為すべきこと
乳白色の深い霧に包まれた八王子城には、己の恐怖を払拭しようと吐き出す敵兵の喚声と、大手門の門扉を破ろうとして打ちつける丸太の衝突音が響き渡っている。
大手側の北国勢は、大手門より大手道を御主殿に向け攻め上がろうとする本隊と、出丸から各曲輪を制圧しながら御主殿に向かう別動隊、そして登城門より梅の木谷の尾根上を攻め上がる右翼隊に分かれている。それは正に照基の見立てのとおりであった。
「大手門が破られても、大手道に至りては左衛門尉殿が横矢掛りで応戦しよう。また登城門から先には左京亮殿が居る。我らは出丸に張り付く者共を殲滅致す」
そう命じた綱秀は、急ぎ出丸に兵を率いると、這い上がろうとする敵兵に岩や丸太を落とし、矢や鉄砲を射ちかけた。別動隊はその攻撃に難儀したのか一瞬、攻撃の手を止め待機した。だがそれは攻め倦んでいるのではなく、大手門の破壊を待っているだけのことであった。
しばらくして大手門が破られると、それに同期して開始された新たな攻撃に、出丸を守る榎本衆は圧された。
「如何に大群なれど、敵は烏合の衆じゃ。押せ、押せ!」
綱秀の叫びに奮起した榎本衆は、最後の力を振り絞って踏み止まった。
「殿」
混乱の中、注進の兵が綱秀に声をかけた。
「如何した」
「近藤曲輪の南側より、敵兵襲来!」
「承知した」
そう吐き捨てると綱秀は、側近の兵に向け叫んだ。
「近藤曲輪まで戻る。退き鐘を鳴らせ!」
「はっ」
側近の兵が走り去ると、時を待たずに退き鐘が鳴り響いた。統率が取れている榎本衆は、潮が引くように出丸から退くと、近藤曲輪で隊列を整えた。だが出丸のある東側と、すでに敵の流入を許した南側の二方向から侵攻されては、寡兵である近藤曲輪の守兵に勝ち目はない。舌打ちをした綱秀は改めて軍令を下した。
「近藤曲輪と山下曲輪を諦め、あんだ曲輪まで兵を退く」
「お待ちくだされ、殿」
綱秀の側に控える家臣が思わず声を上げた。
「何事じゃ」
「ここは殿の御名を命名した曲輪に御座います。我らはこの近藤曲輪を死守致しとう御座います」
他の家臣達も大きく頷いた。だが綱秀は首を振って応えた。
「我らの為すべきことは、この城を守ることじゃ」
「さっ、されど・・・」
得心のいかない家臣達に、綱秀は笑みを浮かべて言った。
「陸奥守様を始め、八王子衆よりお受けした厚恩は、我らの命だけではお返しできぬ程じゃ。それに報いるが我らの本意、我が名に固執致しておっては天道に背くこととなるわ」
綱秀の言葉に家臣達は表情を緩めた。
「ご無礼致しました。されば殿、我らはあんだ曲輪まで退きまする」
「うむ、急ぎ参ろうぞ」
「はっ」
家臣達は各隊に戻り、各々の隊に命を告げると、一気に兵が退き始めた。綱秀はその動きを確認すると、側近の者達と共にあんだ曲輪へと退いた。
「御主殿曲輪を背に陣を引け」
綱秀の命に従い、兵士達が整然と西側の縁、御主殿曲輪との境に陣を敷くと、綱秀は声を上げた。
「良いか皆の者、御主殿曲輪は陸奥守様の居邸であり、奥方様の籠りし曲輪じゃ。ここを死守せずして厚恩に報いるは叶わぬ」
綱秀の言葉に皆が大きく頷いた。その姿に榎本衆が皆、同じ思いを抱いていることを改めて確信した綱秀は、瞳に熱いものを感じながら続けた。
「我らにとってこれが最後の戦いじゃ。悔いのなき戦を致そうぞ」
「はっ」
覚悟を決めた表情で刀槍を構えた家臣達は、その身に緊張を漂わしながら敵の来襲を待った。
しばらくして数倍に膨れ上がった敵が、あんだ曲輪に流入してきた。綱秀は己の刀を抜き放ち、表情を引き締めて叫んだ。
「皆の者、参る!」
「応!」
綱秀と家臣達は敵に向かって走り出すと、曲輪に到達した敵兵の中に飛び込んでいった。
「六助、何処じゃ」
まるで虫を払うかの如く敵兵を槍で蹴散らしながら、敵味方入り乱れる太鼓曲輪の中、綱景は六助を探していた。
大手道を進軍する敵本隊に横矢掛りを仕掛けようと、太鼓曲輪の北側に陣取っていた綱景の部隊は、横矢掛りを阻止しようと東から先に侵攻してきた右翼隊と激突した。弓組や鉄砲組を北側に残し、農民を含めた槍組だけで迎え撃った綱景は、その混乱の中、六助と離れてしまったのであった。
「善九郎、ここじゃ」
槍を振り回す綱景の背後から、六助の声が聞こえた。綱景は目の前の敵兵を叩きのめし、振り返ろうとした瞬間、仰向けに飛ぶ六助が足元に転がった。
「大事ないか、六助」
綱景は驚き、六助に声をかけた。
「くっ、大事ない案ずるな」
腰を擦りながら立ち上がった六助は、綱景の背後に向けて槍を構えた。
「おぉ、百姓の先に大将首とは祝着祝着」
野太い声の先に目を向けると、身の丈六尺を越える巨漢の雑兵が、槍を肩に乗せ薄笑いを浮かべて立っていた。その姿から戦場を渡り歩く賞金稼ぎであることに気付いた綱景は、六助に並ぶように槍を構えた。
「百姓首は銭にならぬが、邪魔立て致すのであらば致し方ない。二人纏めて冥土へ送ってやるわ」
巨漢の雑兵は槍を頭上で一旋させると、穂先を綱景に向けて腰を落とした。
武士であり幾度もの戦に参じた経験を持つ綱景は、雑兵の隙がなく力強い構えからこの者がかなりの強者で戦慣れした剛の者であることを感じ取り、己の力量では太刀打ち出来ぬのではと案じ、一瞬、心を乱した。だが農民であり戦経験のない六助にとってはその力量を測ることなど出来る筈もなく、無謀にも果敢に槍を構えている。その姿に綱景は、心に浮かんでいた迷いが一気に消え去るのを感じた。
幼い頃から何事にも慎重となる綱景は、心に迷いが生じた折、剛胆な気質を持ち思い切りの強い六助の言動や行動に背を押され、それを払拭することができた。それはまるで弟を後押しする兄と、兄の思いに報いようとする弟のようであった。
