決意
「皆、参集致したようじゃな」
御主殿広間に集まった皆の顔を見回し、吉信は満足そうに口を開いた。
氏照が小田原に出立してからの三日間は八王子領に降雪はなく、まるで初春を思わせるような日差しが冷やされた空気の中を射し込んでいる。暖められた残雪は力尽きるように屋根を滑り、その低く重い落下音が何度も広間を揺らしていた。
そんな中、家臣達は吉信に向かい居を正し、吉信の右横には初めての列席に落ち着かぬ様子の比佐が座している。
少し気を張っているのであろうか、吉信は小さく咳払いをすると、改めて口を開いた。
「儂は幾度か殿に隠居を願い出ておったのじゃが、殿はお許しになられなかった」
突然、身上を口にした吉信に家臣達は驚き、互いに顔を見合わせた。だが吉信はそれを気にせず続ける。
「その折、殿は、儂にしか出来ぬことがある故、隠居は罷り成らぬと仰せになられた。それが此度と儂は思うておる」
家臣達が小さく頷くと、吉信は続けた。
「されど此度の如き大事においては、この老いぼれに託すより、一庵殿に託すが何者の目にも明らかと申すもの。故に儂は何やら別の意があるのではと考えたのじゃ」
宗円は時流を見極める目を持ち、政にも精通している上、戦場においても常に氏照の側近くに控え、幾度もの難事から氏照を救ってきた。また宗円は筆頭家老であり、八王子城においては家臣の頭に当たるのである。そんな宗円を差し置いて、己に城代を任せた氏照の本意は、何処か別の所ににあると吉信は考えたのであった。
「さればその別の意とは如何に?」
沈黙を破るように、家範が口を開いた。
「殿のお心が我らと共にあるが故じゃ」
吉信は虚空を見詰めながら呟くように言った。
その意を解せぬ家臣達は、黙したまま吉信の次の言葉を待っていた。だが吉信は小さく溜め息をつくと、そのまま口を閉ざしてしまった。その姿に困惑し再び顔を見合わせる家臣達に、比佐が少し遠慮がちに口を開いた。
「私から申し上げましょう」
皆の視線が比佐に向かうと、一瞬、照れ臭そうな表情を見せながらも、咳払いを一つして言った。
「殿は皆とこの城に残りたいと願っておりました。それは皆、よう分かっておりましょう?」
比佐の問いに皆は深く頷いた。
「されどそのお立場から、殿の願いは叶いませんでした。故に殿は八王子領の仕置きを皆にお任せになり、その全てにご自身の思いが踏襲されたらば、お心は皆と共にあるに等しいとお考えになられたのです」
「それ程まで殿は我らと・・・」
氏照の思いに感銘し呟く綱景にゆっくりと頷いた比佐は、表情をさらに引き締めて続けた。
「故に殿は小田原の評定からお戻りになられてより、数日、居室に籠られると、それを為すにはどなたにお任せすれば良いかをお悩みになられました。そしてそれを皆に伝えるべく、御主殿に参集を命じられたのです」
「此度、参集が遅うなったはそれ故で御座いましたか」
得心した家範が思わず口にした言葉に皆が小さく頷くと、比佐は吉信と宗円に目を向けて両の口角を上げた。比佐がこれから言おうとする内容を、概ね想像できている吉信と宗円は、同時に小さく溜め息をつくとその表情を和らげた。その姿に小さく頷くと、さらに比佐は続けた。
「信の置ける一庵殿では殿のお心と異なるやも知れませぬ。故に忠臣である監物殿に城代をお任せになられたのです」
吉信と宗円の心を察したのか、家臣達は目を落として黙した。
氏照は誰よりも宗円に信を置いていた。それは宗円の政の才を評したもので、如何に氏照の意に反した所業であったとしても、それは氏照にとり最善で間違いのないものであり、確実に事を運ぶことで氏照の信を得ていたのである。
