社の周りで龍虎が踊る
ブクマ・ポイント・いいね有難う御座います。
今回はアレな文書とアレな地図があります。
それでも良いよって方は暇潰しにでも見てってくれれば幸いです。
「父上の書状に御座います」
そう言って武田大膳大輔勝頼に書状を差し出し頭を垂れる男は山県三郎兵衛尉昌景の嫡男たる将監昌満。見た目は醜男という程では無く体躯も中肉中背であり慇懃と言った雰囲気であるが父に似た顔立ちだった。武田大膳大輔勝頼は遺言状を受け取り丁寧にそれを開く。
【此度の一戦、討死致す所存に候、此れ本望と雖も懸案を残す由、口惜しく一筆残したく筆を取り候
御目汚しの程、厚顔の至りと雖も、老耄の妄言として御覧頂きたき由候
故依って此の老骨の懸念を言上奉れば三つ
一つ。飢饉の由候事
上杉征伐より後、我等切り取る地、既に無く候。雖も信州甲斐は飢饉大き事甚だしき地に候。故佐兵衛に申し付け尾州蕎麦がきの由、御下問頂き候上、先んじて食し由候事、一考願い奉り候。之以てして武士より田夫に至る悉く、折見て振る舞うて頂きたく候
両三蕎麦なる蕎麦切り、之用いて甲斐信濃、腹を満たす可く候、彼の少弐備前殿が創した物に候故、其の武勇肖るに良し等思い候
一つ。金山の由候事
田辺清衛門申して曰く件の由、大事に他ならず候。雖も馬一疋の諸役に於いては御寛恕願いたく候。鶏冠の社に於いては御正体を奉じ人夫を集め候。何の業も鍛錬と同じく断たれれば戻らず候
木金無尽蔵に在らず、戦之遠く失い候事条、相違無しと心得由候故、竜王川除場の業、黒山の業、之を請負う事、勘案致し候。引き換え駿河遠江水軍之を用いる可く、養父殿候を頼られる事、肝要と心得候
一つ。外政の由候事
一重二重、織田を主君の如く扱う可しと言上奉り候。凡そ情勢此れ不変と成候条、毛利の如くが良しと存じ候。夫婦鴛鴦の如く成す冪候条、返す返すも心得て頂きたく候
北条に於いては織田との仲介を成し、徳川に於いては織田北条を仲介と成すべきと存候
右の悉く耄碌の戯言に他ならず候事、一考願い奉り候
恐惶謹言
天正五年水無月十日
山県三郎兵衛尉昌景 血判】
武田大膳大輔勝頼は書状を持って閉眼閉口した。死ぬつもりの古豪が残す老婆心から成る忠言を咀嚼する。内外沈黙の後に長い溜息を漏らす。
「三郎兵衛尉は何と?」
主君に問うたのは馬場美濃守信春。望洋とした雰囲気も薄まる程に自ら死出の旅路に向かった戦友の意図を所望した。凡そ察せるが、だからこそ、だ。
「死にに行く積り故、三つほど記させて欲しいと」
「ほれは?」
「先ず息子の佐兵衛伝いに内藤殿の作った蕎麦がきを食えと。彼の武勇に肖り民にも振る舞ってやると良い、とな」
何人かが飢餓対策だと察した。そして同時に感嘆する。戦が減れば人は増える物だ。
その混乱を治めるには何はともあれ食い物がいる。政治とは変化に対する傷を如何に浅くするか。その地味で面倒な準備と対策こそが重要なのだ。
蕎麦は救荒作物である。育て易く特に水の少ない山がちな土地では常食しているが数段落ちる物。忌避感などは無いが其れを食べやすくするのは労力の割に効果が期待出来る。
武田大膳大輔勝頼の得る民心。要は好感度稼ぎにも最適だった。
「次に稼ぎの事、織田家との商いだな。船について交渉すべきだと書いてある。それも金山衆の業を教えてでもとな」
道理である。一角船や三国船の有益性は破格の物だ。江戸時代の話になるが弁財船の広がりを考えてみてほしい。んで弁財船どころかスクーナー擬とキャラヴェル擬とか言うまでもない。大型船という山国の者達が興味を抱き難い物。その呼び水。
