兄弟喧嘩
末森の城で二人の男が座していた。上座に座すのは極めて整った顔立ちの武人で勘十郎の家臣津々木蔵人である。
彼の前に座る男。厳つい体躯を持つも濃い隈が暗い印象を与える守山城の重臣角田新五だ。
津々木蔵人は文机に千貫にも及ぶ銭束を置く。
「孫十郎様の件は失敗致しました」
ポツリと。
「あの謀略から勘十郎様へ私を受け渡す様にと再三の通知が来ています。疑念程度でしょうが何処で察したやら。だが、この現状を鑑みれば何ら問題は無い」
束をもう一つ。
「寧ろ想定通りに陣営に引き入れた林殿へ那古野が譲られ、道三が死に美濃さえも味方になった今、一手加えてトドメとすべきでしょう」
更に一つ。
言葉を止めれば角田新五がのっそりと津々木蔵人と銭の束へ喜びと暗い瞳を向ける。
「それで俺か」
角田新五の恐怖と愉悦を合わせた歪んだ顔を気にも留めず笑顔で頷く津々木蔵人。
角田新五は元々は織田孫十郎信次の重臣であり織田弾正忠達成派の筆頭であった。要は織田孫十郎信次が織田弾正忠達成に付く一助となった人物で有る。
「この金と亡き坂井大膳殿の一党、更には小競り合いとはいえ信長を退けた一色丹羽氏が協力いたします。成功の暁には孫十郎様を城主として頂ければ後は御随意に」
「フハ、任せてくれ蔵人殿。道三の死を聞いて尚も喜蔵様は信長様に忠を尽くすそうだからな。時勢を読めん方には確りと腹を切って頂こう」
津々木蔵人は満足げに頷いて言う。
「どの様な手を使っても構いません。事故死だろうと、暗殺だろうと、守山さえ手に入れれば兵力も倍以上となる」
そう言って最後に一束の銭。
「無論、我等が財力は優れた者を城一つで雇う程度の小さな器量では御座いません」
「ほぉ有難い事だ。好条件が過ぎるな」
「御気になさらず。此方としても助かる話です。守山を引き込められれば春日井郡を手中に収める事に等しい。相応の礼と言うものですよ」
「気前のいい事だ。まぁ任せてくれ。守山奪取の暁には曰く所の大器ぶりを披露して欲しいものだな」
「勿論」
内心で辟易としながら相槌を打った蔵人は立ち上がり。
「さてバレてはまずい。お見送り致しましょう」
「忝い」
角田新五を見送ると津々木蔵人はニッコリと笑ったまま地面に唾を吐き捨て鼻を裾で抑えてから。
「ああ、口が苦い。裏切り者の汚臭が鼻にこびり付いた」
吐き捨てる。
津々木蔵人は踵を返して主人の元へ向かった。織田勘十郎信勝から、織田弾正忠達成と名を変えた主人の元に。
「備前様の事を思えば心苦しいがまた公方様に偏諱の催促を頼む」
「承りました御前様。私からも朽木谷に行かれた父に手紙を出してみます」
「すまんな」
おっとりとした雰囲気ながら芯のある声の高島局と話していた弾正忠達成は津々木蔵人に気付くと爽やかに笑う。尚、高島局は何がとは言わないが上がデカくて真ん中と下が細い。
「如何した蔵人。足軽達の長槍を揃えると聞いていたが?」
「は、あとは足軽が槍衾を崩さぬ様鍛錬致すのみです」
「おお、流石に仕事が早いな。良くやってくれた」
「勿体無き御言葉、少々御話したき儀が御座います」
そう言って津々木蔵人が高島局を見れば察した様に。
「あら、男揃っての謀ですか。では御暇致しましょうか御前様」
「すまん、偏諱の件任せた」
高島局は立ち上がり一礼して去る。流産してから心身共に酷く窶れていたが、それも回復して随分と良くなった様だった。一時期は弾正忠達成が声を掛けても部屋から出てこない程だった事を思えば男二人は安堵する所だ。
織田弾正忠達成にとっては気の合う妻であるし、この時代の武家の妻とは自身の考えを的確に伝えられる外交窓口だ。家臣達にとって見れば幕府という権威との大切な繋がりとしても重要な人であった。
