街道一の弓取り 下
大高城周辺の鎮圧を聞いた今川軍は戦線を押し上げる為に大高城に向かって進軍していた。
途中で中嶋砦からの逆撃を壊滅させたという久野元宗からの報告を受け、今川治部大輔義元は塗り輿の中で喜びながらも周囲の者たちの気の緩みを感じ取る。
だが悪い事では無い。長期対陣ともなれば気疲れはどうしても起こり得る。大高城に入ったところで物資を鑑みれば無聊を慰めてやる事も出来ないのだ。
戦勝報告に沸くくらいは十二分許容範囲だろう。
「それにしても輿って凄い揺れるな。吐きそう」
権威の為の急繕な輿、乗り慣れる事も無ければ担ぎ慣れる訳もなし。正直に行って揺れが酷くちょっと気持ちが悪い。
今川治部大輔義元が馬に乗れば良かったと後悔しだしたのに合わせ雨音と共にコンコンと粒が当たる様な音が。
「治部大輔様、雨に御座います!それも雹交じりです!」
そんな報告の合間にもどんどん強い雨に変わっていく。
「やけに寒いとは思ったが。それに激しいな。すぐ止みそうか!?」
「は、雲の流れ早く、遠くに青空も見えるので通り雨かと!」
「初めて輿に乗っていて良かったと思うぞ!皆に無理せぬ様に伝えてくれ!」
「はは!」
雹交じりの雨中をゆっくり進む。足をぬかるみに取られない様にする為だが、同時に揺れが小さくなって心地いい揺れに変わる。漠然と揺蕩う様に今回の戦で三河の安定化を成した暁には、尾張の虎に奪われた那古野を奪い返そうかなどとにべもない事を。
「ああ、いかん。揺れが小さくなって気が抜けた」
義元は自分の顔を叩く。
「皆の為に気は抜けん。見ててくれよ先生」
そう言って気合を入れた。正直言って戦場を前に乗るのは馬の方が好みだが雪斎が残してくれた形見の一つだ。尾張の人間に輿に乗ることが許されると言う武衛と同等の権威を公方から認められたと目で分からせる事ができるのだ。
降りることは有り得ない。再び悪い意味で揺れだしたが、それを思えば馬上の様にどっしり構えられた。
「ふふ先生に茶化されるな」
敢えてもう一度言うが気合を入れてドッシリ座るのだ。
「よし、大高城までは如何程だ?」
「一里半程かと。雨で足場が悪う御座いますので揺れますぞ」
ちょっと心折れそうになった。
「ああ、雨が止みそうで……なッ、軍勢!?」
義元は其の言葉に即座に反応した。
「輿を止めろ!!馬引けェッ!!!」
輿から飛び降り兜を受け取る。胸白の鎧を着たままであった義元は手早く八龍の兜を被って青毛に跨り兵達の視線の先を見た。
「法螺を鳴らせ、早くッ!!!」
奇しくも其の視線の先には先陣を切って進んでいた織田上総介信長が驚愕と共に馬に跨っている。
驚異に驚愕して驚喜。
そんな顔だ。ただただ驚くしか無い事実に信長は硬直していた。鍬形の立物の兜に紺糸威胴丸具足を纏う姿で有ろうと顔は気の抜けたものである。
「殿、あの輿は確実に敵大将今川治部大輔。好機、いや天命ですぞ!!」
誰かが誰もが思う言葉を岩室長門守重休が言えば信長は首を振って。
「首は打ち捨てろ!!ただ敵大将の首を取るのだ!!!」
振って湧いた幸運を離す訳にはいかないのだ。全員が声を轟かせて全力で走りだした。
敵も輿を放置して騎馬に跨った周辺の百程が下がりながら、その前後の軍数百が門を閉じる様に壁を作る。
今川家の統率能力は化け物だ。
「不味い!!」
更に信長を狙って敵の一軍が側面を狙って突撃して来ている事に気づく。敵の側面を狙った攻撃に合わせて信長側の五十程が躍り出て的確に進路を抑えた。
「殿、四郎左衛門殿の九之坪衆です!!」
