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為すべきこと  作者: 中根 勝永
6/8

各々の思い

「皆よう聞け」

綱秀の声が近藤曲輪に響き渡った。

十八日前に武州鉢形城を落とした前田利家を総大将とする北国勢は、すぐに八王子領に侵攻して陣を張った。何時攻めてくるかも分からない北国勢を見張っていた城方の物見は、その日の酉の刻、敵陣から昇る炊煙の変化を吉信に報せた。吉信はすぐに照基を呼び寄せてその様子を伝えると、照基は川中島における上杉謙信が、武田軍の炊煙の変化により夜陰の行軍を察知したことを例にとり、今夜、城攻めが始まるであろうことを告げた。それを聞いた吉信は、急ぎ守将達にそのことを伝えると、城攻め間近の報せを聞いた綱秀は、配下の兵士を近藤曲輪に参集させたのだった。

「間もなく敵が攻めて参るとの報せがあった」

敵の襲来を伝えられた兵士達は一様に緊張の色を露にした。だが篝火が照らされたその表情に不安感はなく、戦を前に血が沸き立つのを抑えているかの如く、静かで熱い気を発している。

(皆、よい顔をしておる)

綱秀は安堵すると、己の表情を引き締めた。

「皆も存じておる通り、敵は多勢であり、我らは寡兵じゃ。故にこの戦、難儀極まりないものとなろう」

綱秀は兵士達を見回すと言葉を続けた。

「されど今日の我らがあるのは、陸奥守様をはじめ、八王子衆の厚恩に他ならぬ」

綱秀と同じ思いを感じている兵士達は、表情を変えずに大きく頷いた。綱秀はさらに続ける。

「故に我らがその厚恩に報いるは、今この時をおいて他にない。今こそ我ら榎本衆は、命を賭してこの近藤曲輪を死守致し、我らの義を果たす」

皆の瞳に熱い思いが露となった。その瞬間、篝火の燃木の破裂音がこの静まり返った空間に響き渡った。瞬間、綱秀は一気に息を吸い込むと、吐き出すように叫んだ。

「坂東武者の底力、見せつけるは今ぞ。良いな!」

「応!」

兵士達の声が近藤曲輪を包み込むと、思いの抑えきれない者達は咆哮を上げながら、各々の持ち場へと散って行った。

五百の足音と具足の摩擦音が徐々に遠ざかると、その場に立ち尽くす綱秀を静寂が包み込んだ。

その静かな空間の邪魔をするのは、篝火の燃える音だけであった。


「善九郎」

太鼓曲輪の物見台の上、北国勢の攻め来るであろう方角の闇を、一人見詰める綱景に何者かが仮名で呼んだ。それが誰か分かっている綱景は、振り向きもせず応えた。

「六助か。如何した?」

問いに応えず六助は綱景の左横に並ぶと、同じように闇を見詰めた。幼き頃より共に育った二人だけに、相手の心はよく分かっている。しばらくの間、二人は黙したまま闇を見詰めていた。

「怖いか六助」

綱景が口を開いた。

「ああ、怖い」

「さもあろう」

「武士に分かるものか」

「分かるわ。儂とて戦は常に怖い」

「だらしないのう、善九郎」

「左様じゃな」

綱景が笑みを浮かべると、二人は再び黙した。

尾根の上に吹く風が、日中照りつけた初夏の日差しの温めた空気を少しずつ冷やしていく。

辺りが静まり返り、篝火の音だけが聞こえる中、六助が口を開いた。

「善九郎よ」

「何じゃ」

「そなたには感謝しておる」

「何のことじゃ?」

綱景が六助に顔を向けて問うた。

「母者のことさ」

六助は笑みを浮かべて応えると、綱景は再び闇を見詰めた。

「母御は息災か?」

「ああ、三日前に戻られた榎本衆のお武家様にお聞きした所、大事なく過ごしているそうじゃ」

「それは執着」

綱景は闇を見詰めたまま、笑みを浮かべた。

六助の母親は病を患っており、戦の助力をする六助と共に八王子領に残ることは皆の足手まといとなってしまう。それを案じた綱景は忠兵衛と共に野州榎本領へ逃すことが出来ないかと綱秀に相談をした。綱秀は、一人増えるも二人増えるも難儀ないと笑い飛ばすと、その他にも八王子に残ることが困難な老人達十数名を榎本領に匿ってくれたのだった。

