いつか明かりのさす場所へ
いつか明かりのさす場所へ
作者 稲美有閑
一
坂の途中に建っている古い洋風の建物は深い森に残された根雪のように白かった。日はもう暮れようとしていて、西の空がオレンジ色に光っている。頭の上を何かが飛んでゆく気配がした。近くに今は廃墟となっている造り酒屋の蔵があって、中にコウモリが棲んでいる。夜になると、崩れ落ちた土壁の間から獲物を求めて飛んでゆく。裕史は黒い体をした不気味な生き物におびえながら、月に数回、屋敷の庭に忍び込んだ。太い金木犀の幹の陰から出窓のある二階の部屋をうかがう。常に純白のカーテンに覆われており、部屋に明かりが灯されると、真珠のように輝いて見えた。
彼はそこにいるはずの聡明な女のことを思っていた。昼に毎日会いはするが、夜は一度も見たことがない。何の装飾もされていない、ただ白いだけのカーテンは裕史が知る限り、一度も開いたことがなく、夏の暑いさなかでも、ずっと閉じられたままだった。エアコンの作る風の渦で、微かに揺れることはあっても、中まで見通すことは出来なかった。裕史はしかし粘り強く待っていた。左隣にクリーム色のタイルで出来た広いバルコニーがあり、中にたくさんの鉢植えの植物が置かれている。重なり合って生い茂る青い葉っぱや蔓の間から、夏には色とりどりの花々が誇らしげに咲いた。小さな森のような植物の生い茂る向こうから彼女はきっと現れる。まぶしい光に包まれて、天使のように清い眼をして自分のほうを見てくれる。裕史は今では切ないくらい彼女のことを思っていた。
初めて庭に忍び込んだとき、息が出来ないほどどきどきした。チョコレート色のレンガで出来た重厚な塀に囲まれて、屋敷はちょっと前にテレビで見たドイツのノイシュヴァンシュタイン城のように真っ白で、幻想的な様相をして闇の中に浮かんでいた。彼女の家を発見したのは全く偶然のことだった。いつも行く保育園の壁にあるのと同じ文字が玄関の横に立っていた。
―聖ハレシトス教会―
彼はそれを見つけたとき、顔がにわかに赤くなった。
「わたしの父がここの理事長をしているの」
ある日、白い保育園の前にたたずみ、女が裕史に教えてくれた。
彼は食い入るように玄関の横の文字を見詰めた。体の奥に潜んでいる何かがかすかに動いた気がする。彼は急に走り出した。塀の回りを闇雲に駆け回る。指一本掛ける隙間もないくらいレンガはきめ細かく積まれていた。裕史は呆然と塀を見上げた。
しばらくして近くで小さな音がした。全身灰色をしたふくよかな猫が裏の戸を開け、現れたのだ。塀と同じチョコレート色をした小さな戸には鍵がかかっていなかった。猫はちらりと彼を見ると、澄ました様子で向かいの路地へと消えてしまった。
十メートルほど先に人一人がどうにか通れるほどの小さな穴が開いている。開閉式のドアが付けられ、押した後は自動的に戻る仕組みになっていた。彼はその前にしゃがみ込むと、ドアを向こうに押しやって、塀の中を覗き込んだ。細い道が潅木の間を抜け、真っ直ぐ屋敷のほうへと続いている。急に心がうきうきし出した。それで夜になっても開いていたら、構わず入ってやろうと決心したのだ。
星がまばらに散らばった黒い空を眺めると、今日の風は特別冷たいと裕史は思った。屋敷に初めて来たときは蒸せるような暑さがあった。今いる庭木の隙間に陣を取り、息を潜めて隠れていた。なぜこんなことをするのかよくわからない。ただあの文字を見つけたとき、無性に中へ忍び込みたくなった。すっかり忘れてしまった遠い記憶が突然、揺り動かされた思いがする。はっきりしたことはわからない。が、それは特別深い意味を持って心に迫ってくるようだった。
裕史は地面に敷いた枯れ木の枝に腰をかけると、さっきからしきりに体を揺すっていた。長袖の下着を着、厚手のシャツを羽織り、セーターも二枚かぶっており、さらに上からジャンパーまで着込んでいる。今日ここへ来ると決めたとき、きっと長居になると思った。彼女が部屋から出てこない限り、帰らないつもりでいたからだ。彼は今、瀬戸際まで追い詰められていた。世の中が意地悪でもするように次から次へと面倒が起こる。
「うん。うん」
と、裕史は何度も自分に言い聞かせた。
「大丈夫や。大丈夫や」
と、続けて同じように呟くのだった。
塀に庭木の影が映っている。表はチョコレート色をしていたが、裏は淡いベージュだった。月の光と窓の明かりで影は二重になっている。風で葉っぱが揺れたりすると、浮かんだり消えたりを繰り返した。裕史は不吉な思いで塀を見た。
~何にも悪いことをしてへんのに、みんながワイの邪魔をする。何でや、何でや、何でなんや~
吐く息は白い煙となってすぐに闇へと消えていった。辺りは物音一つしなかった。秋に鳴いていた虫たちはすべて土へと返ってゆき、裕史だけが寒さをこらえ、今もここに居続けている。
~ワイ、こんなこと慣れてるねん。ずっと一人やったから~
女のいる部屋の明かりを眺めてはしみじみ思う。彼女の手のひらの温もりを今でもしっかり覚えていた。柔らかいウサギのような感触をしていた。彼女は彼の眼を見ると、こんなふうに励ましてくれた。
「大丈夫。真面目にやっていさえすれば、きっとうまくいきますわ」
一度彼女の前でべそをかきそうになったことがある。集金した金を落としてしまい、悲愴な気持ちでごみを集めていると、彼女のほうから声かけてきた。
裕史は叔母夫婦の経営する清掃会社に勤めていた。市は家庭のごみしか取ってくれず、県立や国立、私立の学校・施設、喫茶店やレストランや営利を目的とした民間の事業所などは私営の清掃会社と契約して、有料で持っていってもらわねばならない。だからごみを集めるついでに、彼はときどき集金もするが、ある日、それをどこかに落としてしまったのだ。胸の内ポケットに入れていたのを丸ごとなくしてしまったのだった。彼が正直に事情を話すと、彼女は快く立て替えてくれた。知り合ってまだ数日しか経っていないときだった。彼が金を返しに行くと、彼女は心から喜んで、さっきの言葉を言ったのだ。以来あまり話をしないが、彼女の顔を見るたびに、彼は幸せな気分になる。
窓は依然堅く閉ざされたままだった。カーテンも少しも動かない。彼女の部屋の明かりだけが一際まぶしく光って見える。宙に浮かぶ人魂のようにそこだけ暖かく感じられた。裕史は部屋の明かりを見ると、何もかもがどうでもいいように思えてくる。今いる自分の境遇と、一緒にすごす人々を全て許してやりたいと思う。今まで生きてきた十八年間をあの光の中に閉じ込めて、新たに生まれ変わることだって出来るかもしれない。女はその手助けをしてくれるのだ。過去の消え去りそうな悲しい記憶と彼女はどこかでつながっている。はっきり思い出すことは出来ないが、彼の心の奥底でいまだにあえぎ声を上げながらのた打ち回っている何かだった。きっと恐ろしくて思い出したくもないのだろう。しかし彼女と一緒なら、してもいいと思う。賢くて、慈悲深く、決して人を蔑まない。彼女だけがこの世で信頼することの出来るたった一人の人間だった。
二
その日は特に暑かった。エアコンのきいた車を出ると、肌がひりひり刺すように痛い。ごみの袋を持ちながら、何度倒れそうになったかわからない。副社長の叔母がさっき無線でこんなことを言っていた。
《裕史、だらだらするんじゃないんだよ。お前だけだからねえ、いつも遅れて帰ってくるのは。ちょっとは恥を知りなさいよ。全くもう、何度言ったらわかるんだい》
叔母は彼を困らすために、わざときついことを言う。実の母に捨てられて、彼女の妹に育ててもらった。いくら慎ましくしていても、腹が立って仕方ないようだ。
昔は叔母の言う通りにした。しかし今では全く意に介さないようにしている。顔の周りを飛び回る蝿のようにうるさいと思うだけだ。言う通りにしても、しなくても、同じように文句を言われる。彼はただ悲しげな表情を彼女に向けるだけだった。
パッカー車の圧力板が上に行ったと思うや否や、突然、袋が破裂した。中から大量の液体が飛び出してくる。裕史は逃げる暇もなく、一瞬にして汚水まみれになってしまった。急いで車のドアを開けると、床に落ちているタオルを取り、すぐに頭と顔をこすった。魚の生臭いにおいが全身に飛び散って、拭いても、拭いても、油のように伸びるだけで、なかなか取れはしなかった。
「あかん、またやってしもうた。ワイ、どんくさいからなあ。せかされると、いっつもヘマをしてしまうんや」
彼は一人で呟きながら、汚水まみれになったのは叔母のせいだと決め付けた。
《裕史、聞いてるの? 聞いてたら、ちょっとは返事をしなさいよ。あたしをバカにしているんじゃないでしょうねえ。お前に見下されるほど、落ちぶれてはいないんだから。何か言いなさいよ。あたしだけがしゃべっていたら、本当にバカみたいじゃない》
叔母は依然まくし立てるように話してくる。裕史はたまらず無線を切った。
日の光は車の進行方向から照り付けていた。舗装されていない砂利道は土が細かい煙となって、勢いよく舞い上がる。一ヶ月ほど雨は降ってなかった。都心から数十キロ離れた郊外はまだ土の地面が所々残っていて、空き地や、公園や、学校の運動場に自然のままの地球の一部が優しく顔を覗かせていた。一滴の水分も含まずに、白くぱさぱさに乾いている。裕史は回りの景色を見渡すと、自分まで干からびてきそうに思えてならない。彼は左右の窓を全開にすると、エアコンのつまみを最大にした。鼻をへし折る強烈なにおいが車の中に立ち込めている。風で空気を入れ替えないと、とても居られる状況ではなかった。
「後四時間は辛抱せなあかん。畜生、どっかの川にでも飛び込んだろか」