今、戦場という異常な空間において、些かも恐怖心も見せず槍を構える六助の姿に、綱景は武士である己が迷っていられぬことを覚り、改めて槍を持つ手を絞った。
三人は互いに間合いを計りながら、相手の出方を伺っている。だが経験に大きく左右される命のやり取りは、幾つもの戦場を渡り歩いてきた巨漢の雑兵が一枚も二枚も上手であった。
巨漢の雑兵は綱景達が踏み込んでくるようあえて隙を見せると、それに乗せられた六助が思わず槍を突き出した。
この瞬間を待っていた巨漢の雑兵は己の槍で絡めるように六助の槍を弾くと、その反動で槍を握る六助の両手が頭上へと持ち上がり、六助の腹部はまるで槍の刺突を待つかのように無防備となった。
(抜かった)
死を意識した六助に、薄笑いを浮かべた巨漢の雑兵が穂先を向け踏み込もうとした瞬間、綱景は右横から巨漢の雑兵の顔に向けて槍を繰り出した。
目の端で光るものを感じた巨漢の雑兵は、身をよじって刺突を避けると悔しそうな表情で呟いた。
「こしゃくな真似を致す」
頭上で槍を旋回させ構え直した巨漢の雑兵に、綱景と六助は再び槍を構えて対峙した。
少しずつ間合いを縮める巨漢の雑兵は、今度は己から六助に鋭い刺突を繰り出した。それを避けようととした六助は、あまりの鋭い突きに足を取られ、つい尻餅をついてしまった。
「六助!」
思わず声を上げた綱景は、六助を助けようと一歩前に足を出した。
「してやったり」
巨漢の雑兵は六助には目もくれず、間合いの詰まった綱景に襲いかかった。
だが槍を引いてから突くのでは間に合わないと判断した巨漢の雑兵は、突き出した槍をそのまま横に薙いだ。予想だにしない攻撃に、綱景は横腹に槍を受け三間程先に吹っ飛んだ。
巨漢の雑兵の剛力は凄まじく、鎧の上からとはいえ、叩かれた綱景の横腹は悲鳴を上げている。痛みを堪えて起き上がろうとした綱景の瞳に、輝きを放つ巨漢の雑兵の槍の穂先が映った。
(殺られた)
綱景が諦めようとした瞬間、何かが目の前を横切った。何が起こったのか解らぬまま、横切ったものに目を向けた綱景は思わず叫んだ。
「六助!」
そこには巨漢の雑兵の槍を右の腿に受けた六助の姿があった。
「百姓風情が」
巨漢の雑兵は腹立たしげに声を荒げると、己の槍を抜こうとした。だが六助はその剛力に負けまいと槍の刺さった右腿に力を込め、さらに刺し込むように両手で支えている。その尋常ではない痛みに耐えながら六助は叫んだ。
「善九郎っ、うっ、打て」
槍から六助を外そうと躍起になっている巨漢の雑兵は、咆哮を上げ力任せに槍を持ち上げた。その剛力に六助の尻が浮いた。
「くっ、早う!」
六助は目を瞑って痛みに耐えながら、唸るように叫んだ。次の瞬間、六助の尻が地に降りた。ゆっくりと目を開けると、動きの止まった巨漢の雑兵の首に綱景の槍が刺さっている。六助の全身から力が抜けると、巨漢の雑兵はそのまま仰向けに倒れた。
「六助」
駆け寄る綱景に六助は力なく応えた。
「善九郎。そなたと共に戦えて満足じゃ」
「儂もじゃ。六助」
「じゃが・・・少し疲れた」
綱景は六助の肩に手を置いた。
「あとは任せておれ」
そう言って立ち上がった綱景に、六助が囁くように言った。
「善九郎、共に・・・参ろうな」
「あぁ」
そう応えた綱景は槍を拾い上げると、敵味方が入り乱れる戦場にゆっくりと歩き出した。その表情からいつもの優しさは消え失せ、青白い炎を湛えているかの如き鋭い瞳が光を発した。
空が白み始めた虎の刻、未だ漂う乳白色の霧が立ち込める金子曲輪の北側で、家重達は南より襲い来る敵の気配を探っている。
「来たか?」
「些か遠く御座います」
家重の問いに年老いた猟師は、敵が居るであろう方角を見詰めながら応えた。
霧にむせぶ金子曲輪に到達した敵兵は、その霧に阻まれ家重達の姿を見ることが出来ず手探りで進んで来る。それに対し気配で獲物を探り当てる業を持つ猟師達を率いる家重は、敵兵の位置や距離をすでに認識していた。家重はこの霧を利用して、弓や鉄砲による奇襲を仕掛けることで、敵を混乱させようと考えたのだった。
「あと如何程じゃ?」
「三間程ですな」
確実に敵を射抜く為には、射手からの距離を一町以内にする必要がある。霧に阻まれゆっくりと進軍する敵兵がその射程に入るのを、家重達は弓と鉄砲を構え、息を潜めて待っていた。
「まだか?」
待ちきれない家重が、苛立ちを露にして問うた。
「あと二間に御座います」
「鈍間な連中じゃ」
愚痴を吐く家重を制するかの如く右手を上げた年老いた猟師に、皆の気が集中した。
年老いた猟師は、呟くように敵の気配を告げた。
「残り一間半・・・一間・・・半間・・・今じゃ」
次の瞬間、家重が叫んだ。
「放て!」
その声を合図に鉄砲の轟音と、飛翔する矢の風切音が、金子曲輪に響き渡った。だが霧の向こうで何が起きているのか、計ることは出来ない。ただ乳白色の壁面に吸い込まれてゆく矢玉の行く先を想像しながら兵達は、弓や鉄砲を射ち続けた。
しばらくして年老いた猟師が再び右手を上げると、家重は声を上げた。
「撃ち方止めい!」
家重の号令に合わせ、一斉に攻撃が止んだ。だが敵の様子が分からない家重達は、黙したまま霧を見詰めている。そんな中、気配を探っている年老いた猟師に家重が問うた。
「敵の様子は如何じゃ?」
「何やら動いておるようですが・・・」
敵の詳細な動きまでは読み取れない年老いた猟師は、思いついたように一人の猟師を呼んだ。
しばらくしてやって来た猟師は、歳のわりに皺の多い赤ら顔で背が低く、まるで猿のような若い猟師であった。
