終章
「ここに居られましたか。兄上」
相州小田原城の天守に登ってきた氏照は、廻縁に立ち、遠くを見詰める氏政に声をかけた。
「源三か」
氏政は振り向きもせず呟くように、氏照を仮名で呼んだ。引き寄せられるように氏政の右横に並び立った氏照は、高欄に手をかけ、城壁の向こうに広がる小田原の海に目を向けた。
夏の強い日差しを受け光輝く海面の先に、水平線が遮るように横たわっている。それより少し淡い色彩の夏空が、覆い被さるように迫って来る。
その強い射光に目を細めながら、二人はしばらくの間、海を見詰めて黙していた。
「ご隠居様」
先程まで誰もいなかった暗がりに、兵士姿の男が畏まっている。だがその聞き覚えのある声に、氏政は振り返ることなく応えた。
「如何した、平次郎」
平次郎と呼ばれるこの男は、元々は北条家に仕える風魔一党の忍びであったが、氏政の隠居に伴い風魔衆を抜け、今は氏政に直に仕え、氏政の目や耳となっているのであった。
平次郎は氏照の様子を伺いながら、声を落として言った。
「一時程前、武州小河内において、八王子城代横地監物様がお腹を召されました」
「左様か」
振り向きもせず応えた氏政の横で、氏照は海を見詰めたまま黙していた。
八王子城を落ち延びた後、檜原城に籠った吉信は城主である平山伊賀守氏重と共に戦った。だが奮闘空しく一日にして檜原城は落城し、再び城を落ち延びた吉信は小河内村へと逃げ延びたが、これ以上逃げられぬと悟るとその場で腹を切った。
これで八王子城の戦いは決したのであった。
黙したまま、ただ潮風に陣羽織を揺らしている氏照に、平次郎は改めて声をかけた。
「武州様」
「何じゃ?」
「監物様より言付けを預かっております」
「申してみよ」
「『儂の出来得ることは全て為したと存じます故、隠居をお許しくだされ』との事に御座いました」
「左様か」
呟くように応えた氏照は、振り向きもせず平次郎に問うた。
「亡骸は如何した?」
「村の者に銭を握らせ、丁重に葬るよう申し伝えました」
「それは重畳」
呟くように吐き捨てると、氏照は海を見詰めたまま黙した。その心を察している氏政と平次郎は、静かに氏照の次の言葉を待った。
重苦しい空気に包まれた天守を気遣いなく通り抜ける爽やかな海風に、氏照の心の楔が少しずつ緩んでゆく。小さく溜め息をついた氏照は、ゆっくりと氏政に顔を向けた。
「兄上、平次郎をお借りできませぬか?」
重い口を開いた氏照に氏政は応えた。
「構わぬぞ」
許しを得た氏照は氏政に頭を下げると、平次郎に向き直って言った。
「されば平次郎、一つ頼みがある」
「何なりと」
「小河内に取って返し、監物の墓前において申し伝えよ」
「何とお伝え致しましょうか?」
平次郎の問いに、少しだけ表情を緩めて氏照は応えた。
「隠居は許さぬと」
「許さぬ・・・で御座いますか」
命を賭して忠義を貫いた吉信を、氏照は許すであろうと思っていた平次郎は、その想定外な言付けに困惑し、氏政に目で問いかけた。ゆっくりと頷く氏政に小さく頷いた平次郎は、改めて氏照に目を向けた。
「承知致しました。では」
そう告げた平次郎が一礼すると、一陣の風と共に音もなく姿を消した。
その見事な忍の業に、しばらく平次郎の居た場所を見詰めていた氏政は、同じように暗がりを見詰める氏照に向き直ると、その疑問を率直に問うた。
「源三よ。そなたは何故、忠を貫き散っていった監物の願いを許さぬのじゃ?」
心を落ち着けるように鼻で大きく息を吸い込み、一つ息を吐いた氏照は、不思議そうな顔を見せる氏政に応えた。
「監物は己の名を汚してまで時を稼ぎました。これは一国一城を授かる程の功に御座います。されど数日後に腹を切る儂にはそれに報いてやることができませぬ。故に監物には、我が家臣のまま次の世へと共に参り、そこで今生の功に報いてやる所存に御座います」
「そなたらしいわ」
氏政が呟くように言った。
唇を震わせていた氏照は、少しだけ笑みを浮かべると再び海を見詰めた。
黙したまま海上を舞う海鳥達の姿を目で追う氏照は、水平線の先に広がる淡青色の空に皆の面影を浮かべた。
(監物、一庵、勘解由、信濃、佐衛門尉、与三郎、左京亮、皆、良うやってくれたわ。その上、出羽殿を始め、領民達の助力には心より感謝しておる。さらには・・・)
目に光るものを浮かべながら、氏照は思わずその名を口にした。
「比佐」
そう口走った氏照は、己の失態に気付き慌てて氏政に目を向けた。だが氏政は聞こえていない様子で海を見詰めている。
それは最愛の室を失い、その死に目に会えなかった氏政にとって、今、同じ憂き目にあっている氏照に向けた氏政の優しさであった。
氏政の様子に安堵した氏照は、次の瞬間、全てを吹っ切ったかの如く、瞳に強い光を湛えて氏政に向き直った。
「兄上、われらも為すべきことを為しましょうぞ」
氏照の言葉に氏政は薄笑いを浮かべて応えた。
「比佐殿に尻を叩かれたか」
「なっ、何故それを?」
氏照は驚いて目を丸くした。
比佐の名を呟いたことで、氏照は現実へと戻ることが出来た。それはおそらく比佐の思いによるものと氏照は感じていた。だがその呟きを聞いていない筈の氏政もそれを感じていることに、氏照は驚きを隠せなかったのであった。
まるで固まったかの如く、驚きと薄笑いを浮かべたままの二人は、一瞬の沈黙の後、押し殺していた笑いを抑えきれなくなったかのように声を上げて笑った。
久方ぶりに兄弟の顔となった二人は、高欄に互いの片肘を付きながら向き合った。
「お聞きになられたのですか?」
恥ずかしそうに問うた氏照に、氏政は笑みを浮かべたまま応えた。
「否、左様な気がしただけじゃ」
「左様に御座いますか」
氏照は小さく溜め息をつくと、目尻を落とした。
兄が白を切っていることなど、弟である氏照には手に取るように分かっていた。だが数日後、共に腹を切る兄弟にとっては、どうでもよいことなのである。
同じことを思っていた氏政は、何もなかったかのように口を開いた。
「されど為すべきこととは、如何にもそなたらしいのう」
氏政の言葉に氏照は薄笑いを浮かべた。
「幼き折の兄上の口癖に御座いますよ」
「左様であったかのう」
氏政は顎を擦りながら、再び海に目を向けた。そんな兄とのやり取りに懐かしさを感じながら、氏照もまた海に目を向けた。
小田原の海は、数日後に冥土へと旅立つこの兄弟に、そしてその後、この関八州を治める者にも、平等にその風景を覗かせている。それがこの海の為すべきことなのであろうと、この兄弟は感じているのであった。
「良い海じゃ」
「真に御座いますな」
そう言うと二人はそれ以上言葉を交わすこともなく、いつまでも海を見詰めていた。まるで眼前に広がる全てのものを、五感の記憶として全身に刻み込むかのように。