御主殿参集
「雪になりそうじゃのう」
木枯らしが吹き抜ける武州八王子城の大手道、立ち止まり空を見上げた横地監物吉信は、重く垂れ籠める雲を見つめながら、困惑した表情で呟いた。
北条家一門衆筆頭、北条陸奥守氏照の家臣として、八王子城の家老を長年勤めてきた吉信は、六十歳を過ぎた頃からその身の衰えを感じており、深沢山に立つ八王子城の雪深さに毎年難儀していた。
また十二月となるこの時期は、それまで山肌を赤や黄に彩っていた木々の葉が役目を終え、力尽きるように揺れ落ちていく儚さと、それを何もなかったかの如く、白い雪に覆い隠されてしまう侘しさに、得も言われぬ虚しさに苛まれてしまうのであった。
(殿は何故お許しくださらぬのであろう)
遅れて舞い落ちる葉の行方を皺のような目で追いながら、吉信は小さく溜息をついた。
吉信は数年前から幾度となく主である氏照に隠居の許しを求めていた。だが氏照はその都度『そなたにしか出来ぬ事がある』と吉信の願いを許すことをしなかった。
吉信は氏照の本意を模索しながらも、日に日に衰えていく己の身を憂いていたのだった。
「監物様」
突然、背後から声をかけられた吉信は、その聞き覚えのある声にゆっくりと振り返った。
「勘解由か」
そこには六尺近い身の丈と痩身で引き締まった体躯の中山勘解由左衛門家範が、童の様な笑顔を浮かべている。
齢四十二にして家老職を務める家範ではあるが、吉信にとっては息子の様な存在であり、また、十六年前に父を亡くした家範にとっても吉信を父の如く慕っていたのであった。
「何をご思案なされておられたのですか?」
何気なく問う家範に、吉信は再び空を覆う雲を見詰めた。
「そろそろ雪が舞い降りる時節じゃなと思うてのう」
吉信は本意を隠した。だが家範はその言葉を素直に受け取った。
「左様に御座いますな。難なく雪解けとなれば良いのですが・・・」
この年の一月、雪の重みで数軒の百姓小屋が押し潰され、何人かの百姓に被害が生じた。家範はそれを危惧しているのであった。
「左様じゃのう」
二人は黙したまま、薄墨を引いた様な空を見上げていた。
しばらくして家範が、その視線を真下に向けると唐突に口を開いた。
「時に監物様、小田原の評定は如何に決したので御座いましょうか?」
「仔細は分からぬが、些か胸騒ぎが致すのう」
吉信は視線を変えず、呟くように言った。
天正十七年(一五八九)十二月の初め 、時の関白豊臣秀吉は、北条家当主、北条左京太夫氏直に宣戦布告状を送った。
その内容は、上洛を先延ばしにしながらも裏で真田家の城、上州名胡桃城を落としたことに対し、帝都を謀り勅命に叛いたとして誅罰するというものであった。
これに驚嘆した氏直は、舅であり北条家と同盟を結んでいる徳川権大納言家康に取り成しを依頼したが、秀吉にその弁明は伝わらず、翌春に北条攻めが決定されてしまった。
この対応を協議すべく相州小田原城において評定が行われ、三日前に帰城した氏照は、主だった家臣に御主殿への参集を命じた。
二人はその命により、御主殿に向かう途上なのであった。
「胸騒ぎとは?」
家範は不思議そうな表情で問うた。吉信は瞳だけを家範に向けた。身の丈五尺三寸で少し猫背な吉信にとって、家範に目を向けることは空を見上げるのと同じ姿になる。
「殿は評定よりお戻りになられると、すぐに我らをお呼びになりその仔細をお伝えくださる。されど此度は少々日が経っておる故、何やら胸騒ぎが致すのじゃ」
氏照の心を良く知る吉信の言葉に、家範は表情を硬くした。
「北条家は如何相成りましょうか?」
「分からぬ」