彼女が去れば津々木蔵人は深く頭を下げる。それこそ床に額が付く程に。
「ど、如何した蔵人?」
「殿、この蔵人。殿に無断で兵装を整える為の金の一部を横領し策謀を巡らせました」
「何?」
「殿が兄君と弾正忠家存続と言う二つの大義の間で苦悩しているのは存じています。松平に救う価値を見出せず斎藤と武田を敵にしている兄君を憎みつつも裏切れずにいると言う私の想定は外れていましょうか?」
「いや、正しい」
弾正忠達成は思わず憤懣露わに朗々と語り出した。こんな時代で乳母兄弟程の情は無いといえど同腹ならば肉親に対する情が無い訳では無い。しかし、織田弾正忠家の事を思えば怒りを覚えるものだ。
「早晩兄上は滅ぶ。道三の遺言だそうだが勢いでこの状況下で後ろ盾である美濃と完全に敵対するあたり弾正忠家を潰しかねん。
村木砦や大和守家との戦い、清洲奪取の時は兄上に家督を任せても良いとは思ったが、現状を見れば言いたくは無いが兄上には天命というものが無い。
家督を譲って頂ければ、せめて生き長らえる事は出来るだろうに」
「私も道三の兵を入れた事を思えば三郎様を主とは認めたく御座いません」
「そう言えば、お前の親族は加納口で半数以上が討たれたのだったな……」
「は、父、兄、祖父、叔父、従兄弟が討たれました」
「嫌な事を思い出させた」
「御気になさらず。一族が討たれた故ではなく家臣として、己が未来の為に仕える主人を選んだだけの事」
弾正忠達成は据わりが悪そうに。
「話を遮ってしまったな。それで策とは何だ?」
「那古野の坂井孫八に金を渡しておきました。また守山城を奪い取る為に角田新五に金をくれてやりました」
「刺客?……まさか叔父上を!!」
「は、弾正忠家を守る為に御座います。御二人は信長を捨てない。ならば共に滅んで頂こうと」
処罰待つ津々木蔵人に吐息漏らす織田弾正忠達成。その目はある種の安堵と決心が灯っており大きく深呼吸してから。
「いや、助かった蔵人」
主人の顔を見上げる蔵人。
「事、此処に至って私も迷いが吹っ切れた。考えてみれば叔父上は明確に兄上の味方で私の敵だ。なにより兄上の領地を岩倉や美濃に取られる事が最も不味い。母上を説得して策が成れば戦を起こそう」
「はは!!」
弘治二年六月、角田新五謀叛。城普請の人夫と偽り入れられた兵に囲まれ織田喜蔵秀俊は無念の切腹を遂げる。
此れに信長は即座に挙兵するも美濃の斎藤新九郎高政、続いて岩倉の織田伊勢守家が小競り合いを仕掛けて来た為に、角田新五の和睦案を飲んで謹慎中だった叔父織田孫十郎信次を入れた。
これに激昂した者が居る。
清洲より南南東に一里程の所に有る栗山城を仮の拠点として後詰の兵力と共に控えている織田三郎五郎信広だった。齢二十七で織田備後守信秀の子の中では最年長となる信長の異母兄にして織田喜蔵秀俊の実兄だ。
「弟が殺された!!」
勝介、いや勝左衛門に押さえられながら信長に詰め寄る三郎五郎信広。勝左衛門と勝三がいる所為で余り大きくは感じないが六尺近い大男の異母兄だ。
「存じています兄上。勝介、兄上を離してやれ。勝三も控えろ」
対するは内藤親子が居るとしても一切怯まぬ信長。そんな信長の言葉に内藤親子が従えば三郎五郎信広は怒りと悲しみを燃やす相貌で信長に詰め寄って。
「お前は悔しくないのかッ」
「機会が有れば必ず此の手で角田新五を殺します」
「信勝の阿呆にはどうやって落とし前を付けさせる。守山を得、篠木を奪った手際を見れば彼奴が手を回したに決まっているぞ!!叔父上をお前が殺したなどと言う慮外の妄言が広がったのもヤツ等の仕業だろう!!」
「無論、奴も此の手で」
一切、怯まない信長。
それは信広が怒髪天たる怒りを爆発させる様に信長もまた怒髪天たる怒りを爆裂させていたからだ。