それに対し吉信は、家臣の中で最も忠に厚い臣である。それは如何に家臣領民に難を強いろうとも、氏照の望みであればそれを遂行出来るよう策を講じて事を運ぶ程、主への忠義を重んじていた。
常であれば信の置ける宗円を城代とすることで、万事、滞りなく領内を任せることが出来た。だが此度は氏照の私念を踏襲しなければならぬ故、忠の臣である吉信に城代を任せたのであった。
しばらくの沈黙の後、家範が落ち着いた声色で口を開いた。
「殿のお心はよう分かりました。されど此度の仕置きは我らの存念に任せるとの仰せに御座います。されば如何に殿の思いを踏襲致すのでしょうか?」
家範の問いに皆も小さく頷いた。その様子に咳払いを一つして、吉信が口を開いた。
「そなたらもこの城に対する殿の思い入れは存じておろう?」
宗円の問いに皆は大きく頷いた。
八王子城は二年前の天正十五年(一五八七)氏照が築城した城である。それ以前に拠っていた滝山城が永禄十二年(一五六九)小田原攻撃に向かう甲州武田の軍勢に三の丸まで攻め込まれ、落城寸前となった事で武州の守りに限界を感じた氏照は、八王子の地に築城することを決意し、当時最新鋭であった江州安土城を参考にこの城を構築した。当時、何もなかった八王子には、滝山城下から宿場を移設し、城下町の整備や村落の拡充にも力を入れた。そんな領民と共に発展させたこの地と城は、氏照にとって思い入れの強いものであった。
「左様な城を何も仰せにならず我らに任されたは、すなわち我らの存念が全て殿の意であり、我らの為すことは全て殿の命であるとお認めになられたが故じゃ」
皆が呆然とする中、比佐は安堵の表情で小さく頷いた。
此度の戦は大軍に寡兵で挑む不利極まりないものである。家臣達が領民を思い戦わずして降伏しても、討死覚悟で戦いを挑んだとしても、それが主の命であるとすれば、氏照の思いを踏襲したに等しく、それはすなわち氏照の私念に添うこととなるのである。故に氏照は一切の助言もなく、八王子の行く末を家臣達に任せ、それを全て己の命とする覚悟を決めていたのであった。
「左様で御座いましたか」
そう応えた家範は、恐る恐る宗円の表情を伺うと、家範に合わせるかのように皆も宗円に目を向けた。
筆頭家老でありながら、次席である吉信の方が氏照を良く知ると評されているようで、宗円には居心地の悪い場となっている。また如何に氏照の意とは言えども、城代の任を外されたことにも不満を持っているのではと皆は考えていた。
しばらくの間、憮然とした表情で腕を組み黙していた宗円は、突然、声を上げて笑いだした。
不満を露にするのではと心配していた家臣達が驚くのを尻目に、宗円は吉信に目を向けた。
「天晴れじゃ監物殿。儂にはそこまで読めなんだわ。此度、儂が城代を任されておったなら、左様には解せなんだわ」
笑みを浮かべて頭の後ろを軽く叩いた宗円の姿に、皆は安堵の表情を見せた。
「お見事に御座います。父上」
与三郎が思わず父を称賛した。
「さすがは八王子の最長老で御座いますな」
和やかな雰囲気に家重がつい調子にのって戯れ言を口走った。
「これ左京亮、それは些か監物殿にご無礼であろう」
宗円が薄笑いを浮かべて家重を諌めた。
「あっ。こっ、これはご無礼を」
慌てて吉信に詫びる家重の姿に、皆は声を上げて笑った。
張り詰めていた気が一気に和むと、吉信は袖で口元を隠し声を漏らして笑う比佐に視線を向けた。気付いた比佐が微笑みを浮かべ頷くと、吉信は大きく咳払いをして胸を張った。その姿に皆も表情から笑みを消し、居を正して吉信に視線を向けた。
