襲来
「ほお、やっておるな」
八王子城の東側、あんだ曲輪に足を運んだ綱秀は、満足そうに顎髭を擦った。そこには槍の鍛練に汗を流す農民達と、それを指南する家範と二人の榎本衆の武将が居た。
「これは出羽守様、如何なされました?」
綱秀に気付いた家範は、笑顔で頭を下げた。
「出丸を検分致しに参った所、何やら勇ましき声が聞こえてきた故、覗きに参った次第じゃ」
綱秀は八王子城の東端、大手門の北側の備えを案じ、出丸を構築することを提案した。同様に不安を感じていた八王子衆の後押しもあり、吉信はそれを了承した。己が提案した出丸の進捗が気になる綱秀は、日に一度はその様子を見に来るのであった。
「して鍛練は進んでおるか?」
槍を振るう農民達に目を向けて綱秀は問うた。
「榎本衆のお陰にて、思うとおり進んでおります。出羽守様は良い家臣をお持ちに御座いますな」
農民達に叱咤する榎本衆の武士達に目を向けて家範は応えた。その視線に気付いた二人の武士が駆け寄り、綱秀の前で頭を下げた。
「これは殿、如何なされましたか?」
細面で筋肉質の武士が口を開いた。
「鍛練の声が聞こえた故、様子を見に参ったのじゃ。八王子の民は如何じゃ?」
綱秀の問いに小太りで丸顔の武士が応えた。
「皆、懸命に鍛錬いたしております。我らの方が感化致すほどに御座います」
「ほう、それは立派な心がけじゃ。領主やその家臣が如何に良き政を致しておったかが良う分かる」
うらやましげな表情を見せる綱秀に、家範は胸を張って言った。
「全ては殿のご仁徳に御座います」
笑みを浮かべて頷いた綱秀は、二人の家臣に目を移した。
「清右衛門、真之介。勘解由殿の足手まといにはなっておらぬであろうな」
「出来得る限りご迷惑をお掛け致さぬよう努めておりますが・・・」
細面の顔で目尻を下げる清右衛門が口ごもると、手拭いで汗を拭きながら真之介が続けた。
「勘解由様のご指南に目を奪われ、つい手を止めてしまいまする」
綱秀は破顔した。
「それは致し方ないことじゃ。勘解由殿は北条家にこの人ありと言われた槍上手。見とれぬ方がどうかしておる。そなたらも勘解由殿の槍さばき、しかと見習い励むが良いぞ」
「はっ」
承った清右衛門と真之介の顔つきが以前より精悍になっていることに気付いた綱秀は、満足そうに頷くと感謝の意を込めて家範に目を向けた。家範は照れくさそうな表情で小さく首を振った。
そんな中、家範はこちらに走り来る小者の姿に気付き表情を硬くした。
「申し上げます」
「如何した?」
小者のその表情に何かを感じ取った家範に小者は頭を下げて言った。
「近藤様、中山様、ご城代より急ぎ御主殿広間に参集せとの命に御座います」
「来たか!」
綱秀が叫んだ。
「あい分かった。されば出羽守様、急ぎ参りましょうぞ」
表情を引き締め綱秀を促した家範は、清右衛門と真之介に向き直った。
「これより軍議故、あの者達の鍛練、お頼み申す」
「承知任りました。お任せくだされ」
「ささ、早う御主殿に」
清右衛門と真之介に頷いた綱秀と家範は、早歩きで御主殿へと向かって行った。
「遂に武州にも攻め入って参ったか」
宗円が溜め息混じりに呟くと、吉信は黙したまま小さく頷いた。
天正十八年(一五九〇)四月半ば、関八州北部の備えである上州松井田城を落とした北国勢は、上州を南下し武州に侵攻すると、北部の諸城を次々に落とし、五月初めには武州鉢形城を囲んだ。
物見からその報せを受けた吉信は、御主殿広間に家臣達を集めて軍議を開いた。
「おそらく鉢形城もあと数日で落ちるであろう。さすれば次は八王子城か忍城か、どちらにしても六月にはこの城に攻めて参るであろうな」