そう言って一人ぶつぶつ呟いたが、実際にする勇気はまるでなかった。水浸しになるよりクサイほうがよっぽどましだと思っている。ごみの仕事をしていると、鼻は自然と鈍感になった。クサイにおいはクサイままだが、いずれ何とも思わなくなる。彼が今、憂鬱なのは汚水で体が濡れたからで、だから引き続き半時間ほど車を走らせ、すっかり乾いてしまったときにはほとんど気にならなくなっていた。
「ごみ屋さん、それは絶対にいけませんわ。至急、服を脱ぎなさい。体を綺麗に洗わなければ、ここから一歩も出しませんからね」
今日から初めてごみを取る保育園に立ち寄った。契約書を渡すため、インターホンのボタンを押し、白い鉄のアームで出来た折りたたみ式の門の前に立っていると、すぐに行きます、と声がして、中から若い女が現れた。肩の上からクマの刺繍の縫い込まれた茶色いエプロンをかけており、頭には青い帽子をかぶっていた。きっとここの制服に違いない。門から裏庭へと続く比較的広い抜け道の対面に同じ格好をした女が数人、園児の世話をしていた。彼女らはジーンズや綿パンやらの色あせた普段着を着ていたが、眼の前にいる女だけは眩しいくらい鮮やかな白いドレスをまとっていた。裕史を見ると、にっこり微笑もうとしたけれど、次の瞬間、急に顔をしかめると、びっくりしたように聞いてきた。
「まあ、どうなさったの? 服がどろどろじゃないですか」
青いポロシャツの右側だけ、さっきの汚水で赤黒く変色してしまっている。裕史は慌てて、大丈夫だ、と否定した。しかし女は許さない。急いで後ろを振り向くと、さっきの女たちに命令するようにこう告げた。
「誰か服を洗ってあげてちょうだい。今日からごみを取ってくださるの。毎日ここまで来てくださるんだから、優しく大事にしてあげてね」
すぐに二人が飛んできた。どちらもドレスを着た女より年上のようだったが、彼女のことを園長さんと呼んでいた。裕史の両側に立つと、いきなり腕を羽交い絞めにする。園長さんはすぐに建物に入ってしまった。
二人の女に護送され、無理やり裏庭へと連れて行かれた。
「黙って立っているんだよ。文句を言ったら、ただではすまさないからね」
芝生の真ん中に作られた半円形のプールの前に立たされて、いきなりホースで水をかけられた。傍にたくさんの園児たちがいる。皆大喜びで騒いでいた。
「兄ちゃん、水着持ってこなかったの? ぼくのを貸してあげたいけど、履いたらデカパンになっちゃうよ」
空は淡いコバルトブルーだった。地面に濃いグリーンの芝生が敷き詰められている。隣に白い洋風の建物があった。日は真上から射しており、ますます勢いを強めている。辺りは眼がくらむほど明るかった。裕史はそのうち自分のいる場所がわからなくなってきた。水は彼をめがけ、ホースの先から一目散に飛んでくる。体に当たり、激しく周りに飛び散った。水しぶきを通し、辺りの景色を眺めてみると、すべてが粉々に分解し、歪んだように見える。ちょうど中学の教科書に載っていた抽象絵画のようだった。音も変に低くこもり、子供たちの歓声が遠くのほうから聞こえてくる。
裕史は急に可笑しくなった。一つの混じりっけもない純粋な水が惜しみなく彼の体に打ち当たる。身も心も綺麗さっぱり清められる思いがした。油と汗とごみのにおいがどこかに吹っ飛んでいくようだ。石鹸をもらい、足をばたばたさせながら、がむしゃらに泡を立てた。髪の毛や服の上から何度もこすって体を洗う。子供たちが競って泡を手ですくった。空に向かい楽しそうに放り投げている。きらきら光る雪のようだと裕史は思った。彼は再び水をかけられると、泡を綺麗に流してもらい、子供たちと一緒になって、勢いよくプールの中に飛び込んだ。
バスタオルで身をまとい、事務所の裏の一室で長い時間待たされた。きっと応接間に違いない。ガラスのテーブルを挟むようにして、黒いソファーが置かれていた。
白い壁の一角に一枚の絵が掛けてある。首を少し横にかしげ、若い女が一人の赤子を抱えていた。眼は半分ほどが閉じられて、物憂いそうでも気だるそうでもあったけど、薄くて艶のある唇はかすかに笑みを蓄えて、喜びに満ちた表情でじっと椅子の上にまどろんでいた。顔と腕にふっくら肉のついた母親は栗色の髪を丁寧に編み、同じく丸々太った裸の子供をいとおしそうに抱いている。柔らかい膝の上に腰掛けて、聡明な顔つきの男の子が両腕を元気一杯天に向かって伸ばしていた。頭の上に金の輪が浮かんでいる。神の愛にはぐくまれ、世界中から祝福され、二人はそこにいるようだった。
裕史はソファーの上から腰を浮かすと、しばらく食い入るように絵を眺めた。茶色の額に納められた三十センチ四方ほどの小さな絵ではあったけれど、なぜか彼の心を捉えて離さない。自分にこんな時期があったとはとても思えないが、無性に心をかきむしられる。彼はその絵を見ていると、甘くて切ない郷愁みたいなものが胸をよぎり、複雑な思いがしてならなかった。
突然、後ろの戸が開いて、園長さんが入ってきた。
「やっと乾いたようですわ。うちの乾燥機、壊れているのかしら? たったこれだけのものなのに一時間もかかってしまって。長い時間お引き止めして、本当にごめんなさい」
そう言って、綺麗にたたんだ下着と作業着を彼の前に差し出した。洗剤の甘い香りがぷんとする。ふっくらと柔らかい感触を携えていた。彼が家で洗濯しても、決してこんなふうにはならない。洗って、絞って、干すだけで、紙のようにごわごわしている。さっき魚の汁が染み込んで、雑巾みたいに汚くなった服が今はきっちり折り目までついて新品のように光っている。彼は服を受け取ると、たくさんの労力を施して、ここまで仕上がったのだと思った。
すると急に悲しくなってきた。園長さんはシミ一つない綺麗なドレスを身にまとい、背筋を真っ直ぐ伸ばしている。若いながら、出来たばかりの保育園を一人で切り盛りしようとする強い気迫を漂わせていた。不安と戸惑いを胸に抱き、必要以上に一生懸命やっている。彼は彼女の意気込みに思わず気後れしてしまった。
「契約書はこんな感じでよかったかしら?」
書類に必要事項を書き込んで、彼の前に差し出す。難しいことは何もない。住所と名前を記入し、上から判を押せばいいだけだ。たったそれだけのことなのに彼女は真剣に聞こうとする。年は向こうのほうがずっと上のようだった。言葉遣いや、顔つきや、仕草や、人との接し方も、彼女のほうが大人びている。ところが今は出来る限りちゃんとやろうとして、必要以上に体を彼に近づけていた。白い肌と、香水の匂いと、緊張した息遣いが直に伝わってくるようだった。裕史はソファーにうずくまると、バスタオルを強く引き、真っ赤になってうつむいた。
「まあ、ごめんなさい。先に着替えをしなくっちゃねえ。わたしったら、今日は一体どうしたのかしら」
彼女はそう言うと、慌てて部屋を出て行った。
彼は急いで服を着た。バスタオルを脱ぐと、裸になって、下着と作業着を身につける。
外に出ると、辺りは数段眩しくなっていた。綺麗に洗濯された作業着が心地よく体にまとわりついている。園長さんは事務所の前で待っていてくれた。背筋を真っ直ぐ上に伸ばし、裕史を見て、満足そうに微笑んだ。
「明日からよろしくお願いします」
そう言い、明るく彼を見送ってくれた。慎み深い希望のようなものを感じた。この新しい建物と同じように彼女も純粋で無垢なのだ。気がつくと、園長さんの足元に小さな男の子がまとわりついている。白いドレスの裾を引き、甘えるようにはにかんでいた。人差し指を口にくわえ、彼女のことを、フーコ先生、と呼んでいた。フーコ先生は優しく彼の手を取ると、背をかがめ、おどけるように裏庭のほうへと駆けていった。
前の道を一人で渡り、駐車場に止めてある車のドアを開けたとたん、思わず鼻を塞いでしまった。普段から嗅ぎ慣れているにおいなのに何ともいえない悪臭に思える。魚のにおいだけではない。鶏や、豚や、菜っ葉や、こんにゃく、垢や、汗や、洟や、血などのおぞましい汚物の残骸が車の中に充満している。今の自分の境遇を如実に示しているようだった。裕史は両方のドアを開けると、駐車場の真ん中に頭を抱えてしゃがみ込んだ。
五分ほどして覚悟を決め、ようやく車に乗り込んだ。慣れるまで、さらに数分が必要だった。ずいぶん道草をしてしまった。遅れを取り戻すにはもう不可能な時刻だった。ごみを捨てる清掃センターは三時で閉まる。車の時計は二時を少し回っていた。自分の受け持ちをすますには後二時間は優にかかる。一度捨てに行こうかと思った。どっちみちごみは車に積んだまま、明日まで持ち越さねばならない。だったら少ないほうがまだましだろうと、彼は考えたからだった。どちらにするか決めかねているうちに、何となく無線のスイッチを押してしまった。叔母がまだしゃべっている。さらに語気を強めながら、相変わらず彼に文句を言い続けていた。
《……裕史、裕史、裕史、裕史、裕史。お前はバカかツンボなのか? 何て強情な男なんだ。全く嫌になっちまうよ。回るのがいつも人より遅いんだから。お前のコースだけ虎や狼が出るわけじゃないだろう。あたしゃ、知っているんだよ。山の上の公園でしょっちゅうサボっていることを。あたしをバカだとお思いかい? お前を大事に育ててやったこのあたしをお人好しだと思っているんじゃないだろうねえ。あたしゃ、それほど気のいい女じゃないからね。貸したものは何が何でも返してもらう。こんな商売をしているんだ。綺麗ごとを言ったって、誰も信用してくれない。あたしゃ、お前にたくさんの金をつぎ込んだ。一銭も残さず、きちんと返してもらうまでは決して容赦しないからね。もう子供じゃないんだから。人としての道理くらいちゃんとわきまえてもらわないと、あたしも困ってしまうんだよ。鬼や悪魔とお思いかい? でもそれが筋というもんじゃないか。だってお前の母さんは無理やりあたしにお前を押し付けてきたんだから》
裕史はたまらず無線を切った。唇に悲痛な笑みが浮かんでくる。自分には拭っても拭い切れないたくさんの不幸がまとわりついている。彼は車の窓を下まで降ろすと、胃の奥から込み上げてくる酸っぱい汚物の塊を乾いた地面に吐き出した。