「六助よ」

突然、笑みを消し神妙な面持ちで声をかけた綱景に、六助は黙したまま顔を向けた。

「今からでも遅うはない。母御の元に参ってはどうじゃ?」

六助は呆れるような表情で、再び闇に目を向けて言った。

「儂らは幼き頃より兄弟の如く育った。故に儂はお前の心が分かるし、お前は儂の心が分かる」

「・・・左様じゃな」

綱景も闇を見詰めながら応えた。

「されば左様なことを申すな、善九郎」

溜め息をつく六助に、綱景は真顔のまま続けた。

「されど六助よ、母御はお前を父御の如くしとうはないと思うておる筈じゃ」

六助は再び大きく溜め息をついた。

六助の父は元々、武士であった。だが永禄十二年(一五六九)武田家の滝山城侵攻によりその命を落とすと、六助の母は六助を連れて城を落ち、農民として生きて行くことを選んだ。それは当時、六助を父のようにはしたくないという母の思いからであった。

六助はそんな母の思いを振り切ってまで城に残ったと綱景は思っていた。

「お前は真に分かっておらぬな」

「何じゃと」

少し憮然とする綱景に、六助は顔を向けて言った。

「榎本に立つ折、母者は儂に申した」

綱景も六助に顔を向けると、六助は綱景の目を見詰めながら言った。

「儂が戦で命を落としても悔いはない。されど戦わずして降伏したり、恐れを為して逃げ出したならば、儂を産んだことを死ぬまで悔やむとな」

「あの母御が左様なことを?」

驚く綱景に六助は小さく頷くと、その身を綱景に向けて続けた。

「母者は自身が長ごうないことを覚っておる。故に儂の願いを聞き入れてくれたのじゃ」

「左様に悪いのか?」

綱景も身を六助に向けて問うた。六助は再び闇に向き直って呟くように言った。

「おそらく・・・数日」

「左様か」

溜め息をつき綱景も闇に向き直ると、二人は並んだまま黙していたが、しばらくして六助が重そうに口を開いた。

「善九郎よ」

「何じゃ?」

「母者の為、儂の思いを遂げさせてくれ」

「皆まで申すな」

そう言うと二人は再び黙した。

並んで闇を見詰める二人に、これ以上の言葉は不要であった。


「霧が降って参りましたな」

深沢山の山頂より、ゆっくりと降りてくる乳白色の霧に包まれた梅の木谷の尾根上、金子曲輪の奥で床几に座している家重に年老いた猟師が声をかけた。

「この霧は深うなるかのう、ご老人」

家重は少し困惑した表情で問うた。年老いた猟師は、表情が伺えないほどの皺だらけの顔に、更に皺を重ねながら応えた。

「今時期の霧は厄介に御座います。おそらく明朝までは己の手より先は見えませぬわ」

「左様か」

家重は深く溜め息をついた。

「間もなく敵が攻めて参るというに、先が見えねば何も出来ぬわ」

悔しそうに言った家重の言葉に、年老いた猟師は何故か笑みを浮かべた。

「金子様は遠目がよう利くお方とお聞きしておりますが、左様なお方でも霧は苦手に御座いますか?」

「無論じゃ。霧深き中では遠目も利かぬであろうが」

愚かなことを申すなとでも言いたげに、家重は吐き捨てるように言った。だが年老いた猟師は、相変わらず笑みを浮かべている。その姿に若い家重は苛立ちを覚えた。

「ご老人、何を申したいのじゃ」

年老いた猟師は笑みを消して言った。

「我らは霧の中でも弓を射ることが出来まする」

「何じゃと?」

予想外の言葉に家重は驚きの声を上げた。その表情に年老いた猟師は、再び笑みを浮かべて続けた。

「我ら山の者は、霧に邪魔され獲物が獲れぬ日々が続けば生きてはゆけませぬ。故に巧まずして我らは皆、霧の中でも獲物を獲る業を得るので御座います」

