申し入れ
「七百・・・か」
吉信は目を落として呟いた。
八王子城が戦うことに決してより十五日程経った二月、ここ数日、雪雲に覆われていた冬空に久方ぶりに顔を覗かせた日差しが傾き始め、山影が朱に染まり始めた申の刻、家範と綱景が吉信の邸を訪れた。居室に通された二人は挨拶もそこそこに、予測出来る八王子城の兵数を報告した。
氏照が率いた四千を除いた八王子城の総兵力は千五百程度である。だが兵農分離の出来ていない北条家において領民の逃避を許すことは、半数以上の兵力を損失するに等しく、家範は八王子城の残存兵力を七百程度と推測したのだった。
「戦や作事を主にする者共を算じました故、その実はそれより少のうやもしれませぬ」
溜め息混じりに告げた家範は、不安げな表情で吉信を見詰め、その右横に座す綱景もまた、同じ表情で吉信を見詰めていた。
その表情には、予想以上に寡兵となることを知った吉信の心に迷いが生じ、その迷いが抗戦に決した八王子衆の士気を落とすのではないかと危惧する家範の思いと、兵力増強の為、領民を徴集しようと言い出すのではないかと案じる綱景の思いが現れていた。
だが吉信の言葉は、二人の不安を打ち消すものであった。
「七百もの兵が集うとは実に祝着じゃ」
笑顔を見せた吉信に安堵の表情を浮かべた家範は、心置きなく本音を口にした。
「されどたった七百では心許のう御座いませぬか?」
吉信は笑みを浮かべたまま応えた。
「我が兵のほとんどは農民じゃ。領民に逃避を約した上は、満足に集せぬとて是非もないことじゃ。そもそも此度の戦は我ら武士の都合故、寡兵とて嘆くに及ばぬ」
「恐れ入りまする」
吉信の心を疑った家範と綱景は、己を恥じて頭を下げた。
「おそらく信濃にとっては難儀であろうがな」
吉信は戯けたような表情で言った。
戦略に明るい照基は、此度の戦においてその陣立てを任されている。五千以上の兵で構えることを想定して築城された八王子城において、七百の兵で陣立てするのは広大な平原に一間程の柵を設けて敵を迎え撃てと言われているのに等しい。三人は陣立てに苦心する照基の姿を想像して思わず声を上げて笑った。
「時に左衛門尉、その後の領民達の様子は如何じゃ?」
突然、笑みを消して問うた吉信に、綱景は慌てて表情を硬めた。
「先日、与三郎と手分けして村々の長にその旨を申し伝えました。おそらく数日内には皆、領内より出立致しましょう」
「左様か」
吉信は少し寂しげな表情を浮かべた。
「して八王子を出て行く者は如何程となりそうじゃ?」
家範が冷静に問うと、綱景はゆっくりと首を横に振った。
「実は村々の長に申し伝えてより、領民達が些か他所他所しゅうなり申しました故、その数はおろか何処に逃れるやも分からぬ始末」
「六助は如何じゃ?」
「あの者は儂を見留めると、慌てて小屋に逃げ込みまする」
これまで兄弟のように接していた六助の冷めた態度に寂しさを隠せぬ綱景は、目を落とすと深い溜め息をついた。
「我らはあの者達を裏切ったも同じ。致し方御座いませぬな」
家範も小さく溜め息をついた。
領民を戦禍から逃す為とは言えども城に匿わぬとなれは、武士が領民を守ることを拒否したことに等しく、それは領民の信頼を裏切ったと言われても仕方のないことである。
下を向く二人に、吉信は瞳に強い光を宿して言った。
「勘解由の申すとおりじゃ。されどこれは我らの意。如何に領民達に蔑まれ、後の世の笑い者となろうとも、我らは領民を避け戦う事に決した故はその想いを貫くのみじゃ」