勝三が言うと同時に後ろから簗田四郎左衛門広正の部隊から若侍が。簗田四郎左衛門広正の息子である左衛門太郎正次である。
「殿、馬は走らせたままに!彼の敵は我らが抑えます故、全力で敵御大将を討ち取られます様にと父上が!!」
信長は馬を止める事なく。
「五十で支えられるか!!?」
「止めてみせます、御免!!」
それだけ言うと簗田左衛門太郎正次は馬を駆り父の元へ向かう。
一瞥、見送った信長は大きく深呼吸。
「勝三、皆も、俺に構わず治部大輔の首を取れ!!」
「し、しかし」
「構わん。俺が死ぬと思うかッ!!」
最強に最高なハイテンションで浮かべる満面の笑みに勝三はつられて笑い。
「承りました!!」
馬駆けさせながらも大きく息を吸う。
「続けェェェェエエエエ!!!!」
余の大声に敵も味方も一瞬ギョッと身を竦める。ただ笑い刃握る信長を除いて。
「行けッ勝ぞッ!!!!」
答える様に。
「ラアアアアアアアアアアア!!!!」
奇声を上げて味方を追い越し金砕棒を振り上げ進む勝三は、輿の手前で壁を作ろうとした敵を蹴散らした。
正に鎧袖一触。今川兵の心は堅強、だが唐突な戦に対応する時が無い。鬼出電入に現れて鬼斧神工に潜り込む、悪鬼羅刹が百鬼夜行。
「勝三に続けェッ!!」
「逃げるなッ衾を作れ!!」
「遅れを取るな!!」
「今こそ報恩の時ぞ!!」
「首を討ち取れ!!」
「殿の元へ行かせるな!!」
前後左右から迸る声、敵味方入り混じって畝り上がる。
目の前の総大将を守る決死の精兵。そのまま抉り穿って蹴散らせば逃げる敵の背を目掛けて進んで征く。
今川治部大輔義元を先頭にした馬群を捉える。
「おのれ化け物がッ!!」
敵の声、若武者が立ち止まり数十人と馬首を返す。
「我、庵原右近忠春!!来いッ村木の大鬼め!!!」
二十人ばかりで立ち止まって弓矢を握る姿に勝三はハッとした。
「捨て奸!!」
同時に降り注ぐ矢の斉射、全てが勝三と愛馬大黒を狙って飛来する。
「続け!!!」
更には矢を追う様に迫る庵原右近忠春。
「矢は無視しろ!!!」
勝三が言うやいなやカンカンと気の抜ける音を大袖や兜が響かせ絹の馬面が矢を滑らせる。
およそ全ての矢が必殺。だが距離的に威力は低く、本命はそれに続いて馬の速度を合わせた庵原右近忠春麾下の騎馬武者が横薙ぎに振るう刃。
「良い腕してやがる!!」
そう言うと勝三は馬上で身体を捻り迫る太刀をヘシ折った。そのまま馬上から叩き落す。敵は道を塞ぐ様に下馬して見せた。
「殿の道を開けるぞ!!」
勝三が敵に合わせて下馬し、即座に端に追いやれば軍馬の音が背より迫り近づいてくる。
「先に行くぞ勝三!!」
信長の声と馬廻の進む音。
「御気を付けて!!」
勝三が迫る相手と相対しながら言えば幾たびかの返答を残して信長達が進んでいく。
勝三は返事代わりに敵三人を纏めて薙ぎ払った。
彼等が倒れれば同年ほどの男、先程名乗り上げた若武者だ。
握るは薙刀、決死の双眸。
勝三が進むに合わせて脛を狙った鋭い横薙ぎ一線を金砕棒で防いでカチ上げる。
周り飛ぶ薙刀、上げた金砕棒を両手で強く握り——。
「オラァッ!!」
一下、振り落とせば踏み出した右足から左足に重心を変え身体を滑らせるように避けてみせた。
「マジかっ!?」
だが薙刀は空。
それでも男は前へ。
一歩、腰に吊るした太刀の柄を握る。
「させっか!!!」
抜刀の構えに勝三は足に力を込めて太刀を抜かれる前に距離を詰めて体当りをブチかます。
「ゴァッ!!?」
身長七尺、体重二十六貫の体躯が五尺届かぬ小柄な男を吹き飛ばした。
二、三跳ねて泥濘に落ちる。
