南北の敬老
ポイント、ブクマ、誤字報告、有難う御座います。
暇潰しにでも見てってくれたら幸いです。
「あぁー。やっと終わったわ」
平手五郎左衛門中務丞政秀は手紙の山を捌ききり吐息を漏らす。身は軋み、重く、節々が痛むがその心は延々と広がる晴れ渡る蒼天の如く清々しい限りであった。
寒さ染みる中で最後に残す事の出来た信長の腹心が生み出した両三蕎麦を啜る。手の内の温かい椀は傅役として何より遺したかった者の一人が生み出した何よりの手向け。成果が無かろうが構わない、失敗しても良い、信長の為に何かを成そうという心ある忠臣という存在を味わう。
平げ一息。
空の椀を置く。
そして憂なく確りと髪を黒く染めて純白の絹衣を纏った。
それは死装束。
家族との別れを済ませ唯、息子一人を連れ立って死にに行く。
「父上、春までは持たぬのですか」
「不粋な。梅や桜が見たくなるだろう」
太刀を握って付いてくる息子の前で粋に歩む老人は歩み止めず、また振り返る事もなく穏やかに。
「五郎左衛門が若の初陣で愚行を為しても我等への信頼は揺るがなかった。その信頼と御恩を返すは今この時よ」
渡廊下から寒い風に雪化粧を施された自慢の庭を眺む部屋に。三方に乗った白鞘の一振りを前に座して杯を持つ。
息子が注ぐ白く酒精揺蕩う一献。
「何より、春を待つにも寒いしな」
傾けた。
「美味い」
笑み浮かべ杯を捨て、その手に短刀を握る。
強く、しかし軽やかに自腹に突き刺す。
横一文字に進んだ刃を抜いて再び己が身に突き刺して直下。
「後は頼む」
止まらぬ涙に手を狂わす事無く、息子の一太刀が首を落とした。
「御見事に御座います父上!!」
天文二十二年閏一月十三日。織田弾正忠家を内政と外政の何方においても支えた古豪、平手五郎左衛門中務丞政秀。
御歳六十三にして見事な十字腹だった。
平手政秀切腹、この情報は尾張だけに留まらず一斉に各地へ広がった。特に反応を示したのは平手政秀の手腕によって織田弾正忠家と手を結ぶことになった戦国の申し子である。
「やぁやぁ困った。大桑を片付けて漸く此から地固めだって言うのに」
齢六十にしてその身の丈は六尺を越える巌の如き雄大堅牢なる体躯は泰然偉観。
「虎に続いて中務丞殿まで逝かれたんじゃぁ婿殿は苦労してるだろうねぇ」
褐色の肌に垂れ目、まるで眠っている様な糸目の好々爺。美濃の斎藤山城守利政、後の斎藤道三その人である。
干し柿を口に放り込む。
「うーん甘い。頭が冴え渡る」
甘味の残り香を惜しみつつ茶碗を取る。口に爽やかさを流し込んで茶碗を置くと控えていた子供達に優しげな面持ちで干柿を盛った籔を渡し。
「勘九郎、喜平次、それと次左衛門、兵助。すまんが干し柿を食べたら掃武大夫と右近将監に三左衛門殿を呼んで来てくれるかね?」
四人は口に干柿を詰め込む手を一先ず止めて。
「分かりました父上、ング私が掃武大夫殿のところへ行きまふ」
「ふぁ俺は右近将監を」
「では私と兵助は三左衛門様のトコに行こう」
「モグモグモモグモ……はい兄ふえ!」
干柿を平らげて部屋を出て行く愛息と元服したばかりの猪子兄弟。彼等をニコニコと見送ってから茶を一口。
下がる碗。
共にのっそりと開いた瞼の下から飛び出す三白眼は機知縦横を思わせ、その瞳が蝮の如き冷然とした印象を強めた。
一言で言えば黒。底知れず悍ましい、まるで奥底の深く暗い海に何か得体の知れない巨大で強大な化け物が潜んでいる様な、そんな例え難い幻惑的で圧倒的な恐怖を撒き散らして轟かせる。
何故誰もいない。態々、恐怖を撒き散らす必要の無いこんな部屋でそんな事をするか。
即ち此れが素なのだ。
そう、デフォ。
目を開けただけでもう好々爺から怖々爺になってる時点でもう変化レベル。ヤベー本性を隠してるあたりやってる事が妖怪。
完全に魑魅魍魎の類。
斎藤道三改め妖怪、印象変わりすぎジジイ怖々爺だ。
怖々爺は信長の大叔父織田玄蕃允秀敏と平手政秀の息子である監物久秀、信秀の養女となった側女。そして最後に信長に嫁いだ鷺山殿と嫁ぎ先で呼ばれる姫伝いに正徳寺での会談の申し込みをした。
これを信長は即座に受諾。その答えを受けた好々爺は茶を啜りながらポンと手を叩いて。
「あ、兵助。儂、超良い事思い付いちった」
悪戯小僧みたいに言いやがった。愛息が笑って幼い小姓達が無邪気に楽しみだと燥ぎだし、その声に好々爺が微笑ましげに笑いだす。
平和な孫とお爺ちゃんって絵面だが、うん。
怖いわぁ……。
会見当日、早めに到着した道三は正徳寺には居なかった。では何処にいるかと問われれば、それより尾張に近い村の空き家をニコニコと占領して信長の軍を見ようとして潜んでいたのだ。