「左様に御座いまするな」
「これしきの事で揺らいではおれませぬわ」
家範と綱景は顔を上げた。その瞳に浮かんでいた落胆の色は消え、吉信と同じ光が宿った。
三人が笑みを浮かべて頷く中、突然、襖の向こうから声がかかった。
「ご無礼致します」
「与三郎か。如何した?」
「出羽守様が参られておりまする」
出羽守とは、野州榎本城主、近藤出羽守綱秀のことである。
「今は榎本城とて何かとお忙しかろうに。お通し致せ」
「それが・・・」
「如何した?」
「些か多勢に御座いますれば・・・」
「多勢?」
「はぁ」
与三郎の煮えきらぬ態度に業を煮やした吉信は、ゆっくりと立ち上がると玄関へと向かった。家範、綱景、与三郎もその後ろに続いた。
玄関の外に立つ綱秀の姿を目にした吉信は驚愕した。
そこには大鎧を身に纏った綱秀を先頭に武具を携えた将兵が居並び、その後ろには数を測れぬ程の兵士が夕闇に紛れて何処まで続いていた。
「出羽殿、如何なされた?」
驚きの表情で吉信は問うた。その様子を楽しむかのように綱秀は豪快に笑うと、野太く枯れた声で言上するように言った。
「此度、八王子衆は関白殿下と干戈を交えるとお聞き致した。我が榎本衆はその意に感銘致し、助力致したいと存じ馳せ参じ申した。是非我らにも坂東武者としての意地を貫かせて頂きとう御座る」
邸内の四人は言葉を失い呆然としている。綱秀はその姿に笑みを浮かべながら続けた。
「陸奥守様と監物殿には未だお返し出来ぬご恩が御座る。是非ともそのご恩に報いる機を我らにお与えて下さりたく存ずる」
数年前、榎本領が飢饉に見舞われた折、八王子領より援助物資が届けられ、榎本領は難を逃れたことがあった。その後、御礼の為に八王子城を訪れた綱秀は、この年の八王子領が豊作ではなく、皆が渋る中で吉信だけが強く援助を進言し、それに迷わず氏照が即決したことで援助が行われたことを知った。氏照と吉信の厚恩に心から感銘した綱秀は、それに報いる機会を今日までうかがっていたのだった。
「恩に報いるなど恐れ多きこと。榎本衆も八王子衆も同じ北条家に御座います故、援助致すは当然のこと。されど・・・」
綱秀の義理堅さに感じ入っている吉信は、全身に走る温かく心地よい震えを抑えつつ、その表情を崩して本心を告げた。
「されど我らが寡兵であるは実。左様な我らにご助力頂くは願ってもないことに御座います」
吉信は一歩前に出ると、満面の笑みを浮かべて言った。
「是非我らと共に坂東武者の恐ろしさ、矢玉に変えて関白殿下に馳走致しましょうぞ」
榎本衆の助力を歓迎した吉信の言葉に、綱秀は大きく頷いた。
助力を求める八王子衆の思いと、助力するを望む榎本衆の思いが一致したことで、その場はまるで春の日差しが射し込んでいるような心地よい暖かさに包まれた。
そんな中、寡兵を案じている家範が思わず口を挟んだ。
「お久しゅう御座いまする出羽守様。してお連れの兵は如何程に御座いましょうや?」
笑みを浮かべて問うた家範に、綱秀は訝しむような目を向けた。
「これはこれは勘解由殿、確か貴殿は我らが飢饉に見舞われた折り、我らへの援助に強く異を唱えられたそうな」
家範の顔から一瞬にして笑みが消えた。