若い猟師は年老いた猟師の横にしゃがみ込むと、童のような声で口を開いた。
「何か用か?」
「うむ、お前の耳で敵の様子を探ってくれぬか」
若い猟師は小さく頷くと、耳の中から藁を丸めた耳栓を外し、敵の方角に耳をそばだてた。
「慌てて鉄砲兵を前に出してる。間もなく撃ってくるぞ」
「左様か」
若い猟師の言葉に頷いた年老いた猟師は家重に目を向けた。だが家重は不思議そうな表情で、二人のやり取りを見詰めている。年老いた猟師は、再び薄笑いを浮かべて言った。
「この者は耳の利く男に御座います。あまりに聞こえ過ぎる故、普段は耳に栓をしております」
若い猟師は小さく頭を下げた。
「ほう」
家重は一瞬、戦場に居ることを忘れ、猟師の業の奥深さに感心していた。そんな家重に年老いた猟師は促した。
「金子様、間もなく撃ってきます。早う敵の応射に備えませ」
「おお、左様であった」
我に返った家重は兵達に向き直った。
「敵は間もなく撃って参る。急ぎ竹束を持て!」
竹束とは竹を束ねて紐で縛ったもので、鉄砲の盾として用いるものである。
家重の命に兵達が竹束を並べた瞬間、霧の向こうからこちら側とは比べものにならぬ程の轟音が鳴り響き、想像を越える数の鉄砲玉が向かってきた。だが標的の見えない敵の銃撃では命中するものは数少なく、被害は全くないに等しかった。
「応射致せ!」
家重の号令に、再び弓と鉄砲が敵陣に飛んだ。
「撃ち方止めい!」
轟音が止み、再び静寂が訪れた。
家重を始め兵達が一斉に若い猟師に目を向けると、先程まで耳栓をしていた若い猟師がいつの間にか耳栓を外し、敵の動きに耳をそばだてていた。
少しの間、黙して言葉を待っていた家重達に、若い猟師は耳栓をはめながら呟くように言った。
「為す術もなく慌てておる」
その言葉を機に皆が歓声を上げた。
遮られた視界の中に突然飛び込んでくる矢玉の正確さと、それに対抗しようとただ撃ち返すだけの応射の空しさに、敵兵の士気は下がっているに違いない。それに対し、敵の位置も攻撃の成果も、猟師達の業で手に取るように分かる家重達の士気はさらに高揚していた。
その後、何度か撃ち合いが続く中、家重はあることに気付き、呟くように言った。
「霧が晴れてきたのう」
「左様に御座いますな」
年老いた猟師は、ため息をつきながら応えた。
つい先刻まで一間先の人影すら見えない程に立ち込めていた乳白色の霧が、今、薄絹の幕を張っているように向こう側を透き通し、敵影を映し出している。家重達の影に気付いたのであろうか、敵の動きも慌ただしくなってきた。
(間もなく攻めて参るな)
意を決した家重は、年老いた猟師に向き直った。
「ご老人、我らはこれより打って出る。この後は退くも降伏致すもそなたらに任せる」
そう告げた家重は突然、表情を緩めて膝をついた。
「これまでの働き、実に天晴れで御座った。心より感謝致しますぞ」
武士でありながら領民に対して実直に礼を告げた家重に、年老いた猟師は感銘した。
「もったいのう御座います。金子様と共に戦えたこと、嬉しゅう御座いました」
爽やかな表情で頷く家重に、年老いた猟師は深々と頭を下げると再び笑みを浮かべて顔を上げた。
「では我らはこの後も、ここで矢玉を撃ち続けましょう」
「左様か」
家重は満面の笑みを見せた。それは見事な業を持つ猟師達が後方より支援する安堵感と、今少し猟師達と共に戦えることの嬉しさが、つい表情に出てしまったのだった。
「我らに当てるでないぞ」
家重の戯れ言に年老いた猟師は薄笑いを浮かべて応えた。
「時折、打ち損じることも御座います。後ろにも目を持たれませ」
「ほう、そなた達の中には左様な業を持つ者も居るのか?」
「さすがにそのような者は居りませぬよ」
二人は声を上げて笑った。
「ではご老人、お任せ致しますぞ」
「はい、御武運を」
家重は笑みを消すと、表情を固めて立ち上がり声を上げた。
「皆の者、よう聞け。これより我らは打って出る。腕に覚えのある者は、刀槍を持って儂に続くがよい」
家重の言葉に頷いた侍達は、競い合うように側近くに居る猟師達に弓や鉄砲を差し出した。
「これを使うてくれぬか?」
「そなたに授ける」
「任せたぞ」
素晴らしい業を持ち共に戦ってきた猟師達に侍達は好意を示し、それを猟師達が嬉しそうに受け取っているその様は、侍達が猟師達に向ける礼の思いの表れであった。それを見詰める家重の心に、温かいものが沸き上がった。
時折、若さ故に節度を逸脱する失言により家老衆に窘められてきた家重ではあったが、その実は礼儀を重んじる心を常に持っている礼節の臣であった。そんな家重にとって目の前で繰り広げられる武士と猟師のやり取りは、己が望んでいた姿に他ならない。家重はその光景を笑みを浮かべて見詰めていたのだった。
そんな中、若い猟師が耳栓もせず、慌てた表情を家重に向けて叫んだ。
「来る!」
笑みを消し小さく頷いた家重は、真剣な表情で槍を抱え大きく息を吸い込んだ。
身構えた兵達は家重の命を待っている。家重は声を限りに叫んだ。
「参る!」
「応!」
一斉に走り出した家重達は、咆哮を上げながら敵兵へと向かっていく。その身を通り過ぎる矢玉の風切音に案ずることなく攻め込んでくる大軍と槍を合わせた家重達は、敵兵の中に飲み込まれていった。
御主殿曲輪はすでに混乱を極めている。
曳き橋を落とし大手道との繋がりを断った上、虎口や櫓門などの防御を備えている御主殿曲輪は、まるで孤立した城郭のように堅い要害となっている。だが大手道を進軍してきた敵の本隊と、出丸から近藤曲輪を攻略した敵右翼隊、同じく太鼓曲輪を攻略した左翼隊の一部が参集し多勢となった北国勢の勢いに、八王子衆は押し潰されようとしていた。
