手柄が欲しい
正月が過ぎて翌天文二十年二月、鬼夜叉丸は信長と彼の未来の腹心達と共に坊さんから授業を受けていた。坊さんの名前は沢彦宗恩といい平手政秀の依頼を受けて教師となった人物だ。全員に紙と筆を渡して寺から持ってきた御成敗式目の写本を開いている。
「えー第十条、殺害刃傷の罪科の事と。
右、或いは當座の諍論に依り或いは遊宴の酔狂に依って、不慮の外に若し殺害を犯す者は其の身に死罪を被り行われ、并流刑を被り行われる。雖も所帯を没収する其の父と其の子と相交らざる者は互いに之を懸くべからず。
次に刃傷の科が事も之と同じく准ずるが可し。
次に或いは子或いは孫が父祖の敵を殺害するに於いて父祖が縱あい知らずと雖も、其の罪を處き被るが可し。父祖の憤り散ずる爲、此れ忽ち宿意を遂する故なり。
次に若し其の子が人の所職を奪うを欲し若し人の財寶を取る為に殺害を企てたと雖も、其の父知らざる故の由、状が在り分明の者は縁座に処すべからず」
坊さんが淡々と語れば子供達が必死に筆写する。全員が間違いなく書いているのかを確認しながら。
「まぁ、ここはアレだな。要は人を殺すな人から奪うなってのと、罪を犯した当人以外は殺す必要はねぇって話だ。
ただ仇云々は面倒だからな。それで人を殺したりしたんなら親父なんかも連座させられるってモンさな」
沢彦宗恩が説明すれば子供達が頷く。ただ信長は心此処に在らず、暇そうと言うよりは思考の海に沈んでいた。
ただでさえ信長は御成敗式目の凡その内容を覚えてるので気が入らず体調を崩した父と織田家総出のとある行事の方が気になって集中出来ない。
尚、鬼夜叉丸はスゴい顔してた。何というか始めてバニラエッセンスを舐めた様な顔だ。匂いのくせに全然甘くねぇ的な顰めっ面。
「どうしたよ鬼夜叉丸」
必死に書き写していた内蔵助が鬼夜叉丸の表情に気付いて聞いてくる程だ。。
「いや宴の途中に酔って人を切るって血の気多過ぎだなと」
「そうか?」
「そこまで酒に弱いなら飲まない方が恥をかかずに済みそうです」
「いや、まぁ酒は美味いからな。仕方ねぇさ」
鬼夜叉丸は仕方ないで済まなくない?と思いながら筆を置き。
「……あと漢字が難いです」
「ん?意外にも鬼夜叉にも出来ねぇ事があるのかハッハッハ」
笑う内蔵助にヌッと顔を出した万千代が溜息一つ。
「内蔵助殿、寶の字はウ冠ですぞ。点を忘れております」
「……忝い」
此処は那古野城が萬松寺の一室である。織田弾正忠信秀がある議題で評定を開いている為に次代を担う信長以下鬼夜叉丸達は沢彦宗恩に預けられていた。
皆が書き写しているとポツリと雫の様に信長が漏らす。
「分からない」
皆が信長の呟きに皆が身を固めた。今日の議題を思えば仕方の無い事である。
信長には二歳年下の同母弟が居て織田勘十郎信勝と言い、信長と同じように柴田権六勝家、佐久間大学助盛重、長谷川与次、山田弥右衛門と臣下の有力者を大人衆として付けられている後継の一人だ。
その弟、信勝の婚姻に関して重臣を含めての話し合いであった。
此処までは信長とて十二分に分かる話だが問題はその相手が和田備前守という幕臣の娘なのだ。幕府からの使者の一人である和田何某の一族であり、即ち信長の反対する道三攻撃ないし今川との協調路線を押し進める婚姻だ。
信長は解らない。いや、解りたく無いのだ。父は道三と戦う積もりは無いのだと正月に会った際に言っていたし勝介の伝言も変わらなかった。しかし公方は政所頭人が京に連れ帰って尚も三好と和睦する気が無い。それは揖斐北方城に籠る土岐頼芸と舅道三が未だ戦っている状況を鑑みれば間違いのない事。
この状況で幕臣との婚姻に付いて話し合うなど発言と逆の行動であり、それこそ信長自身の立場を揺るがす行為なのだから。
大人衆が帰って来るまでは父の意図は判らない。これでは勉学に身が入ろう筈も無かった。
その日の宵の刻、漸く信長は報告を受ける。対面するは二人の男、一番家老の林佐渡守秀貞と二番家老の平手中務丞政秀だ。
林秀貞は齢三十九の糸目以外は平々凡々な顔の細身なオジサンで、平手政秀は齢五十九の慇懃実直ながら小粋なオジイチャンである。
秀貞が口を開く。
「有り体に申さば公方様の命故に御座います。幕臣曰く、殿の体調が良く無いとは言え今まで一度も美濃を牽制せぬ事に公方様が不満を申されたとの事で和睦を続けたければ婚姻をと強引に迫られました」
淡々と落ち着いた声で報告するが隠しきれぬ口惜しさがあった。織田家にして見れば幕府が弱みに付け込んで織田家を統制下に置こうとしている訳だ。
信秀と古くから付き合いが有り筆頭家老として働いてきた秀貞が良い気になろう筈が無い。
政秀も頷き。