当時、領地での収穫を分配する比率は、年貢を半分とする五公五民から六割とする六公四民が主流であった。だが領民を思いやる北条家では、領民の取り分より少ない四割を年貢とする四公六民としており、榎本領への援助はその中から捻出するしかなかった。また榎本領に飢饉が及んだ折は、八王子領もさほどの豊作ではなく、収穫の四割である年貢から援助を出すことは、己の扶持を案ずる兵士達の士気に関わるとして、家範は援助することに難色を示したのだった。
横目で家範を睨んだまま薄笑いを浮かべて皮肉を口にした綱秀に、家範は慌てて膝を着いた。
「あっ、あの折りはご無礼を致しました。平に、平にご容赦を」
両手を着いて詫びる家範に、綱秀は声を上げて笑うと、ひれ伏す家範の肩を軽く叩いた。
八王子城にて援助と決した際、己れの身を切る様な慈悲深い氏照の決断と、それを進言した吉信の忠義に心から感銘を受けた家範は、己の考えの浅はかさを払拭するかの如く、早々に荷駄隊を率いて榎本領へと向かった。援助を待つ榎本衆は、先頭を進む家範と後に続く荷駄隊の列を目にした際、皆、歓喜の声を上げて涙を流した。そんな家範を恨む者など榎本衆の中には誰一人いなかったのであった。
「戯れ言じゃ勘解由殿」
「でっ、出羽守様」
涙目で綱秀を見上げる家範に、綱秀は微笑みながら言った。
「五百じゃ」
「五百?」
驚いて立ち上がる家範を含め、邸内の四人は驚きの声を上げた。
五百といえば榎本城の総兵力に等しく、それ程の兵を率いてきたとなれば榎本城は空き城となってしまう。
「榎本城は如何致すので御座るか?」
吉信は心配そうな表情で問うた。
「あの城は小山城の支城、籠っておっても何もせず降伏となるは明白じゃ。故に関白殿下と干戈を交える八王子を助力致そうと兵を募った所、皆付いて参ったまでの事。おそらく降伏を望む数名は残っておるじゃろうがな」
楽しそうに語る綱秀に、邸内の四人は笑みを浮かべた。
そんな中、吉信は三人に命じた。
「与三郎、今より家老衆、奉行衆を我が邸に参集致すよう触れて参れ。左衛門尉は急ぎ榎本衆に住処をあてがうよう手配を致すのじゃ」
「はっ」
頭を下げ承った二人は、夕闇の中、各々の方向に走り去っていった。
「住処が決するまで些か時がかかりましょう。勘解由、そなたは榎本衆を三の丸に案内せい。あと酒を振る舞う手配も忘れずにな」
「はっ」
榎本衆を導こうと家範が踏み出した瞬間、吉信が思い出したように言った。
「そうじゃそうじゃ、八王子衆にも今宵の飲酒を許すよう伝えよ」
家範は笑みを浮かべた。
「承知致しました。では皆の衆、こちらへ」
「忝のう御座います」
家範が榎本衆の先頭に立つ二人の武者に声をかけると、二人の武者は丁寧に頭を下げ、後続の兵士に号令をかけた。統率のとれた榎本衆は混乱もなくゆっくりと動き出し、家範の後を続いて行く。整然とした隊列の動きを頼もしく見詰めていた吉信は、我に返ったように綱秀に向き直った。
「されば出羽殿、我が邸にてお休みくだされ。皆が参集致したなれば、宴を設けまする故」
笑顔で招き入れる吉信に、綱秀も安堵の笑みを浮かべた。
「押し掛け同然の我らに、過分なもてなし痛み入り申す」
小さく頭を下げた綱秀は、吉信と共に邸に入っていった。
この日の八王子城は、酒宴の声が深夜まで続いていた。
間もなく雪解けとなる八王子城に、戦の気運が少しずつ高まってくる。
それを忘れさせるが如く、美しい三日月の浮かぶ夜であった。
「邪魔じゃ邪魔じゃ、どけどけ」
荒ぶる人足達の声が響き渡る。八王子城は喧騒に包まれている。櫓の木材を運ぶ者、石垣の石材を運ぶ者、武具を運ぶ者等々の荷車が行き交い、まるで昨日までの鬱気を吹き飛ばすかの如く、活気に包まれている。