吉信は表情を変えず、吐き捨てるように言った。
重苦しい空気が二人を包み、風の音と下を流れる城下川のせせらぎの音が耳に触れる。
家範はこの空気を払拭しようと笑顔で口を開いた。
「関白殿下の兵が攻めて参るとなれば、出会うたことのない猛将や剛の者共と槍を交えることとなりましょう。いやいや腕が鳴りまするな」
槍の名手で剛の者である家範は、槍を振り回す真似をした。
「頼りにしておるぞ」
家範の気遣いに満足げな表情を浮かべた吉信は、そのままゆっくりと歩き出し、家範もその左横に従って歩きだした。
「おや、あれは左京亮に御座いますな」
家範は思わず声を上げた。
二人の視線の先、大手道終端の右側に架かる曳橋のたもとに身の丈五尺四寸で痩身の金子左京亮家重が、誰かを探している様な表情でこちらを伺っている。
「何事かあったのであろうか」
家範は不安げに言った。
齢二十七の家重は奉行衆の中で最も年少であるが故に、事があった折りには使い役を担うことが多い家重は、吉信達の姿に気付くと慌てながら走り寄ってきた。
「監物様、勘解由様、お待ち申しておりました」
「如何したのじゃ左京亮」
神妙な面持ちで問うた吉信に、家重は困惑した表情で応えた。
「皆様のお越しが遅い故、一庵様がお腹立ちに御座います」
一庵とは八王子城の筆頭家老で評定衆を務める狩野一庵宗円のことである。その知識と判断力には主である氏照でさえ一目置く存在である。
だが武門としての礼節や立ち居振舞いに厳しい宗円は、家臣はおろか氏照にも苦言を呈する程の堅物であった。
「それは一大事じゃ」
宗円に叱られることの多い家範が大きく頷いた。
「故に方々、早々にお越しくださいませ」
家重は哀願するように二人を促した。だが吉信は、慌てる様子もなく笑みを浮かべて言った。
「されど未だ刻限には至っておらぬが」
「おそらく一庵様は、筆頭家老より後に奉行衆が参ずる無礼をお怒りに御座いましょう」
困惑した表情で応えた家重に、吉信は両の目尻を下げて言った。
「儂の歩みが遅い故、供を勤める勘解由が遅うても致し方あるまい。全てはこの年寄りの責じゃ。一庵殿に会うた折には儂から詫びる故、案ずるには及ばぬぞ」
吉信の言葉に家範は続いた。
「儂がお足をお留め致した事も一因に御座いましょう。共にお詫び致しとう御座います」
家範の言葉に、吉信は満面の笑みを浮かべて頷いた。
「されば参ろうかのう」
「はっ」
ゆっくりと曳橋に歩を進めた吉信の後を家範が続く。複雑な表情で家重は二人の後ろに続いた。
吹き渡る風に改めて冬の到来を感じながら歩を進め、中程に至った時、突然、吉信は家重に顔を向けた。
「左京亮よ、我らの他に未だ参じておらぬ者はおるのか?」
吉信の問いに家重は声を強めて応えた。
「信濃殿と左衛門尉殿が、未だ参じておりませぬ」
「あの者共が遅参致すとは珍しい事じゃな」
家範は腕を組みながら首を捻った。だが吉信は、笑みを浮かべて言った。
「未だ刻限には至っておらぬ故、遅参ではないぞ、勘解由」
「左様で御座いましたな」
家範は照れ臭そうに頭の後ろを掻いた。
「されど監物様、一案様が・・・」
困惑した表情のまま泣き付く家重に、吉信は相変わらずの笑みを浮かべて言った。
「あの者共なれば、案ずることはない」
「何故に御座いまするか?」
家重の問いに吉信は呟くように応えた。
「今に分かる」
曳橋を渡り終え御主殿に向かう石段を上り始めた三人は、曳橋を走る足音に振り返った。
身の丈五尺一寸で小肥りの平山左衛門尉綱景は、齢三十三とは思えぬ体型と身のこなしで曳橋を渡り終え三人に追い付くと、その人の良さが滲み出ている顔を緩めながら言った。
