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為すべきこと  作者: 中根 勝永
2/8

出立

年を越した天正十八年(一五九〇)一月 、夕方まで降り続いていた雪がまるで嘘のように、漆黒の夜空を幾多の星が瞬き、その輝きの中、凜然と浮かぶ三日月が白く覆われた御主殿の庭に青い光を注いでいる。

縁側の柱にもたれながら座している氏照は、立てた片膝を両腕で抱え、何処を見るでもなく遠い眼差しで、一人夜空を見上げていた。

その所在無げな表情には、翌朝、四千の兵を率いて小田原へと出立する城主の面影は微塵もなく、時折つく溜め息がまるで呆けた老人が道に迷って途方に暮れているような悲壮感を醸し出していた。

「殿」

静まり返る冷たい空気の中、風に揺れる鈴の音の様な心地よい声が耳を擽った。氏照は佇まいを変えず、月を瞳に映したまま応えた。

「比佐か」

「はい」

氏照は己の冷えきった心に、何か暖かいものが流れたような気がした。

比佐とは氏照の正室で、滝山城主であった大石源左衛門尉綱周の娘である。

武州滝山領を統治する為、氏照を婿養子とした政略婚により夫婦となった二人ではあったが、氏照の実直な優しさと比佐の健気な心にお互いが惹かれ合い、今では仲睦まじい夫婦となっているのであった。

「ご所望かと思いました故」

比佐は笑みを浮かべながら、酒の入った徳利を顔の横に持ち上げた。

「ほう、気が利くのう。さすがは我が室じゃ」

横目で徳利を見留めた氏照は、その表情を変えず比佐に向き直った。

下女を下がらせ盃を氏照に手渡した比佐は、打掛の袖から覗く透き通るように白くか細い両腕を震わせながら、ゆっくりと酒を注いだ。

盃から匂い立つ芳醇な香りに心を擽られた氏照は、盃を一気にあおり満足げに小さく息を吐きだすと、黙したまま空の盃を差し出した。徳利を両手で抱えたまま酌を促す氏照を待っていた比佐は、憂いをおびた表情を浮かべながら空になった盃に酒を注いだ。

盃を一気にあおる氏照と酌をする比佐のやり取りが二盃、三盃と続き満足した氏照は、盃を比佐の膝上に差し出して口を開いた。

「そなたも飲むが良い」

「はい」

両手で盃を受け取った比佐は、軽々と片手で酒を注ぐ氏照の表情と、徐々に満たされていく盃の中で揺れる三日月を、交互に見やっていた。そして満たされた盃を押し頂き口元に運ぶと、ゆっくりと見上げるように酒を喉の奥に流し込んだ。

細くしなやかな指と波打つ喉元の白さを月の光が青く照らす。その艶やかな所作と匂い立つ色香に、氏照は思わず目を奪われた。

目を落とし唇を尖らせ満足そうに息を吐いた比佐は、両手で盃を差し出し、満面の笑みを浮かべて氏照に目を向けた。

比佐の姿に見とれていた氏照は、その視線に見透かされぬよう、何食わぬ表情を装って盃を受け取った。

「相変わらず強いのう」

目尻を下げる氏照に、比佐は薄紅色に染まる頬を上げ、童のような瞳で言った。

「殿に鍛えて頂きました故」

「左様か」

愛らしい悪戯な表情を見せる比佐の戯れ言に、氏照は思わず声を上げて笑った。屈託のない氏照の笑顔に安堵した比佐は、酌をしながら嬉しそうに言った。

「殿には笑顔がお似合いに御座います」

比佐の言葉に氏照の動きが止まった。

(そういえばこのところ、笑っておらなんだのう)

氏照は心の中で呟いた。

籠城と決した評定以降、氏照は己の居室に籠り、熟考する事が多くなった。また誰かと共に過ごしている時も、心此処に在らずといった感で何かを考えており、その表情から一切の笑みを消してしまっていたのだった。

己でも気付かぬうちに、鬱々とした思いに苛まれていたことを比佐の何気ない一言で気付いた氏照は、手にした盃を一気にあおると安堵の表情で口を開いた。

「比佐よ」

「はい」

「儂は皆と共にこの城に残りたかった」

本音を吐き出した氏照に、比佐は笑みを浮かべたまま小さく頷いた。

「皆も左様に思うておりますよ」

だが氏照は比佐の言葉に小さく首を振った。

「兵の大半を小田原に連れ去られた上に、寡兵となった城の行く末を任されるのじゃ。如何に家臣領民と云えども、難儀を押し付けられたと思うは必定じゃ。左様な主と共に居りたいと思う者など居らぬであろう」