「ほう、それは如何なる業なのじゃ?」

興味を持ち前のめりになる家重に、年老いた猟師は満足げに言った。

「獲物の気配を感じ、射るので御座います」

「気を読むと言うことか?」

家重の問いに年老いた猟師は首を横に振った。

「読むのではなく、感じるので御座います」

「ううむ、些か解せぬのう」

家重は腕を組み困惑した表情で溜め息をついた。その姿に年老いた猟師は薄笑いを浮かべて問うた。

「ご披露致しましょうか?」

家重が大きく頷くと、年老いた猟師は、まるで乳白色の陣幕を張ったように視界を妨げる霧の中、金子曲輪の南に位置する門の方を見詰めた。

「門の前にお武家様がお二方居られるご様子。お心が騒がれておられるようですな」

年老いた猟師が霧の向こうの様子を告げるや否や、家重は声を上げた。

「誰かある」

「こちらに」

一人の兵士が小走りで近付き膝をつくと、家重は捲し立てるように言った。

「門の側に参り、そこに居る者の様子を探って参れ」

「はっ」

何事かも分からず命を承った兵士は、慌てて立ち上がると一目散に走り去った。

少しして戻ってきた兵士に家重は、息を整える間も与えず問うた。

「如何であった?」

「はっ、槍組の兵士が二名、門の手前で槍を振って居りました。おそらく昂る気を紛らわして居る様子に御座います」

兵士の報せに驚いた家重は、目を丸くして年老いた猟師に目を向けた。それに合わせるように、年老いた猟師が得意げな笑みを浮かべて頷くと、家重は突然、床几より立ち上がり大音声で叫んだ。

「我が兵達よ、儂の声を聞け!」

張り上げる大将の声に、金子曲輪で深い霧を案じていた兵士達はおろか、下の段にてその姿を見ることが出来ない者達も、家重の声の方に向き直り黙して耳を傾けた。

「敵が参る折は深き霧がその姿を遮るであろう。されど案ずることはない。猟師達は見えぬ敵を射る業を会得しておる」

「おおっ」

金子曲輪の内外から雄叫びが上がった。家重は年老いた猟師に目を向けて頷くと、声を限りに叫んだ。

「猟師達の後に続け。されば勝機は我らのものじゃ!」

「応!」

兵士達の喚声が尾根上に響き渡った。その士気の高さに、家重は満足げな表情で何度も頷いた。そして年老いた猟師は、まるで孫を愛でるような表情で家重を見詰めていた。


「与三郎に御座います」

御主殿の奥、比佐の居室の前に、甲冑を身に纏った与三郎が跪いている。

「お入りなさいませ」

相変わらずの心地よい比佐の声に導かれ、与三郎は一礼して入室した。

「夜分にご無礼致します。実は」

「間もなく敵が攻めて参るので御座いましょう?」

与三郎の言葉を遮った比佐は、悪戯な表情で笑みを浮かべた。

「そなたの顔に、左様に書いておりますよ」

(此様な折にこのお方は・・・)

与三郎は心の中で溜め息をつくと、改めて居を正した。

「仰せの通りに御座います。故にお方様、早々にお逃げくださいませ」

比佐はゆっくりと首を横に振った。

「何故に御座いまするか?」

与三郎は腰を浮かせた。だが比佐は相変わらず笑みを浮かべて与三郎を見詰めている。与三郎は困惑した。

領民達と共に戦うことが決まってから、比佐は領民、特に女房達と共にその準備に明け暮れた。時には矢玉を作り、時には武具を直すなど、女房達の手伝いをする傍ら、城普請の場に顔を出し、人足達に労いの言葉をかけ酒を振る舞う等々、氏照の代わりを務めることで戦備えを後ろから助けてきた。その裏で女房衆を焚き付けていたことを知らない与三郎であっても、これまでの比佐の行いは八王子城の備えに十分貢献したと考えたのであった。