それまで城普請や荷の運び入れを七百の兵だけで行っていた八王子衆にとって、綱秀が率いてきた榎本衆五百の助力はその兵数を凌ぐ程の成果を上げている。それは人数の増加だけにとどまらず、遅々として進まない戦仕度に対する不安と、敵が進軍を開始するであろう雪解けが目の前に迫っている緊張のもたらす焦りにより頻発していた作業の過ちや事故でさえも、榎本衆の助力によってまるで嘘のように無くなっていた。
「皆、良き表情をしておる」
御主殿曲輪の柵際から人足達の生き生きとした働きぶりを見下ろしている吉信は、その活気に満ちた城内の熱気に満足し、嬉しそうに呟いた。
「我が榎本衆には民百姓も含まれておる。あの者共も八王子衆の想いに感銘しておるようじゃ」
隣で共に見下ろしている綱秀が、吉信に顔を向けて言った。
民を逃すという八王子衆の方策を知った綱秀は、その無謀さに困惑を露にした。それは戦を恐れる兵士を逃がすのに等しく、戦を放棄させるも同然である。その上、降伏せず敵を迎え撃つなど、如何に領民を重んじる北条家であったとしても、無謀としか思えなかった。
だがこれに理解を示したのは、意外にも榎本衆の兵士達であった。彼らは如何に無謀な戦であっても戦場で華々しく散ることを望み、降伏や逃亡を拒否した者達である。故に八王子衆の方策は、逃げたき者を逃がし、戦いたき者に戦場を与えるという己達の思いに合致した考え方であった。
また領民でもある榎本衆の兵士達は、己達と同じ領民を重んじるという八王子衆の思いに深く感じ入り、共に戦うことを誇りにさえ思った。そんな兵士達の思いに背中を押されるように、綱秀はこの無謀な方策を受け入れたのであった。
「全ては出羽殿のお蔭に御座る。心より感謝致しまするぞ」
吉信は綱秀に向き直ると、深々と頭を下げた。そんな吉信に綱秀は笑みを浮かべて言った。
「監物殿の想いが皆に伝わったが故に御座ろう」
吉信も笑顔で頷くと、二人は再び柵下を見下ろし、黙したまま兵の働きに見とれていた。
しばらくして綱秀がおもむろに口を開いた。
「時に監物殿、その後、領民達の動きは如何じゃ?」
吉信は綱秀の問いに顔をしかめて応えた。
「皆、小屋に引き込もり顔を見せませぬ」
「未だ逃れぬと申すか?」
「左様に御座います。その本意が図れませぬ」
吉信はゆっくりと頷くと、困惑の表情を露にした。
「ふぅむ」
綱秀も顎に手を当てながら、領民の本意を考えた。
「おそらく荷造りでもしておるのであろう」
突然、二人の背後から聞き覚えのある声が聞こえた。振り向くとそこには、宗円が笑みを浮かべて立っている。
「一庵殿か」
二人も笑みを浮かべて頭を下げた。
「あの者共は己れのことしか考えておらぬ。明日にも皆、一斉に逃げ出すであろうぞ」
怪訝な表情で悪言を口にする一庵に、綱秀は呆れた表情を浮かべて言った。
「相も変わらず領民嫌いなお人じゃ。左様なお考えでよう民を逃すことに同意なされたのう」
「あの者達が居ると足手まといとなる故、同意したまでのこと。そもそも儂は領民を嫌うておるのではなく、信を置いて居らぬだけじゃ」
不服そうな表情で応える宗円に、二人は顔を見合わせて失笑した。己れの偏屈さに呆れたのであろう、宗円も照れ臭そうに笑みを浮かべた。
そんな中、三人の目に何やら叫びながら走ってくる小男の姿が見えた。
「お主様、お主様」