氏照にとって四千の兵を率いて八王子城を去ることは、己を信じ従ってきた家臣達や守るべき領民達を裏切ったのと同じであると思っていた。

また多勢で攻め寄せてくる敵に寡兵で抗うか降伏するかの選択を、助言すらせず家臣達に委ねたことも、主としての責を逃れたと考え、皆の信を失ったと氏照は思い込んでいた。

弱音を吐く氏照を愛でるような瞳で見詰めていた比佐は、少し声色を落として言った。

「もう一献頂けますか?」

黙したまま頷いた氏照は、盃を手渡して酒を注いだ。両手で盃を傾けゆっくりと飲み干した比佐は、その火照った顔を氏照に近付けると、瞳に力を込めて言った。

「殿のご本意を見落とすような不心得者は、私が成敗致します。ご案じ召されますな」

比佐の戯れ言とその表情に、氏照の心の箍が一瞬にして外れた。

「それは頼もしい限りじゃ」

応えた氏照は声を上げて笑った。その姿に引き込まれるように、比佐も袖で口元を隠しながら声を漏らして笑っている。氏照は冷えきった己の心に、温かいものが満ちてくるのを感じていた。

「家臣をお疑いになられるは、良主の為すべきことでは御座いませぬよ」

笑みを浮かべて窘めるように言った比佐は、膳の上に盃を置き酒を注いだ。

「左様じゃな」

そう応えた氏照は、何故か盃には手を出さず、満たされた酒の奥に揺れる月影を見詰めながら小さく頷いた。

「新太郎が羨ましいわ」

新太郎とは氏邦の仮名である。

小田原の評定において、氏邦は上州の兵を率いて小田原城に籠城するよう命ぜられた。だが此度の戦が己が治める上州で起きた名胡桃城攻めが火種であり、それも濡れ衣であることに怒りを抑えられない氏邦は、居城である鉢形城にて戦うことを主張して氏直に認めさせた。

それは隠居したとはいえ、齢五十二という若さと未だ衰えぬ影響力を持つ氏政と、一門衆筆頭である氏照が小田原城に籠ることで、大義名分は立つと考えた小田原家老衆の進言を、氏直が聞き入れた為であった。

(兄上がご存命であれば・・・)

氏照は心の中で呟いた。

北条宗家の長兄氏政には兄がいた。だがその兄は、天文二十一年(一五五二)、十六の若さで夭逝してしまっていた。その為、次兄であった氏政は、兄の代わりに嫡男となり、北条家の四代当主となった。それにより三兄であった氏照は次兄となり、氏政に代わり北条家一門衆筆頭となったのである。

氏照が三兄であったならば、今の氏邦と同等である為、小田原籠城を拒否して八王子城で戦うことも出来たのかも知れないと氏照は考えていた。

だがそれは長兄が存命であればと云う、あくまでも仮想の話である。氏照は小さく首を振って呟いた。

「泣き言を申しても詮なき事じゃな」

並々と酒が注がれた盃を溢れぬようゆっくりと口元に近付け一気に飲み干した氏照は、寂しげな表情で大きく息を吐いた。

その姿を愛でるような瞳で見詰めていた比佐は、少しだけ腰を氏照に寄せ、何処を見るでもなくその視線を闇に包まれた庭に向けた。


しばらくして静寂に包まれた御守殿の庭に、葉擦れの音が小さく響くと、比佐は静かに口を開いた。

「風が吹いて参りましたね」

黙したまま頷く氏照に、比佐は心配そうな表情で続けた。

「明日は小田原へご出立に御座いましょう。お体に障ります故、お部屋にお戻りになられては?」

比佐の気遣いの言葉に耳を貸さず、氏照は思い詰めたような表情で向き直った。

「比佐よ」

「はい」

「共に小田原へ参らぬか?」

「小田原へ?」

氏照の表情から戯れ言ではないことを覚った比佐は、その強い思いに心が大きく揺らぐのを感じた。だが比佐はその思いを振り払うかように自身の膝を軽く叩くと、笑を浮かべて氏照の顔を覗き込んだ。