「私には未だ為すべきことが残っています」

「それは如何に御座いまするか?」

得心のいかない表情で問うた与三郎に、比佐は小さく溜め息をついた。だが与三郎の真っ直ぐな思いを感じた比佐は、諦めるように口を開いた。

「冥土にて殿をお待ち致すことです」

比佐の本意を聞き、与三郎は言葉を失った。それは家臣が口を挟めぬ領域であり、主の死を覚悟した室の為すべきことでもあった。与三郎はそれを察すると、ゆっくりと腰を下ろし両手を着いて平伏した。

「ご無礼を申しました。お方様のお覚悟、畏れ入りまして御座います」

「私の我儘かもしれませぬが、この思い遂げさせてくだされ」

「はっ」

比佐の思いを承った与三郎は立ち上がり後ろ向きに下がると、再び跪いて言った。

「されば儂はこれより、お方様の思い存分に遂げられますよう御主殿の守りを務めまする」

「お手間を取らせますが、よろしゅうお頼申します」

「承知任りました。後免」

そう言うと与三郎は居室を後にした。

持ち場に向かう与三郎は比佐の強い思いに感銘し、それに対してあまりに薄い己の思いを憂いながら心の中で問うた。

(儂の為すべきこととは如何に?)


「儂は領民に信を置かぬ」

三の丸に配下の者達を集めた宗円は、口を開くなり悪言を叫んだ。

「此様な折にそれを申されるか」

「一庵様、お止めくだされ」

すぐ目の前まで敵が攻め寄せて来ているというのに士気を下げるようなことを口走る宗円に、その気質を知る家臣達は慌て始めた。だが宗円は続ける。

「そなたら領民は、戦により田畑や猟場を荒らされ、住処を焼かれ、己の命すら危うくなろうとも、戦が終わりし折は旧主に等しく新たな主に従う。そなたら領民の理は、生きるを是とするものと存ずる」

領民達は宗円の言葉にざわめき始めた。家臣達の表情がさらに青ざめる。

「早うお止めせよ」

「されど・・・」

困り果てる家臣達を他所に、宗円はさらに続けた。

「じゃが我ら侍は、命を賭して領地を守り、戦が終わりし折は野に下るか腹を召してまでも旧主に忠する。我ら侍の理は、潔しを是とするものであり、そなたら領民の理と交わることは叶わぬ。故に儂は領民に信を置かぬのじゃ」