三
事務所にあるエアコンはずっと壊れたままだった。九月に入っても、まだ暑い日が続いている。片面にアサガオの絵が載って、裏に緑の象のマスコットと、『吐き気、むかつき、生理不順に大秦堂のポポロS』と書かれた安物のウチワを顎が二重になっている副社長が一生懸命煽いでいた。顔に一杯玉のような汗が吹き出している。特に鼻先に集中し、羽を抜かれた鶏のような無様な格好をさらしていた。
「……ったく、あんたらときたら、どうしようもない唐変木だねえ。うちのフトコロ事情を全くわかっていないんだから。ないものはない。それで納得出来ないの? 他にどんな説明の仕様がある? あったら、教えてちょうだいよ」
ちょうど給料日にあたっており、特に機嫌が悪かった。銀行の取り立て、市のごみ処理費用の支払い、社会保険料、雇用保険、税金、車のローン、給料等々、とにかく支払いと名のつくものが我慢ならないほど癪にさわる。今日も朝から得意先を回り、集金業務をしてきたが、金は思うように集まらなかった。それで代わりに従業員を説教することで、気持ちを晴らそうとしていたのだ。
「いつもはすぐに帰るくせに、この日だけはどうして遅くまで残っているの? 何て嫌味な人たちだい。あたしの困った顔を見るのがそんなに楽しいっていうのかい」
忌々しそうに、さらに激しくウチワを煽いだ。蝿が数匹、顔の周りを飛んでいる。事務所は従業員の体に付いて、一緒に紛れ込んだごみのにおいで、すっかり汚染されている。今では誰もの鼻が麻痺してしまい、何も感じなくなっているが、おそらく辺りは相当クサイに違いない。冬でも蝿がいるほどで、夏の暑い盛りには群れになって飛んでいた。ところが不思議なことに、蝿は従業員には近づかず、もっぱら副社長にだけたかろうとした。人には嫌われていたけれど、蝿にはなぜか好かれたようだ。
「ねえ、耕ちゃん。あんた、得意先に行ったときは愛想の一つくらいしなさいよ。あんたのとこだけだよ、いっつも文句を言われるのは。来たのか、来ないのかわからないって。ごみもやたらまき散らして、ちっとも片付けないそうじゃない」
裕史は入り口付近に座っていた。一番遅く帰ってきて、そこしかあいていなかったのだ。前に『禿の清やん』がいる。四十過ぎのおっさんで、後頭部から頭のてっぺんにかけ綺麗に毛が抜けてしまっていた。太鼓のように薄い膜が光沢を放ち張っており、何かの加減で眼がいくと、思わず叩いてみたくなる。裕史は必死で笑いをこらえていた。禿げたところを西瓜の出来具合でも調べるように、ぽんぽん弾くのを想像して、可笑しくて仕方なかった。笑うといけないと思うほど、よけい笑いたくなってくる。彼は顔を下に向け、必死で息を押し殺すと、顔を真っ赤に腫らしながら、苦しそうに引きつっていた。
「……ったく、ちょっとは金を集める者の身にもなってよ。ちゃんと仕事をしてくれないから、貰えるものも貰えなくなるじゃない。文句ばかり言われて、頭をぺこぺこ下げさせられて。それでも払ってくれないときは思わずテーブルに頭をぶつけたくなるよ。あんたたち、自分の担当のところだけ、責任をもって回収してくれる? 損したら、代わりに給料から差し引もいても構わない? たちまち困ってしまうでしょ。でもあたしらはいっつもそれをさせられているんだよ。ったく、お前たちはほんとに気楽でいいもんだ」
蝿はまだ彼女のことを気にいっているようだった。ウチワでいくら煽っても、汗は一向に引いてくれない。蝿は彼女の鼻の先に止まり、しきりに表面を舐めている。副社長は何度もウチワで払おうとした。すると突然、宙に上がり、からかうように彼女の周りを飛び回った。副社長が忌々しそうに手で叩く。すると蝿はまた彼女の鼻に避難して、悠々と足をこすっていた。
「ったく、いいかげんにせい」
副社長はとうとう業を煮やしてしまうと、力任せに机を叩き、至急隣の薬局に行って、フマキラージェットを買ってこい、と前の耕ちゃんに言いつけた。
事務所は四つのスチールデスクを向かい合わせにしただけの狭くて汚いとこだった。二階と三階が社長夫婦の住まいになっており、どの部屋にも一台何十万円もするたくさんの機能の付いたエアコンがあり、それはちょっと具合が悪くなると、すぐに修理に出されたが、事務所にあるものは去年から壊れていたけど、ずっと放ったらかしのままだった。社長も副社長も事務所に来ることはめったになく、給料日だけ申し訳程度に顔を覗かせるだけだった。いまだかつて決められた日にきちんと金が支払われたためしはなく、代わりに言い訳をするために、嫌々上から降りてくるのだった。もっとも素直に謝るのは社長だけで、副社長は従業員を見ると、すぐに頭に血が上った。揃って間の抜けた顔をしており、黙って頭を下げるのが我慢ならないようで、すぐにこんな嫌味を言う。
「一年や二年で会社が出来たわけではないんだからね。あたしと父ちゃんが汗水流して働いて、ようやくここまで築いたんだ。昔のことを知っている者はもう一人もいやしない。今みたいにのんびりやっちゃいなかったよ。お天とうさまが沈んだ後も、仕事を探してずっと飛び回っていたんだから」
従業員はたった五人しかいなかったが、一人前の立派な会社のように思っている。昔の仲間とは皆喧嘩別れをしてしまい、すべての原因は彼女らのほうにあったけど、多大な損害をこうむったと、今でも恨みがましく思っている。
社長は副社長の後ろに隠れ、黙って爪を切っていた。正真正銘の蚤の夫婦で、背は小さく体は細く、丸々太った奥さんの陰にすっかり埋もれてしまっていた。胃潰瘍と、歯槽膿漏と、インキンタムシを患っており、今では全く仕事をしていないが、近くに寄ると、ごみよりクサイにおいがした。
裕史は清やんの後ろから顔を出すと、ときどき警戒するように副社長を見た。さっきまでの可笑しさはすっかりどこかに消えてしまった。副社長がフマキラージェットを噴射し、机の上に毛玉のように落ちた蝿の屍を見たとたん、背筋に悪寒が走ったからだ。彼女は並の女ではない。市から認可を与えられた特権的な今の地位を守るためなら、どんなことでもやろうとする。給料日にまともに金を支払わないのも、今ではここの暗黙の了解事項になっていた。
二年前に一人の男が反乱を起こした。副社長の金払いの悪いことに腹を立て、仕事をボイコットしたのである。創業当初から残っていたたった一人の番頭クラスの男で、他の者は皆、副社長と喧嘩して、ことごとく会社を去ってしまった。ごみの仕事は扱うものは汚いけど、気楽に出来るのがいいところで、同業他社の従業員は長く会社に根付いていたが、しかしここだけは決してそうはならなかった。公私混同が激しくて、全くやる気が起こらない。社長が胃潰瘍を患って、副社長が実権を握ってから、特に顕著になってきた。毎日、豪勢な食事をし、私用の車の購入や家の修理代金、家族の冠婚葬祭までも、全部会社の経費で落とし、何食わぬ顔して澄ましている。稼いだ金は全て自分たちのものだと思っており、ちょっと抗議でもしようものなら、たちまち首にされてしまう。中でも特に酷かったのは一人息子の芳晴への溺愛ぶりで、頭は相当悪いのに、私立の有名中学に通っていた。もちろん裏から数千万円に及ぶ巨額の金を渡したわけで、しかもそれを全部会社の経費であてがった。ところが従業員にはシラをきり、経営が行き詰ったと嘘をついて、強引に賃金カットを断行したのだ。誰もが実情を知っていたが、文句の一つも言えなかった。
~あんた達さあ、恥を忍んで、あたしが頭を下げているんだから、黙ってこの場は見逃してよ。あたしがひとたびへそを曲げたら、どうなるかわかるでしょ? あんたらが倒れるか、あたしらがくたばるか、二つに一つのことしかないんだから~
初めて上の住まいに呼んでもらい、一人一人怖い眼をして脅かされ、強引に了解を取り付けられた。ところがさっきの男だけは一人納得しなかった。彼だけ産業廃棄物の仕事をしており、それは免許を持った者しか出来なく、しかも当時、彼の稼ぐ売上げは会社の半分近くもあったから、安易に首を切れないと思い、抵抗したのだった。
彼は当時あまりの腹立たしさに、このくそババア、お前が副社長になってから、ろくなことはありゃしねえ、会社は傾く一方だし、借金ばかりが膨らんで、おれがいくら頑張っても、ちっとも追いつかねえじゃないか、このオタンコナスのブタ女が、お前がいるからいけないんだ、お前みたいな悪党は肥溜めに落ちて、鼻と口が糞まみれになって、喉と肺にも糞が詰まって、息が出来ずに死んじまえ、と普段は無口で穏やかな彼が特別汚い言葉を選ぶと、顔をゆがめて副社長を罵った。ところが次の日、彼女は涼しい顔して代わりの者を連れてくると、蚊でも払うような易々さで彼を追い出してしまった。そのお手並みは横で見ていても、びっくりするほど鮮やかで、どうしてあんなことが出来たのか、今でも誰もわからないほどだった。もっとも裏で若い女をあてがったとか、相当な金を積んだとか、一時まことしやかに言われたこともあったけど、しかし実際は若い女など誰も見たことがなかったし、男もすぐに辞めてしまい、結局会社は産業廃棄物から撤退するという最悪の事態を迎えて終わり、それが今日までずっと尾を引いて続いている。
「お前のあの叔母というのは相当な食わせ者よ。自分が会社のトップにいるためなら、どんなことでもやろうとする。仕事のことなど、端から考えちゃいねえんだから。おかげで売上げは半分になってしまった。代わりに借金は倍に膨らんでいる。なのに同じようにドンちゃん騒ぎを繰り返している。どこからかうまい具合に金を借りてきては器用に回していやがるんだ。強運というか、悪運が強いというか、きっとあの女の強欲さには神様も呆れてしまって、どんな罰も与える気がしないんだと思うよ。自分らが贅沢するためなら、どんなことでもやるんだから。人が路頭に迷うとも、首を吊って死のうとも、屁とも思っていねえんだ」