勿論、上層部の特に駿河へ行った事のある者は分かっている。しかし人間は見た物でこそ物事を判断する物で船とは高額な物。甲州金という甲斐国の命脈を物差しとする事で重要性を解らせ全体を納得させる下地とした。
「最後に夫婦仲良くせよ、とな」
「違いありませんな」
最後に節介を持って来る茶目っ気に皆と共に一頻り笑うと、武田大膳大輔勝頼は立ち上がる。
「三郎兵衛尉の献身、無駄には出来ない。御旗楯無よ御笑覧あれ!!私は軍神を倒すぞ!!」
濃霧の中で若き猛虎が矢筒城にて号した。
「出陣!!」
諸将が応と答えて先鋒は武田刑部少輔信綱。先代武田家当主の武田徳栄軒信玄の弟である。信濃先鋒衆を引き連れて進む。馬場美濃守信春が続き合わせて三百程の兵力。長尾家の列に突撃する嚆矢としてこれ以上の物は無い。
八蛇川を渡河し鳥居川と滝沢川の合間、矢筒山城から四半里程の地、小玉神社で激突した。
奇しくも此れは双方が想定外の突発的な物。武田家は長尾家がもっと先に進んでいると考えていたし、上杉家は武田家が信濃の防御を考えて兵を割き追撃は遅い物と考えていた。結果あの濃霧の中で戦った川中島は八幡原の激戦を想起させる物となる。それでも最初に敵を発見したのは武田側。
「見敵必殺!!風林火山、陰雷霆!!我等之より激しき雷と成らん!!」
武田刑部少輔信綱は敢えて大声を張り上げてみせた。
「この徳栄軒に続けェエエエエエ!!!!!」
兄の着ていた地味な甲冑に瓜二つの様相で。
「し、信玄入道オオオオオオオオオ!!!?」
結果スゴい事になった。長尾家の武田徳栄軒信玄を知ってる者が丁度居ちゃったからである。ある意味最も超常的で神秘的な主君がいたんで。まぁ、うん何とも珍妙な事に。
「よ、黄泉の国から帰ってきおったァ!!!」
そう信心深い。とでも言おうか。割とマジで絶叫。
当時、八幡原にて本陣奇襲を敢行した父と同世代の誰かが発したメチャクチャ嫌そうな叫びに柿崎大和守晴家がカッと目を見開き。
「な、訳あるかああああああああ!!!!!」
あ、うんそりゃね?そうだよね。うん。的な空気がアレな物言いになるが柿崎大和守晴家のツッコミによって沈静化はした。まぁ何でやねん的な状況である。
そう沈静化はした。したが、しかし一瞬である。名人同士の戦いにおける一瞬、その大きさは激烈な物。
「今だ!!押せ!!!」
武田刑部少輔信綱が叫べばほぼ同時に柿崎大和守晴家が冷や汗と共に。
「い、いかん!!」
柿崎大和守晴家の父であればまた状況は変わったかもしれない。おそらくは拙速になろうとも逆撃を与え拮抗して見せただろう。だが一瞬の隙を武田刑部少輔信綱に的確且つ迅速に突かれた事で体制を崩された。
戦闘音で柿崎隊の窮地に気がついた上杉軍は即座に動く。位置関係的に黒川備前守清実が向かうが馬場美濃守信春によって粉砕されてしまう。
更に春日弾正忠虎綱、原隼人佐昌胤が続けば対して直江大和守景綱、千坂対馬守景親が応ずる。更に武田上杉の両軍が雪崩を打って味方の横に並んでいく。凡そ五町半の川間は瞬く間に、それも流れる様に戦場と化した。
「何?!」
矢筒城で自身の出陣を待っていた武田大膳大輔勝頼は驚愕する。敵との衝突は越後領内になると考えていたのだ。しかして此の男は勝三の記憶において武田家の最大版図を築いた男。
「即座に出る!!」
