プロローグ
『時は金なり』という言葉――
人にとって『時間』とは貴重かつ有限であり、生きていく上で金と同等の価値が
あるといった意味合いの言葉だ。
「………フン……」
照明になるものが窓から入ってくる日の光だけの状態の、微妙な明るさの室内。
馬鹿にするかのように鼻で笑う声が、女のむっつりとした形に閉じた口元から、
自然と漏れ出した。
(………何が貴重だってんだ……馬鹿馬鹿しい)
栗色の髪を櫛で軽く梳きながら、1人で暮らすには広すぎるほど広い、その屋敷
の廊下を、ゆったりとした速度で歩いて行くその影は、思いの外、小さい。
そして、その足元にはよく手入れされた美しい毛並みに、鮮やかな青い瞳を持つ
一匹の黒猫が、まるで有能な従者のように、一定の距離をおいて付いて来ていた。
「………♪」
その足取りは、主人の様子とは真逆に、とても楽しそうに弾んでいる。
「ふぅ……おい、ロジャー。
オマエにとっては久しぶりの外出だとはいえ、あまりはしゃいでくれるなよ?
オマエとの追いかけっこは、いつも必要以上に疲れるからな……」
少女は軽く後ろ……というか、後ろの足元に視線を向けながら、溜め息混じりに
そう呟く。
だが、そこには黒猫しか居らず……一見すると、奇妙な独り言でしかない。
「ニ、ニャー……」
…しかし、その言葉の後、黒猫は先程までとは一転して、急に大人しくなる。
その様子は、まるで母親に窘められた幼い子供のようであり、本当に主人の言葉
を正しく理解し、反応しているかのように的確だった。
「………む……」
すると、女はそのあまりに分かりやすく沈んだ反応をする愛猫の姿を見て、一瞬
だけ困った顔をし、軽く指先で頭を掻いた。
…だが、すぐに今しがた髪を整えたばかりだったことに思い至ると、そんな自分に
呆れかえって、また一つ、大きくため息を吐く。
そして、櫛でもう一度自らの髪を整え直しつつ……視線を再び前へと戻しながら
言葉を続けた。
「はぁ……わかったよ。
少しくらいの間なら、走り回っても良いってことにしといてやる。
…ただ、本当にあまり遠くには行き過ぎるなよ。
特に敷地の外には絶対に出るな……良いな?」
「ニャッ!」
女の何処か疲れたようなその言葉を聞いた黒猫は、またしても態度を一転させ、
今度は嬉しそうな鳴き声を返してみせる。
愛猫のあまりに現金過ぎる反応に軽く苦笑を浮かべながらも、そんな1人と1匹
は、いかにも平和そうな暖かい春の日差しの差し込む屋敷の玄関へと、静かに歩み
を進めて行くのだった――