会社に入ってしばらくして、裕史は以上のことを『禿の清やん』から聞かされた。首になった番頭の名前が斉藤だったことから、今では仲間内で『斉藤の乱』と呼ばれている一連の騒動は一時大変な衝撃を持って会社の中を駆け巡った。従業員の半数近くが首になり、誰もが疑心暗鬼の中、戦々恐々と仕事をしていた。会社に入って間のない裕史は何が何だかよくわからなかった。ただ皆の眼が異常なくらい血走って、人間関係は最悪で、職場が相当荒れていたことだけは今でもはっきり覚えている。特にあの『禿の清やん』などは裏でこう言って毒づいたものだ。
「おれたち従業員を一体何だと思っていやがる。忙しいと言ってはこき使い、暇だと言っては首を切る。豚や牛でももっと大事にしてもらえるぜ。あの強欲ババアのトンチンカンが。いつかは刺し違えてやるからな。下膨れのアンコウみたいな醜い腹にデバ包丁を差し込んで、塩辛みたいにグジャグジャにして、ひなびた港町の土産物屋で売ってやる。海の底のヘドロを食って生きてきたクサくて貪欲な深海魚。煮ても焼いても食えないので、塩辛にして売っています、って。派手な看板をぶっ立てて、世間のさらし者にしてやる」
ところがそう言う清やんも副社長の前に出ると、いとも簡単に態度を変えた。歯の浮くようなお世辞も堂々と言ってのけたりする。
「これは、これは、副社長。今日は一段とお美しいですなあ。社長が今でも惚れておられるのが全くもってよくわかりますよ」
すると副社長は怪訝な顔して彼を見た。
「バカじゃないの。つまらない冗談を言う暇があったら、もっと仕事に精を出してよ」
彼女はそう言って取り合わなかった。ところがあくる日、念入りに化粧を施すと、びっくりするほどのおめかしをして現れた。裕史は彼女の姿を見ると、やるせない思いにさせられた。大人とは何と単純な生き物か。しかし彼はそんな大人に頭ごなしに押さえつけられている。会社に入って間もない頃、裕史は叔母からこう言われた。
「うちに来る人間はどいつもこいつも能無しさ。他では雇ってもらえないから、仕方なく来ただけだ。やる仕事がごみ集めなら、やってる人間もごみのようなものだ。ずる賢くて、汚くて、意地も誇りもありゃしない。嘘はつくし、喧嘩はするし、平気で仕事をさぼったりもする。全く屑のような人間たちだよ。でもねえ、そんな奴らでもお前ほど恥知らずの者は一人もいないんだよ。屑は屑でも屑なりに、身の上だけはわきまえている。だから誰も口答えしない。場合によっては愛想の一つも言ってくれるくらいなんだから。
ところがお前は何なんだ。あたしからその何十倍もの恩を受けながら、逆に怖い顔して睨み返してくるんだから。まるであたしが実の母親ででもあるかのように、心を込めて尽くさないと、許してやらないとでもいうように。あたしゃ、お前を見ていると、ほとほと情けなくなってくるよ。こんなことなら、早い時期にどこかの施設に放り込んで、さっさと見切りをつけておいたほうがよっぽどよかったと思う。変に仏心を起こしたおかげで、大変なしっぺ返しを食らったんだから。
言っとくけど、あたしはお前の親ではないんだからね。ましてや慈悲深い神様でも仏様でもないんだから。弱くてもろい哀れな一人の人間なんだ。だったらお前の恩知らずの恨みがましい顔を見て、思わず殺したくなったとしても、仕方ないというもんだ。あたしはお前にこれっぽっちも悪いことはしていない。世間の人から、後ろ指を差されるような、汚いことは何もしてはいないんだ。だから怖い顔をして、あたしを睨まないでちょうだい。いくらお前が憎くても、あたしはお前を捨てられないんだから。お前からすっかり借りを返してもらうまで、あたしゃ、死んでも死に切れないほど悔しいんだよ」
人の倍もの得意先を持たされ、最も遠い地域を回らされ、車は一番のおんぼろで、給料も極端に抑えられている。従業員は誰もが裕史に同情してくれた。むごい仕打ちを受けていると、心底かばってくれたりもする。しかしそんな彼らでも叔母には決して逆らえなかった。あの『禿の清やん』のように、陰で文句は言うものの、面と向かっては一言も反抗出来ないのだ。
「……ねえ、あんたたち、お願いだから、もうあたしに愚痴を言わせないでちょうだい。毎回、毎回、口が酸っぱくなるほど言わされて、本当に懲り懲りしているんだから。仕事は真面目にやりましょう。やるべきことは面倒がらずにしましょうね。あたしが言いたいのはそれだけよ。
毎日、日にち、どうしてこうも疲れるのかしら。あんたたちはごみを捨てたら、すぐに仕事は終わりだけど、あたしはそうではないんだから。どうやって手形を落とそうか? ずっと頭をひねっているんだから。
倒産したら、元も子もなくなるでしょ。だからちょっとの間、我慢してね。何も払わないとは言っていないんだから。ほんの少し遅れるだけのことなのよ。今が一番苦しいとき。ここを何とか乗り切れば、また調子は上向くかもしれないし。そしたらたくさんのボーナスだって、きっと払ってあげるから。だからそれを励みにして、これからもよろしくお願いします」
副社長はそう言って、とうとう皆をまるめてしまった。従業員は会社に抗議するために長い時間残っていたが、何の成果も得られないまま、虚しく時はすぎてしまった。ボーナスなんて絶対出ることはないのだ。誰もが百も承知している。しかし彼女にたてつく知恵を皆は持っていなかった。代わりにハーとか、スーとかやるせないため息を吐くだけで、黙ってその場を立ち去るだけだった。
蝿がまた一匹、事務所の中に忍び込んでいる。副社長はいち早くそれを見つけると、今やすっかりお気に入りとなったあのフマキラージェットを勢いよく蝿に向かって噴射した。蝿はピタリと空中で止まると、ストンと床に落ちていった。
「誰か掃除しといてちょうだい。ったく、毎日、日にち、どうしてこうも暑いのかしら」
そう言って、再び激しくウチワを扇いだ。
四
足の先が氷みたいに冷えている。日が落ちて、急に気温が下がり出した。裕史は靴を脱ぐと、古くなって固まった塩の塊でもつぶすように強く指を手で揉んだ。
~カイロでも持ってきたらよかったなあ。使い捨ての足に敷くやつがあったんや。この分やと朝まで持たへんかも知れへんぞ。ちょっと買いに行ったろか。近くにローソンがあったから。あそこやったら、絶対売っとるはずなんや~
彼はジャンパーのポケットに手を入れると、思わず肝を冷やしてしまった。金を一銭も持って来ていない。いつも着ている作業着に財布を入れたまま、移し替えるのを忘れてしまったのだ。いや、それ以前に金を持ってくること自体、端から頭になかったのだった。
~ワイ、肝心なとこで抜けとんねん。いっつもそうや。だからヘマをしてしまうねん~
彼は忌々しげに天を仰いだ。
頭の上に暗黒の闇が広がっている。細長い糸のような三日月とかすかに瞬く星々が何かの燃えカスのように冷たく心細く光っている。底なしの、眼がくらむほど広大な穴が頭の上を塞いでいるようで、長く見ていると、天地の感覚がわからなくなり、思わず吸い込まれそうになったりもした。
~何であんなに暗いんやろ。恐ろしいほど真っ黒やもんなあ。きっと何にもあらへんからや。嫌やなあ。不気味やなあ。あかん、あんなもん見とったら、頭が変になってくるわ~
ときどき風がかすかに吹き、庭木の葉が衣擦れのような音を立てた。裕史は葉の揺れる様子を見ると、しばし心が落ち着いた。空気は刺すように冷たかった。しかし彼の周りにはたくさんの植物が息づいて、暖かく彼を取り囲んでいる。
敷地の広さはかつて裕史が通っていた中学校のグランドぐらいあった。端にテニスコートが三面と、八レーンある二十五メートルプールが一つあったが、それとほぼ同じ面積に母屋の建物が建っている。屋根の付いた石畳の道を通し、三つの離れとつながっている。いずれも平屋だったけど、高さは二階建ての母屋と同じくらいあり、皆ドーム型の丸い屋根を持っていた。周りをたくさんの植物が取り囲んでいる。家の明かりを直に受け、怪しく光り輝いていた。
「よし。よし」
と、ここへ来てからずっと同じ言葉を繰り返している。
「大丈夫や。大丈夫や」
と、続けてまた自分を励ますのだった。
ちょっと息をするだけで白い蒸気がたくさん出た。周りの空気を暖めて、すぐに闇へと消えていく。耳に栓でもしたように音はほとんどしなかった。
~何でこんなに寒いんやろう。手が思うように動かへん。耳がちぎれるほど痛いわ。ワイ、ほんまに死んでしまうかも知れへんど。セミやバッタやコオロギみたいに冬を越せんとあの世行きや。土の上に腹ばいになって、蟻に食われておしまいや。ハ、ハ、ワイ、虫とおんなじか。ワイ、虫と変わらへん~
裕史は祈るように二階の女の部屋を見た。黄色く、明々と輝いて、とても暖かそうに感じられる。まるでそこだけ春の陽気で満ちあふれているように思われた。
月末にたまに集金に行くことがある。副社長の代わりに何軒か得意先を回させられた。だからあの保育園にも何度か寄せてもらったことがある。仕事が終わった後、会社の乗用車を使い行くのだが、すると園長先生は子供と鬼ごっこなどをして遊んでいた。いつもの白いドレスを着て、力一杯裏庭を駆け回っている。彼女は裕史を見つけると、不思議そうにこう聞いた。
「どうなさったの? 忘れ物でもされたんですか?」
彼はすぐに用件を言った。すると彼女は大声を出して笑った。
「すぐに持って来ますから、事務所で休んでいてください」
例の絵がかかった応接間で、ソファーに座り、待機している。一人でじっと絵を見ていると、泣きたい気分になってくる。甘くて切ない郷愁みたいなものを感じ、いてもたってもいられなくなるのだ。自分にこれほど幸福な時期はなかった、そう感じ、痛く心がかきむしられる。