「危うく遅参致すところでございました」
吉信達に追い付いて安堵した綱景は、両手を膝に上に乗せ息を整えている。
「そなたにしては珍しい。如何致したのじゃ左衛門尉」
普段、刻限に厳しい綱景の慌てように、家範は何事か起きたのではと案じた。
「いっ、いや少々・・・」
「如何なされましたか?」
歯切れの悪い綱景に、家重も案じている。
「大事には御座いませぬ故、ご案じなされますな」
綱景は下を向いたまま、右手で二人を制した。
「何じゃ、我らに隠し事を致すか」
「怪しゅう御座いますな」
家範と家重は不審そうな顔で綱景を見詰めた。
「真に何も御座いませぬ」
治まらない動悸を整えながら綱景は否定した。笑みを浮かべて三人のやり取りを眺めていた吉信は、悪戯好きな童の様な瞳で横目に見上げると、低い声色で口を開いた。
「左衛門尉、そなた六助の母を助けておったのであろう?」
「・・・なっ、何故、ご存知に御座いますか?」
驚いて顔を上げた綱景に、吉信は続けて言った。
「そなたが畔で倒れていた六助の母を背負って百姓小屋に運んだと、血相を変えて走る六助に会うた折に申しておった。領民を思うそなたの行い、天晴れじゃぞ」
「ほぉ」
吉信の言葉に納得した家範と家重も、童の様な瞳で綱景の顔を覗き込んだ。
「方々お止めくだされ。偶然見知った者が倒れておった故、運んだまでの事。お誉めいただく程の事はしておりませぬ」
少し息が整ってきた綱景は、その身を起こして応えた。
六助とその母は領内で畑仕事を生業とする百姓である。六助の母は、早くに母親と別れた綱景を我が子の様に扱い、同い歳の六助とはまるで兄弟の様に接してきた。武士と百姓という異なった立場ではあれど、時には母や兄弟に甘える様に、今だその関係は続いているのだった。
「そもそも領民が難儀しておるのを助けるは武士の務め。当然の事をしたまでに御座います」
顔を赤らめながらも真顔で言った綱景を、三人は薄笑いを浮かべて見詰めている。そんな三人の視線に恥ずかしくなった綱景は、何気なく視線を外した。その瞬間、吉信が呟く様に言った。
「立派な行いぞ」
「おっ、お止めくだされ」
綱景は頭を掻きながら恥ずかしそうに言った。
「左様じゃ、左衛門尉」
家範が薄笑いを浮かべながら言った。
「遅参覚悟の行い、正に武士の鏡に御座いますな」
家重も面白がっている。
「おっ、お止めくだされ・・・」
真っ赤になった顔を隠しながら、綱景は呟くように言った。
皆の笑い声が深沢山に響き渡った。
「後は信濃だけじゃな」
石段を上り、虎口を経て御主殿の門をくぐり抜けた折、家範が呟くように口を開いた。困惑した表情で頷いた家重を、仔細が分からない綱景が不思議そうな表情で見詰めている。そんな三人に吉信は吐き捨てるように言った。
「あの者なればその辺に居るであろう」
吉信の言葉に三人は辺りを見回した。
「あっあれは・・・」
家重が驚いた表情で物見櫓を指し示した。
そこには身の丈五尺八寸で筋肉質の男が、目を閉じて両手を広げている。
「成る程」
三人は小さく溜め息をついた。
信濃こと大石信濃守照基は、温厚な気質でありながら、地と話が出来ると言い張る変り者である。
「信濃よ、間も無く刻限じゃぞ」
照基は吉信の声に慌てた様子もなく、深呼吸を三度行い両手を胸の前に合わせ、最後に大きく息を吐くと、ゆっくり振り返り黙したまま物見櫓を下り吉信達の前で頭を下げた。
「またこの地と話しておったのか?」
家範が呆れ顔で問うた。