そんな中、兵達を鼓舞していた与三郎の足元に若い兵士が膝を付いた。
「申し上げます」
「如何した」
「脇門が破られました」
脇門とはあんだ曲輪から御主殿曲輪に渡る通用口に構える門のことである。その備えの弱さは与三郎も案じていたが、通用口ということでつい見逃してしまっていたのだった。
「して敵勢は?」
「一気に乱入致し、御主殿に火を放ったとのこと」
「ここまでか」
目を落として呟いた与三郎は、その瞳を上げ意を決した表情で若い兵士に告げた。
「されば奥に参る故、そなたもついて参れ」
「はっ」
与三郎と若い兵士は御主殿に向けて走った。途中、松明を持つ敵兵を数人打ち伏せながら、二人は御主殿に飛び込むと真っ直ぐに比佐の居室に至った。
「ご無礼任ります」
緊急時である為に比佐の許しを得ず入室した与三郎を、比佐とその側に座す三人の侍女達が一斉に目を向けた。その緊張した表情に躊躇することなく与三郎は告げた。
「御主殿に火が放たれました。間もなくこちらにも広がって参りましょう」
「左様ですか」
目を落として呟いた比佐は、次の瞬間、その凛とした瞳を与三郎に向けて言った。
「与三郎殿、頼みがあります」
「何なりと」
「滝までのお供を願います」
「・・・」
与三郎は言葉に詰まった。
比佐の御主殿の滝に対する思いは家臣皆の知るところであり、その思いの詰まった場所から死出の旅に向かいたいと願う比佐の思いは与三郎にもよく分かっている。だが矢玉が飛び交う御主殿曲輪の中、比佐達を滝まで連れて行くにはあまりに危うい。途中で矢玉に当たってしまえば、比佐の思いは遂げられないのである。
少しの間、黙していた与三郎は、突然、良案を思いつき、若い兵士に顔を向けた。
「竹束とそれを持つ剛力の者を幾人か連れて参れ」
「はっ」
命を受けた若い兵士は身を翻し、急ぎ喚声の渦巻く方角に走り去った。その足音が遠ざかると与三郎は改めて比佐に向き直った。
「されば参りましょうぞ」
「はい」
比佐達はゆっくりと腰を上げ、与三郎の後に続き御主殿の外へと向かった。
すでに火が回った玄関を避け、濡縁から庭を伝い外へ出ると、そこには若い兵士と共に三人の屈強な兵士が竹束を抱えて控えていた。与三郎は表情を変えず、兵士達に命じた。
「これより滝に向かう故、この方々を矢玉よりお守りせよ」
「はっ、さればご無礼を」
与三郎の命を承った兵士達は、軽々と竹束を持ち上げ、敵の喚声が寄せてくる方向、比佐達の右横に立ち並んだ。
「されば方々、参ります。儂から離れぬようにお歩きくだされ」
大きく頷いた比佐達を気遣いながら、与三郎はゆっくりと歩を進めた。
徐々に近付いてくる怒声と喚声の中、その喧騒の大きさに合わせるように、足下に落ちる矢玉の数が増してくると、兵士達が掲げる竹束に当たる矢玉の数も徐々に増えてゆく。それに伴い兵士達の表情に苦悶の色が浮かび始めた。
「うっ」
「くっ」
兵士達が小さく呻き声を上げた。それを気遣いながら歩く比佐達を他所に、与三郎は周囲に気を配りながら粛々と歩みを進めた。
いつもより時をかけながらも、一行は滝の見下ろせる広場に辿り着いた。
安堵する与三郎の横で、竹束を置いた兵士達の腕や足に残る無数の矢傷や鉄砲傷が、この行程の苛烈さを物語っている。だが兵士達は痛みをこらえ、与三郎の後ろに片膝を付いて控えてた。
「手当てを」
比佐の命に頷いた侍女達は、兵士達に寄り添い傷を診ながら声をかけた。
「大事御座いませぬか?」
「何のこれしき」
虚勢を張る兵士達に笑みを見せた侍女達は、いきなり小袖の袖や裾を破り、兵士達の腕や足に巻き付けて傷に手当を施した。
「・・・忝ない」
「いっ、痛み入る」
気恥ずかしい表情で侍女達にされるがままの兵士達が口々に礼を述べると、侍女達は手当てを続けながらも小さく頷いた。
「与三郎殿」
侍女と兵士のやり取りを優しげな瞳で見詰めていた比佐は、ゆっくりと与三郎に向き直り声をかけた。
「はっ」
「私の我儘をよう聞き届けてくれましたね。礼を申しますよ」
「勿体のう御座います。儂は父上の命に従い、お方様をお守り致したまで」
与三郎の言葉に、比佐は柔らかな笑みを浮かべた。その表情に悲壮感はなく、思いを遂げたいと願う強い志を彷彿とさせる。
そんな比佐の思いを何としても遂げさせたいと、与三郎は心から思った。
「お方様」
侍女達が兵士達の手当てを終え、比佐に声をかけた。頷いた比佐は兵士達に近付き声をかけた。
「皆、よう守ってくれました。感謝致しますよ」
改めて片膝を付き畏まった兵士達は、比佐がこれから辿る儚い末路を思い、下を向きながら涙を堪えている。その様子に侍女達も、同じ思いに瞳を潤ませていた。
そんな皆の姿をゆっくりと見回し小さく頷いた比佐は、その表情を引き締めると侍女達に告げた。
「さて、それでは参りましょう」
侍女達は表情を固めて頷くと、比佐と共に滝を見下ろす岩端に近付き膝を付いた。
改めて頷き合った比佐と侍女達が、懐に差した懐剣に手をかけた瞬間、遠くで聞こえていた喚声と足音が、突然、大きくなった。
(来たか)
思わず舌打ちをした与三郎は、慌ててその方角に振り返った。
そこには土煙を上げて迫り来る敵兵の波と鼻腔をつく砂埃の臭いが、その間合いの近いことを証していた。
与三郎は兵士達に向き直り、張り詰めた気を抑えながら命じた。
「この方々の旅立を汚してはならぬ。故に我らは盾となり時を稼ぐ。それが我らの為すべきことじゃ。左様に心得よ」
「はっ」
与三郎の命を承った兵士達は、手足に巻かれた侍女達の端布に手を添えて、その思いを感じ取ると、すぐにその身を低く屈め、いつでも抜刀できるよう刀に手をかけて構えた。