世情をよく知る宗円の言葉に吉信は頷いた。
「一庵殿の申される通りじゃ。故に我らもそれに備えねばならぬ」
吉信は照基に目を向けた。
「信濃よ、敵が我が城を囲んだ折は、如何に攻めて参ると考えるか?」
軍略に長けた照基は、一つ息を吸い込むと、その瞳に力を込めて語った。
「先ずは大手門より大手道を通り御主殿に攻め入り、その後、山王台に向かいそれを越え、中の丸、二の丸、本丸に向かう一の手。おそらくこの手が本隊に御座いましょう」
八王子城は深沢山の尾根を切り開いた山城である。
城の東側に構える大手門から、真っ直ぐ南西に伸びる大手道を通り、その右側を流れる城下川に架かる曳き橋を渡り虎口を抜けると、そこには御主殿曲輪がある。その曲輪の西端より深沢山を登る道があり、その中腹に山王台と呼ばれる曲輪がある。さらに登ると中の丸、その左側に二の丸、そして頂上の本丸に至るという行程を、本隊であるこの軍勢は辿ると予測した。
「また大手門の右手、出丸、山下曲輪、あんだ曲輪を抜け御主殿に至り、一の手と合流する二の手。これは本隊の別動隊に御座いましょう」
大手門の北側には綱秀が提言した出丸があり、そこから大手道、城下川に沿って山下曲輪、あんだ曲輪という曲輪が並んでいる。あんだ曲輪の北西部に御主殿の通用口があり、そこを通って御主殿に至り本隊と合流する。
本隊の別動隊とするこの軍勢は、本隊に沿って進軍すると予測した。
「また太鼓曲輪を越え大手道に入り、一の手に合流して本丸に向かう三の手。これは左翼隊に御座いましょう。おそらく太鼓曲輪から大手道への横矢掛りをさせぬよう、一の手より早う攻めて参ると存じます」
城下川を挟んだ深沢山と反対に位置するじゅうりん山の尾根の上に、城の南側の守りに備える太鼓曲輪と呼ばれる複数の曲輪群が配備されている。大手道に沿った造りから、大手道を進む敵に横から一斉に矢を射ることが出来る構造となっている。
本隊の進軍を助ける為、左翼隊の軍勢はここを攻めてくると予測した。
「さらに登城門より梅の木谷の尾根上を登り、柵門台を抜け高丸に至り、三の丸、中の丸、本丸へと至る四の手。直に本丸に向かう行程故、右翼隊の軍勢と存じます」
山下曲輪の北に造られた登城門から梅の木谷に沿い西に向かう尾根上を、山頂に向かって登っていくと柵門台と呼ばれる曲輪があり、それを越えると高丸に至り、三の丸、中の丸、本丸へと麓からほぼ真っ直ぐに登ることが出来る。
本隊とは別に右側を進軍するこの軍勢を、右翼隊として攻めてくると予測した。
「あとは小田野城を置く搦手側より柵門台に至り、先の軍勢に合流して本丸に向かう軍勢が御座いましょう。儂の思う所、敵勢はこの五手と存じます」
城攻めに必須である搦手よりの軍勢は、柵門台で右翼隊と合流し攻めてくると予測し、八王子城を攻めてくる軍勢が五部隊であると己の考えを照基は話した。
「さればその数は?」
兵数を問うた家範に、照基は表情を変えず応えた。
「おそらく北国勢は、一万から二万の軍で勢攻め込んで参りましょう」
「左様か」
家範は呟くように言うと、虚空を見詰めた。そんな中、綱秀が口を開いた。
「時に勘解由殿、我が方は如何程に御座るか?」
兵を取り仕切る家範は真顔で応えた。
「三千に御座います」
「ほう」
その数に皆は驚きの声を上げた。それは落胆の声ではなく、当初、千二百の兵力が領民の助力で三千に増えたことによる、感嘆に声であった。
満足げな表情を見せる家臣達を微笑みながら見ていた吉信であったが、突然、その笑みを消すと、真剣な表情で口を開いた。
「されば皆の者、これより各々の持ち場を披露致す」
皆は表情を引き締めその居を正すと、吉信の次の言葉を待った。