「左様に御座います」
照基は寂しげな表情で応えた。
「信濃よ。些か表情が優れぬ様だが如何致したのじゃ?」
地と話をした後の照基は、その意が如何に悪き事柄であったとしても、常に満足げに笑みを浮かべていた。そんな照基が初めて見せる表情に、吉信は一抹の不安を覚えた。
そんな吉信の問いかけに、照基は苦笑を浮かべて応えた。
「この地が口を閉ざしておりまして・・・」
「ほう、何故じゃ?」
真剣な表情で問う吉信に、照基は小さく首を横に振った。
「存じませぬ」
そう呟くように応えた照基は、ゆっくりと目を落とした。
如何に声をかけて良いか分からない吉信達は、困惑した表情で照基を見詰めた。城内を吹き抜ける風の音だけが耳に響いている。重苦しい気に包まれる中、家範が口を開いた。
「誰しも黙したき折もあろう。案ずることはない」
「左様に御座いますぞ信濃殿。今しばらく時をおいては如何に御座いますか?」
家範に同調するように、綱景も口を開いた。家重は笑みを浮かべて頷いている。
「方々のお気遣い、恐悦至極に御座います」
再び目を上げ謝辞を述べた照基は、ゆっくりと頭を下げた。吉信は優しげな笑みを浮かべて言った。
「何か分かったら申すが良いぞ、信濃」
「はい」
承った照基に満足げに頷いた吉信は、その表情を引き締めた。
「されば参ろうかのう」
先んじて御主殿に入って行く吉信の後ろ姿に、家範は心の中で呟いた。
(皆の行いを見定めておられるとは、さすがは監物様じゃ)
吉信の後に続き、四人はゆっくりと御主殿に入っていった。
初冬の風が城内を吹き抜けると、その後ろを追いかける様に粉雪が舞い始めた。
「父上、お待ち申しておりました」
御主殿の広間に入室した吉信に、末席に座している嫡男与三郎が頭を下げた。
五尺六寸の身の丈で痩身の与三郎は、その端正な顔立ちと怜悧な頭脳を持つ齢二十八の若侍である。
武術にはやや不安があるが、父吉信譲りの誠実さと思慮深さで皆の信を得ていた。
吉信は与三郎に軽く頷くと、腕を組み思案顔をしている宗円の右隣に座して頭を下げた。
「お待たせ致しましたな、一庵殿」
笑みを浮かべる吉信に、宗円も表情を緩めた。
「これはこれは監物殿、左京亮がご迷惑をおかけ致したようじゃな」
宗円はゆっくりと頭を下げて吉信に詫びた。
「何を申される一庵殿。筆頭家老をお待たせ致すはご無礼に御座る。儂こそ詫びねばなりませぬぞ」
改めて詫びる吉信を右手で制しながら、宗円は笑みを浮かべた。
「いやいや監物殿、あれは左京亮の早合点に御座る」
「早合点?」
宗円の言葉に皆が驚きの声を上げた。だがその意を知る与三郎は笑みを浮かべて小さく頷き、状況の飲み込めない家重は瞳を泳がせている。そんな中、宗円は続けて口を開いた。
「左京亮にも困ったものじゃ。儂が『奉行衆が家老より後に出仕致すは如何なものか』と独り言を申した途端、あの者は広間を飛び出して行きおった。儂は監物殿をお待たせ致す奉行衆がおらねば良いがと案じておったまでの事」
皆の視線が家重に集中する。家重の顔から一瞬にして血の気が引いた。だが次の瞬間、家重はその蒼白の顔を朱に染めて宗円と与三郎を交互に見やった。
「おっお待ちくだされ。確かにあの折、一庵様は左様に仰せで御座いました。されどその後、与三郎殿が『早々じゃ』と申された故、急ぎ方々をお迎えに参ったので御座いますぞ」
皆の視線が与三郎に向く。だが与三郎は笑みを浮かべて黙している。そんな与三郎に代わり宗円が吐き捨てるように言った。
「与三郎は『早々じゃぞ』と申したのじゃ」
家重の顔が再び蒼白となった。