「来ました爺様織田木瓜紋です」
「お、どれどれ」
兵助の声に道三は窓の柵から外を。そして息を飲んだ。大量の鉄砲と長槍、何より信長の周りに侍る勇猛にして統率の取れた馬廻に目を見張る。
「うわぁ大きい」
「大きい?おお、本当だ。アレだと愚息と同じくらいかそれ以上の身の丈があるかも知れんな」
巨大な体躯で巨大な青毛に乗り巨大な金砕棒を担ぐ武者が信長の側に付いていく。そして信長は太刀一本を腰に下げるだけで楽な湯帷子を纏い馬に乗って何かを食べていた。
警戒は怠らないが臣下と共に闊達な笑い声さえあげている。
余程の信頼関係が無ければ出来ぬ所業である。権謀術数、裏切りを繰り返して今の地位を得た怖々爺、いや斎藤山城守利政には余りにも眩しく余りにも遠い光景だった。
怖々爺の開いた瞼から覗く憧憬を孕んだ瞳。
「兵助、婿殿は稲葉の城下でさえうつけと呼ばれるが、如何思うかね?」
「……たわけです」
兵助は膨れて言う。急に負けん気を起こした小姓に道三は笑って。
「フフ、なら儂の子等はたわけの門前に馬を繋ぐ事になるかも知れないねぇ」
「んんー!」
ブンブン首を振る小さな家臣を撫でながら。
「フフフ剝れるな剝れるな」
信長の軍勢と家臣を見た好々爺は婿信長に大いに期待した。今まで捻り潰してきた敵の中でも特に心で繋がる主従は鬱陶しく粘り強い。加えてその家臣に優れた兵装を行き渡らせられるのならばその強さは推して知るべし、だ。
期待に胸膨らませ道三は正徳寺で信長と対面した。態々、大勢の家臣を連れて家中に流れる婿信長のうつけと言う評判を払拭し、婿の為なら斎藤家は此れくらいは出すと喧伝したのである。
「帰蝶が生まれた日、胡蝶の夢を見ましてなぁ。美しく儚い胡蝶の夢から帰った日に生まれた故に帰蝶と」
「成る程。その様な事が」
「お産は慌てましたなぁ、懐かしい。どうも好いた女のお産は落ち着かぬ。姉君の時も聡い家臣に良い加減慣れろと笑われましたな」
「なんと舅殿が。そういえば姉上も嫁いだ翌年に無事出産したと聞きます。経験豊富な舅殿に是非、外聞だけでも取り繕う程度の心構えを享受願えませんか?」
「経験せねば何とも言えませぬが男は無力、焦った所で何も出来ませぬ故に信じて待たれませ」
「困りました。待つのは如何にも苦手で御座います」
和やかに話す婿と舅。好々爺は扇子で掌をポンと叩いて。
「そうそう、婿殿はまだ若い。家中が騒然としており大変でしょう。良き家臣の噂は聞くが将は多ければ多いほど良いと思いませぬか?」
「土岐の将を雇えと?」
「然り、舅として老婆心も有るが何より死なせるには惜しい者がいる。土岐を見限りはしたが最後の忠にて儂には仕え無いと意地を通される者が。それでは儂や家臣の面子が立たんが、しかし儂の様な者でも忠臣は出来る限り殺したくないのでね。婿殿になら預けられる」
「感謝いたします。是非、引き受けましょう」
「それは有り難い。三左衛門殿、此方へ」
呼ばれて家臣団の中から進みでるは燻し銀。その言葉が先ず受ける印象だろう。
そう渋味のある漢、通った鼻筋に鋭い瞳と程よく焼けた肌に迸る古傷は見るからに強者の類ながら立ち振る舞いは理知的で落ち着きが有り頼りがいのあるものだ。身の丈の話では無い、大きな背中。
一本指が無い事などで彼の存在を貶める事は出来ない。何憚る事もなく唯そこにあるべきだと思わせる、そんな漢。
スゥと一礼して淀み無く舅の好々爺の横に座す。
「初めて御意を得る。某、森三左衛門可成。好みの女性は母性のある乳の大きな女!!……あ、あと知行は千貫希望」
……何を真面目な顔で言ってんすかね。
燻し銀、何処?
コレいわゆる就活中やぞ。
好々爺は腹を抱えて笑い、三左衛門可成は真面目な顔で返答を待ち、信長は完全にポカンとしてる。
信長はポツリ。
「分かるぅ」
そしてハッとした後に顔を赤くした。
舅は取り繕えず怖々爺となって笑い過ぎて腹を抑え痙攣しだし、三左衛門可成はだよねと言わんばかりウンウンと頷く。
もう収集付かねー。
その後、二刻の後、会談を終えた怖々爺は顔を顰めながら帰途に着いた。会談に同席しなかった家臣達は何事か気になりつつも、その形相に恐怖して問う事さえ出来ず、同席していた家臣は主君が笑い転げて体調を崩したとは言えずに凄い空気で帰る。
尚、何が如何なったか斎藤山城守利政が婿信長を揶揄おうとして一杯食わされ見直したと言う話が広がった。
「これで婿殿の助けになるかねぇ」
発生源は怖怖爺しか知らない。