三人の前に立ち止まった小男は、両膝に手を置き苦し気な表情で息を整えている。かなり慌てて来たのであろう、苦しくて頭を上げられない小男に吉信は声をかけた。
「如何した、弥助」
弥助とは吉信に仕える使用人である。歳は吉信とあまり変わらないのだが、背が低く痩身の外見から吉信以上に老いを感じさせる。
肩で息をする弥助は無理矢理上半身を上げ、息を鼻から吸い込むと一気に言葉を吐いた。
「忠兵衛様がおいでに御座います。急ぎお屋敷にお戻りなされませ」
「忠兵衛が?」
驚いて口を開いた吉信に、弥助は再び下を向き息を整えながらも大きく頷いた。
忠兵衛とは、各々の村を取り仕切る長老達を、さらに束ねる長老頭である。
齢八十を越えている忠兵衛は、数年前に息子の新兵衛へ長老頭の座を委譲し隠居した。今では一人で歩くこともままならず、屋敷に籠っていると吉信達は聞いていた。
その忠兵衛が面会にやって来たとは尋常なことではない。
吉信は首を捻りながら弥助に問うた。
「まさか一人ではなかろう?」
少し息が整ってきた弥助は、顔を上げて応えた。
「他には新兵衛様と長老衆が三名程おいでに御座います」
一人で歩けぬ忠兵衛がわざわざ会いに来るだけでも尋常なことでないというのに、己を支える新兵衛の他に長老衆を三名連れだっているということは、単なる挨拶の類いではなく、長老衆の総意を忠兵衛が身を持って伝えに参ったと感じ、吉信は何やら胸騒ぎを覚えた。
「されば急ぎ参る故、与三郎に左様伝えよ」
「へぇ」
一礼した弥助は慌てて吉信の邸に引き返していった。
「ただ事では無さそうじゃ。儂も参ろう」
一庵の言葉に綱秀も頷いて続いた。
「ご城代に何かあっては一大事に御座る。儂もお供致そう」
「忝ない」
三人は急ぎ吉信の邸に向かった。
忠兵衛達は邸の中庭で吉信の帰りを待っていた。
当初、対応した与三郎は客間に入るよう進めたが、知らせもなく訪れた上、客間に招かれるなど勿体無いとして、忠兵衛は邸内に入ることを頑なに拒んだ。それに根負けした与三郎は、未だ残る積雪の上に老体を晒すのはさすがに不憫と思い、床几を用意し座るよう勧めた。足の悪い忠兵衛は、それならばありがたくと礼を言うと、踏み石の手前に床几を据えてその上に腰を下ろした。座位のとれない忠兵衛を支えながら左後ろに新兵衛が座すると、その後ろに三人の長老達が並んで座した。
しばらくして戻ってきた吉信は、中庭に面した濡縁に腰を下ろした。与三郎がその右手に、一庵と綱秀がその左手に座すと、吉信は笑みを浮かべて口を開いた。
「久しいのう忠兵衛。息災で居られたか?」
「ご覧のとおり一人では座することすら出来ぬ身に御座いますれば、ただ息をして生き長らえておるだけの老いぼれに御座います。されど此度はこの老いぼれがお伝え致さねばならぬご用に御座いますれば、ご無礼の程、ご容赦下さりませ」
何年も曲がったまま伸びることのない背を丸め、下を向いたまま詫びた忠兵衛の言葉に、新兵衛達は緊張の色を浮かべている。それを察した吉信達は笑みを消した。
「気遣い無用じゃ。申されよ」
促した吉信に顔を向けることなく、下を向いたままの忠兵衛が口を開いた。
「此度お武家様方には、我らを戦禍より遠ざけようとお考え頂き、心より感謝しております」
忠兵衛の謝辞に頷いた吉信達は、忠兵衛の次の言葉に表情を変えた。
「されどそのお慈悲のお心に従う者が、この八王子には一人も居りませぬ」
「何じゃと?」