宗円の独り言に気を使い、様子を見に行こうとした家重に、与三郎は早計だとして『早々じゃぞ』と声をかけた。だが気が焦っていた家重は、早く行けという意味の『早々じゃ』と聞き違えた。常に冷静な与三郎が早く行けと言ったとなれば、宗円はかなり不機嫌だと勝手に解釈した家重は、慌てて皆を迎えに行ったのであった。
「これ左京亮、一庵様にご無礼であろう」
宗円の左横に座した家範が薄笑いを浮かべて叱った。
「あっ、いや、こっ、これは誠にご無礼を」
慌ててその場にひれ伏した家重に、皆は声を上げて笑った。
「左京亮、そなたは些か粗忽者ではあるが、一庵殿にご無礼のなき様努めるは良き心掛けじゃ。案ずるでないぞ」
吉信の言葉に皆は笑顔で頷いた。
「ははぁ」
吉信の暖かみのある言葉に安堵した家重は、両手をついて頭を下げると顔を赤らめながら後列に座した。
和んだ雰囲気の中、吉信はその表情から笑みを消して宗円に声をかけた。
「時に一庵殿、何やらご案じなされておる様にお見受け致したが、何故なされたかな?」
吉信の問いに、宗円も笑みを消した。
「此度は難儀な戦となるやも知れぬ」
宗円の言葉に黙したまま頷いた吉信の姿に、そこに居る全ての者が表情を硬くした。そして皆、口を開くことなく主の来臨を待った。
「皆、そろっておるようじゃな」
重い足音を響かせながら入ってきた氏照は、広間の一番奥の城主の座に腰を下ろした。
身の丈六尺で太い骨に厚い筋肉を纏った巨漢である氏照は、北条宗家独特の切れ長の目で平伏する家臣が頭を上げるのを待って、その大きな口を開いた。
「来春、関白殿下がこの関八州に攻めて参る。まずはその仔細について伝える。一庵」
「はっ」
評定衆として氏照と共に評定に参じていた宗円は氏照に一礼すると、緊張の色を浮かべる家臣達に向き直り、皆の顔を見回してゆっくりと口を開いた。
「関白殿下の兵は東海道、東山道、海道の三方より攻めて参る。東海道からは関白殿下御自ら率いた本隊で、畿内、西国の軍勢およそ十六万。東山道からは前田、上杉の北国勢に加え、信州真田を含めた軍勢およそ五万。海道からは長宗我部を一とする南海の水軍およそ一万。合わせて二十二万の軍勢が年明けより随時、攻めて参るとのことじゃ」
「二十二万・・・」
家臣達は言葉を失った。だがその表情に悲壮感は無く、どちらかといえば二十二万という想像を越えた兵数に実感が沸かないといった呆けた表情である。そんな中、吉信が宗円に声をかけた。
「まるで陣触れ状を覗いたかの如く仔細じゃのう。一庵殿、やはり豆州様が申された報に御座るか?」
「左様、密使を介し徳川様よりお聞きになられたそうじゃ」
宗円は吉信に顔を向けて応えた。
豆州とは氏照の二番下の弟で、豆州韮山城主、北条美濃守氏規のことである。
氏規は幼き折、今川家の本城、駿府城に人質としてその身を置いていた。その時期、同じく人質として隣邸に住んでいたのが幼き日の家康であり、人質という苦難の日々を共に励まし合いながら過ごしていた二人の間には、友情が芽生えていた。
永録三年(一五六〇)今川家当主、今川治部大輔義元が尾州桶狭間において討死したことで人質の身を逃れ、互いの領地へと帰参した二人は、その後もお互いの知り得た情報を伝え合い、時には相手の家の行く末を案じ、お節介なまでの助言までしていた。
そのやり取りは両家の関係に歪みが生じた折でも続いており、それを知る家中の者は皆、氏規の時流に関わる申し出には絶大の信頼を置いていたのだった。
「成る程のう。それならば得心がいくというものじゃ」