しばらくして園長先生が現れた。額に薄っすら汗をかき、荒い息をして笑っている。後ろに手をつないだ子供たちがたくさん数珠のようにつながっていた。珍しそうに裕史を眺め、隠れるように立っていた。園長先生は彼の手を握り締めると、しっかりお金を渡してくれた。
「ちゃんと持っていなきゃダメですよ。もう決して落としたりしないでね。いずれ銀行振込みにしますから。それまでくれぐれも気をつけて」
そしておもむろに後ろを向くと、頭の上に角を立て、こんなふうに脅すのだった。
「悪い子供はどこにいる? 頭から一気に食べてしまおうか」
皆が一斉に奇声を上げた。胡麻の種が弾けるように四方八方に飛んで行く。裕史は彼らを見ていると、心底愉快な気分になった。
また風が吹いてきた。木の葉が乾いた音をたてる。裕史は頭にジャンパーの襟をかぶせると、冬ごもりをするヤマネのように背中を丸く折り曲げた。
母に連れられ、この土地に来たのは裕史が小学二年のときだった。何も告げられず長い間、電車の中に閉じ込められた。三度ほど乗り継ぎのため、無理やり起こされホームに下りたが、何分晩のことで、辺りに明かりは一つもなく、深い闇が延々と広がっているばかりだった。
~ワイ、どこに連れて行かれるんやろ。何も悪いことしてへんのに~
子供心に嫌な予感だけはした。母はずっと浮かない顔をしていた。あらたまった服装などはしておらず、いつもの綿のワイシャツと、自分で編んだ赤い毛糸のセーターと、肘と肩の周辺だけ擦れて色の落ちたピンクのジャケットを羽織っていた。足元に子犬ほどの黒い布製のバッグがあるだけで、他には何も持ってなかった。
昼すぎにホームが三つある木造の駅で降ろされて、すぐに近くのそば屋に入った。珍しく、たくさん食べろ、と母は言い、裕史は月見うどんと、とろろそばと、いなり寿司を三つも食べた。日が暮れるまで、駅の待合室で休んでいて、暗くなって、ようやく母は歩き出した。駅前の商店街を抜け、市役所の横を通り、分譲住宅の建ち並ぶ大きな団地にやってきても、母は一向に止まらなかった。ここはどこか? と尋ねると、母さんの生まれたところだ、と言う。裕史は急に悲しくなった。電車に乗る前の日から、母はずっとため息をついていた。普段は容赦なく体を叩かれ、鬼より怖いと思ったが、そのときだけは寂しそうで、初めて母をいとおしく感じた。
黒くて大きな川を渡り、新たな住宅地に紛れ込むと、急に大股で歩き出した。すごく焦っているようで、一人早足で進んで行く。郵便局を回り、五軒ほど行ったところで、母は突然、足を止めた。下に四台ほど車の止められる駐車場があり、向こう側が何かの事務所になっている三階建ての家があった。彼女はそれを指差すと、黒い鞄を渡して言った。
「母さん、ちょっと用事があるねん。しばらく待っといてくれへんか。何かあったら、ここの家の人を呼んだらええから。鞄を渡して、言われた通りにするんやで」
裕史はとっさに大声を出した。言いようもない恐怖が胸を強くかきむしったからだ。母は慌てて口を塞ぐと、怒ったように彼を叱った。
「お前、もう小学生やろ。自分で何でも出来るんやろ。ちょっとの間、待っとけ言うてるだけやないか。母さんの言うことが聞けんようなら、ここで一思いに殺してしまうぞ。お前を殺して、母さんも後を追っていく。それでもかまへん言うのんか?」
母は何度も息子を叩くと、一目散に逃げて行った。裕史は顔をくしゃくしゃにさせると、泣くより他は何もすることが出来なかった。
あくる日の早朝、家から女の人が現れた。裕史を見て、びっくりしたように眼をむいた。車と車の間に座り、足を抱えて背を丸め、体を小刻みに震わせながら、じっと寒さをこらえていた。彼女は彼の腕を取ると、急いで家の中に引き込んだ。胡散臭そうに眺めてはたくさんのことを聞いてくる。裕史は何も答えられなかった。代わりに黒い鞄をおどおどしながら差し出した。女は黙って受け取ると、変な胸騒ぎでもするのか、急いで鞄のチャックを開けた。中から一枚の紙切れを取り出す。彼女はそれを読み終えると、呆れた様子でため息をついた。
「あの女、とうとうここまでやるようになった」
叔母の一人息子の芳晴は何かと裕史に張り合おうとした。年は芳晴のほうが三つ下で、同じ小学校に通っていたが、成績は裕史のほうがはるかに上をいっていた。芳晴は裕史を見ると、いつでも背伸びをしたくなり、年下でありながら、すべての面で裕史の上に立たないと、気がすまないようだった。だからテストや通知表を盗み見しては忌々しそうにこう言った。
「お前、人の家に住まわせてもらって、これは一体どういうことだ。机も何にもないくせに、いつでもいい点取りやがって。どこで勉強していやがる」
裕史は勉強など、どこででも出来ると言った。ベッドの上で寝ていても、表をぶらぶら歩いていても、全く関係ないと言う。
「要はオツムの問題や。お前とワイの頭は違う。同じことを覚えても、ワイのほうが十倍よう入る。だから机も何もなかったかて、全然関係あらへんのや。これは生まれつきのもんやからなあ、どうにもしょうがないことや」
裕史は芳晴にだけは偉そうに出来た。家では親の愛情を独り占めにし、あらゆる面で優遇されていた芳晴も学校では裕史に完全に押さえつけられていた。だから家でのわがままぶりは度が越すほどひどかった。
「お前のいるあの屋根裏の部屋は昔、物置だったんだ。お前がやって来るまではおれのオモチャをしまっていた。母さんと父さんがたくさんのプレゼントをしてくれて、山のように置いていた。ところがお前が来て、全部捨てられてしまったんだ。なあ、それを返してくれよ。お前のせいでなくなったんだから、もう一度元に戻してくれ」
裕史は叔母からものなど買ってもらったことがない。しかし友達からはときどきいろんなものをもらったりした。芳晴は裕史のもらったものを見ると、決まって意地悪を言うのだった。
またあるときこんなことを言ってからかった。
「おれの部屋に絶対入っちゃいけないぜ。空気が汚れてしまうからなあ。お前はヘンタイ女の子だそうじゃないか。前に母さんが言ってたぜ。男とアレをするんだって。アレって、お前、知ってるか? 穴にチンコを入れるんだぜ。ケ、何てスケベな女だい」
裕史はそのとき血相を変えて暴れた。無性に腹が立ってきて、ほとんど意識がないままに、芳晴をとことん打ちのめしてしまっていた。
「また言うてみい、こんなもんではすまへんからなあ」
叔母が彼の倍以上も平手打ちをする。
「このクソ坊主の恩知らずが、何てことをするんだい。お前はあたしらに足を向けて寝れないはずだよ。子供だからって、許されるとでも思っているのかい? もしそうなら、今すぐうちを出て行ってちょうだい。世の中には児童福祉施設ってとこもあるんだから。国やいろんな慈善団体がありがたく迎えてくれるだろうよ。優しい顔して、うちよりずっと大事にしてくれる。お前、そこに行きたいか? 行きたきゃ、行ってもいいんだよ。あたしらは少しも止めはしないから。むしろ両手を振って、喜んでお前を送り出してやる」
叔母の言いようは真剣だった。裕史は彼女の顔を見ると、たまらないほど悔しくなった。
~ワイ、何もお前に助けてもらおうなんて思わへんぞ。そやけど、どこにも行ったるかい。行ったら、ワイの負けになる。芳晴のアホが皆に絶対言いふらっしょる。おれが怖くて逃げ出した、って、きっとみんなに自慢しよる。ワイ、そんなこと死んでもあいつにさせたるかい~
叔母は裕史を見るたびに母の悪口を言った。
「何もお前が憎いわけじゃない。でもお前の顔を見ていると、あたしゃ、姉さんを思い出すんだよ。わがままで、いい加減で、自分からは決して何もしようとしない。人に頼って、めそめそして、いまだに独り立ち出来ないでいるんだから」
そんな前置きをした後で、二時間も三時間も話をする。食事の用意をやりながら、飯を口にほおばりながら、お椀や皿を洗いながら、ひっきりなしにしゃべっている。叔父は食事が終わると、すぐに居間に引き上げた。眉間に深いしわを寄せ、気難しそうに黙ってタバコをふかしている。叔母は夫に気を使い、よけい裕史を責め立てた。彼が同じように席を立つと、決まってこんな嫌味を言った。
「まあ、何様のつもりでいるんだろうねえ? あたしゃ、お前に姉さんのことを教えてやりたいだけなのに。お前を捨てた母親がどれほどヒドイ女かってことを知らせてやりたいだけなのに。そしたらお前も諦めがついて、あたしがどれほど親切か、きっとわかるはずなんだから」
叔母は皮肉な笑みを浮かべると、引き続きこんな話を裕史にした。
「姉さん、一時クリスチャンだった。中学時代に不良になって、酒とタバコと男を覚え、バイクに乗って、ブイブイ街を飛ばしていた。十八でお前を身ごもって、誰の子かもわからないのに、構わず産んでしまったんだ。産むまでは誰もが励ましてくれたそうだ。姉さんに同情して、皆で助けて育てていこうと、そんなことまで言ってくれたらしい。ところがお前が出来たとたん、急に冷たくなったそうだ。ちょうど遊びたい盛りのときさ。身重になった姉さんのことがきっと疎ましくなったんだろう。
うちは父さん一人で育ててくれた。だから姉さんが不良になったとき、顔を真っ赤にして怒った。口より先に手が出る人で、叩いたり蹴ったりして、姉さんを更正させようとした。でも結果は逆効果になってしまった。姉さんは意地になって、お前を産んでしまったんだから。父さんは毎日のように酒を飲んでいた。意識をなくして、暴れ出し、そしてある日、姉さんをとうとう家から追い出してしまった。
金はいくら持っていたか知らないよ。でも一年ほどして聞かされたのはずっと西のほうで、クリスチャンの男に助けられ、何とか暮らしているっていうことだった。わざわざ手紙を書いて知らせてきたんだ。父さんにわからないよう、こっそりあたしに届けてきた。よっぽど嬉しかったんだろうねえ。姉さんが手紙を書くなんて、あたしゃ、天地がひっくり返っても、絶対ないと思っていたから。