「戦に参られるのですよ」

「存じておる」

「それも籠城で御座いますよ」

「承知しておる」

「されば殿、左様なことを仰せになられては・・・」

「比佐よ」

氏照は比佐の言葉を遮ると、遠くを見るような表情で月を見上げると、押し出すように言った。

「儂はおそらく腹を切る事となろう」

比佐の顔から笑みが消えた。氏照は比佐に目を向けて続けた。

「故に今少し側に居てはくれぬか」

比佐は言葉を失った。

当主氏直の助命には、当主に代わりそれ相応の首が必要であり、一門衆筆頭である氏照の切腹は必定である。その覚悟をすでに決めていた氏照は、明朝が今生の別れとなることに一抹の寂しさを感じ、つい武士にあるまじき本音を吐いてしまった。

武家の娘である比佐としては当然、氏照の切腹も覚悟はしていた。だが武士の誇りを捨ててまで本意を口にした、氏照の比佐に対する思いの強さに、比佐の瞳は徐々に潤んでゆく。

重苦しい空気の中、意を決したように半開きとなっていた口を真一文字に閉じた比佐は、その瞳に優しさを浮かべて言った。

「殿はお鶴が身罷った折の事を覚えておられましょうか?」

「鶴が身罷った折の事?」

氏照は比佐の予想だにしない問い掛けに、驚きの表情を露にした。

鶴とは比佐が産んだたった一人の娘であり、側室を持たなかった氏照にとっては唯一の子である。

北条家の家臣、山中大炊助頼元に嫁いでいたが、二年前に惜しまれながらこの世を去った。

鶴姫の葬儀の後、氏照は悲しみに暮れる比佐と共に御主殿の滝に訪れた。三間程の滝壺を見下ろす滝の上で、氏照は比佐の肩に手を回し呟くように言った。

「鶴はここでよう遊んでおった」

回想する氏照の言葉に、比佐の瞳から涙が溢れだした。

葬儀の間、涙も見せず気丈に振る舞っていた比佐を不憫に思った氏照は、今ここで共に亡き鶴の面影を思い浮かべることで、抑えていた感情を解放させようと考えたのであった。

崩れ落ちそうになる比佐を支えながら、氏照は声を震わせながら続けた。

「大炊助の涙を見れば、鶴が己の命を全うした事がよう分かる。誉めてやらねばならぬ」

涙に顔を濡らして声にならない比佐は、涙を堪える氏照の言葉に何度も頷いた。

「比佐よ、よう聞け。儂もそなたも鶴の如くお互いの命を全うするのじゃ。鶴はそれを身をもって儂らに伝えたのであろうぞ」

「・・・はい」

何とか返事をした比佐は、そのまま氏照の胸に顔を埋め、声を上げて泣いたのであった。

「あの折、殿の申されたお言葉は、殿が小田原に向かわれることが決してより、常に私の心の奥で響いておりまする」

そう言うと、比佐は居を正して続けた。

「私にとっての全うすべき命は、この八王子領にあると存じます」

比佐は少しだけ首を横に曲げながら微笑みを浮かべた。その姿に表情を緩めた氏照は、割り切ったような表情で笑みを浮かべた。

「左様であったな。さすがは我が室じゃ」

氏照は盃を差し出すと、比佐の注いだ酒を一気にあおった。

「武士として、また城主として腹を切らねばならぬ程、恥ずべき言であったのう」

詫びのつもりであろうか、氏照は比佐に盃を渡して酒を注いだ。唇を小さく震わせながら盃を空けた比佐は、その瞳から一筋の涙を流すと居住まいを正して三つ指をついた。

突然の事に驚きを隠せない氏照に、比佐は涙声で言った。

「私は殿の嫡男を産む事が出来ませんでした。それでも殿は私にお気を遣われ、側室をお持ちになりませんでした。そんな私を離縁することもなく、お優しゅうなされる殿のご厚恩に、今、私はお応え致しませんでした。それでもお許しになられる殿のお心に、私は如何に報いればよろしいのでしょうか?」

比佐の懺悔の言葉に一瞬黙した氏照は、突然声を上げて笑い出した。

「殿?」

驚く比佐の細い肩に、氏照は右手を置いて言った。

「儂はそなたが居れば良いのじゃ」

「さっされど・・・」

比佐の言葉を遮る様に氏照は続けた。

「よう聞け比佐。我が北条家は子沢山の兄上が統べて居られた。故に今の当主は兄上の嫡男、新九郎じゃ。儂に息が居らぬとて北条家は揺るがぬ」

当主氏直を新九郎と仮名で呼んだ氏照は、手酌で酒を注いだ盃で己の喉を潤すと、捨てられた子犬の様な表情で氏照を見詰める比佐に目を移して続けた。

「また儂とそなたの血を引く嫡男など居れば、あの頼りない新九郎を身限り、儂らの嫡男を担ぎ上げる者が出てこよう。左様な事となれば、我が北条家の大難となる。それは儂の本意ではない」