吉信の言葉に頷いた家臣達は、それぞれの表情に気を戻すと、改めて宗円に向き直った。
「されば一庵様、お屋形様はその大軍勢に如何様に当たると仰せに御座いまするか?」
お屋形様とは北条家当主、北条左京太夫氏直のことである。家範の問いに宗円は表情を変えずに応えた。
「各支城より兵を小田原に参集させ、堅城である小田原城にて籠城致す事と相成った」
「籠城・・・」
家臣達は再び言葉を失った。その表情はつい先程とは異なり、驚きの色に染められていた。
籠城策を用いるには、攻城側の背後から攻め込む後詰めという援軍が必要であり、後詰めの無い籠城はただ落城を先延ばしするだけの愚策となってしまうのである。その為籠城する際は、支城や同盟する他国の城に後詰めの依頼をした上で、実行するのが常であった。
だがこの時、北条家が同盟を結んでいる奥羽の伊達左京太夫正宗は、北条家に助力するか秀吉に臣従するかを決めかねており、再三の助力依頼を保留していた。伊達家との交渉役を担っていた氏照の家臣達にとって、正宗が助力するとは到底思えなかった。
また、同じく同盟を結ぶ家康は秀吉に臣従に意を示しており、それどころか秀吉の妹、朝日姫を娶り義弟となってしまっている。
此度の戦でも攻め手側の先陣を任されている家康が、反旗を翻して北条家に助力するとも考えにくい。
さらに小田原城を包囲する二十二万の敵に対し、兵を割かれた支城より打ち出す数千の兵では、とても後詰めを務めることなどできない。
家臣達が籠城策に決したのか理解ができなかったのは当然の事であった。
「討って出ぬので御座いますか?」
若くして弓や鉄砲を得手とする左京亮が思わず存念を口にすると、それに賛同するように皆、大きく頷いた。
それは関八州が、海、山、川といった自然の防塁に囲まれた広大な総構えのような地形である為、東海道より攻め入るには箱根峠、東山道より攻め入るには碓氷峠といった隘路を通過せねばならず、大軍勢で進軍する際は軍列を狭め、進軍を遅くしなければならない。この地の利を生かして己の得手とする弓や鉄砲で攻撃することで敵を足止めし、計画的に配置された支城にて迎え撃つことで制すれば、敵を追い返すことが出来ると考えてのことだった。
皆の食い付くような視線を一身に受ける中、宗円は眉一つ動かさず淡々と言い放った。
「そなたらは誰と戦うと思うておるのじゃ?」
一切の感情を見せず冷ややかな声音で問うた宗円の雰囲気に呑まれ、皆は黙したままただ見詰めているだけである。その様子に小さく溜め息をついた宗円は、吐き捨てるように言った。
「此度の敵は日の本全土じゃ」
関白とは、天皇第一の臣で天皇と共に政務にあたる公家の最高位である。その任を担っている秀吉が北条家を誅伐するために発した陣触れは、天皇が北条家の行いを憂いて下した勅命に等しく、それはすなわち北条家が朝敵であることを意味している。天皇の家臣である日の本全土の侍達にとって、朝敵は敵とみなされるのであった。
「地の利を生かし、一度や二度押し返したとて、日の本全土の兵が対手では是非もないわ」
宗円の言葉に皆が小さく溜め息をついた。
「されば何故、降伏致さぬのでしょうや?」
降伏により戦を避け、領民に苦難を与えぬことが最良と考える綱景が思わず口を開いた。
「すでに決したことじゃ」
北条家において評定の決定は絶対である。それを再認識させるような宗円の言葉に、綱景は目を落とした。
「殿」
皆の視線が吉信に向けられる。そんな中、氏照の視線を確認した吉信は、笑みを浮かべて問うた。
「評定の仔細を申されては如何に御座いまするか?」