「先ずは本城の東、大手門から山下曲輪、あんだ曲輪じゃ。ここは出丸の普請を提言された功を踏まえ、出羽殿にお任せしたい」
「承知」
綱秀はゆっくりと頭を下げて承った。
「次に太鼓曲輪じゃ。ここは南より迫る敵を押さえつつ、大手道に横矢掛りを致さねばならぬ。常に周囲に気を配ることを忘れぬ左衛門尉。そなたに任せる」
「恐悦至極に存じます」
綱景は真剣な表情で頭を下げた。
「次は御主殿曲輪じゃ。ここは大軍が集結致す要所の上、お方様をお守りせねばならぬ。本来であらば儂が務めたき所じゃが、城代の任を務めるこの儂は本丸に居らねばならぬ。故に儂の代わりとして我が息、与三郎に任せる。よいな」
「はっ、父上の名を汚さぬよう、努めまする」
与三郎はその責に緊張の面持ちで承った。
「次に登城門から柵門台までの尾根上及び梅の木谷じゃ。ここは弓や鉄砲を用いる戦術を主とする場故、遠目が利き弓が上手の左京亮、そなたに任せる」
「はっ、お任せくだされ」
家重は笑みを浮かべた。
「次に柵門台から高丸じゃ。ここは大手側と搦手側の交差致す要所なれば、勘解由に任せる。なお、勘解由には中の丸も任せる故、精進致せ」
「腕が鳴りますわ」
家範は腕を回して息巻いた。
「さて二の丸には信濃、そなたに任せる」
「はい」
照基は相変わらずの表情で承った。
「一庵殿には三の丸と山王台をお願いしたい」
「承知した」
宗円は小さく頷いた。
「本丸には儂が詰める。なお、搦手は小田野城主、源太左衛門殿にお任せ致す」
小田野城は八王子城の搦手に建っている出城である。それを治める小田野源太左衛門は氏照の信が厚い城主であり、すでに小田野城に詰めている為、この軍議には参列していない。
一通り配置を命じた吉信は改めて皆の顔を見回して問うた。
「皆の持ち場は以上であるが、誰ぞ異存ある者は今のうちに申すがよいぞ」
吉信の問いかけに、家重が口を開いた。
「異存では御座いませぬが・・・」
「申してみよ」
吉信の許しを得ると、家重は少し緊張気味に言った。
「此度の戦普請において、梅の木谷の尾根上に新たな曲輪が切られておりまするが、未だ呼び名が御座いませぬ。兵共に軍令を与えるに、些か便が悪う御座います故、呼び名を付けとう御座います」
「そなたの申すこと尤もじゃ。されば左京亮、何と呼ぶか?」
吉信の問いに皆は家重に目を向けた。皆の視線を受ける中、家重は恥ずかしそうに言った。
「【金子曲輪】では・・・如何で・・・御座いましょう・・・や」
己の名字を呼び名にしたいと提言した家重に、皆は笑みを浮かべて頷いた。それは己の名を残したいと願う武士として当然の思いを口にした家重の実直な姿に感銘してのことであり、吉信もそれに笑みを浮かべて頷いた。
「さればあの曲輪、【金子曲輪】と呼ぶことと致そう」
「ありがたき幸せ」
吉信にその呼び名を認められた家重は、満面の笑みを浮かべて謝辞を述べた。
「なれば儂の願いも聞き入れてくださらぬか?」
綱秀が家重に続くように口を開いた。
「申されよ」
吉信の許しを得ると、綱秀は笑いを堪えるような表情で言った。
「山下曲輪は上段と下段に分かれておる故、これもまた便が悪い。上段をそのまま【山下曲輪】と呼び、下段を別の呼び名と致したいが如何じゃ?」
皆の表情に薄笑いが浮かんだ。
「されば何と呼びまするか?」
笑みを浮かべて問うた吉信に、綱秀も笑みを浮かべて言った。
「【近藤曲輪】と致したい」
(左様であろうな)
皆は心の中で同様の思いを呟くと、抑えきれず声を上げて笑った。ひとしきり笑った後、吉信が笑みを浮かべて言った。
「さればあの曲輪、【近藤曲輪】と呼ぶことと致そう」