思わず叫んだ宗円の声に、新兵衛と長老達は身を強ばらせた。だが忠兵衛はそれに動じず、変わらぬ姿のまま下を向いている。
「何故、皆は我らの意に従わぬのじゃ?」
怒りとも悲しみともとれぬ表情で吉信は問うた。忠兵衛は一つ溜め息をつくと、その甲高く渇れた声を押し出す様に言った。
「皆様はこの城を築城した折の事、覚えておられますかな?」
「築城の折とな?」
予想だにしない忠兵衛の問い返しに、宗円と与三郎は困惑した。その二人を横目に見ながら、綱秀は様子を伺っている。そんな中、吉信が笑みを浮かべて応えた。
「三年前のこと故、よう覚えておるぞ。あの折は我ら武門とそなたら領民が共に汗を流し、苦をものともせず普請に励んだ故、築城した折は手を取り合うて喜んだのう」
吉信は懐かしむように虚空を見詰めた。忠兵衛も懐かしそうな笑みを浮かべた。
「あの折我ら領民は、殿様や奥方様、ご家来衆の方々のご恩に報いようと、自ら城普請に参じて励みました。築城が成った折には寂しがる者まで居りましたわ」
「左様じゃな。まるで祭事の後のようであったのう」
再び懐かしそうな表情を見せる吉信に、宗円は与三郎に顔を向け、思い出したように口を開いた。
「殿におかれては、涙を流されながらお喜びになられておられたのう」
「左様で御座いましたな。殿のお涙を拝見致したは、後にも先にもあの折だけで御座いました」
与三郎も笑みを浮かべて話に入った。
打って変わった和やかな空気に、築城の場に居なかった綱秀も笑みを浮かべている。
「故にこの城は我ら領民にとっても思いの強い城に御座います。それを見捨てて逃げよと仰せになられても、従う者など居りませぬ」
領民に難を強いらぬよう思案したことが、結果、領民達を苦しませている。それを知った吉信達は大きく頷いた。
「故に我らの想いは、お武家様と共にこの城を守ることに御座います」
忠兵衛は諭すように領民の想いを告げた。皆が得心のいった表情を見せる中、宗円だけが複雑な表情をしている。それに気付いた綱秀が声をかけた。
「一庵殿、如何なされた?」
宗円が少し口ごもったように言った。
「戦に馴れぬ領民では足手まといとなろう。忠兵衛の申すことは尤もなれど、やはりここは我らの意に従うてもらわねばならぬ。左様であろう、監物殿?」
吉信が大きく溜め息をつくと、その場に思い空気が立ち込めた。
実の所、吉信も戦を知らぬ領民を参戦させることには一抹の不安があった。それは領民達の城に対する強い想いが、恐怖や危機意識を麻痺させ、その結果、多くの命を失わせることになるのではないかと危惧するものであった。そんな思いが決意を鈍らせ、吉信は肯定も否定も出来ないまま黙した。
そよ風に揺れる木々の細やかな葉音だけが響き渡る中、この重苦しい空気を打ち切るような低く野太い声が響いた。
「ご無礼任つりまする」
皆が声のする方に目をやると、玄関に続く通路に二人の武士が立っていた。それは忠兵衛達が吉信の邸に参っていることを耳にし、家範と綱景が慌てて参上したのである。
家範と綱景は片膝をついて頭を下げた。
「ご無礼の段、平にご容赦を願います。先程より忠兵衛の言、尤もに御座います。是非ともこの者共の意、お聞き届け頂けませぬか?」
「左様に御座います。是非ともお聞き届け下さりませ」
家範と綱景の懇願に、宗円は首を振った。
「大軍に当たる我らにとって、戦を知らぬ者を率いるは如何にも足手まといじゃ。諦めよ」
冷たく言い放つ宗円の言葉に、綱景は下を向いた。だが家範は宗円に強い瞳を向けて言った。