その頼もしさに安堵しながら抜刀した与三郎は、敵との間合いを定め飛び出す期を探っていた。
「与三郎殿」
不意に声をかけられ振り向いた与三郎に、比佐は笑みを浮かべて言った。
「先に参ります。ありがとう」
比佐の謝辞に頷いた与三郎は、改めて敵との間合いを定めた。だがその間合いは思うより近く、比佐の最後を見届ける余裕はない。
諦めた与三郎は、瞳を潤ませながら声を限りに叫んだ。
「皆の者、参る!」
「応!」
応じた兵士達と共に、与三郎は敵兵の渦に飛び込んでいった。
「煙じゃと?」
山王台を越え中の丸下の曲輪に攻め込んだ敵兵と戦っていた宗円は、三の丸より立ち昇る黒煙に気付き、思わず声を上げた。
中の丸の東側に位置する高丸では、家範が敵兵を抑え込んでおり、西側に置かれた二の丸では輝基が戦っている。連携のとれている山頂部の守りにおいて、宗円が中の丸下の曲輪で敵を抑えれば、本丸を守ることは出来る。また己の持ち場である三の丸も、その前面に置かれた二の丸や中の丸で敵を抑え込めば、敵の侵攻は止められると宗円は考えていた。
だがその三の丸が今、黒煙を噴き上げている。
何が起きているのか混乱する宗円は、その方向を何度も振り返りながら報せを待った。
「一庵様」
「如何した?」
一人の兵士が宗円に駆け寄り跪くと、振り向くことなく宗円は問うた。兵士は吐き出すように応えた。
「搦手間道より三の丸に敵侵攻!」
宗円は想定外の報せに驚き言葉を失った。
三の丸に攻め込んだ敵兵は、搦手道の本筋ではなく、滝の沢と呼ばれる間道を登ってきた。この行程は八王子城をよく知る者でなければ知り得ぬものであり、それは過去に氏照の下を去っていった者が敵兵の中にいることを意味していた。
(見誤ったか)
宗円は悔やむように天を仰いだ。
敵兵の中に元配下の者が居ることは何ら不思議なことではなく、特に世情ををよく知る宗円であれば、その辺の事情をよく解していた筈である。だが恩に報いるは家臣のあるべき姿と信じていた宗円にとって、仁徳溢れる氏照の元家臣が恩ある旧主の城の弱き所を新たな主に注進するなどあろう筈がないと心のどこかで願っていたである。
また搦手の間道は、兵士一人がやっと通れる程の道幅であった。その為、大軍を率いる北国勢がそこを通ることはないと、宗円は油断してしまったのであった。
「三の丸に戻る故、勘解由と信濃に左様伝えよ」
「はっ」
走り去る兵士の後ろ姿を見送りながら、宗円は心の中で呟いた。
(武士よりも領民の方が、よほど信が置けるわ)
憂うように首を振った宗円は、槍を握り直して三の丸に走った。
宗円が三の丸に達すると、時すでに遅く、そこは立ち昇る炎と敵兵に埋め尽くされた絶望的な空間となっていた。
「此処までか」
呟いた宗円は、共に立ち尽くす配下の兵士達に領民を退避させるよう命じると、散って行く兵士達を見詰めながら薄笑いを浮かべた。
「如何なされました?」
側に居た一人の老将が宗円を案じて問うた。
宗円は視線を変えず、呟くように応えた。
「これで儂も猜疑の呪縛から解き放たれるわ」
「一庵様・・・」
宗円の気が狂れたと思った老将は、憐れんだ表情で宗円を見詰めた。
だがその思いに反し、宗円は晴れやかな表情を浮かべていた。
常に疑いを持って何事にも接してきた宗円は、その実、全てにおいて信を置きたいと本心では願っていたのである。だが裏切りが横行する世において、何事にも疑いを持つことが氏照を守る術だと考えていた宗円は、不確実なものに信を置くことを諦めたのであった。
そんな宗円が此度の戦において、疑いを持っていた領民達に信を置き、信を置いていた旧家臣に裏切られてしまった。だが宗円は後悔の念を抱くことなく、裏切られることを恐れず全てを信じたことに清々しさを感じていた。
宗円は正にこの瞬間、疑うことをから解放されたのであった。
「儂の為すべきこととは、皆に信を置くことやも知れぬのう」
呟く宗円を案じている老将に何も言わず槍を手渡した宗円は、視線を合わせることなくゆっくりと歩を進め始めた。
「一庵様、何処に参られまするか?」
老将の問いに宗円は笑みを浮かべて振り返った。
「皆の所じゃ」
そう応えた宗円は炎に身を任せるように、燃え盛る建屋へと消えていった。
宗円が三の丸に戻ったことを知った家範は、中の丸が手薄となることを案じ、高丸から中の丸に退いた。だがすでに中の丸には敵兵が雪崩れ込み、その勢いを抑えようとする守兵と競り合っている。
敵味方が入り乱れる中、見覚えのある甲冑を身に纏った二人の猛将に気付いた家範は、その近くに駆け寄ると、横から襲いかかろうとする敵兵の胸に槍の石突を食らわせた。
「勘解由様!」
「ご無事で御座いましたか!」
討ち取った敵兵の返り血と噴き出す汗にまみれた清右衛門と真之介が、笑みを浮かべて叫ぶと、二人の声を耳にした敵兵からざわめきが起こった。
「勘解由じゃと?」
「あの中山勘解由か?」
敵兵は怯えた表情で後退りした。
家範の槍上手は北国の兵にも知れ渡っていた。だがこの戦場にその姿を見た者はほとんど居ない。それは過去に家範と対峙した者達は、再び戦場に立つことができぬ程の傷を負わされてしまうが故であった。またそれが噂となることで、家範に対する恐怖をさらに植え付けていたのであった。
「怯むでない。我らは多勢、恐るるに足らん!」
敵の組頭とおぼしき侍が鼓舞したが、敵兵はその場で腰を引きながら槍を構えるだけである。
「如何致しますか?」
薄笑いを浮かべて問うた清右衛門に、家範は言い放った。
「見合っておっても戦にならん。こちらから参るぞ」
「はっ!」