「されば殿のお側近くで支えてきた皆の存念を聞き、八王子の行く末を決しようと存ずるが、異存はないか?」
吉信がゆっくりと見回すと、家臣達は大きく頷いた。先程とは打って変わり、強い視線を投げ掛ける家臣達を頼もしく感じながら、吉信は宗円に視線を向けた。
「されば一庵殿、先ずはそなたのご存念をお伺いしとう御座る」
宗円は小さく頷くと、皆に視線を向けて口を開いた。
「此度の戦は我らにとってあまりにも不利。抗ったところで何の益もない。されば早々に降伏致し、害を最小に抑えることこそ八王子の為と存ずるが」
真剣な表情で存念を告げた宗円の姿に、皆の表情がさらに締まる。そんな中、吉信が口を挟んだ。
「異論のある者は気兼ねなく申すが良いぞ」
その言葉を待っていたかのように、家範が口を開いた。
「一庵様のご存念はご尤もに御座います。されど此度の火種となる名胡桃城の一件は、我が北条家が謀られたものに御座いますぞ。一矢報いねば末代までの笑い者となりましょう」
「されば勘解由、そなたは関白殿下に弓引くと申すか?」
評定衆として北条家の政に関与していた宗円にとって、領内の政しか見ていない家範の考えは、あまりに狭きものに感じていた。だが家範は己の存念を曲げようとはしなかった。
「降伏致したとて、どうせ我らは朝敵に御座います。されば潔く散るが坂東武者の生き様と申すもの」
家範の言葉が皆の胸に潜む侍の魂を揺さぶり、一瞬、皆から言葉を奪った。
「されど戦となれば領内は火の海、その上雑兵による強盗狼藉が行われ、領民達に難を強いる事となりまする。それは我が北条家の本意では御座いませぬ」
領民に対する思いの強い綱景は、如何なる策を講じようとも、抗うことは領民達に少なからず苦難を強いると考え、領民達を守るには降伏することが最良と思っていた。
沈黙を破った綱景の言葉に触発された家重が異を唱えた。
「仮令、降伏致したとて強盗狼藉の類いは蔓延りまする。されば我らは城に籠り領民達を匿い、出来得る限りあの者達を守ることこそ北条家の本意では?」
血気盛んな若き家重にしてみると、抗うことなく降伏することは武門の名折れと考えており、領民達を守るは武力で守るが武士の務めと考えていたのだった。
領民達を守るということは同じ思いでありながらも、抗うか降伏するかの違いが交わらぬことに、二人は苛立ちを感じていた。
「されば領民の財が失われ、あの者達が命を落としてもよいと申すのか、左京亮」
怒りを露にした綱景に、家重も顔に朱を浮かべて声を荒げた。
「左様なことは申しておりませぬ。儂は領民達を守るが武門の務めと申し上げておるのです」
「我らは寡兵ぞ。戦って守るにはあまりにも心許ないわ」
「それは聞き捨てならぬお申し出に御座います。坂東武者の言とは思えませぬぞ」
「儂を愚弄致すか、左京亮!」
「如何にお受け取りなされても結構に御座いまする、左衛門尉殿!」
激昂する二人は荒い息を吐き、睨み合いながら黙している。険悪な空気が流れる中、一瞬だけ比佐が眉間に皺を浮かべたのに気付いた与三郎が、二人の間に割って入った。
「お方様の御前に御座る。自重なされませ」
我に返った二人は、比佐に向け頭を下げた。
「ご無礼を致しました」
「申し訳御座いませぬ」
詫びる二人に笑みを浮かべた比佐は、ゆっくりと首を左右に振った。
「ここは存念を交わす場です。そなた達に非はありません。私が慣れておらぬだけのことです」
そう言うと比佐は与三郎に目を向けた。
「与三郎殿、気遣いは無用ですよ」
「はっ、ご無礼仕りました」
与三郎は深々と頭を下げた。