「御存知の通り殿の体調も今年になってから良く有りませぬ。今、万一にも今川と戦う事になれば弾正忠家そのものが危うい。若様、御気持ちは察して余りありますが弾正忠家を潰さぬ為の苦肉の策で御座います」
信長は顰めた顔のまま。
「これで完全に俺が反今川、勘十郎が親今川か」
理解は出来る。だが良い気はしない。確かに織田家を残すには父がまだ生きている今の内に選り分けをしておかねばならないし幕府に捨てられれば織田弾正忠家が終わると分かっていても。
信長は溜息を一つ。
「ならば公方の手前、ある程度は親父殿の勤めを勘十郎が担う事になるか」
家老の二人が頷けば顔をしかめて。
「家を残す為とは言え兄弟で殺し合う事になるな」
投槍に吐き捨てた。家老二人も信長の気持ちは分かる。
「殿より言付けで御座います。すまぬ、と」
林秀貞が平手政秀に視線を送れば平手政秀が頷く。
「若、殿は荒川与十郎、喜右衛門、蜂屋般若介、長谷川橋介を預けるとの事、加えて此方を」
政秀が一通の折封を懐から出す。信長が受け取り広げて見れば一通の文書と起請文だった。
「守山の叔父上……」
織田孫三郎信光、那古野城から東北東に建つ守山城主である。信秀の五歳年下の弟で智勇、特に武勇に優れた最も信頼の置ける親族であった。
その叔父が起請文、神仏に誓って信長を支持すると誓っている。
同封された文書には以下の通り。
【織田弾正忠三郎信長殿
此度の事、兄より伺い候
御家の大事故に致し方無き事と雖も口惜しき事と甥殿を慮る事甚だしく候
病に臥せりながらも甥殿への助力を願われ候事、一度二度ならず郁枝重ね頼むと仰り候
兄曰く、甥殿こそ弾正忠を継ぐ者成りとの由、尚重ね申され候事、記すもの也
微力と雖も信光は兄の言葉尤も也と思い候、起請文を書き送る故お納め頂きたく候
織田梅厳】
信長は一度顔を伏せ書状を懐に収め二人に視線を送った。
「佐渡守、爺。親父殿と孫三郎叔父上には礼文を認めておく」
家老二人は安堵と、何より信秀の意図が伝わり嬉しく思い頷く。
「若、序でに報告を。与力の前田蔵人殿が四男坊を小姓として預けたいと。それとその四男と共に佐脇藤右衛門の養子に出した藤八郎も願いたいとの事です」
「ふむ、それは助かるな。蔵人に礼を言っておいてくれ」
「は、必ず」
「藤右衛門には明日、礼を言っておく」
「藤右衛門殿は子煩悩に御座いますれば喜びましょう」
秀貞が頷き言えば信長が唐突に押し黙って一度笑う。
「如何されました若様?」
「爺、子煩悩といえばだが勝介が浮かれているぞ」
「あの勝介殿が?」
「うむ。鬼夜叉もいつ元服しても良い年になったからな」
二、三頷いた林秀貞が感慨深そうに。
「忠勇の者で有る勝介殿の子が。未だ未だ幼いと思っておりましたが、もう斯様な年月が流れたのですか」
信長は照れたように。
「久々に鍛錬を共にしたのだが元服の際の鬼夜叉の烏帽子親を頼まれてな。長の字をくれてやると言ったら腰を抜かしていたぞ。鬼夜叉も喜んでくれればいいがな」
「フフフ、それは喜ぶでしょうよ。爺が断言しますぞ」
最終的に和やかになった信長達の一方で鬼夜叉丸。デッカい図体で床にベッタリ張り付いて不貞腐れていた。
「クソォッ……」
ある物の製作メモを握りながら微動だにしない。簡単に言えば信長様と家族長生き計画の第一歩で思いっきり躓いた。
メモは石鹸の作り方だ。
内容は雑草を燃やした灰に熱湯を加え一晩置いて濾過して灰汁を作り、油にゆっくりと温めた灰汁と少しの酒を攪拌しながら混ぜ、それを型に入れ乾燥させれば原始的石鹸が出来るという物。
ムクロジとか糠袋とかはあるにせよ、シャボンとか言ってポルトガルの人が石鹸持ってきた時代だし作れば売れるんじゃね、と安易に試作しようと思ったのだが無理だった訳だ。
最大の問題は油一升が七十文くらいした事である。
勝介の給料が七百貫である。信長の家老とい言う立場で給料は多いが、騎馬武者を配下としているので実際に使えるのはだいたい五十貫ない程だ。一貫が百疋で千文と言えば問題が分からなくなるだろうが何せ無駄遣いである。
ゴチャゴチャ行ったが鬼夜叉丸の思いを例えれば、五千円をドブに捨てるのを想像して欲しい。しかも親の金。
それりゃもう、よしんば自分の金なら未だしも他人の金でそんな実験やれる訳ねーじゃんって話だ。
てか普通に考えて、んな無駄遣いを親に見つかったらどうすんのって話。
「……やっぱり早く元服して手柄立てないと。吏僚をこなす自信は無いし出世し難いから武功かな、やっぱり」
一歩目で躓くのか、そういう思いが抜けない。
「クソッ!!」
四半刻後、焦燥を振り払う様に裏庭で鉄砕棒を振る身の丈五尺六寸になった鬼夜叉丸がいた。
ところで背、伸び過ぎじゃない?