伏す猛虎
「ナッハッハッハ!そうか安堵したぞ勝介。鬼夜叉丸は元気になったか」
カラッとした人好きのする笑顔を浮かべた男がそう言って白湯を呷る。齢は四十、で大きくも鋭い双眸を持ち鼻筋の通った顔に無精髭を生やした渋味のある顔だ。五尺七寸程の長身は細身だが鍛錬を重ねた武人の体躯で、小袖の上に窠紋の刺繍が入った橙色の裃を纏って虎皮の尻毛鞘を付けた一振りを脇に置いていた。
少なくとも一廉、そんな人物で有る事は一目でわかる。
此の男、織田備後守信秀。織田弾正忠家の頭首として尾張どころか西三河まで勢力範囲を伸ばし、尾張の虎と称された男だが今は病に侵された所為で威風陰り覇気が無い。時折激しく咳き込む様は戦場を駆けた虎の身を蝕む病症の重さが伺える。しかしそれでも今日は調子が良い日であり、快活な笑みも浮かべているし不調と言っても体が重い程度だった。
そんな信秀の対面に座す大男は深く頭を垂れたまま口を開く。
「殿が津島の薬師から補中益気湯を取り寄せて下さった故に御座います。此の内藤勝介秀忠、より一層、尚益々の忠義を捧げます」
頭垂れながら深甚に震え報恩の決意と共に発する対面の大男、信秀は相変わらず律儀で好ましい態度に苦笑いを浮かべながら。
「止せ止せ、此れ迄の忠勤を思えば薬の一つ二つ安い物よ。それより勝介、もう少し早う頼れ。お前は俺に気を使ったのだろうが無病丸の様に夭折したらどうする」
厳しくなり過ぎないように戯けてプリプリと怒ってみせた信秀、しかし忠臣の落ち込みようを思い出して堪え難い痛ましさに口惜しいさ滲ませて。
「その方が、俺は辛い」
「真に……忝う御座います」
二人も子を亡くした勝介こそ最も辛い事は変わりない。だが自身の命を幾度と無く救った忠臣の子が死ぬ事は主人である信秀にとっても辛い事だ。その痛烈で悲痛な思いは勝介の身を震わせる。
「万一、万一だ。また斯様な事があれば直ぐに、必ず、必ず頼れ」
「ははっ、深くっ……感謝を!!」
勝介は下げていた頭を更に深く、額を叩きつける様に頭を下げた。
「我が家の一番槍が辛気臭い、面を上げい」
信秀の言葉に勝介は鯨が海面から顔を出すかのようにゆっくりと面を上げる。右目を眼帯で覆っていて顔に引き攣ったような歪みがあるが整った凛々しき顔だ。右手の小指は半ばから無く、左手に至っては三本しか無い。纏う小袖の下、身の丈六尺四寸を越える鋼の様な巨躯には古傷と生傷が至る所に迸り武人としての戦歴を物語っていた。
齢は三十八、織田家旗本で護衛として信秀の窮地を幾度となく救った益荒男であり、熱田と津島から莫大な銭を得る織田家の多くの雑兵を鍛え、その中から選りすぐった者を率いて敵陣に切り込む猛将だった。
今はその忠誠心と戦歴を買われて嫡男の三郎信長の教育と後進育成を任されている。
「さて勝介、仕事の話だ。この金で美濃攻めを建前に兵を集める様、吉法師に伝えておいてくれ」
そう言うと信秀は銭を入れた箱を二つズルリと勝介の前に引き出す。数百貫、いや数千貫は優にあろう大金を前に勝介は寸分とて動じる事も無い。
「はは、承りました殿。やはり美濃攻めの件は」
この銭箱で十二分判るが一応の為に勝介が問うと信秀は確りと頷く。
「勿論、動くつもりは無い。公方様は相も変わらず修理大夫《土岐頼芸》を美濃守護に復帰させるのを手伝えと言うが十代様と共に六角征伐をなした我等に六角の援護をしろとはホザくものよ」
露骨な顰めっ面、不満そうな表情を浮かべた信秀は半眼でズズッゥっと汚い音を立てて白湯を啜ってから。
「そもそも背を固め近江と岐阜から兵を募る積もりだと言うのならいっそ伊達氏や大友氏の様に道三を美濃守護にでもしてやればよかったのだ。
幕府の者共は不満を言うが今更と言う以外に言葉が無いわ。よりによって守護の復帰など蝮殿は何があろうと認める訳が無かろうに」