男は妻子持ちだった。でも構わず入れ込んだみたいだ。キリスト教のことなどを熱っぽく書いてよこしたりしていたから。しかし相手は迷惑だったに違いない。善意の気持ちで助けたのに、よけいなことまでしてくるんだから。姉さんは結局二年余りで男の元から立ち去った。惨めな思いをしたようだ。悲観して、死にたい、死にたいって、何度も言っていたからねえ。でも、あたしとしちゃあ、二年も世話してもらえただけで、ありがたいと思っている。あれほどわがままで、いい加減な女はどこを探してもいやしないんだから」
裕史は同じことを母からも聞いて知っていた。彼女もまた自らをあざ笑うように昔の話をよくしたからだ。彼は母の話を聞くたび、たまらないほど憂鬱になった。自分の生まれたこの世には一つの希望も喜びもない。人の冷たさと、薄情さと、裏切りなどで満ちている。しかし裕史はただ一つクリスチャンの男だけにはかすかな光を感じていた。彼のことはおぼろげながら覚えている。遠い記憶の奥底で幻のように生きていた。男はよくこう言った。それは神のご意志です。それは神の思し召しです。それは神のおはからいです。もちろん生まれて間もない赤ん坊にそんな難しい言葉を覚えられるはずはないのだが、ところが不思議なことに物心がついた頃には彼はしっかり記憶していた。他のことは何も覚えていないのに彼の言った言葉だけはありがたい呪文のようにいつまでも心に残っていた。
叔母はいったん話を終えると、急に声のトーンを変えた。
「それからさ、あたしに金を借りに来出したのは」
唾を飛ばし、眼をむいて、滝のように轟々としゃべる。鍋のふたを持ちながら、菜箸を振りかざし、がむしゃらに戸などを蹴っては体全体で忌々しさを表現した。突然、床にうずくまり、何で? 何で? 何で? と叫ぶ。頭を壁に打ち付けて、あたしが、あたしが、あたしだけが、と続けて連呼するのだった。母は叔母にすっかり甘えた。一度金を貸しただけで、以降完全にあてにされたのだ。
「あたしが結婚して、所帯を持ってからも、まるでお構いなしだった。貸した金は一度も返してくれないのに、年に一度、必ずうちにやって来る。年の改まった元旦の晩に照準を合わすようにして。わざとみすぼらしい服を着て、眼に一杯涙を蓄え、凍えそうに玄関の前に立っている。あたしを恨めしそうに見詰めてはこんなふうに切り出すのさ。姉さんはお前に何もしてやったことがない。わがままで、意地悪ばかりして、本当に悪い姉だった。ところがお前はそんなあたしに優しく手を差し伸べてくれた。何度も金を貸してくれて、本当にありがたいと感謝している。もちろんあたしも頑張ったさ。お前の親切に報いようと、死に物狂いで働いた。でも学校に行かず、資格も何も持っていない、バカな女に出来ることはたかがしれているんだよ。幼い子供を携えて、朝から晩まで働いても、微々たる金しかもらえない。結婚して、ちゃんと旦那を持ったお前にはわかってもらえないと思うけど、現実はそうなんだ……姉さんはわんわん泣いて、あたしの前にひれ伏した。
あたしが結婚する前はこんなふうに同情を誘ったもんだ。姉さんは本当にバカだった。若気のいたりで、無茶をして、取り返しのつかないことをしてしまった。子供がこれほど面倒とは産むまで一度も思わなかったよ。友達はみんなこう言った。産んじゃえ、産んじゃえ、出来たものはしょうがない。おれたちみんなで育てようぜ。子供は誰でも可愛いから。あたしは腹の中の小さな命がそのときとてもいとおしく思えた。バカで意地悪なあたしでも普通に母さんになれるんだって、とても幸せな気持ちがした。
でも子供を産んだとたん、周りはがらりと変わってしまった。皆は迷惑そうにあたしを見るし、誰も祝福してくれない。急に子供が疎ましくなってきた。あの子に罪は一つもないのに、憎らしく思えて仕方ない。あたしは悪い親なんだ、どうしようもなくダメな女なんだ。何度も同じことを考えて、自分を責めてばかりいた。ところが世間の人々はあたしが深く罪を認め、心から悔いているというのに、女が一人で子供を育てているというだけで、白い眼で見たりするんだ。その悔しさといったら、誰にもわかってもらえないと思う。自分が何重にも世の中から呪われているようで、とても生きてゆく気がしなくなるんだ……姉さんはまたおめおめ泣き出す始末なのさ。
あたしは何度も騙され続けた。今と違い、昔はもっと純情だったからねえ。だからもう絶対騙さないぞと、固く心に誓ったんだ。遠路はるばる今のこの家を訪ねてきて、何度目かの借金を迫ったとき、最後にあたしはこう言って断わった。姉さんの猿芝居はとっくの昔に化けの皮が剥がれているんだよ。いくら惨めな話をしたって、金輪際、一銭の金も渡しはしないから、って。
すると姉さんは黙ってその場を立ち去った。あくる日、またやってくると、驚いたことに、今度は灯油のタンクを持って、いきなりそれを頭からかぶせたんだ。ねえ、あたしの服に火をつけてくれないか。たった一人頼りにしてきたお前にまで見放されたとなると、あたしはもはや生きていく気がしなくなったよ。だから一思いにあの世に行かせてちょうだい。でも子供に罪はないからね。ここに息子の裕史がいる。お前が引き取って、責任を持って育ててやってくれないか、と言って、ポケットからメモを取り出し、渡すんだ。あたしゃ、びっくりして、また金を貸してしまったよ。でもそれも猿芝居とわかり、断ると、とうとうお前をうちに置いて、行方をくらましてしまったじゃないか。
裕史、お前に罪のないことはあたしも重々わかっている。だからつまらない話をして、本当に悪いと思っている。でもお前に何もかもを打ち明けないと、叔母さん、おかしくなりそうでねえ。あたしは姉さんよりずっと真面目にやってきた。何倍も堅実に生きてきた。なのに、どうしてこんな目に合わされるのか全く合点がいかないんだよ。毎日、日にち、同じことばかり考えて、腹が引き裂かれるほど悔しいよ。だから今では夜もまともに寝れないくらい、苦しくて、苦しくて、仕方ない」
叔母はその場に泣き伏すと、ようやく長い話を終えた。
裕史は屋根裏の自分の部屋に引きこもると、ある日フォークの先を自分の太腿に突き刺した。叔母の説教は幼い彼の心の中に深い傷を作っていた。裕史はそれを癒すために、同じくらい痛いことを体にしなければならなかった。六年生になったばかりの春の日に、衝動的にした。食事中にやはり叔母に説教され、逃げるように自分の部屋に駆け込むと、たまたま持っていたフォークの先を思いっきり太腿に突き刺した。全身を引き裂くような熱い激痛が走ったかと思うと、皮膚から水を含んだスポンジのように汗が一斉にあふれてくる。半ズボンの下から日に焼けた褐色の肉がはみ出して、上に小さな塔のように銀色のフォークが光っていた。裕史は突然、足から生えてきたように見えるその冷たい異物を眺めると、何かの芸術作品のように思え、ちょっと不思議な気分になった。自分はもしかしておかしいのかもしれない。人並みに楽しみも喜びもないものだから、常軌をはずした異常な光景に激しく心が惹きつけられる。彼は叔母から受けた悔しさや悲しみをしばし忘れると、フォークの刺さった太腿をじっと食い入るように見続けた。
抜くときは刺すときの倍ほどの痛みがあり、何もなくなった穴の底から粘り気のある濃い血が湧き出すように上がってきた。急いで枕カバーをはずし、足の表面を拭き取ると、白い布の半分以上が赤く染まり、穴の底から鮮血が再び勢いよく舞い上がってきた。しかし思ったほどの出血はなく、何度か布で拭いているうちに、ほとんど出なくなってしまった。彼はタオルできつく縛ると、長ズボンに履き替えて、とりあえず薬を取りに行こうと思った。立って足を踏ん張ると、傷口を中心に楕円状に熱い痛みを感じたが、しかし誰にも気づかれず、事務所の救急箱から消毒薬を盗むことが出来た。部屋に戻り、過酸化水素水の蓋を開け、上からぽとぽと垂らしてみる。すっとする清涼感が背筋を走り、同時に鋭い痛みが電気のように全身を駆け抜けた。白くて細かい泡が一杯穴の上でひしめいている。無数の汚いバイキンが泡に囲まれ死んでいくようだった。彼は大きく口を開けると、憑かれたように同じことを繰り返した。すると傷口は綺麗に洗われ、周りが白く、中に黒い穴だけ残し、やがて堅く固まった。
以来裕史はすっかりそれに魅せられてしまった。気分が滅入り、どうにもやるせなくなったとき、穴の開いた傷口にフォークの先を押し込みたくなる。やるまでは後にくる痛みを想像し、たくさんの脂汗が出てきたが、いざ実行してみると、思ったほどのことはなく、逆に不思議な充実感さえ味わうことが出来た。傷口は治る間もなく酷使され、フォークの入った分量だけ黄色い膿があふれ出す。ジクジクする鈍い痛みが足に広がり、それに耐えているときだけ彼は生きた心地がした。叔母の説教よりもっと凄いことをしているという自負が心を支えてくれたのだろう。彼はそのときだけ叔母と張り合える一人前の大人になった気分がして、むしろ嬉しいくらいだった。
だから裕史はそれをするとき、細心の注意を払ってやっていた。隠れてこっそりやるところに意義があり、誰かに知られてしまったら、密かに感じる充実感がたちどころに消えてしまうと信じていた。だから皆が寝静まった深夜であるか、家に誰もいないときのどちらかでないとやらなかった。