「左様じゃな」
氏照も笑みを浮かべると、家臣達に目を向けた。
「されば皆の者、よう聞くがよい」
家臣達は居を正した。
評定は小田原城の大広間において、当主氏直をはじめ、一門衆、小田原家老衆、主だった家臣十数名で構成する評定衆が参集して行われた。
最初に口を開いたのは、氏照のすぐ下の弟で上州を治める北条安房守氏邦であった。氏邦は此度の北条攻めの引き金となった名胡桃城攻めについて、これは攻め落としたのではなく、上杉家が兵を繰り出し一方的に国替えを求めてきたと名胡桃城代より書状による援軍要請があったため、沼田城代、猪俣能登守邦憲はその要請を受け入城したものであると語った。北条家古参の忠臣である邦憲が名胡桃城を独断で攻め入ったとは信じられなかった評定衆にとって、氏邦の報告は得心のいくものであった。また援軍要請の書状も残っていたことから、名胡桃城攻めは何者かの謀と解した評定衆は怒りを露にした。そこで濡れ衣を着せられた上州沼田領を治める氏邦は、秀吉に対し徹底抗戦を主張し、氏照もそれに同調した。
抗戦に傾いた評定に水を差したのは一門衆の氏規であった。氏規は家康の密使より伝えられた秀吉の軍勢について話し、抗うは北条家に益がない故、早々に降伏すべしと主張した。その予想を超える軍勢と、北条家は今や朝敵であると知った評定衆は、降伏もやむなしとする者と抗戦を主張する者とに別れ、評定は平行線をたどった。
不毛な口論の続く中、すでに隠居している先代当主で、氏照達兄弟の長兄である北条相模守氏政が、氏規に家康の本意を問うた。
氏規は家康も降伏を推奨しており、その理由として家康自身が秀吉より北条家なき後の関八州に転封することを内々に命じられていることを伝えた。それはすなわち、此度の北条攻めが誅伐を大義とするものではなく、家康を転封させるための排除であることを意味している。抗うも降伏するも北条家の末路が同じであることを知った評定衆は、一様に黙したまま虚空を見詰めた。
そんな重い気が漂う中、氏政が籠城を口にした。それは謀による濡れ衣を纏ったまま降伏すれば後の世の笑いものになるであろう。しかし時の関白にただ抗っても朝敵の汚名は拭えない。それならば関八州において籠城し、移封を条件に和睦とすれば北条家の面目は立つであろうというものであった。
鬱々とした表情をしていた評定衆は、皆、生気を取り戻すと氏政の案に賛同した。
ただし小田原家老衆の松田尾張守憲秀と大道寺駿河守政繁は、氏政の案は良しとしながらも、要地に配備した支城にて防衛する北条家の備えで籠城するは防衛力が分散してしまう故、各支城より堅城である小田原城に兵を参集させての籠城を進言した。
常に側近く仕える小田原家老衆に信を置く当主氏直は、その案を了承し評定を決したのであった。
「左様で御座いましたか」
家臣達は得心のいった表情で頷いた。だが宗円だけは何故か憮然としている。その様子に気付いた与三郎が目配せをすると、吉信は小さく頷き宗円に問うた。
「殿の仰されたことの他、評定衆として何か御座いますかな。一庵殿」
宗円は氏照の顔色を伺った。
「致し方ない」
呟くように吐き捨てた氏照の言葉に安堵した宗円は、一つ咳払いをしてから口を開いた。
「評定の議は殿の仰せの通りじゃ。されど籠城とした一門衆方々の御本意は和睦に非ず」
「何と?」
皆は驚いて氏照に目を向けた。表情を変えず視線を逸らす氏照に、宗円はもう一度咳払いをした。皆が宗円に目を移すと、宗円は淡々と語った。