故に必要な事は分かる。現状は双方が突発的な衝突から兵の逐次投入を行わざるをえない状況だ。であればそこに大兵力を持って行くだけで十二分に優勢を引き寄せる一手足り得た。前線の後詰に良し一塊として敵を突破するも良し。優れた戦術眼である。
「此処は如何致しますかな?」
しかし少々、憮然。そんな問いを発した男へ諸将が視線を向ける。その先には河窪兵庫介信美。異母叔父に当たる人物だった。
彼は牢人衆と呼ばれる他国より流れてきた一定以上の立場だった者達を編成した部隊を麾下に置いている。
他国の者という事で良くも悪くも扱いは慎重を期する物で内外の耳目がある理由から使い難く後方の備えとなる事が多かった。
要はまた後方待機?嫌なんですけど。的な半ば問いただす様な物。あー手柄ほしーなーっていう不満表明。
「願わくば先陣を賜りたえ」
越後弁で言ったのは牢人衆三頭の一人たる五味与惣兵衛高重。生来の上昇思考に加え故郷を目前にし餓狼の様な危ない目をしていた。非常に軽装で鉄錆腹当と兜を纏い奪ったのだろう青漆塗りの筒籠手と脛当てに手足を通していた。
「左様、身体が鈍りますりゃあ」
遠江弁で言ったのは牢人衆三頭の一人たる飯尾弥四右衛門助友。彼は比較的冷静で何処か淡々とはしていたが報恩という熱意がある。遠江に領地を与えられ統一感のある先祖代々の大鎧に身を包んでいた。
「押し通すべき無理もあるべー」
上州弁で言ったのは牢人衆三頭最後の一人たる縄無理助宗安。戦争で己の価値を知らしめる以外無関心故に戦いの場へ期待していた。
何ともチグハグに奪った鉄錆六十間筋兜を被り、奪った紺糸威桶側胴を着て、奪った刷毛目塗り篠籠手に腕を通し、奪った白地に黒小札の板佩楯をと奪った赤漆塗り筒臑当を付ける。そしてそれらを覆い隠す様に縄で出来た陣羽織を纏っていた。
……マジで縄。遠目にはアレ。しめ縄で縛った草履を着てる様にさえ見える。重いが衝撃吸収には良いが絵面が、まぁ、悪いよね。悪い意味で目立つよね。
武田大膳大輔勝頼は少し考えてから。
「……なら、一番手柄を頼めるか?」
そう言った。
濃霧が薄くなっていく。小玉神社の周りの山と鳥居川と滝沢川で作られた三角形の平地の戦況が見えてくる。武田上杉両軍の激戦が。
「前へ!!前へ!!」
何処彼処に其処彼処、武田上杉の将軍兵士。
入り乱れて唯叫び、只叫び、ただただ叫ぶ。
刀槍剣戟が、砲が口が絶叫して吼えている。
蠢く猛将、知将、勇将に精兵、強兵、弱兵。
色取り取り甲冑飾り馬印の中で煌めく剣光。
「何という戦か」
矢筒城から出て濃霧が薄まるにつれ視界が広がる。八蛇川沿いに進み小さな丘の上に登った武田大膳大輔勝頼は呟いた。それ程の泥臭くも激烈な大乱戦で在り故にこそ。
「美濃守、岡部殿は街道を塞いでくれ!!後の者は続けェッ!!」
若き虎は即決した。戦線の補強、そして迂回側面攻撃である。呼ばれた馬場美濃守信春が一礼して即座、岡部丹羽守元信が体型の割に機敏に続く。そして残りの者たちが武田大膳大輔勝頼に続いた。
ーー北ーー
ー西4東ー
ーー南ーー
ーー↑(抜け道)ーーーーーー↑(北国街道)ー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
山山ー◯山山山山山山山山山山◯山山山山山
山山◯◯山山山山山山山山山ー◯山山山山山
山◯ーー山山山山山山山山山ー◯ー山山山山
山◯ー山山山山山山山山山ーー◯ーー山山ー
山◯ー山山山山山山山山山XXー◯ー山◯◯
山◯ー山山山山山ーーーーーーXー◯ーー◯
◯ーー山山山山ーーーーー山◆ーーー◯◯ー