吉信に呼び名を認められ、綱秀は安堵の表情を見せると家範に目を向けた。
「この際じゃ。勘解由殿も何ぞ名を残したらどうじゃ?」
家範は笑みを浮かべて右腕を擦った。
「儂はこの腕一つで名を残しまする」
「これは勘解由殿らしゅうお言葉じゃな」
綱秀はこの剛の者の言葉に納得した。和やかな空気の中、家重が綱景に向かって言った。
「されば左衛門尉殿は如何で御座るか?」
問われた綱景は少し照れ臭そうに目を落とした。
「儂は領民達の思いを遂げられればそれでよい」
「ほう」
皆は綱景の言葉に思わず感嘆の声を上げた。そんな中、綱秀が何か思い出したように与三郎に問いかけた。
「そういえば与三郎殿はあまり意を表さぬようだが、ここは一つ何か己の名を残しては如何じゃ?」
綱秀の問いに与三郎は少し首を傾けて応えた。
「儂は横地の名に恥じぬよう努めるのみに御座います」
「さすがは孝の者じゃ。監物殿もよい息を持たれた」
綱秀の誉め言にまだまだじゃと言いたげな表情で嬉しそうに溜め息をついた吉信は、話題を変えようと照基に声をかけた。
「信濃はどうじゃ?」
「儂はこの地を汚さぬことを常と思うております。その思いは今もこの後も、変わることはありません」
相変わらず表情を変えずに照基は応えた。
吉信は最後に宗円に問うた。
「一庵殿は如何かな?」
宗円は笑みを浮かべた。
「儂は殿の厚恩に報いるのみじゃ。そなたも左様であろう?」
吉信は大きく頷いた。その姿に同じ思いを持つ家臣達も気を引き締めて大きく頷いた。その瞬間、ここに居る全ての者の気が一つになった。それを感じた吉信は胸を張り、表情に威厳を湛えて言った。
「されば皆の者、これよりは己の思うがままに致すがよい。城を捨て逃げようとも、戦わずして降伏致そうとも咎めはせぬ」
一呼吸置いた吉信は、その居を正す家臣達をゆっくりと見回して告げた。
「為すべきことを為せ。よいな!」
「応!」
家臣達の声が御主殿広間に響き渡ると、城内を吹き抜ける初夏の風が、もうじき始まる戦の気運を運んできた。
時を告げる鐘が城内に鳴り響く酉の刻、沈み始めた日差しが、御守殿の庭に佇む吉信の顔をゆっくりと朱に染めている。
顔の皺に染み込む夕陽がその陰影を強調し、まるで世を憂う仙人のような表情で池の淵を見詰めている。
「監物殿」
心地よい鈴の音のような声に我に返った吉信は慌てて振り返った。
「これはお方様、ご無礼を致しました」
すぐ後ろまで近付いていた比佐に全く気が付かなかった吉信は、両手を膝に置き頭を下げてその非礼を詫びた。
「鱗岩を眺めておられたのですか?」
比佐は吉信の視線の先にあったであろう庭石に目を向けて問うた。
鱗岩とは御守殿の庭池の淵に佇む横幅三尺六寸、高さ一尺五寸、奥行八寸程の三角の岩である。
その形が北条家の家紋、【三つ鱗】に似ていることから、八王子城の守護石として崇拝されていた。
「そういえば殿もお悩みの折は、よう鱗岩をご覧になられておりましたね」
懐かしむように鱗岩を見詰める比佐の表情に憂いの色が浮かんでいる。それは間も無く戦となるこの城に氏照が居ないことへの不安の表れであった。それを払拭させることなど誰にも出来ないことを知る吉信は、己の胸を鷲掴みにされたような痛みを感じながらも黙したまま鱗岩を見詰めていた。
「此度の軍議は如何なりましたか?」
吉信と並んで鱗岩を見詰めていた比佐がその視線を移さず口を開いた。吉信は比佐に向き直ると、落ち着いた口調で応えた。
「此度は各々の持ち場を決しました。あとは敵を待つばかりに御座います」
「左様ですか」
比佐は鱗岩を見詰めながら表情を変えずに応えた。
「なお御主殿の守りは我が息が担いまする故、力不足とは存じますが何なりとお命じくだされ」