なんなら信長の方がキレている。
「兄上、信勝が狙うは那古野と見ています。右衛門尉の提言で名塚に砦を築かせ佐渡守達の援軍が即座に向かえる様に備えています」
「成る程、右衛門尉は完全に奴を見限ったか。ならばその時は俺も出陣して弟の仇供をいの一番に刈り取ってやる」
「必ず目に物を見せてやりましょう」
信長が言い切れば信広は頷き、のっそりと立ち上がる。
「必ずだぞ」
そう言い残して帰っていった。
美濃斎藤、岩倉織田を相手取りながらも着々と報復の準備を進めていた信長に謹慎オジサンから密書が届く。
弾正忠達成に名塚攻撃の気配あり、そして林秀貞謀叛と言う内容の物が。
その数日後、荒子城主の前田蔵人、米野城主の中川与兵衛、大脇城主の大脇十郎左衛門、街道を封鎖し熱田と清洲の間を遮断。挙げられた城は皆、林秀貞の与力であった。
信長は此の状況に対応する為に急遽評定を開く。皆が揃う中で生気なき信長が内藤親子と共に現れ、相談役として控えていた勝介に振り向く事なく。
「勝介」
「は、はは」
「織田の姓を名乗る事を許す」
「あ、有難き幸せ」
皆が騒めく中で勝介は信長の弱々しく、何処か懇願するが如き言葉に唯々頭を垂れ礼を言う事しか出来なかった。
「勝介、頼む」
「はは、身命を賭して」
叔父、舅を失い最後の拠り所を無くさぬ為である。そんな信長は勝介、いや織田勝左衛門に弱々しくも安堵と共に頷いた。そしてよくよく耳に入るが、しかし何処か暗い声で。
「皆、状況は逼迫している。何か案はあるか」
そうは言っても皆共に大人衆筆頭の林佐渡守秀貞が裏切った事で激しく動揺し混乱していた。主人に頭を下げられたと言うのに裏切ると言う状況には皆の知る林佐渡守秀貞と言う男の行いでは無かった筈である。
ただ、一人を除いて。
「殿、栗山の三郎五郎は動けなくなりましたが同時に那古野や寝返った三城からの盾となって頂けます。こうなれば末森も軍を起こす筈、その時にこそ勝機が御座いましょう」
敢えて楽観的。そんな言葉を吐く勝三。こうなる事を知っていて尚も何も出来なかった己が、今此処で道化を演じずして一体なんの価値があろうかと。
皆が顔を上げる。勝三は腹に力込めて。
「今一度、見せつけねばなりません。殿の、皆様の力を」
勝三はそれが当たり前と言わんばかりの何処か確信めいた顔で。
「殿は負けません。一匹の猫に率いられた百匹の虎は、一匹の虎に率いられた百匹の猫に劣る。この例えに依るならば勘十郎様は子猫であり殿は虎は虎でも羽が生えた猛虎なれば格が三段違う。加えて言えば敵将は権六殿などの虎がいるにはいるが此処に居る御歴々もまた虎の類。翼生えた猛虎が虎を率い、猫が率いた少々の虎に勝てるとは思いません」
皆がキョトンと唯の感情論に聞き入っていた。
勝三は信長を信頼している。二十年も越えぬ人生だが、その全ての期間の間ずっと信長の才能を目にしてきたのだ。それに秀貞の所から帰って来た事で前世の記憶への信頼も今は高い。その負けないと言う確信と一欠片の揺るぎも無い信頼と言う二つが揃えば意気消沈していた信長の感情を引き揚げる程の確信と信頼を発するに至る。
理論的でないただの言葉。だが今はそれでいいのだ。
そして加えて言えば集まる皆もだ。信長が見上げれば岩室長門守重休や丹羽五郎左衛門長秀など重臣から小姓まで此の場の全員が頷く。
信長は笑う。
「フフ。勝三、なんの解決策にもなっていないぞ」
弟の様に思っていた勝三に元気付けられると言う何とも言いがたい気恥ずかしさを覚える。
「だが感謝する」
勝三は闊達に笑って深く頭を垂れた。
信長は大きく一息。
「よし、勘十郎にも秀貞にも目にもの見せてやるわッッ!!!」
評定に轟く意気軒高たる咆哮。城が一挙に騒がしくなった。