ーーー山ーーーーーーーX山山ーーーーーー
山山ーーー山山ーXXXーーーーーーーーー
ー山山山山山山山ーーーーーー凸ー◯◯◯◯
ーーーーーー山山ー◯◯◯◯◯ー◯ーー山◇
◯ーーーーーーー◯ーーーー◯◯◯ーー山山
ー◯◯ーーーー◯ーーーー◯ーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
X交戦地点・◆小玉神社・◇矢筒城・凸勝頼
川と山の合間に広がる三角。小高い小玉神社を中央として左右の両翼を閉じる。武田家とも関わりのある諏訪大社上社の建御名方神を祀る社。如何に軍神の軍勢とは言え物理的に倒せない。故に南部の圧迫の増加。
北国街道は塞いだ。後は抜道を塞ぐ。敵を窮鼠にして最後。道を作ってやれば良い。希望輝く必殺の殺し間を。
故に西に向かって川に沿い進み、突き上げる様に北へ向けて疾駆する。
「突撃!!!!!」
虎である。武田とは虎なのだ。その新たなる若虎、諏訪四郎だった男、武田の大将は今、己を翼にしていた。父と互角に渡り合った老龍を倒す為に。
猛虎の群れが雪崩れ込む。
「こいつぁイカン……」
五七桐の軍旗の下で唸る様な濁声。底籠る地割れの様な、また同時に遠雷の様な小さくも響く声。上杉家臣の桃井伊豆守義孝だった。
場当たり的な対応が必要となった時点で小国刑部少輔重頼、大熊備前守朝秀の背後で後詰として控えていた。薄まる霧に目を凝らしていたが武田家の突撃を山際高所の馬上より視認したのである。
「武田ん小倅、武運は十二分か。助けるにも側面を突くにも難しい位置に入りよる。こりゃあ覚悟がいるのう」
桃井伊豆守義孝は一呼吸入れる代わりに状況にそぐわず悠長に言う。だがそれは一番マシな配置をする為に必要な時間と同じだった。
「良し、形を崩さず続けい!!」
それはゆっくりだった。だが槍持ち楯持ちを先頭にして鉄砲衆、弓衆、騎馬と並べたままの機動。百々の詰まり戦闘隊形のまま位置を変えてみせた。
南西に半町の距離を斜傾機動で前進である。現代的なアレになるがマーチングバンドみてぇな動きだった。いや、最近のマーチングバンド超ヤベェからちょっと微妙に感じるかもしれないが馬もいる。
重量の違う楽器を演奏しながら歩幅を合わせるのはエグい。だがそもそも歩幅どころか足の数が違う別生物が歩幅を合わせるのだ。コレもコレで超ヤベェ。
「槍衾ァッ構えい!!」
桃井伊豆守義孝が号令を下せば槍持ち始め備が構える。其れと同時に小国刑部少輔重頼、大熊備前守朝秀の備が崩壊した。彼等が弱いのではない。
「若虎がやりおるわ」
桃井伊豆守義孝が長く太い柄を握る。その先端を見れば大鉞。厚みのある黒い斧頭から直角に銀の刃が映える。
馬の首諸共に鎧武者を叩き切った事もあると言う伝来の重量武器。普段は思いっきり薪割りに使ってる手に馴染む得物。直江大和守景綱の三国志話を息子伝いに聞いて納屋から引っ張り出したもの。
「越後の徐晃、か……フフ」
ちょっと期待を込めてボソッと桃井伊豆守義孝が言う。四十を越えようが人の憧れは忘れられない物だ。後ろ向きな戦いだからと己も後ろを向く必要はない。
「さぁて」
武田家の突進が迫っている。馬蹄と和声は目前に。諏訪法性兜が先陣を切っていた。
「良い大将ではないか!!」
敢えて言おう。無粋にも敢えて言おう。武田家総領はアホだ。何処の世に此の状況で当主が先頭を進むのか。だが故にこそ誰にも止めようがない突破力を武田家は発揮していた。