「全くです。漸く守護追放の混乱が収まったと言うのに混ぜ返す様な事をしておきながら交渉とは片腹痛い。戦になるは必定、あの山城守で有れば全てを持ってして徹底的に抗いましょう」
「全くだ。余りにも煩い故、使者殿には此方の戦力も先の今川との戦いで随分と減った故と答えておいたわ。悔しいかな事実であるしな。
そうしたら幾月で兵が揃うかと聞いてきよった。雑兵とて雇うには金も時も要すると言うのに」
信秀は相当に鬱憤がたまっていた。将軍の意を伝える使者としてやってきた三淵掃部頭晴員の出兵の催促に辟易としていたのである。それを察した勝介は彼にとって条理を理解しない上に主を不快にさせた者達に対して思わず不満を漏らす。
「我等としても今川との和睦斡旋は渡りに船です。しかし若様と婚姻同盟を結んだ山城守に今の今まで戦っていた今川と組んで戦を仕掛けろ等と御無体な事を申される。
それは未だしも数月で兵を整えろと言う無茶、誠に公方様の言葉かと耳を疑いましたが事実以外の何物でもないとここ数ヶ月で痛感しました」
「アレは人心どころか道理も分からんのだろうよ。寧ろ地盤なき足利家そのものがそんな家なのかもしれん。事実、蹴鞠を御享受して頂いた折に伺った飛鳥井亞相の話を思い起こせば歴代の将軍もそうなのだろうな。武家の棟梁で有りながら人の心が分からず何故己が将軍なのかが分からぬ。
そうでも無ければ安易に自分を支える支柱を蹴飛ばして都を離れる羽目になろう筈が無いわ。京を護る事も出来ず何が将軍か」
「天文二年でしたか、亞相《飛鳥井雅綱》様と共に下向なさった内蔵頭様も申しておりましたな。今日の都の荒れようは末世であると」
「天下の外に居る我等の和睦に主上が勅書を出すのだからな。相当と見える」
「確かに畿内近隣とも言えぬ我等に勅使を出す事自体が稀有、使者がいらっしゃった時は一体何事かと思いましたぞ」
「大方、公方様が京を采配出来ぬと主上に縋り付いたのでは無いか?若いとは言え情け無い武家の頭領よ」
「そう言えば選りに選って公方様が山科郷を横領しているとか、それも未だ返還されておらぬようです」
「笑えんな。都を乱す公方様とは何とも奇妙な存在だ」
信秀が深いため息を吐いて白湯を飲み干す。勝介のおかげでガキの様に愚痴を吐く事が出来て大分気は楽になった。
溜息一つ。
「さて我ながら無茶苦茶に言ったが此度の和睦、有り体に言ってしまえば儂らは助かった事に変わりない。だが吉法師の事を思えば諸手を挙げて賛同する様な事は正直に言えば出来ん」
「それは今川も分かっておりましょう。治部大輔など元は坊主だったと言うのに兄弟で争う御家騒動を経て当主となったのですから」
「うむ。その今川も此度の和睦に対する鬱憤は酷かろうよ。勝ちが見えておった処に公方様の自分本位な命、しかも主上を介した断れぬ勅書と来れば良い顔などするまい」
「若様も同じ様な事を申しておられました。加え今川とは禍根が深う御座いますれば万一に山城守と戦う動きを見せた途端、嬉々として美濃牽制を理由に領内に入り込んで那古野奪還を狙う筈だと」
「同感だ。十分に有り得る。
儂が竹王丸殿から那古野を奪った際には乱世とは言え畢竟に言って卑怯な手を使った。恨まれるも勿論であれば奪還を狙い続けて当然よ」
「この機に尚一層、備えておくべきで御座いますな」
信秀が銭箱に視線を送る。
「うむ、故にその金よ。又八の爺と相談して一先ず美濃攻めを建前に此処の兵を五百程増やす。その裏で吉法師の備を八百は集めさせる積もりだ。御主の言っておった騎馬隊と精兵のみの先手足軽衆も多少は整えられるだろう。
また新五郎や弥右衛門達吏僚衆に小言を貰うだろうが致し方無いわ」
ナッハッハッハと一頻り笑うと信秀は真面目な顔で。
「道三に確り伝えるように言っておいてくれ。俺と吉法師は美濃と争うつもりは無いと」