険悪であった場の空気が少しだけ和み、皆が冷静を取り戻している。吉信は一つ咳払いをしてからゆっくりと与三郎に目を向けた。
「そなた如何じゃ、与三郎」
吉信の問いに与三郎は改めてその居を正して応えた。
「八王子の地は領民達にとって父祖伝来の地に御座いますれば、荒らされるを見るは耐えがたきものに御座いましょう。されどあの者達は強う御座います。生きておれば再びこの地を富ませること必定に御座います。故に一時、我らはこの城に籠城し、領民の安堵を約定として降伏致しては如何に御座いましょう?」
幼い頃より父吉信に連れられて領民の営みを間近に見ていた与三郎は、日々の生業にこそ領民達の命の根源があると考えており、如何に家や田畑を荒らされ途方に暮れようとも、生業に生を見出だす領民達であれば、その悲しみを糧に立ち直ることが出来ると信じていた。
その為、綱景の降伏案と家重の交戦案を折衷したような籠城案を、与三郎は提言したのであった。
「うむ。与三郎の申す事、良策やも知れぬな」
綱景は右膝を叩いて与三郎の存念に同調すると、家重もまた得心するように頷いた。
だがそれに対して家範が渋い表情で口を挟んだ。
「敵が約定を守る者であらば与三郎の申すは良策じゃ。されどあの者共は我らを謀ったのじゃぞ。とても信など置けぬであろう」
吐き捨てるように言った家範は、照基に目を向けて問うた。
「信濃よ。この八王子城に攻め入るは、何処の者と見るか?」
問われた照基はいつもの真顔で応えた。
「東海道の本隊は小田原城を包囲するが狙いとして侵攻して参ります故、八王子城に攻め入るは東山道の北国衆、おそらく前田様、上杉様、真田様の軍勢と思われますが」
「真田じゃと?」
家範はその名を聞いた瞬間、目を吊り上げ顔に朱を浮かべた。
「真田安房守昌幸と申せば、名胡桃城にて我らを謀った張本人ではないか。あの者が約定を守る筈などないわ。おそらく開城するや否や強盗狼藉を働き、領民達を撫で斬りと致すに相違ない」
皆は目を落とすと、反論することなく腕を組んだ。溜め息と熟考による小さな唸り声が、屋根から落ちる溶雪の雫の音に混じって聞こえてくる。重い沈黙の空気がその場を包み込む中、家重が思わず独言を呟いた。
「領民達が居らねばのう」
黙していた家臣達が驚いた表情で家重に目を向けた。
「領民を軽んずる物言いを致すでない。左京亮!」
領民に重きを置く北条家家臣にあらざる言葉に、家範は声を強めて家重を叱った。
「こっ、これは申し訳御座いませぬ」
家範に叱られた家重は、深々と頭を下げて己の軽はずみな言動を詫びた。
(領民達が居らぬ?)
皆が薄笑いを浮かべて家重の姿を見詰める中、与三郎は何かに気付き、突然、口を開いた。
「されば領民達を逃がしては如何に御座いましょう?」
「領民達を逃がす?」
予想だにしない与三郎の提言に、皆は驚きの声を上げた。
「左様に御座います。些か不謹慎な物言いでは御座いますが、左京亮の申したとおり、領民達が居らねば案ずることなく敵を迎え撃てまする。されどあの者達を守るは我らの務めに御座いますれば、追い出すことなど出来ませぬ。故に領民達を他郷に逃がしたなれば、我らは憂いなく戦えましょう」
「されど与三郎、左様なことを致せば、戦の後、領民達に厳罰が下るやも知れぬぞ」
家範が厳しい表情で言うと、等しく案じていた皆も同意するように頷いた。
戦となると弱者である領民は、その地を逃れ戦のない土地に流出しようとする。しかし一度流出してしまうと、戦の後、荒れ果てた土地を耕す者が居らず、荒地となってしまうことから、領主達は戦の際、領民を敵兵から守るとして城内に匿うことで流出の抑制をしていた。だがその反面、逃げ出した者には厳罰を与えるという厳しい戒律を敷いていたのであった。