己の身諸共の乾坤一擲を否定出来る武士は少ない。武を尊び武によって繁栄したのが武士なのだから身を以て武を振るうのはある種の原風景。冷静な部分で苦笑いを浮かべても効果が出ていれば評価はする。
敵も味方も相違なく。
武田大膳大輔勝頼は冷静に算盤を引く。織田家の優位は揺るがない。朝廷を抑え大軍を有し将軍を無意味にした武家。実質的にその下に着く懸念だ。徳川家である。
父の頃からの因縁。確かに武田家が事前の取り決めを破ったのが最初だが応報として潰そうとして来たのは過剰である。故に良い関係とは言えず徳川家より織田家の好感度が高い事が望ましい。幸い織田家とは相互の婚姻関係ではあるが、もう一押しとして対上杉家の戦いで戦功を欲していた。
「アレなるは桃井ぞ!!!」
武田大膳大輔勝頼が次の敵に声を張る。馬足を上げて土屋惣蔵昌恒と麾下部隊が敢然と前に出た。ゴ、と迫る斧を避けて馬体諸共に押し付けて敵を拘束。
更にである。備が二つばかり続き、さしもの桃井伊豆守義孝も封鎖。どころか時間稼ぎさえ出来なくなった。
これによって武田家の前進、上杉軍包囲が完成する。小玉神社を中心に上杉軍数千の包囲だ。敵を決死とさせない僅かばかりの逃げ道は山の中で後は突破されない様に締め殺す。
「やるねっか、若虎は。まぁこげんぐれはしてくれんば張り合いがねぇ《ない》。なぁ?」
「正に、信玄入道の種で御座いますなぁ。何とも怖や怖や。ゲッホッゴッホオエエエエ!!」
「……大和守。本当、けえって安静にしておけって。立ってるのも辛いだろうに」
「この存亡の時では気も休まりませんでな。見えもせぬ事に悩むよりは此処に居る方が身体に良い。邪魔とは思いますが御容赦下され」
軍神は大きく息を吐いた。龍の息吹にも錯覚する一息。
「……ほせば行くか大和守。供してくれ」
越中国新川郡仏生寺城で信長は勝三の手紙を読んでいた。信長の息子の事に三枚、勝三の息子の事に二枚、全体的な戦況に一枚。凄い枚数である。
「奇妙は良くやっている様だな」
そして最後に勝三が墨だけで書いた越中戦役御右大将陣中鎧御姿と命題された一枚の絵、織田右近衛大将信忠が中央で床几にドッシリ腰掛け側近達が周りに立っている絵である。
絵柄としては非常に精巧で写実的だった。
「ほんと押せ路以外は何でも出来るな……」
続いて柴田修理亮勝家の手紙。
「良し良し確り築城に精を出しているか。だが問題は無いにせよ此方に逃げた連中が見つからんな。此方でも見つからんし越後の鬼神は何処にいるやら」
敵にとり唯一の退路と言うべき魚津城が取れているのだ。残存兵は適当に城でも建てて包囲し放置すれば良い。そうすれば上杉家は魚津城攻略に出なければならないのだから。
これが織田右近衛大将信忠が敵船の有無を確認して父に提言した事であった。それは織田家首脳部も十二分に頷ける様な当然の答えである。要は逃げたんなら面子を盾に引き摺り出すし来ないなら上杉家の終わり。
要はそれだけである。それだけの事だが、故に十全に金をかけ、十全に兵を置き、十全に備えて居た。侮りも慢心も無い。
既に江馬常陸介輝盛は斉藤新五郎利治と姉小路侍従頼綱が降しており、武田上杉両属から織田武田両属状態に変更中である。
「後は越後に帰った軍神の動き次第だな」
信長はそう言って軽く伸びをすると政務処理を始めた。勝三が寄越した活版印刷で刷った文書に必要事項を記入していく。これは越中飛騨の各所に出す触書で安定処理の類だ。
信長は手馴れたようにサラサラと書く。書いて顔上げたら森乱がいた。ちょっとビクってなりかける。