三人は敵兵の壁に飛び込んだ。向かいくる槍を掻い潜り、間髪を入れず己の槍を突き出し相手を突き崩すと、その流れのまま背後の敵に石突を食らわせる。数人の敵兵には槍の一旋を見舞い、体制を崩した敵に稲妻のような速さで刺突を繰り返す。まるで舞うが如く可憐であり、美しさまでも醸し出す三人の槍さばきに、敵兵はなす術もなくその身を地に委ねていった。
続々と沸いて出る敵兵の波が一瞬途切れると、家範達は槍の手を止め荒い息を整えた。
すると突然、三の丸から黒煙が上がった。そして次の瞬間、喚声と共に新たな敵兵が中の丸へと雪崩れ込んできた。
(三の丸が落ちたか)
家範がため息をつくと、真之介が強い瞳を家範に向けて言った。
「あの者共は我らにお任せを」
「勘解由様直伝の槍さばき、馳走致しまする」
疲れを隠すように槍を一旋させて清右衛門が続いた。
家範が黙したまま頷くと、二人は家範に一礼して三の丸の方角に向かおうとした。
「待て!」
家範が突然、二人を呼び止めた。
立ち止まり振り向いた清右衛門と真之介に、家範は笑みを浮かべて言った。
「次の世では儂の家臣になるがよいぞ」
「ありがたき幸せ」
「心待ちにしておりまする」
清右衛門と真之介は笑みを浮かべて一礼し、改めて三の丸の方角へと走って行った。そして三の丸を攻略し意気上がる敵兵の渦の中に二人は消えていった。
それに時を合わせるかように中の丸下の曲輪からも敵兵が乱入し、中の丸は遂に北国勢のものとなった。
「ここまでじゃな」
二の丸に向かって目の前を通り過ぎてゆく敵兵を見詰めながら呟いた家範は、兜を脱ぎその場に座すると鎧通しを抜いて己の腹に当てた。
歯を食いしばり腕に力を入れようとしたその瞬間、家範の耳に聞き覚えのない声が触れた。
「待たれよ!」
その声と共に侍大将とおぼしき一人の侍が、鎧擦れの音を響かせながら家範に走り寄り立ちはだかった。
「某は村井又兵衛長頼と申す。中山勘解由左衛門殿とお見受け致す」
「如何にも中山勘解由左衛門家範に御座る。此様な折に声をかけるとは、些か無礼では御座らぬか」
鎧通しを腹に当てたまま、家範は憮然とした表情を露わにした。
「ご無礼なるは承知の上、お許しくだされ」
又兵衛の謝辞に溜め息をついた家範は、鎧通しを持つ手を下ろした。
「何用に御座るか?」
又兵衛は安堵の表情を見せ、家範の前に片膝を付いて言った。
「我が主が貴殿の槍の素晴らしさに感銘なされ、是非にも高禄にてお迎えしたいと仰せに御座る」
顔色を変えず家範が問う。
「貴殿の主とは?」
「前田参議様に御座る」
「ほう」
家範は満足げな表情を見せた。
前田参議こと前田利家は、若き折、槍の又左と異名をとる程の槍上手であった。その利家に認められるとは、家範にとってこの上ない名誉であり、その感情がつい表情に現れてしまったのだった。
家範の表情に手応えを感じた又兵衛は、時を空けずに続けた。
「貴殿の槍さばきをご覧になられた我が主は『あの者の槍には仁の心が見える』と仰せになられた」
「仁の心?」
「左様、倒した者の命を取らぬ槍さばき、それを我が主は仁の心と申されたので御座る」
家範は如何なる相手に対しても、必ず敵の急所を外して倒していた。それは混戦の最中、多勢を相手にしていたとしても、一人として絶命させることはなく、ただ倒された者が再び戦場に立てぬ程の痛みと恐怖を与えるものであった。家範は幼き頃よりそれを実とする為、血の滲むような鍛練を重ね、名の知れる槍の上手となったのであった。
「そこまで見抜かれるとは、さすがは前田様に御座るな」
「左様、我が主は何事にも目が利くお方、日の本随一の名君に御座る。故に中山殿、某と共に我が主をお支え致しましょうぞ」
左手を付き身を乗り出して諭す又兵衛に、家範は首を左右に振ると表情に力を込めて言い放った。
「我が主は北条陸奥守様ただ一人、二君に仕える意は一切御座らぬ」
「中山殿!」
驚いて声を上げた又兵衛を制するように家範は続けた。
「前田様には過分なお計らい、心より御礼申し上げる。されど・・・」
一呼吸置いた家範はその顔から力を抜いて言った。
「某は己の為すべきことを為し終え申した故、生き長らえるは坂東武者の恥辱に御座る。貴殿も侍であられるなればお分かりに御座ろう」
家範の力ない言葉にその覚悟を悟った又兵衛は、小さくため息をついて頷いた。
「よう分かり申した。無理強いは我が主の嫌悪致す所、某は引き下がり申す」
そう言って腰を上げた又兵衛は家範を見下ろしながら続けた。
「されば中山殿、貴殿の死出を邪魔致さぬよう、配下の者に申し付けておく故、ご立派に果てませい」
「忝ない」
家範の謝辞に頷いた又兵衛は一礼して背を向け、側に控える者に家範の邪魔をせぬよう申し伝えると、振り返ることなくゆっくりと歩き出した。
中の丸を吹き抜ける風に血の臭いが混じるのを感じた又兵衛は、ゆっくりと両掌を胸の前に合わせ、静かにその瞳を閉じた。
三の丸、中の丸を占領され、本丸の備えが二の丸のみとなると、これまで幾隊かに分散して各所を攻めていた北国勢が各々の攻め口から一気に攻め込んできた。
ここを落とせば本丸に達するとして勢いを増す敵兵と、ここを落とされれば本丸に攻め込まれるとして守りを強める守兵がぶつかり合い、二の丸の戦いは苛烈を極めた。だが数に任せて攻め入る敵兵に対し、士気は高くとも寡兵である守兵では力の差は歴然であり、敵兵の圧に守兵達は徐々に退き下がるを強いられていた。
(これで良いのか)
圧され続ける守兵を目にしながら輝基は床几に座し熟考している。
このまま二の丸が落とされれば己は討ち死にして果てるであろう。だが未だ己の為すべきことを迷っている輝基にとり、このまま討ち取られることが果たして己の為すべきことなのであろうか。もしや他に為すべきことがあるのではないか。