「足手まといでは御座いませぬ」
「なんじゃと?」
顔に朱を浮かべて宗円が腰を浮かせると、横に座す綱秀が宗円を優しく制した。吉信は小さくため息をつき、家範に言った。
「申してみよ」
「有り難き幸せ」
発言を許した吉信に謝辞を述べ、家範はその場に腰を下ろして胸を張った。
「戦に出向いたことのある者を除き、半数以上は武具を扱うた者は居りませぬ。されど猟師は常日頃から弓や鉄砲を扱うておりまする。また、百姓とて鍬鋤を槍や刀に代えて振り回すことも出来ましょう。左様な者共を儂が鍛練致したらば、足手まといになどさせませぬ」
「されば商人や職人共は如何する?」
顎を擦りながら宗円が問うと、家範の横で片膝をついていた綱景が口を開いた。
「武具に不馴れな者でも礫を投じることは出来ましょう。更に申さば手先の器用な女子供は矢玉を作ることが出来まする」
忠兵衛達の思いを成そうとする二人の心に、綱秀は感心した。だが、その横で未だ得心していない宗円は、小さな咳払いと共に冷やかな目を家範に向けた。
「そなたらの言、尤もじゃ。されどこれは家老衆、奉行衆が思案し、ご城代が決したことじゃ。領民の上意にて安易に違えるは武門の威を損のうた上、ご城代を蔑ろに致すこととなるのじゃぞ」
言葉に詰まった家範と綱景は、下を向いて唇を噛んだ。如何に領民の思いを成そうとも、吉信を蔑ろにすることは出来ない。宗円の言うことは、武士として筋が通っていた。
家範と綱景がもはやこれまでと諦めかけた瞬間、吉信が笑みを浮かべて言った。
「忠兵衛、そなたらの思いよう分かった。領民達がこの城に残り、戦の助力を致すことを許そう」
「ありがとう御座います」
長老達はひれ伏すように頭を下げた。身の自由が利かない忠兵衛も、出来る限り頭を下げた。
「おっ、お待ちなされ監物殿、安易に意を違えてはならぬ。撤回なされ」
宗円が慌てて撤回を求めたが、吉信はゆっくり首を振ると、優しい瞳で宗円に言った。
「一庵殿、もうよいでは御座らぬか」
「もうよいとな?」
「左様、そなたは領民達に難を強いたくないのであろう?」
「何を申すか監物殿。儂は信の置けぬ領民共のことなど考えておらぬ」
朱を浮かべて食ってかかる宗円を、横目で見ながら吉信は言った。
「そなたは先程『儂は領民を嫌うておるのではない』と申された。嫌うておらぬのであらば、好いておると申されたも同じに御座ろう?」
宗円は言葉を失った。
幼き頃より北条家に仕える宗円にとって、領民を大切にする思いは身に染み着いており、その気持ちは今も変わってはいない。だがその思いが強ければ強い程、裏切られたと感じる度にその不信感は増長し、信じることが出来なくなってなってしまったのである。
宗円は息を大きく吐き出し冷静さを取り戻すと、落ち着いた声色で吉信に問うた。
「実にこれでよいのじゃな?」
吉信はゆっくりと頷き冷静に応えた。
「領民を重んじるは、その生業を守ることだけに限らず。その思いを成すことも等しきことと儂は思うておる」
吉信の思いに皆が大きく頷いた。その気を感じた宗円は呟くように言った。
「致し方ないのう」
皆の表情に笑みが浮かび、忠兵衛達は安堵の表情を見せた。
だがその場の気を割くように、吉信は突然、居を正して厳しい口調で言った。
「さて忠兵衛。そなたらの忠義に我ら感銘致した。されど我が邸に断りもなく参った上、存念を言上致したは罪じゃ。故にそなたらには罰を与えねばならぬ」