勝三は右肘をへしゃげさせ、それで尚も左手で太刀を握り震え立ち上がる男の元へ金砕棒を握ってゆっくり歩いていく。
意表を突くのは不可能と察してヨロヨロと泥に塗れ、ふらつく身体で太刀を構える庵原右近忠春麾下。
勝三は気圧されながらも金砕棒を手放して太刀を抜き。
「あんた。最後に名前をもう一度教えてくれないか」
「……じ、治部大輔様が、う“ま廻、庵原右近忠春!!!」
そう喚く様に言って寄りかかる様に斬りかかってきた庵原右近忠春の太刀を弾き飛ばす。
それでも前進を辞めず勝三の腹にしがみつく。
勝三は背を押し潰して首に刃を添え。
「忠勇、御見事!!」
首を絶った。
勝三は立ち上がる。周りを見れば人集りがあり槍衾最後の敵を囲んでいた。剣戟の音は既に聞こえない。
「掛かって来い鬼畜生供め!!此の庵原彦次郎が皆の仇を取ってやる!!」」
庵原彦次郎忠良。先程、勝三が討った男の弟である。小さな身体で太刀を握り与三と次郎が率いる十人に囲まれて尚も竦まず立っていた。
勝三は囲いの外から一息。
「彦次郎殿!」
「来い村木の大鬼!!」
敵意と共に刃と眼を向ける。
「皆、手を出さないでくれ」
勝三はそう言うと両手で庵原右近忠春の首を掲げた。
「あ、兄上……」
愕然と目を見開く彦次郎忠良。彼の兄のおかげで味方を追うにも敵を追うにも人馬の休息が必要だ。
「御弟殿か、丁度いい。兄君の首を持って御帰り頂きたい。首は打捨てと言われていますが貴方方の勲しを思えば軍令と言えど忍びない。せめて御家の誉となされませ」
勝三は脇差を抜いて親指を薄皮を切り血を溜める。近くに落ちていた旗をいくつか拾って比較的に綺麗な一枚を膝の上に乗せ血文字を。
【庵原御歴々の忠勇
敵乍、甚だ感嘆致し候
内藤勝三長忠】
首を包んで血文字の旗を渡せば呆然としながらも受け取る。勝三達は馬に跨り馬の負荷にならぬ様にゆっくりと信長の本体を追った。
時を同じくして今川治部大輔義元は我武者羅に馬を走らせ道なき道を進む。
大将だ。これぞ有るべき大軍を率いる大将の姿で有る。恥など気にせず唯々一心不乱に最良を選ぶ。
しかし武運拙く一本の矢が馬に刺さる。
「おのれ!!」
馬が嘶くに合わせて飛び降りれば馬は絶命。
「殿、私の馬を!!」
「間に合わん美作守!!薙刀を!!!」
義元は薙刀を受けとり迫って来た敵の軍馬の顔に刃を向けて石突きを握り突く。
薙刀は折れるも騎馬隊の突撃の勢いを殺し太刀を抜いて落馬した騎馬武者を斬り殺す。
「恐れるな、足掻け!!」
義元が叫べば馬廻が呼応して敵へ逆撃を与えようと果敢に攻める。五十ばかりの今川家馬廻がじわじわと削れていく。
義元はそれでも太刀を奮い振るった。
「ウグッ……」
「服部小平太一忠が一番槍なり!」
しかし体力の限界は来る。敵を切って一息と同時に背から腹を刺された。
「雑兵が!!!」
槍が抜けるに合わせて一喝一刀を振り返れば血の滴る槍を切って蹴り飛ばす。
たたらを踏んだ男にもう一太刀与えれば膝に一撃入って倒れ込んだ。
「一番槍、あの世で誇れ!!」
「小平太殿、助太刀致す!!」
しかし横槍。腿に槍が食い込み激痛が迸る。血と力が一挙に流れ落ちた。
「グッアアアアアアア!!!」
だが不倒、どころか斬りかかる。
しかし殴り倒された。
伸し掛られ兜を剥ぎ取られる。
首に迫る刃を握る腕を辛うじて掴み止めた。
だが利き手でも無ければ疲労もある。
ゆっくりと迫る敵の鈍い銀光を発する切っ先が首に潜り込み赤い筋を作って止まった。
『皆……皆、許せ。母上、龍王丸、先生、すまぬ』
刃が首を貫く。
永禄三年五月十九日のまだ身も凍る様な寒く青い空に星が一つ落ちた。