自問自答を繰り返す輝基は徐々に攻め込まれる二の丸の雑踏の中に在りながらも、一人黙考していたのだった。
「大石様」
不意に声をかけられた輝基は、散漫となっていた視線をその声の方に合わせた。そこに居たのは戦の前に兵士と揉めていた商人達であった。
「おお、あの折の商人達ではないか。大事ないか?」
「はい、何とか生き残っております」
土埃にまみれた顔に薄っすらと血が滲む傷を携えた商人達が疲労の色を浮かべて応えた。その様子を案じた輝基は表情を変えずに言った。
「間もなく此処にも敵兵が攻めてきます。そなた達はお逃げなさい」
商人達は大きく首を振った。
「お心遣いはありがたく存じますが、私共がこの城に残ったは死を覚悟しての事に御座います」
中年の商人は笑みを浮かべて応えた。だが輝基は続けた。
「されど敵兵が攻め込んで参るは実です。損得で事を決するが常の商人にて、無駄死致すは損ではありませんか?」
「大石様」
輝基の名を改めて呼んだ商人達は顔から笑みを消すと、商人とは思えぬ程低く太い声で続けた。
「私共の祖は坂東武者に御座います。故に私共には武士の血が流れております。残せる名など持ち合わせてはおりませぬが、坂東武者の末裔という誇りは汚さぬよう心得ております」
強い瞳で見詰める商人達に、一切表情を変えず輝基は問うた。
「では此処に残り、如何致すのですか?」
「身を呈して敵兵を抑えようと存じます」
「敵兵を抑えると・・・」
表情をあまり変えない輝基の顔に、ほんの少しだけ動揺が走った。交渉事に長けた中年の商人は、それに気付かぬふりをして続けた。
「はい、それが殿様のご本意であり、私共が為せる恩返しと思うております」
中年の商人は再び笑みを浮かべた。だが輝基の目にその笑顔は映っていない。ただ虚空を見詰めながら、時折その瞳を小さく左右に揺らしているだけであった。
「大石様?」
その表情を案じた中年の商人が声をかけると、何かに気付いたのか、突然、照基は商人達に目を向けた。
「そなた達に頼みがあります」
「何なりと」
「儂は監物様に申したきことがある故、本丸に登ります。その間、敵を抑えてくれませんか?」
「暫しお待ちを」
中年の商人を中心に商人達は肩が触れる程に丸くなり、顔を近付け談合を始めた。
「そなたは・・・」
「私は・・・」
「・・・程ですな」
雑踏の中、談合する商人達の姿を見詰める輝基は、時折、敵兵の動きを気にしている。
「・・・では如何かな?」
「ほう」
「それは一興で御座いますな」
「では皆様、よろしいですかな?」
中年の商人の問いに商人達は大きく頷くと、輝基に向き直った。
「お待たせ致しました。お任せください」
「さればお任せします」
大きく頷き己の槍を抱えた照基は、側に控える年老いた鎧武者に声をかけた。
「そなたも付いて参れ」
「へぇ」
年老いた鎧武者を引き連れ、照基は本丸に向かおうと足を踏み出した。
瞬間、それまで遠くに響いていた喚声が突然大きくなった。足を止め振り向いた輝基の目に、守兵の壁を崩しその隙から流れ込む敵兵の姿が映った。
(間に合わなかったか)
輝基は慌てて商人達に目を移した。
だが商人達はまるで店先で客を待っているかの如く、両手を下腹の上で交差させて敵兵を待っている。照基はその場に立ち止まると、背を向ける商人達を案じて凝視した。
群がる敵兵はその勢いに任せて商人達との間合いを詰めてくる。ついに間合いが五間程となった瞬間、商人達は懐から何かを取り出し空に撒いた。初夏の日差しに照らされ黄金色の輝きを放ちながら、数枚の銭と小判が甲高い音を響かせながら地に落ちた。
「何じゃ?」
不思議そうな表情を見せる敵兵に、中年の商人が声を上げた。
「北国の方々に申し上げまする!」
その瞬間、敵兵は足を止め、中年の商人に目を向けた。
「此度の戦、あまりの多寡に御座いますれば、ご褒美の数も少のう御座いましょう。されば八王子の手土産にどうぞお持ちくだされませ!」
中年の商人が言い終わるや否や、敵兵たちは慌てて地に伏せると、目の前に散らばる銭と小判を拾い始めた。
「銭じゃ、銭じゃ」
「金子もあるぞ」
騒ぎながら貪るように銭や小判を拾う敵兵に、商人たちは笑みを浮かべながら再び銭と小判を放り投げた。その瞬間、敵兵の波が完全に止まった。
(何という策だ)
考えもしなかった足止め策に照基は驚き声を失っていた。その姿に気付いた中年の商人が照基に声をかける。
「大石様、早う、早う」
その声に我に返った照基は商人達に叫んだ。
「お見事です、されば!」
そう叫ぶと照基は振り返ることなく本丸へと駆け登っていった。
「生きておったか、信濃」
本丸の陣屋に駆け込んできた輝基を目にした吉信は、座していた床几から腰を上げ、輝基に近付きながら声をかけた。
「監物様、二の丸も落ちました。間もなくこの本丸に敵兵が流れ込んで参ります」
目を落としながら報せた輝基に、吉信は優しい表情を見せた。
「左様か。よう報せてくれた」
そう言うと吉信は、城内に幾筋も昇る黒煙に目を移した。
「我らの為すべきことは此処までじゃな」
溜め息混じりに呟いた吉信は、地に腰を下ろすと鎧通しに手をかけた。
「お待ち下さい、監物様」
輝基は吉信の前に片膝を付いた。何事だと言いたげな表情をする吉信に照基は言った。
「お逃げ下さい」
「何じゃと?」
吉信は驚いて輝基の顔を凝視した。輝基は表情を変えず続けた。
「落ち延びるのです」
「呆けた事を申すな信濃。城が落ちるに及んで城代が逃げ出すなど言語道断。死んでいった者達に顔向けが出来ぬではないか」