また此度の戦の後、この地を治めるのは徳川家と決している。新たな領主にとって初めて会う領民達には何の思い入れもなく、さらに後の統治のことを考えるならば見せしめの為、厳罰に処する可能性もあった。家範をはじめ皆はそれを案じていたのである。
だが問われた与三郎は笑みを浮かべて応えた。
「数人の領民が逃げ出したとなれば、見せしめの為にも厳罰に処しましょう。されど殆どの領民が逃げ出したとなれば、皆を罰することなど出来ませぬ。また此度の戦の後に間八州へお入りになられるお方が、領民の重きことをよう解しておられる徳川様と決しておるのであらば、必ず領民達の帰郷をお許しになられましょう」
「ううむ」
与三郎の言葉に皆は成程と言わんばかりに頷いた。だが宗円と綱景だけは、得心のいかぬ表情を露わにしている。
「領民達の中には逃げるだけの銭がない者も居ろう。左様な者達は如何致すのじゃ?」
口を開いた綱景に、与三郎は笑みを浮かべたまま応えた。
「領民達を城に匿わぬ上、寡兵で戦う我らであらば、糧秣や銭は些か残りまする。どうせ敵兵に奪われてしまうのであらば、それを領民達に配ってしまえば事は足りましょう」
「うむ、理にはかなっておるな」
綱景が腕を組み直して呟くと、相変わらず憮然とした表情をしていた宗円が口を開いた。
「これ与三郎、寡兵で戦うとは聞き捨てならぬ。儂は未だ抗うを認めてはおらぬぞ」
「こっ、これはご無礼を」
慌てて頭を下げる与三郎に、宗円は薄笑いを浮かべた。
「されど領民とは忠義を知らぬ者共故、己の身が危うくなればすぐに逃げ出し、利があらば戻って来よる。そなたの申す通り糧秣や銭を餌に八王子より追い出してしまえば都合は良いな」
忠義や信義を重んじる宗円にとしては、戦により領主が代わったとしても、不安なく新たな領主を受け入れ日々を過ごす領民達を信じることが出来ないでいる。それは近隣の領地争いでも度々目にする光景であり、戦を重ねる度にその不信感は色濃くなっていったのであった。
だが宗円も領民を大切にする北条家の家臣であり、信は置かずとも大切に思う心は常に持ち合わせている。
口汚い表現の裏に領民を守ろうと言う思いが見え隠れしていることを理解している家臣達は、宗円の悪言に驚くこともなく、その素直になれない気質を哀れむように小さな溜め息を漏らした。
そんな気を振り払うように、家範が膝を叩いて言った。
「算に強い与三郎がそこまで申すのであらば、領民達を逃がすは良策やも知れぬのう」
与三郎の提言を受け入れた家範の言葉に、綱景と家重も大きく頷いた。
「信濃はどうじゃ?」
これまであまり口を開かなかった照基に、吉信がその存念を問うた。
「儂は抗おうと降伏致そうと、どちらでも構いません。されど・・・」
瞳を虚空に向けて言った照基は、一呼吸置くと鋭い視線を吉信に向けた。
「されど敵兵がこの地を汚すとなれば、身命を賭して戦いましょう」
「信濃らしゅう存念じゃ」
吉信は満足そうに頷いた。
その姿に何かを気付いた宗円は、吉信に声をかけた。
「時に監物殿、そなたの存念をまだ聞いておらぬな」
「おぉ、左様に御座います。是非ともお聞かせ下され」
宗円の声かけに皆が賛同すると、吉信はその柔らかい表情のまま応えた。
「儂は為すべきことを為したいと存じておる」
「為すべきこと?」
皆が不思議そうな表情で吉信を伺う中、吉信は表情を変えずに続けた。