吉信の言葉に、皆、驚きの表情を顕にした。
「さっされど・・・」
口を挟もうとした綱景に宗円は、黙して見ていよと言いたげな表情で、強い眼光を送った。綱景はその威に圧され口を閉じた。神妙な空気の中、吉信は続けた。
「先ずは三人の長老達。そなたらは忠兵衛に従って参った故、処罰は免じる。これまで以上に各々の村民達を導くがよい。されど・・・」
吉信は長老達をゆっくり見回すと、強い口調で告げた。
「各々の村民に戦の助力の強要や避鄕の抑制を致したと聞き及んだ折は、儂自ら首をはねる故、左様心得よ」
「はっ、はい」
長老達は深々と頭を下げた。
小さく頷いた吉信は、新兵衛に目を向けた。
「次に新兵衛。長老頭でありながら、此様な行いに荷担致すは言語道断じゃ。されど此度は一人で歩けぬ父親を支えて参った孝によるもの故、同じく処罰は免じる。だが新兵衛よ。実の孝なれば父に罪を犯させぬよう留めることであろう。故にこの後、罪を犯そうと致す者があらば留めるよう努めよ。それを怠ったと聞き及んだ折は、我が息、与三郎にそなたの首をはねるよう命じる故、左様心得よ」
「はい」
頷く与三郎に目を向け、新兵衛は深く頭を下げた。
吉信は再び小さく頷くと、忠兵衛へと目を向けた。
「最後に忠兵衛。そなたは此度の首謀者故、容赦は出来ぬ。よいな」
「覚悟はしております」
忠兵衛は神妙な表情で応えた。
吉信は一呼吸おき皆の表情を確かめると、改めて忠兵衛に告げた。
「そなたには武州より追放を命じる」
「何と」
その罰の重さに驚いた侍達は、一斉に吉信へ目を向けた。だが吉信は表情を変えず、黙したまま忠兵衛を見詰めている。
少しの沈黙の後、忠兵衛は小声で呟くように応えた。
「はい」
それに小さく頷くと、吉信は綱秀に顔を向けた。
「出羽殿、野州榎本領にてこの罪人を幽閉して頂けませぬかな?」
吉信の本意に気付いた綱秀は、笑みを浮かべて応えた。
「我が領内は降伏を望む腰抜けばかり故、長くはお預かり出来申さぬ。戦が終わるまでであらばお預かり致そう」
「それは重畳、忝のう御座る」
綱秀に頭を下げた吉信は、再び忠兵衛に目を向けた。
「出羽殿にこれ以上のご迷惑はお掛けできぬ。故に忠兵衛、そなたの追放は戦の間と致す。出羽殿に感謝致すがよいぞ」
「はい」
忠兵衛達は皆、涙を浮かべて頭を下げた。侍達は微笑みながら忠兵衛達を見詰めている。木の陰でその様子を覗いていた弥助が手を叩いて喜んだ。
そんな安堵の気に包まれる中、吉信は綱景に目を向けて言った。
「されば左衛門尉、与三郎と共に戦の助力を許す旨、近隣の村々に申し伝えよ。また勘解由は参集致した領民達に武具を与え鍛練をせよ」
「ははっ」
瞳を潤ませる三人は、畏まって吉信の命を受けた。
「勘解由殿、我が士卒にも幾人かの剛の者がおる故、領民達の鍛練、助力させよう」
綱秀が鍛練の助力を口にすると、家範は笑みを浮かべて応えた。
「度々のお心遣い、ありがたき幸せに存じます。是非、お力添えお願い申し上げまする」
家範の謝辞に綱秀は頷いた。
「されば皆の者、各々の為すべきことを致せ」
そう言って立ち上がる吉信に皆は平伏した。吉信は笑みを浮かべて忠兵衛に言った。
「身を大切になされよ」
「ありがとう御座います」
忠兵衛の謝辞に頷いた吉信は、その笑みを浮かべたまま、邸内に入っていった。
この十日後、忠兵衛は数名の榎本衆に支えられながら、野州に向かったのであった。