「早う致せ」

「お止め・・・出来ませぬ」

諦めた家臣達が力なく項垂れた。混乱する領民達のざわめきが、徐々に大きくなる。そんな配下の者達の様々な思惑を切り裂くように、宗円は出来る限りの大音声を発した。

「されど!」

宗円の声に領民達はざわめきを止めた。皆が黙し静まる中、宗円は続けた。

「此度、命をかけて八王子領を守るべくこの城に残った者達は、我が殿のご厚恩に感銘致したが故の所業であろう。それは領民の理にあらず」

配下の者達は皆、騒ぐ心を抑えつつ宗円の次の言葉を黙して待った。宗円は目を閉じ、遠くを見つめるように顎を上げると、己の思いを吐き出すように告げた。

「如何にもそれは侍の理。すなわちここに集いし者は、皆、侍じゃ。故に儂はそなたらに信を置くことと致す」

安堵する配下の者達と、あの偏屈な宗円に認められ嬉々とする領民達が、今ここで一つになった。宗円はその目を開き、皆を見回して叫んだ。

「坂東武者共よ、存分に戦おうぞ!」

「応!」

武士たちは笑みを浮かべ、領民たちは熱いものを流しながら、出来うる限りに声を上げた。

宗円の顔に笑みが浮かんでいる。それは皆の士気が高まったことによる安堵感と、己の胸に支えていたものが落ちた爽快感によるものであった。


「勘解由様」

深い霧に包まれる高丸にて闇の向こうを凝視している家範に、二人の武将が声をかけた。振り向いた家範はその薄ぼやけた立ち姿に声を上げた。

「何じゃ清右衛門、真之介。そなたら榎本衆の持ち場は近藤曲輪であろう。此様な場にて如何して居られる?」

不思議そうな表情で問うた家範に清右衛門が真剣な面持ちで応えた。

「実は我ら何としても勘解由様と共に戦いたく罷り越しました」

「何と?」

驚く家範に真之介も真っ直ぐな瞳を向けた。

「是非とも我らを勘解由様の陣にお加えくだされ」

二人の思いに家範は熱いものを感じた。だがその応えはその思いとは反するものであった。

「お二方のお申し出、実にありがたきことでは御座るが、榎本衆の中でも一二を争う剛の者を頂くは出羽守様に申し訳が立たぬ。折角のお申し出なれどご辞退致しとう御座る」

八王子城の助力の為に榎本城より参城し、これまで共に槍の鍛練を領民に施してくれた清右衛門と真之介に感謝していた家範は、出来れば二人と共に戦いたいと心の底で願っていた。だがそもそも二人が八王子城に参城したのは、坂東武者の誇りと厚恩への義を重んじる主、綱秀の思いに賛同したが故である。二人の為すべきことは、主や同輩と共に戦うことだと家範は考え、己の思いを封印したのであった。

「左様なことを仰せにならず、是非にも我らに共に戦う場をお与えくだされ」

「是非にも、是非にも」

二人の勢いに圧される家範は、少し困惑した表情で問うた。

「そなたらの主、出羽守様は何と申されておられた?」

真之介は熱い視線を家範に向けながら応えた。

「よき冥途の土産じゃとお笑いになられ、我らの好きにせよと仰せになられました」

(あのお方らしいのう)

家範は溜息をつくと、さらに困り果てた表情を浮かべ、首の後ろを掻きながら諭した。

「共に参った榎本衆達の中には、友や親族もおられよう。その者達と二度と会えぬやもしれぬのじゃぞ」

清右衛門が身を乗り出して応えた。

「すでに今生の別れは済んでおります」

清右衛門に合わせるように、真之介も身を乗り出した

「皆、我らを激励してくれました」

顔に朱を纏わせ目を血走らせる二人に、家範は一つ息を吐くと表情を締めて問うた。

「実によいのだな?」

二人はその意の固さを表すように強く大きく頷いた。

「左様か」

家範は二人の意を受け取るように頷くと、槍の石突を地に突き立てて告げた。

「さればそなたらを我が配下と致す。励むが良い」

「ありがたき幸せ」

「お任せくだされ」

清右衛門と真之介は頭を下げ、安堵の表情で礼を述べた。

「さて、これからじゃ」

そう呟いた家範は二人を引き連れ、高丸の奥へと歩いて行った。三人の後を取り巻くように、乳白色の霧が怪しげに揺らめいていた。


(この地よ、何故、口を閉ざす)

二の丸の縁に立ち、目を閉じ両手を広げる照基は、未だ聞こえぬ地の声に不安を感じていた。

(やはり戦に決したこと、怒っておるのか)

心の中で呟いた照基は、いつもの所作である三度の深呼吸の後、両手を胸の前に合わせ大きく息を吐くと、ゆっくりと瞳を開いた。

相変わらずの真顔のまま辺りに立ち込める深い霧を見詰めていた照基は、二の丸の向こう側で何やら騒ぎが起きていることに気付いた。

小走りで騒ぎのする方向に向かった照基は、その人集りの中に割って入った。

「如何しました?」

数人の侍と商人が照基に慌てて頭を下げる中、この騒ぎの当事者であろう一人の侍が顔に朱を浮かべて口を開いた。

「信濃守様、この者は懐に小判をしのばせておるので御座います」

「ほう、小判ですか」

そう応えた照基は、横で不服そうにしている中年の商人に目を向けた。中年の商人も目をつり上げて照基に言った。

「私達商人にとり小判は守り神に御座います。このお武家様はそれを捨てよと申されたのです」

「捨てよとは申しておらぬ。左様な物を戦場に持ち込むは不謹慎故、何処ぞに置いて参れと申しただけじゃ」

「何処ぞと申されても、今さら店屋には戻れぬことはご承知に御座いましょう。それでは捨てよと申されておられるのと同じで御座います」

お互い引こうとしない侍と商人に、他の者達は皆、当惑して黙したまま見守ることしか出来ないでいる。照基は溜め息をつくと、二人の肩に手を掛けた。

「二人ともお止めなさい」

憮然とした表情で当事者の二人は照基に向き直った。その二人に照基は諭した。

「商人にとって守り神である小判は侍にとっての刀や護符のようなもの。故に肌身離さぬは当然です」

当事者の商人を始め、その場に居た商人達は一様に頷いた。照基は続けた。

「されど坂東武者の誇りは、銭や小判で売り買い出来るものではありません。それは我ら侍にとり金銀より重きものが忠義や恩義であるからです。左様な我らが命のやり取りを致す戦場に、小判を持ち込むは些か不浄とも云えましょう」