「それが殿のご本意」
「戯れ言を申すな。殿を愚弄致す所存か!」
「お聞き下さい」
「聞かぬ!」
普段温厚な吉信が怒りの表情を見せた。
寡兵である八王子城が戦う事に決してより、落城の折は己の死をもって全てを終わらせようと吉信は考えていた。それを覆した上、氏照の本意と言い切った輝基に吉信は怒りを覚え、鎧通しにかけた手を強く握った。
瞬間、輝基は吉信の陣羽織の胸ぐらを両手で掴み、己の顔を近付けて叫ぶように言った。
「城代の首級がなければ、戦は終わらぬのですぞ!」
突然のことに驚いた吉信は、目を剥いたまま言葉を失った。感情の昂りを抑える輝基は、顔に朱を浮かべながらも表情を変えずに続けた。
「如何に城を落としたとて城代が落ち延びておれば勝ち戦とはなりません。故に敵は躍起になって監物様を追いましょう。すなわち・・・」
一呼吸置いた輝基は、笑みを浮かべて言った。
「戦は終わらぬので御座いますよ」
表情を変えぬ照基が初めて見せた笑顔に吉信は驚きと困惑を露にすると、まるで時が止まったかのように二人はしばらくの間、動かぬまま見詰め合っていた。
「左様か」
最初に動いたのは吉信の口であった。その呟くような言葉に輝基は大きく頷くと、笑みを消して諭すような落ち着いた声で言った。
「この八王子城の為すべきことは、時を稼ぐ事。故に監物様、ご城代の為すべきこととはその首級を守ることに御座います」
照基の言葉に吉信は表情を緩めると、本来の優しい声色で言った。
「儂を諭すがそなたの為すべきことであったのじゃな」
「はい、それこそが殿のご本意に沿うものと考えました」
照基はこれ迄の無礼を詫びるように頭を下げながら応えた。
「そなたの申す事、よう分かったわ」
己の思いを受け入れてくれた吉信に、照基は安堵した。だが吉信は何故か悲しげな表情を浮かべて続けた。
「されど信濃よ。この老いぼれの足では逃げ果すこと叶わぬ」
吉信は老いた己を嘆くかの如く両腿を叩くと、恨めしそうに目を落とした。
「儂にお任せを!」
突然、聞き覚えのある声を耳にした吉信は咄嗟にその声の方へと目を向けると、皺のような目を有らん限りに丸く開いて驚いた。
「弥助!」
「お主様!」
そこに居たのは鎧を纏う吉信の使用人、弥助であった。
「何故ここに?」
目を見開いたまま問うた吉信の側に走り寄った弥助は、おもむろに両膝を付き額を地に擦り付けた。
「お主様、申し訳御座いません」
詫びる弥助の姿に、吉信は未だ驚きを隠せないでいる。
敵の襲来を知った吉信は、弥助を始め使用人達に暇を与え、各々の里に帰るよう申し伝えた。だが吉信の優しさに恩を感じていた弥助は、城に残り厚恩に報いたいとして与三郎に相談をした。弥助の強い思いと父親である吉信を慕ってくれたことに感銘した与三郎は、知恵者である照基に相談をした所、何かの折には力になると考えた照基は弥助を己の隊に組み入れていたのであった。
「左様であったか」
「お伝えせず、実にご無礼致しました」
経緯を知り表情を和らげた吉信に、照基は己の非礼を詫びた。それを制し平伏したままの弥助の肩に手をかけた吉信は、ゆっくりとその身を引き上げて言った。
「頭を上げよ弥助。そなたの思いを聞きもせず、暇を与えた儂の方こそ詫びねばならぬ」
吉信は両手を膝に置いて頭を下げた。
「もっ、勿体のう御座います。お主様!」
慌てた弥助は膝を付いたまま、後ろに下がり再び平伏した。
その姿に目尻を下げた吉信は、ゆっくりと立ち上がり照基に向き直った。
「されど信濃よ。弥助は槍の持ち方も知らぬ使用人じゃ。如何致す所存じゃ?」
照基は表情を変えず応えた。
「監物様の影武者に致します」
「何と?」
吉信は驚いて弥助に目を向けた。すでに照基から聞いていたのであろう、弥助は吉信を見上げて何度も頷いた。
「分かっておるのか弥助。影武者となれば命はないぞ」
「へぇ、分かっております。ですがどうせ老い先短いこの命、少しでもお主様のお役に立てれば本望ですじゃ」
先程とは打って変わり、瞳に強い思いを浮かべて弥助は応えた。その姿に吉信は真剣な表情で頷くと、改めて表情を固めて照基に向き直った。
「信濃守。この本丸はそなたに任せる」
「はっ、お任せ下さい」
「弥助、儂の身代わり、しかと努めよ」
「へぇ、お任せください」
吉信は満足げに頷くと己の槍を抱えた。
「冥土で会おうぞ、信濃、弥助」
吉信の言葉に輝基は、眉尻を下げて表情を崩した。
「冥土でお会い致すは、まだまだ先に御座いましょう?」
「左様で御座いますよ、お主様」
弥助も顔を皺だらけにして続いた。
「左様であったな」
三人は声を上げて笑った。
「されば参る」
「ご武運を」
「お気を付けて」
振り向きもせず走り去る吉信を見送った照基は、弥助を床几に座らせると、深沢山を駆け抜ける風を全身に受けながら空を仰いで呟いた。
「この地よ。あと少しです」
瞬間、二の丸の方角より喚声と共に、敵兵が流れ込んできた。
「信濃守様、お下知を」
一人の侍大将に声をかけられ我に返った輝基は、槍を右手に持ち仁王立ちとなると、本丸の兵士達に命じるように言った。
「皆の者、ここに居わすはご城代の監物様じゃ」
照基の言葉に弥助は腕を組み胸を張った。その姿に薄笑いを浮かべながらも、兵士達は素直に頷いた。
皆の思いに満足した照基はさらに続ける。
「されば皆、悔いの無き様、戦うがよい。良いな」
そう告げた輝基が槍を構えると、兵士達も腰を落として身構えた。
「参る!」
「応!」
一気に地を蹴って駆け出した輝基達は敵兵の渦に飛び込んでいった。
八王子城の戦いは未だ終わっていない。
喚声の響き渡る深沢山には、初夏の陽が少しずつ傾き始めていた。