「此度、殿は時を稼ぐ為に小田原にて籠城されておる。それをお助け致すが我らの為すべきことと思うておる。故に儂の存念は敵を足止め致すことと考えておった。されどその為に領民が難を受けるは殿のご本意ではなく、またその反面、殿の想いのこもったこの八王子城を戦うことなく敵に奪われるも殿のご本意ではない。故に儂は皆の存念を聞くまでは、我が意を決してはおらなんだ」
一呼吸置いた吉信は次の言葉を待つ皆を見回すと、その表情に強い意を込めて言った。
「されど此度、皆の存念を聞いてより、
我が存念は領民を逃がした上で関白殿下の兵と戦う事と決した。すなわちそれこそが殿のお心に沿うものと存ずる」
「監物様らしゅう御座りますな」
家範が嬉しそうに声を上げた。だが宗円だけは憮然とした表情で溜め息をついている。それに尻目に吉信は、笑顔を浮かべて黙していた比佐に向き直って問うた。
「お方様は如何で御座いましょうか?」
「私に戦の事は分かりませんが・・・」
瞳を落として前置きした比佐は、そのふっくらとした唇から小さく息を吸うと、瞳を上げて言った。
「殿の思いを踏襲なされるのであれば、私が申すことはありません。されど・・・」
比佐は一呼吸置くと、その瞳を輝かせて続けた。
「殿も坂東武者に御座いますれば、皆と共に戦うを望んでおられたやも知れませんね」
微笑みを浮かべる比佐に引き込まれるように、皆の表情にも笑みが浮かんだ。だが宗円だけはその表情を変えていない。
吉信はただ一人戦うことに異を唱える宗円の顔を、笑みを浮かべながらゆっくりと覗き込んだ。皆の視線も宗円に注がれている。宗円は表情を変えず黙していた。
次の瞬間、御主殿の屋根を大きな雪塊が滑り落ち、大きな音が広間に響き渡った。
皆がその音に驚く中、宗円は表情を緩めると、吉信に向き直った。
「監物殿、儂が殿の元に参った由を覚えておるか?」
「存じておりまするぞ。その折、ご当主であられたご隠居様に、お若き殿をお支えするよう命じられてのことで御座ろう」
微笑みながら吉信は応えた。
若き氏照の奔放な気質を氏政は気に入っていた。だが統治の為にたった一人で滝山領に入った氏照にとり、その奔放さは旧臣達の非難の的となりうるかもしれないと氏政は危惧し、それを諫める為に宗円を氏照に仕えさせたのであった。
吉信の応えに満足そうに頷くと、宗円は虚空を見つめながら、呟くように言葉を吐いた。
「儂は殿をお諌め致すことを常としておった。故に些かその癖が染み着いてしもうたようじゃのう」
そう言うと宗円は再び吉信に目を向けた。
「致し方なかろう」
些か不満げではありながらもその心に宿る坂東武者の魂を解放した宗円は、笑みを浮かべて頷いた。
その姿に安堵の色を浮かべた吉信は、改めて比佐に向き直った。
「ここに皆の総意が結しました。よろしゅう御座いまするか?」
比佐が笑顔で頷くと、吉信は一礼し表情を引き締めると、再び皆に向き直った。
「さればここに八王子城の意は決した」
改めて告げた吉信の言葉に皆は居を正した。
「佐衛門尉と左京亮は近隣の村々に、戦の近き事及び避郷を咎めぬ事を申し伝えよ」
「はっ」
「与三郎は領民に配する糧秣や銭の高を算ぜよ」
「はっ」
「他の者は城普請を急ぎ、戦支度を整えよ」
「ははっ」
「されば皆の者、改めて申し渡す。我が八王子城は敵の足止めの為、抗うことと致す。皆、坂東武者の名に恥じぬ様、心して務めよ。良いな!」
「応!」
思いが一つとなった家臣達の目に光が宿った。それは意を決した際に見せる氏照のそれにも似た、武者の魂の現れであった。
(殿の思いは伝わりましたよ)
瞳に溢れる涙に氏照の面影を映しながら、比佐は心の中で呟くのであった。