取り囲む侍達は、照基の言葉に大きく頷いた。

当事者の侍と商人を交互に見やった照基は、一呼吸置いて当事者の侍に向き直った。

「されどこの者達は、命のやり取りなど致さず一生を終えるが天命でした。左様な者達を戦場に立たせ天命に背かせたは、我ら侍の責に他なりません。ここは一つ、商人の理を尊重致しましょう」

照基の言葉に、侍達は一様に目を伏せた。

守るべき領民達を戦に巻き込んだのは、寡兵で戦に挑もうとする侍達の身勝手である。その心苦しさは八王子城の兵士の末端に至るまで、痛い程に感じていたのであった。

一瞬、黙した当事者の侍であったが、すぐにその目を照基に向けると、ゆっくりと頭を下げた。

「信濃守様の仰せのとおりに御座います。お手を煩わせ致し、誠に申し訳ございませぬ」

詫びる当事者の侍の姿に頷いた照基は、横に立つ商人に目を向けた。

「ただし戦場においては格好の餌食となりましょう。努々、用心致すように」

「はい、ご無礼を致しました」

中年の商人は頭を下げて照基に詫びると、改めて争い相手の侍に向き合い無礼を詫びた。その侍もまた、武士としてあまりに非礼な行いであったとして商人達に詫びた。そんな二人の姿に安堵した照基は、満足げに頷くとその場を去ろうと歩き出した。

「信濃守様」

一人の老侍が声をかけた。

「我らの誇りを表して頂き、恐悦至極に御座います」

嬉しそうに語る老侍に、照基は表情を変えず言った。

「儂は本意を申したまでです」

そう言って歩き始めた照基は、数歩進んだところで突然その歩みを止めた。

(儂の本意?)

照基は己に問い返した。

これまでこの地を汚さぬことが己の本意であると信じていた照基は、揉め事を収める為とはいえ忠義、恩義を本意であると疑いもなく口にした。そしてその発言に何ら違和感を感じていないことに改めて気付いた照基は、己の本意を見失ってしまったのであった。

照基は二の丸の縁に走り寄ると、瞳を閉じて両手を広げ、再び地の声に耳を傾けた。

しばらくその姿を続けていた照基は、突然その所作を止めると、ゆっくりと瞳を開いて呟いた。

「この地よ。儂の為すべきこととは何処にあろうか?」

しばらく風の音に耳を傾けていた照基であったが、結局、地の声は聞こえなかった。

(やはり応えてはくれぬか)

照基は深々と頭を下げ、小さく溜め息をつくと、己の持ち場に向かってゆっくりと歩き出した。


静寂の中、篝火の薪のはぜる音だけが聞こえる八王子城の本丸。腕を組み床几に座す吉信は、まるで瞑想するようにその瞳を閉じながら、静かにその時を待っていた。しばらくして篝火の薪が一際大きくはぜた瞬間、吉信は瞳をゆっくりと開いた。

「来る」

勢いよく床几から立ち上がり本丸の縁に歩み寄った吉信は、視界を奪う乳白色の濃い霧の先を見詰めながら耳をそばだて、遠くに聞こえる喚声と衝突音を耳にした。

(始まったか)

心の中で呟いた吉信は、次の瞬間、声を上げた。

「皆よう聞け!」

本丸の兵達が吉信に向き直ると、吉信は続けた。

「時は来た。各々、悔やまぬよう努めよ!」

「はっ!」

「されば皆の者、為すことを為せ!」

「応!」

具足の擦れる音と足音が響き渡り、各々の持ち場に散る兵達は無気味に揺れる乳白色の霧に飲み込まれていった。

天正十八年(一五九〇年)六月二十三日亥の刻、ついに八王子城の戦いが幕を開けたのであった。

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