吉信の言葉に笑みを浮かべた比佐は、嬉しそうに吉信に向き直った。
「それは執着です。何しろ与三郎殿は侍女達の憧れですから皆も喜びましょう」
痩身で端正な顔立ちを持ち武士とは思えぬ程の心配りを常に怠らない与三郎は、侍女に限らず八王子のおなご衆の憧れであった。
「些か容姿が目立つだけで武功も上げられぬ愚息に御座います」
嫉妬混じりに与三郎を罵った吉信に、比佐は首を小さく左右に振った。
「何を申されますか。与三郎殿は孝のお方と皆が申すほどの親思い。実にご立派で御座いますよ」
与三郎を誉める比佐に、吉信は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「あの愚息に過分なお言葉、ありがたき幸せに御座いまする」
改めて頭を下げる吉信に、比佐は満足げに頷いた。
他愛ない会話に重くのし掛かっていた憂鬱が消えてゆくのを感じた吉信は、突然、何かを思い出したように腰を叩いた。
「そうじゃお方様。儂には一つ解せぬことが御座います」
「ほう、それは如何なることですか?」
興味深げな瞳を向ける比佐に、吉信は真剣な表情で言った。
「ここ数日、儂は鍛練や普請の様子を見廻っておりまするが、領民達の懸命さには目を見張るものが御座いまする」
「それは執着ですね。ありがたいことです」
微笑みを浮かべて応える比佐に、吉信は表情を変えず続けた。
「左様に御座います。故に儂は感謝の意を込め領民達に労いの言をかけるので御座いますが、何故か皆、同じ応えを致しまする」
少し目を落とし困惑の色を浮かべてる吉信に、比佐は不思議そうな表情で問うた。
「ほう、それは何と応えるのですか?」
比佐の問いに吉信は目を上げると、凝視するかのように比佐を見詰めて応えた。
「『女房に尻を叩かれております故』と」
「左様・・・ですか」
目を泳がすように比佐は視線をそらした。
如何に八王子城への思い入れが強く、また氏照や家臣達への恩義を感じていたとしても、助力を願い出た領民の数は吉信達の予想をはるかに越えていた。また武術の鍛練に励み、城普請や戦備えに務める領民達の表情も、まるで何かに駆り立てられているかのように真剣であり、時には武士達に影響を与える程、ひた向きで熱心なものであった。そんな領民達に感謝しながらも、何か別の思いがあるのではと感じていた吉信は、領民達の言葉からそれが領民達の女房の檄であることに気付いたのだった。
「八王子の女房衆はお強いですからね」
再び吉信に目を向けた比佐は、改めて笑みを浮かべた。
「されど八王子の男衆とて屈強に御座います。何より皆が等しく女房衆に尻を叩かれておるとは、些か面妖では御座いませぬか、お方様」
まるで追い詰めるかの如く問いかける吉信に、比佐は鱗岩に目を向け応えた。
「女房衆にも殿への思いがおありなのでしょう」
目を背けるその仕草に、領民達の思いが助長したのは比佐の仕業であると吉信は確信した。
吉信は一つ息を吐くとその皺のような目に力を込めた。
「お方様」
「はい」
「何事か女房衆に耳打ちなされたのでは御座いませぬか?」
「さあて如何でしょうね」
明らかに動揺する仕草で白を切る比佐に、吉信はその瞳に優しさを漂わせて言った。
「お気遣いは無用に御座いますよ、お方様」
驚いたように瞳を丸くした比佐は、その表情のまましばらくの間、吉信を凝視した。その表情が変わらないことに業を煮やした吉信が少し首を傾け笑顔を見せると、比佐は観念したように笑みを浮かべて溜め息をついた。
「全てお見通しなのですね」
比佐の言葉に吉信は笑顔のまま頷いた。
