで下さい、アイリス様。
大丈夫……他の誰にも、何一つ、話したりなんて致しませんから」
そんな優しくも穏やかな声で、アイリスは自分の表情が硬いものに変わっていた
事に気付かされた。
「…あの方が本当は何者で、どういった事情で森の中に住んでいらっしゃるのかも
知りませんし、それを探るつもりもありません。
そのご様子だと、あの方にはあの方なりの深い理由がおありなのでしょう?
母と子供……それに孫まで揃って窮地を救って頂いた命の恩人の望まない事をする
つもりは決してありませんので……ご心配には及びませんよ」
イザベラの容姿から想像される年齢をそのまま信じるなら、通常の感覚であれば
当時のステラの母を救ったのも彼女だという発想にはならないはず。
…にもかかわらず、既に同一人物だと半ば断じている様子なのは、ステラの中で
イザベラについての“普通ではない何か”に気が付いている証拠だろう。
もはや手遅れの感はあるものの、やはり『飲み薬1つで即日完治』というのは、
流石に怪し過ぎたのかもしれない……。
「そ、そう……ありがとう。
代わり……と言っては何だけれど、貴女のその感謝の言葉は、私が責任を持って
きちんと彼女に伝えておくわね」
「はい、どうぞ宜しくお願い致します」
深く下げた頭を上げると、ステラはもう一度、クスリと小さく笑った。
(何とかなった……? こ、これで良かった……のよね……?)
その表情を確認して、アイリスはやっとイザベラの正体について追求される心配
が無くなったのだと実感して、内心でホッと胸を撫で下ろすのだった……。