秀吉が誅伐を大義として陣触れをした以上、如何なる策を講じても秀吉が和睦に応じる筈はなく、此度の戦の後は当主及びその一族は罪人として斬首となり、北条家が滅家となることは確実であった。
栄枯盛衰は世の習いであることを知る一門衆にとって、北条家の末路は致し方なしと考えてはいるものの、始祖、北条早雲こと伊勢新九郎宗瑞より代々受け継いでいる家臣、領民を大事にするという思いから、その事後については心を痛めていた。
領民に対しては、北条家滅家の後に関八州を治める大名が家康であることで、領民の安寧は保証されるとしながらも、罪人の家来という汚名を背負いながら野に下り、新たな仕官先を探さなければならない家臣達の不憫さに、一門衆は心を痛めた。
家康が加増されるのであれば、関八州を治めるために北条家の旧臣の力が必要となり、その仕官を嘆願すれば事は足りる。だが此度の家康は転封であり、徳川家の家臣達は東海より大挙して移転してくる為、主だった者以外の仕官は難しい。
そこで一門衆は籠城により時を稼ぎ、秀吉から当主氏直を赦免させることで、家臣達の汚名を罪人の家来から滅亡した家の家来とすれば、徳川家以外の大名に仕官し易いのではと考えた。
それは氏直の正室が家康の愛娘の督姫であり、督姫を不幸にしたくないと願う家康も、氏直の助命を望んでいることを知っての策謀であった。
なお、一門衆がこの策を評定で進言しなかったのは、当主としての責任の重さを常人以上に意識している氏直が、当主の助命策など認める筈はなく、心身ともに病がちである氏直であれば、下手をすれば己の切腹を主張しかねないと考えた上であった。
談合により政を決しているとはいえ、最後には当主の断で決するのが評定である。当主が己の切腹を引き換えに降伏すると断言すれば、それに抗うことは皆無である。それを一門衆は危惧したのであった。
「これが一門衆方々の御本意じゃ」
一気に語り終えた宗円は、ゆっくりと氏照に目を向けた。家臣達も黙したまま、氏照を見詰めている。だが相変わらず目を背けている氏照に、家臣達の両の口角がゆっくりと上がっていった。
静まり返った広間には、深沢山から吹き降ろす風に揺れる木々の音だけが響き渡っている。
そんな中、家範が思い出したように口を開いた。
「されば殿、我らは如何に?」
家範の問いに視線を戻した氏照は、笑みが消え、少し緊張の色を浮かべる家臣達に向け言った。
「年明け早々、儂は小田原に出立致す。率いる兵は四千じゃ。皆は八王子城の守りに徹し、領民が難に会わぬよう努めよ」
「はっ!」
一切の迷いを見せることなく、家臣達は主の命を承った。その表情には主の為に命を賭する覚悟がみなぎっている。
「我らは如何なる事があろうとも、殿と共に居りまするぞ」
笑みを浮かべて言った宗円に、皆は大きく頷いた。
氏照は家臣達を見回して満足そうに頷くと、その表情を硬めた。
「されば皆の者、此度は大軍に寡兵で挑む難多き戦故、坂東武者の誇りを持って敵に当たるも戦わずして開城致すも是非のない事、全てはそなたらの存念に任せる。なお、城代は監物と致す。監物よ、しかと勤めよ」
「はっ」
深く頭を下げた吉信の姿に小さく頷いた氏照は、満足げな笑みを浮かべた後、表情を戻した。
「皆の者、大儀であった」
家臣達を労った氏照は、平伏する家臣達に目を向けず、その寂しげな表情を隠す様に広間を立ち去っていった。
いつの間にか風が止み、重く垂れ込めた雲から舞い降りていた小雪の粒は、徐々に膨れ上がるとともに城内を白く染め抜いてゆく。
それに気付かない家臣達は、それぞれの思いを抱きながら暫くの間、その場に座していたのであった。