ところがある日、芳晴にこっそり目撃されてしまった。頭が悪い分、勘のほうは冴えていて、裕史が部屋で何かをしているのをいつしか感づいたようだった。ある日、裕史を除く三人が隣町の叔父方の親戚の家に遊びに行き、芳晴だけが先にこっそり帰ってきた。おそらく足を忍ばせて、音も立てずに階段を上がってきたに違いない。夏休みが間近に迫った七月の暑い日曜日のことで、裕史は安心しきって部屋の戸を開けていた。隣は完全な物置で、不要になった家具の他に普段使わない食器や衣類や本などが段ボール箱に入れて積まれており、部屋の窓もすべて一杯に開けられていた。辺りは蒸し風呂のように暑く、裕史は扇風機をかけると、裸になってベッドの上に横たわった。
当日の朝、やはり叔母に説教され、気分は相当滅入っていた。家族が出かけた後、前からの約束でしばらく友達と遊びはしたが、腹の中のもやもやは一向に納まらない。彼は皆と別れると、自分の部屋に閉じこもり、またアレをやろうと思った。暑い夏と寒い冬に特に傷口はよく痛んだ。夏は化膿しやすくて、冬は肉が収縮し、無理やり穴を押し広げなければならない。彼は傷口のある右の太腿を戸口に向けると、フォークを突き刺し、長い間喘いでいた。顔は反対側の奥に向け、腕を噛み、必死で我慢した。そしてふと寝返りを打ち、物置に眼を移したとき、身の毛のよだつ思いがした。
段ボール箱と段ボール箱の間から二つの眼が怪しげに覗いている。瞳を大きく見開いて、裕史よりもっと驚愕した面持ちで荷物の後ろに隠れていた。突然、蛙の腹でも踏んだように鈍い声がしたかと思うと、引き続き転げるように階段を駆け降りる音が聞こえた。芳晴は急いで表に飛び出すと、その日は一度も裕史の前に姿を現そうとはしなかった。
あくる日、学校に行く途中、ようやく芳晴を捕まえると、例のフォークを突きつけて、威嚇するように言った。
「昨日のこと、絶対誰にも言うたらあかんぞ。もし言うてみい、これでお前の眼をグジャグジャにしたるからなあ」
芳晴は額に汗をかきながら、いつもの厚ぼったいタラコ唇を尖らせると、必死になってうなずいた。
ところが昼休みに一人の友達が来て、こんなことを裕史に言った。
「お前、家ではヘンタイらしいなあ。裸になって足にフォークを突き刺して、のた打ち回っているそうじゃないか。お前のチビが言ってたぜ。誰にも言うなよ、絶対内緒にしてくれよって、皆にふれ回っていやがったぜ」
裕史は芳晴のいる三年の教室に急いで駆けて行った。部屋の隅に大勢の人を集め、芳晴が得意になってしゃべっている。裕史は彼の腕を取ると、左の手のひらを無理やり机の上に押し付け、
「お前はキタナイ。人の嫌がることばかりしやがって。言わへん言うたら、死ぬまで黙っとかなあかんやないか」
そう言い、思いっきりフォークを突き刺した。親指と人差し指の付け根の肉に三本の針が貫通し、後の一本は直接スチールの机にあたり、深い穴を作っていた。芳晴は教室一杯に響く声で大きな悲鳴を上げたかと思うと、涙と鼻水で顔をぐじゃぐじゃにさせながら、豚よりヒドイ声で泣き始めた。
「こんなもん、三日もしたら治るわい。眼やのうてほんまによかったなあ」
裕史はそう言うと、フォークの柄を左右に何度も動かして、刺すときの何倍もの労力をかけて抜いた。とたんに傷口からたくさんの血があふれてくる。芳晴はそれを見ると、もはや泣くことさえ出来なくなって、依然顔をゆがめたまま、腰でも抜けたように床の上にへたり込んだ。回りにいた子供たちが皆、顔面蒼白になっている。何が起こったかわからないまま、ぶるぶる震えているだけだった。すぐに担任の先生が来た。芳晴を掴むと、抱えるように部屋から外に連れ出した。
裕史は何のトガも受けなかった。それで何事もなかったかのように、また自分の教室に戻って行った。すると同級生の何人かはすでにさっきの出来事を知っており、おびえた様子で彼を見た。傍に近づくと、眼をむいて後ずさりし、今にも叫び出しそうな勢いだった。やがて救急車がきた。子供たちは一斉に廊下に駆けて行くと、窓から顔を突き出して、餌をねだる雛鳥のように甲高い声で騒ぎ出した。
大分してから先生がきた。廊下に出た子供たちを教室の中に追い込むと、静かにするよう注意した。
「何でもないの、何でもないの。下級生のお友達がちょっと具合が悪くなって、病院に行っただけだから」
そう言って、しきりに裕史のほうを見た。しかし彼女はその後すぐに普段通りの授業をした。教科書を開くと、いつもと同じように読んでいく。が、声は高く上ずって、字を書くチョークの先が蛇のようにグニャグニャ動いた。
気がつくと、廊下に校長先生と教頭がいた。難しそうな顔をして、ちらちら裕史のほうを見る。しかし二人は動こうとはせず、中へも入ってこなかった。
やがて教室は異様な緊張感に包まれた。誰もが頑なに背筋を伸ばし、青い顔して黙っている。部屋の中に凶悪な犯罪者がいることを一人の子供を震源にして、皆に伝わっていったからだ。彼はそれを紙に書いて回した。気の弱い女の子がしばらくしてから泣き始める。先生はびっくりしてしまった。さらに気が動転すると、おろおろしながらこう言った。
「まあ、Kちゃんどうしたの? 気分でも悪いの? すぐに保健室に行きなさい。ねえ誰か、Kちゃんを連れて行ってくれないかしら」
二人の女の子がかばうように彼女を教室から連れ出した。先生は再び裕史を見た。さっきよりもっと不安な顔をして、懇願するように廊下の校長先生と教頭のほうに眼を移す。裕史は我慢出来なくなった。突然椅子から立ち上がると、さっき芳晴のことを知らせにきた友達のところへゆき、真っ赤な顔してこう聞いた。
「お前、皆にゆうたんか? お前だけは友達や思うてたのに」
友達は裕史を見ると、必死で首を横に振った。そうしないと殺されるとでもいうようだったが、しかし一瞬の隙を見つけ、一目散に先生のところへ駆けてゆき、彼女の後ろに隠れると、がらりと態度を翻し、見下すようにこう叫んだ。
「どうしてお前が友達なんだ。捨て子のヘンタイ野郎じゃないか。馴れ馴れしくおれに声などかけてくるな」
裕史は席に戻ると、素早く鞄をひったくり、全速力で駆け出した。途中、校長先生と教頭の傍を通ったが、二人は彼に気がつくと、慌てて後ろに飛びのいた。裕史は悔しくてならなかった。今日、芳晴にしたことは自分がされてきたことに比べると、取るに足らないことだった。
~あんなことで人間死んだりせえへんわい。片輪になったりもせえへんのじゃ。ちょっと痛いだけの話やないか。なのにみんな、何であんなに騒いだりするんや~
家に帰ると、どこも鍵がかかっていた。従業員はまだ一人も帰っていなかった。叔母と叔父はおそらく病院に出かけたのだろう。芳晴と会い、今頃、大変な目にあわされたと言って、怒っているに違いない。裕史は家の鍵を開けると、屋根裏の自分の部屋にゆき、ベッドの上にうずくまり、ひたすら泣いた。やるせない気持ちを声にして、思いっきり布団の中に吐き散らす。彼は長い間それをした。やがてぐっすり寝てしまった。
眼が覚めると、頭の上に叔母の引きつった顔があった。病院から戻ったばかりのようで、厚化粧をし、派手なあらたまった服装をして、顔には一杯玉のような汗をかいていた。これまでのどのときよりも恐ろしい眼をして睨んでおり、唇を横にゆがめると、裕史の首を手で押さえ、ゆっくり諭すようにしゃべった。
「お前、カッコウって鳥を知ってるか? 他の鳥の巣の中にこっそり卵を産んで、しかもその卵だけが先に孵り、他のを全部巣から落としてしまうそうだ。だからそれを知らない親鳥はずる賢い悪党のために、せっせと餌を運んできて、丸々と他人の子供を育てることになる。何とお人好しでご苦労なことだ。
ところがお前とお前の母さんは全く同じことをあたしらにしたんだ。勝手にお前を押し付けて、とうとう人の子にケガまで負わせてしまったんだから。でもあたしはその鳥のようにバカでもお人好しでもないからね。お前を丸々となんか、決して太らせたりするもんか。代わりに思う存分こき使って、今日の落とし前をつけてやる。芳晴に負わせた傷が治るまで、奴隷のように働かせてやる。
さっき病院で学校の先生がおっしゃったよ。今日のことを警察に訴えますか? って、おどおどしながら聞いてきた。あたしは即座にこう尋ねた。だったら、あいつを死刑にしてくれるとでもいうんですか? って。先生は苦笑いして首を横に振っていたよ。だからあたしはこう答えた。警察なんかに渡しません。代わりにあたしの手元に置いて、きっちり躾をし直しますから、って。先生は涙を流して感謝してくれたよ。ったく、何の役にも立たないんだから。あいつらはただ波風立てずに穏便にことを収めたいだけなのさ。
でもあたしは絶対ただではすませないからね。今日したことをすっかり償い終わるまで決して許しはしないから。あの子の痛みを、苦しみを、とくと思い知るがいい。手の傷は治っても、心の傷はなかなか癒えはしないんだから。きっと一生残るに違いない。
もっともお前は芳晴以上に苦しんでいると言うかもしれない。でもそれがあたしらとどんな関係があるって言うの? って、あたしはこの際はっきりお前に言っておく。お前は姉さんの子じゃないか。それを無理やりあたしに押し付けてきたんじゃないか。だからあたしは芳晴のことしか考えない。あの子のことだけ考えて、あの子のためだけに何かをし、幸せになるよう、苦労せずにすむように、親として母として出来る限りのことをしてあげたい。だからお前がそのためにどんなヒドイ目に合おうとも、あたしゃ、一切知るもんか。だってお前を守るのは叔母のあたしがすることではなく、お前の母さんがしなきゃならないことなんだから」
叔母は汗だくになっていた。芳晴のことで頭が一杯のようだった。裕史は叔母に首を締められ、苦しくてならなかった。眼から一杯涙があふれてくる。しかしそれは悲しいからでも、苦しいからでもなく、むしろ嬉しかったからだった。今日、芳晴に傷を負わせてから、皆に無視され続けてきた。ところがこのとき初めて人の心に触れた気がした。叔母だけが辛うじて彼と向き合い戦っている。自分のことを憎んではいるが、それがどこ心地いい。彼女の心の奥底に計り知れない人間の哀れさみたいなものを見出して、それがなぜかはかなくて、また可愛くも感じられ、裕史は叔母を心底恨むことは出来なかった。