マジで無音だった。
「……どうした?」
「相国様、武田家より市川殿が至急目通り願たいと参られております」
「来てるのか?分かった。通せ」
市川十郎右衛門宗三は武田家が織田家にちょくちょく送って来る取次だ。常は御伽衆であるが時折こうして使者として織田家に訪れていた。尚、彼が来る場合は武田家の切羽詰まった状況、即ち早く会って欲しい合図であることが多い。
信長は何事かと腹を据えて待つ。そして同時に上杉家の行方が多少分かり納得した。武田家の侵攻を食い止めに一度越後に戻るという荒技をしたのだろうと。それはまぁ出来はするが無茶苦茶である。感嘆を覚えるもそれは呆れに近かった。
やるしか無いのは分かるけどマジでやったんかい的な。だが、そんな何処か気楽な思考は叩き切られる事となる。入室した市川十郎右衛門宗三の雰囲気が叩き切った。
「どうなされた」
信長は思わず問えば市川十郎右衛門宗三は信長の好みなどでは無く状況故に端的に答えた。
「我等は信濃を抑え申した。しかし大膳大輔様が手傷を負わされ目を覚まさぬ次第で御座います。金創医が曰く命に別状は無いとの事では御座いますが……」
一気呵成に現状を伝えた市川十郎右衛門宗三は弱りきった様で。
「恥ずかしながら未だに信州に残った上杉の手勢が暴れており、何より上杉に水内郡にて船と田畑を焼かれ申した。物資兵糧の輸送等を鑑みれば有体に申しまして御約束の助攻は難しい。その御容赦と御詫びに参った次第で御座います」
織田掃部忠寛の息子が書状を出す。そして父と共に備に確認した信濃の状況と武田大膳大輔勝頼の病状を伝えた。現代的に言えば過労と骨折である。
「であれば一先ず命に別状は無いか」
信長は一先ずホッとした。武田家が今崩れると織田家の戦略も崩れる。それに個人的に嫌いでは無い。そんな声に市川十郎右衛門宗三は頷き。
「生地黄を患部に付けて添木をしておりますが馬にも乗れず面目次第も無いと」
「であれば黒大豆と猪膏、それと鬼柳を送らせよう。それと此方で俵物も幾つか見繕わせて貰うか。御安静にと伝えてくれ」
「忝う御座います。また大膳大輔様に代わりまして御礼申し上げまする。御言葉も必ずや」
そう言いながら市川十郎右衛門宗三は驚く。外交であるのだから叱責が飛ぶとは思っていなかった。だが当然の事として何某かの譲歩を求められるとは考えていたのだ。
その代案というか誠意というか提案も持って来てはいたのである。というか逆に譲歩を迫られる前に此方からその提案をしてしまう事にした。つーか武田家と織田家の仲を深化させにゃならんのだ。
って事で。
「とは言え此れで何も無しとなれば武門の名折れ。故に少数ですが援軍を送りたいと考えております」
要は武田家として遠征する余裕は無いが武田軍としてなら何とか派遣できるという話であった。信長的には信濃を武田家が抑えてくれればなんでも良かった感じである。越後遠征まではあわよくば程度の話だったが誠意と言う名の面子を無縁には出来ない。
信長さして気にした風でも無く頷き。
「そうだな。折角だ。お願いしよう」
そう答えた。
信長は世間話兼情報収集として市川十郎右衛門宗三に上杉家との戦いを聞き労をねぎらって見送った。
「……さて、後は敵が如何出るかだな」
そう言って信長は前線の築城状況を書き込んだ地図を眺めた。松倉城を覆いそこに至るまでの城々を整えた陣営図。それは奇しくも勝三の知る長篠の戦いより悍ましい物だった。