氏照の言葉に比佐は大きく頷いた。

「だが最たる由はのう・・・」

氏照は再び喉を潤すと、照れ臭そうに笑いながら言った。

「嫡男にそなたを取られとうない故じゃよ」

「まぁ」

涙に潤んだ両頬に朱を浮かべた比佐は、叱られた童が許された様に微笑んだ。

「そなたも笑顔がよう似合うておるぞ」

比佐の微笑みが満面の笑みに変わると、氏照は右手の親指で比佐の頬を拭い、潤んだ瞳を見詰めながら言った。

「良いか比佐。次の世でもそなたは儂の室と致すぞ。他の者に嫁ぐ事、罷り成らぬ故、しかと申し伝えるぞ」

「はい」

比佐は小さく震えながらも、嬉しそうな表情で応えた。そして二人の影は一つとなり、それを消し去る様に月が雲に隠れていった。

次に月が雲間から顔を出した時には、二つの影は御主殿の縁側から消え、そこにはただ幾万の星達が、静かに瞬いているだけであった。


「皆の者、よう聞け!」

翌朝、寅の刻、大手門前の広場には、四千の兵とそれを見送る家臣達が整然と並んでいる。領民達が夜通し掻いたのであろうか、城下に向かう道の両脇には雪が積まれ、およそ三間程の土の道が街道に向かって整えられている。

黒漆に染め抜かれた当世具足に緋の陣羽織を身に纏った氏照は、門前に立ち声を上げた。

「牛頭天王様のお導きによりここに集いし我らは、これより小田原に向け出立致す。皆、八王子衆の名に恥じぬよう心して務めよ」

牛頭天王とは釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされており、その八人の王子が深沢山に降り立ったとの逸話を由来として、この地は八王子と呼ばれていたのである。それ故に、家臣領民達は勿論の事、氏照もまた牛頭天王を深く崇拝しており、四千の兵士の心を一つにすべく、氏照はその名を口にしたのであった。

桶側胴に陣笠を被った兵士達が一様に頷くと、氏照は整備された城下の道に目を向けて続けた。

「また、我らの出立に花を添えようと、夜を徹して道を整えし皆の想いに報いる為にも、我らは武功を上げねばならぬ」

家族や友人達の餞に感銘していた兵士達は、氏照の言葉にその表情を引き締めると、強い意思を露にするように顔を紅潮させた。

兵士達の表情に士気の高さを感じた氏照は、満足げに小さく頷くと、睨み付けるように右後ろを振り返った。

「監物よ、後事は任せた。城代として存念次第に事を為すが良いぞ」

「はっ、承りまして御座います」

皺のような目を真っ直ぐに向け吉信は応えた。氏照は表情を変えず、その視線を後ろに下げて続けた。

「皆も城代を助け、八王子をしかと守るが良い」

「はっ」

吉信の後ろに控える家臣達も、改めて居を正すと、氏照を見詰めながらその命を受けた。

頷いた氏照は表情を変えぬまま、左後ろに立つ比佐に向き直った。

氏照は言葉を発せず、比佐を見詰めながら大きく頷くと、心が通じ合っているのであろうか、比佐も微笑みを浮かべたまま大きく頷いた。

氏照は一瞬だけ口角を上げると、すぐに表情を硬めて兵士達に向き直った。

誰一人身動ぎもせず、吹き抜ける風の音だけが響き渡る中、氏照は大きく息を吸い込むと、吐き出すように咆哮した。

「出立じゃ!」

「応!」

一斉に応えた兵士達の声が深沢山に響き渡ると、氏照はゆっくりと歩き始め、その歩みに合わせるように兵士達が左右に分かれた。

まるで岩を楔で割ったように真っ直ぐに延びた幅一間程の人垣の道を悠々と歩く氏照の先には、おとなしく主を待つ栗毛の愛馬が待っていた。

手綱を受け取りその巨漢を軽々と馬の背に引き上げた氏照は、胸を張り隊列の先に目を向けて命を発した。

「進軍!」

氏照の命に呼応するように、四千の隊列が動き始めると、勇壮な氏照の背が徐々に小さくなり、城下に領民達の声が響き渡った。

「殿様、殿様」

「御武運を」

少しずつ遠くなってゆく領民達の声に氏照の影を感じながら、皆の瞳には熱いものが浮かんだ。そして四千の軍列は少しの乱れも見せず、一刻の時をかけてその視界から消えていった。