「はは、万事確と若様と鷺山殿に申し含めておきまする」
「うむ、頼む。とは言え聡い道三の事、吉法師の兵を増やせば察して安堵しようがな。それと吉法師の周りに置いた者達の事も頼む。先人として諸々と教えてやってくれ」
「お任せください。小姓の長門などは万事器用に熟す故に助かっております」
「ナッハッハッハそれは心強い。
そうだ器用と言うなら鬼夜叉丸の将来も楽しみよ。ヤツの鍛錬はお前に似て奇天烈で面白いし膂力も尋常ならざる物がある」
「忝のう御座います」
「うむうむ、そろそろ暗くなる。気を付けて帰れ」
「はは、失礼致します」
そう言うと慇懃に退室する。
勝介を見送る信秀の瞳には悔恨が滲んでいた。忠臣の大きな背が消えると小さく溜息を吐く。身体を蝕む病、それよりも信秀の心を重くするのは己の犯した大きな失態だった。
加納口の戦いである。
「口惜しい」
負けた事などは如何でも良い、負け方が問題だった。あの戦いで織田弾正忠家の軍事力は半分以下にまで落ち込んだ。
一番の問題は備と呼ばれる数百人規模の兵を率いる中級から上級士官の大幅な減少である。
特に毛利藤九郎や岩越喜三郎を始めとした旗本の歴戦の侍大将や、漸く育て上げた次代を担うべき侍大将候補の討死は痛手であり、大人衆として息子と後進の育成に重点を置いていた勝介が現役として完全に復帰する迄に減少していた。
人材の育成は時間がかかる。信秀は何時まで生きられるか分からない中で戦力を回復させようと頭をひねれば浮ぶのは数年の内に広がった新兵器。
「安祥の時の事を考えれば弾薬さえどうにかなれば強力なのは確かなのだがな。義元は上手い事扱いよったわ」
新兵器とは火縄銃の事であった。安祥城を巡る戦いの内、天文十四年の戦いで信秀は鉄砲を試験的に運用した事がある。鉄砲そのものは兎も角も消耗品である弾薬が高価な為に射撃回数が限られ、一先ず直射して使う弓の様に狙撃的な運用を試したが命中率の良い訳ではない火縄銃では効果が薄かった。
ただ騎馬に対しての音による効果は確かだった事から少しづつ実践運用を模索しだしたのである。
そして、その四年後の天文十八年の安祥の戦において今川家が効果的に鉄砲を運用してみせたのだ。鉄砲の数を揃えて矢合わせの後に火縄数十丁を斉射され混乱した所に槍兵の突撃を受けたのは戦を変えるものだった。
「矢張り数か。ケチ臭い事は言えんな。
五郎左衛門が手を出せんと言うのだから此れからは足軽と同じ様に鉄砲と弾薬を揃えるべきだ」
信秀はワシっと顔を顰め。
「それにしたって俺に黙って五百艇も買ったのは許さんけどな信長め。一括では無いとは言えほぼ五千貫って何考えんだアイツ。いや、役には立ったけど」
そう。信秀は安祥の経験から平手政秀に国友という今の滋賀県の岐阜県寄りの場所で鉄砲作りまくってるトコに火縄銃を三百艇を発注した。その際、信長の強い要望ってか横槍で勝手に五百艇仕入れる事になったのだ。数を頼んだので少しは安くして貰えたが家計は火の車。
しかしその後の尾張防衛でその鉄砲と火薬が活躍したのだから文句は言い難く、控えめに言ってスンゲェ複雑な気分だった。
苦笑いを浮かべ。
「それにしても硝石だけで一発で二十文か。火縄は木綿が良しとなれば出費が痛いわ」
硝石と鉛は輸入品だ。硝石に関しては古い家や城を壊した際に軒下から取れる土や家畜小屋の土などを集めてある程度は賄えるが、弾薬に使う鉛に関しては完全に堺からの輸入に頼っておりどうしても高く付く。
「いや、しかし兵力の増強ならばまだ頭を捻るのも悪くないのだがな……」
辟易と吐息を漏らし。
「不甲斐ない父を許してくれよ三郎、勘十郎」
出来の良い嫡子に申し訳なく思いながらも、もう一つ織田弾正忠家を残す為の気の進まない策を準備し始めた。