氏照のことを誰よりも知る比佐は、氏照の心の奥底に秘めていた本意に気付いていた。それは領民達と共に戦いたいとする、荒唐無稽なものであった。
常に家臣領民と共にありたいと願う氏照であっても、領民に難を強いるような私念を領主が自ら望んではならないことは分かっている。故に氏照はその思いを比佐にも告げることなく、八王子城を後にしたのであった。だが氏照の心を良く知る比佐はそれを痛い程に感じ取り、如何にすればその思いを現実のものに出来るかを常に考えていたのだった。
そんな折、忠兵衛達が助力を求めたことを知り、涙を浮かべて喜んだ比佐は領民達の思いが萎えぬよう女房衆に働きかけたのであった。
「領主の室としてあるまじき所業ですね」
後悔するように比佐は目を落とした。
「お方様」
「・・・はい」
ゆっくりと顔を上げる比佐に吉信は優しい声色で言った。
「殿の居られぬこの城では、皆の心が折れたとて、是非もないことに御座います。故にお方様の為されたことは、我らにとって願ってもないことに御座いまする」
吉信の言葉に比佐は潤んだ瞳を向けた。
如何に吉信が領民から慕われているとはいえ、崇拝に近い信頼を受けていた氏照には遠く及ばない。それは領民達にとり小さな無力感であったとしても、やがて大きな虚無感となり、果ては後悔へと変貌してしまう。忠兵衛達が邸を訪れて助力を願い出た折から、吉信はそれを危惧していた。
だが女房衆は、男衆が氏照に向ける敬慕の念と同じ思いを比佐にも持っていた。それは高貴な立場でありながらも、常に等しく接してくれた比佐への情愛であった。
そんな比佐の力になりたいと、女房衆は男衆に檄を飛ばし支えていたのであった。
「殿の居られぬこの八王子城において、此様に皆の心が奮い立つは、お方様のお陰に御座います。これぞ領主の室として為すべきことに御座いましょう」
(為すべきこと・・・)
吉信の言葉は比佐の心にのし掛かる重石を一瞬にして取り去った。
安堵の表情を露にした比佐は、吉信を下から覗き込むようにして問うた。
「左様でしょうか?」
比佐の問いに吉信はまるで娘を愛でるような表情で応えた。
「左様に御座いますよ、お方様」
吉信の言葉に小さく頷いた比佐は、思わず童のような嬉々とした表情を露にした。その姿を見詰めながら、吉信は心の中で呟いた。
(実に正直で可憐なお方じゃ。殿が愛でておられたのがよう分かる)
しばらくの間、温かい時を堪能していた吉信は、御主殿が夕闇に包まれていることに気付き、比佐の姿を改めて目に焼き付けた。そして笑みを消すと、表情を硬くして言った。
「されば儂はこれより戦支度を整え、本丸に籠ることと致しまする」
吉信の言葉に比佐も表情を引き締めた。
「監物殿」
「はっ」
「殿がそなたの隠居をお認めになられなかったことは、正しき断に御座いましたね」
吉信は比佐の表情と問いかけに、戦に向け張ろうとしていた気を一時だけ緩めた。
「戦はこれからに御座います。正しき断であられたかどうかは、その後に明らかになりましょうぞ」
笑みを浮かべながら応えた吉信に、比佐は満足そうに頷くと、熱くなる瞳を笑顔で隠しながら言った。
「ご武運を」
「はっ、しからば御免」
吉信は頭を下げると、本丸に続く間道に向けゆっくりと歩を進めた。
もう今生では会えないと覚っているのであろう、比佐はその後ろ姿を見送りながら、これ迄の吉信の忠義に感謝を込め深々と頭を下げた。そして再び鱗岩に向き直ると、いつまでもそれを見詰めていた。
初夏の夕陽はすでに山影へと身を隠し、八王子城が闇に包まれた。それは平穏な日々がまた一日終わり、戦へと誘ってゆくように感じる。
未だ冷気が残る深沢山を渡る風だけが、何食わぬ顔で吹き抜けていった。