「行ってしまわれましたね」

「左様に御座いますな」

呟くように言った比佐に吉信は応えた。

皆は未だにその場を離れず、余韻に浸るかのように軍列の消えた方向を見詰めている。まるで何か大事なものを失ったかのような悲哀感に、皆は包まれていた。

「寂しゅうなりまするな」

思わず本音を口にした家重に、綱景が窘めるように言った。

「左京亮、左様なことを申すでない。最もお寂しいのはお方様じゃぞ」

そう口にした次の瞬間、何かに気付いた綱景は、声もなく口を開き、息を吸い込んだまま動かなくなった。

家臣達が苦笑する中、家範が吐き捨てるように言った。

「愚か者め。内密に致せと申したに」

伴侶として氏照を慕う比佐の寂しさに比べれば、己達の寂しさなど比ではないと考えた家臣達は、寂しいという言葉を吐かぬよう、見送りにくる前に皆で示し会わせており、その気遣いを比佐に覚られぬよう口裏を合わせていたのであった。

「では方々は私に密事を謀ったのですね」

比佐は薄笑いを浮かべ、家範を横目で睨んだ。その瞬間、家範もまた言葉を失い、動かなくなった。

(愚か者はそなたじゃ)

宗円は小さく首を左右に振った。だが他の者達は、家範と綱景の姿に声を上げて笑った。

軽い皮肉を口にしたものの、胸の内では心遣いをする家臣達に感謝していた比佐は、凛としながらも微笑みを浮かべて言った。

「皆のお心遣いには礼を申します。されど案ずることはありませぬ。殿を思う心は皆同じで御座いましょう」

比佐の謝辞に家臣達は胸を撫で下ろした。

和やかな気に包まれる中、一人城下を見詰めていた照基が冷静に口を開いた。

「あの者達も同じ思いの様ですな」

皆が城下の方を振り返ると、そこには見送った後もその場に残る領民達の姿があった。

友人や家族と別れ、やるせない表情でその場に座り込む者、堪えきれず涙を流す者、それを慰める者等々、去って行った者達への思いは、皆、同じであった。

「去る者よりも見送る者の方が辛う御座います」

与三郎が目を落として悲しげに呟いた。

「与三郎の申す通りじゃ。故に我らはあの者達を守ってやらねばなりませぬな」

先程まで開いた口が塞がらない程に動揺していた綱景が、やっとの思いで心を落ち着かせて口を開くと、皆は表情を硬めて。その言葉に小さく頷いた。

「して監物殿、これよりは如何致す所存じゃ?」

宗円の問いに皆が一斉に吉信へと目を向けた。皺のような目を皆に向けて吉信は応えた。

「これより三日後、御主殿広間において意を決しようと存ずる。皆、辰の刻に参集致すよう」

「はっ」

皆は居を正して吉信の命を承った。その姿に小さく頷いた吉信は、比佐に向き直ると笑みを浮かべて言った。

「お方様もご列席頂けませぬか?」

「お方様も?」

皆は驚いて思わず声を上げた。

これまで比佐は政に一切口を挟んでこなかった。それは比佐をつまらぬ諍いに巻き込みたくないとする氏照の優しさと、氏照の行う政に憂いはないとする比佐の信頼に依るものであった。

「監物殿、それはあまりにご無礼と存ずるが」

宗円が吉信を窘めるように言った。だが吉信は表情を変えぬまま、宗円に向き直った。

「殿のご本意に添うが故じゃ」

吉信の皺のような目の奥に強い意思を持った瞳が覗いた。それに気圧された宗円は思わず口を閉じた。

言葉を失い呆然としている家臣達を他所に、比佐が笑みを浮かべて口を開いた。

「ご城代の仰せに従いましょう」

皆が一斉に比佐へ目を向ける中、吉信は相変わらず笑みを浮かべて応えた。

「お受け頂き恐悦至極に御座います」

ゆっくりと頭を下げた吉信は満足げに空を仰ぐと、それにつられるように皆も遠い空を見上げた。

晴れ渡る冬空には、深沢山を吹き降りる風の音だけが響いていた。

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