五
屋敷は今や豪華客船のキャビンのようにきらびやかに闇の中に浮かんでいる。部屋の数はおそらく二十以上はあるに違いない。どこにもまぶしい明かりが灯り、煌々と外の景色を照らしている。中でも一際明るく感じられたのは最も手前にある園長先生の部屋だった。きっとカーテンの加減なのだろう。他のものはすべて青白く感じられたが、彼女のところだけは白い真珠のような輝きがあった。一度、給仕とおぼしき女の声がカーテンの向こうから聞こえたことがある。彼女は、フーコお嬢様、と言っていた。だからそこが園長先生の部屋なのだと、彼は勝手に決め付けている。空はますます黒味を増していた。星もどんどん消えかけている。空気も確実に冷たくなっていた。しかし彼女の部屋の明かりを見ると、彼は思わずこう言いたくなる。
「よし、よし」
と。そして引き続き、
「大丈夫や、大丈夫や」
と、自分を励ますようにつぶやくのだった。
たくさんの街のごみを集めてからようやくあの保育園へとたどり着く。白い教会のような建物は街のはずれにある小高い山の下に建っていた。数年前から徐々に家の建ち出した新興住宅街の中にあり、辺りはのどかで落ち着いて、びっくりするほど静かに感じられた。
裕史は狭くて埃くさい旧の市街地のごみを取ると、緩やかに蛇行した坂を抜け、ちょっとうきうきした気分で保育園へとやって来る。ちょうど子供たちが登園する時間帯にあたっており、車や自転車に乗せられて、母親と一緒に現れた。ごみは保育園の建物と道一つ隔てて造られた小さな駐車場の入り口の隅に積まれており、彼は他の車の邪魔にならないよう、ごみの直前に尻をつけ、停める。そして急いで外に出ると、後ろに付いた黒いゴムに覆われた機械のスイッチを押すのだった。ごみをかき込む回転盤が大きな音を立て動き出し、何人かの子供たちが首を伸ばし、引き込まれるように覗いて行った。一枚の分厚い鉄板がごみの袋を押さえながら、やすやすと車の中へと押し込んでいく。すると駐車場の入り口に、山のように積まれたごみが綺麗さっぱりなくなった。小さな子供には不思議に思えてならないのだろう。誰もがぽかんと口を開け、眺めている。母親がすかさず子供の頭を叩いた。すると彼らは我に返り、急いで道を渡っていく。
先にはいつでも園長先生が立っていた。白くてまぶしい服を着て、背筋を真っ直ぐ上に伸ばし、にこにこしながらたたずんでいる。子供の頭を撫でながら、元気に朝の挨拶をした。すると彼女の何倍もある大きな声が同じように返ってくる。母親が門の外に立ち、手を振って我が子の後を見送った。ときどきぐずる子もいたが、友達が来て励まされると、何ごともなかったかのように急いで裏庭へと駆けて行く。
裕史はごみを取り終えても、しばらくそこを去らなかった。皆がいきいき動いており、心が毬のように弾けている。彼らの様子を見ているだけで、自分まで元気になれる思いがした。
裕史は塀の外にさっきから人の気配を感じていた。今夜ここへ来て、しばらくしてから気づくようになった。おそらく二人以上はいると思う。一人は裕史へのやっかみから彼を退けようと企んでいた。もう一人は野次馬根性から面白い見世物でも見るつもりで付き添ってきているに違いない。
裕史は彼らとはいつかやり合わねばならないだろうと、次第に覚悟を決めるようになった。だから屋敷に忍び込むときはいつしか金属バットを持参するようになった。今日も金木犀の幹の向こうに立て掛けて、どうやって使おうか思案している。相手に向かって振り下ろせば、あいつらを殺すことが出来る。逆に向こうに差し出して、自分に向かって振らせれば、裕史のほうが死ぬだろう。前者はその後たくさんの面倒が襲いかかり、それを思うと、後者のほうがずっと楽に違いなかった。これまでの自分の境遇を振り返っても、その思いはますます強くなるばかりだった。しかし裕史はどちらにするか、まだはっきり決めていなかった。後者は完全な敗北を意味したからだ。歯を食いしばり、ずっと我慢してきたこれまでの辛抱がすべて無駄になってしまう。だから彼はいまだに思案していたが、それでもやるかやられるか、二つに一つしかないというところまで追い詰められているのだけは確かだった。
一人の男が神経質なくらい彼を責めてくる。さかりのついた雌鳥のようによく騒ぎ、裕史に少しの反論もさせようとしなかった。男は数日前にとうとう最後通告までしてきたのだ。だから今夜もしかして警察まで連れてやって来ているかもしれなかった。
「この淫乱男のドスケベエが。お前みたいな奴はサア、首に鎖でも付けられて、犬みたいに監視されながら、おとなしく暮らしていなきゃダメなんだワサ。チンマイ鼻たれ小僧のくせをして、何て大胆なことをスンの? 園長さんにもしものことがあったなら、ぼくはどうすればいいかわからない」
ある日、一人の男が事務所に来て、噛み付くように裕史に言った。会社の敷地内に入るや否や、恐ろしい悪臭でもするというように、思わずハンカチで鼻をふさぐと、何度もむせるように咳をした。裕史は男をよく知っていた。あの保育園の保父さんで、おそらく副園長をしているのだろう。ごみを取りに行くと、建物の陰に隠れたり、玄関のドアを細めに開け、盗み見るように裕史を監視したりした。年は三十前後のようだったが、園長さんに気があるらしく、裕史が彼女の傍に近づき、ちょっと話をしただけで、すぐに間に入ってきて、邪魔をしようとした。
「ねえ、ごみ屋さん。ここへは一体何しに来てるの? ごみを取りに来ているんじゃないの? だったら用が終わったら、さっさと行ってちょうだいよ。他のお客さんの迷惑になりますからねえ。特にここは小さなお子さんがいるんですから。病気になったら、一体どうしてくれますの?」
黒ぶちの大きな眼鏡をかけていて、額は広く、顔は完全な逆三角形をしていた。しかも体はびっくりするほど細長かったから、裕史は彼を見たとたん、カマキリの生まれ変わりだと思ったほどだ。両腕をやたら前に上げたがり、来るなら来いというようなポーズをさかんにとって威嚇した。
「ぼくは知っておるのですよ。お前が夜な夜なあの屋敷に忍び込んでいるということを。泥棒みたいに塀を越え、いやらしく部屋の中を覗いているのを。何て恥知らずなガキかしら。ごみ取り人夫のくせをして、よくもあんなあつかましいことが出来るわねえ」
副園長はたくさんの従業員がいる前で堂々としゃべった。皆はとっさに顔色を変えた。あの『禿の清やん』などは思わずこぶしを握り締めると、今にも襲い掛かろうとしたほどだったが、すんでのところで踏み止まったのは珍しく副社長が居合わせており、眼で彼を制止したからだ。彼女は得意先のお偉方に対し、決して無礼なことはしない。逆にわざと驚いた顔を装うと、努めて丁重な口ぶりで聞いた。
「まあ、一体どういうことですの? 詳しく教えていただけないかしら」
副園長は裕史に指を突きつけると、唾を飛ばして答えた。
「こいつは園長さんのストーカーなのです。ちょっと親切にしてもらっただけで、いい気になりクサって。ごみを車に入れながら、イヤラシイ眼で見詰めておる。汚い身なりをしクサって、その上しゃべろうとまでしやがるのだ。ど厚かましいのにもほどがある。もちろん園長さんはたいそう嫌がっておられます。しかし心がお優しいから、決して口にはされないのです。それをいいことに好き放題しクサって。黙って屋敷に忍び込んで、彼女の部屋を覗いておるのです。誰も知らないと思っていクサるようだけど、ぼくは全部お見通しなのだ」
男は顔を真っ赤に腫らすと、頭から湯気まで出して抗議した。
「まあ、それは聞き捨てにならないことですわねえ。もしお宅の言う通りなら、大変なことですよ。ねえ、裕史、この方がおっしゃっていることは本当なの? もしそうなら、あたしゃ、お前を警察に引き渡さなければならないけど」
副社長がわざと大仰に裕史に聞いた。彼は強く首を振った。元々裏の戸は開いていた。だから入っただけだった。彼は素直に言おうとしたが、すぐにまずいと気がついて、言うのをやめた。
「ワイ、何も悪いことしてへんぞ。園長さんに一つも迷惑かけてへん」
代わりに思わずそう叫んだ。怖くて涙が出そうになった。彼は青い顔をして、その後ぶるぶる震え出した。
「この子は小さいときからあたしが育ててきましたの。負けん気が強くて、強情で、ちょっと無作法なところもありますが、でも、嘘をつくような子じゃありません。何かのお間違いではないでしょうか? 何分、暗い夜のことですからねえ、もし誰かと勘違いされておられるようでしたら、あまりに不憫なものですから。実はあたしの姉の子で、血もつながっておりますの。どうかもう一度見てやってくださいまし。お間違いございませんか? それでもまだ間違いないとおっしゃるのなら、ああ、あたしゃ、犯罪者の親戚になってしまいますわ」
副社長が突然、目頭を抑えてそう言った。カマキリは躊躇した。あらためて裕史の顔を覗き込むと、誤魔化すように答えた。
「この子だと思うワサ。でもはっきりとはわからないワサ」
彼は再び裕史を指さすと、前よりもっと体をそらし、命令するように続けた。
「しかしぼくははっきりお前に言い渡しておく。あの方に今後一切手を出しクサるな。お前みたいなクソガキに気を許されることは絶対ありはしないのだから。まあ、哀れみくらいはかけて下さるかもしれない。しかしお前を好きになられることは天地がひっくり返っても絶対ないと思っておれ」
男はそう言うと、突然、激しく咳をし出した。苦しそうに顔をゆがめ、たまらず床にしゃがみ込む。えもいえぬ悪臭が再び襲ってきたようだった。男は慌てて鼻を覆うと、悲鳴を上げて表に出た。そして向かいの道を全速力で駆けて行くと、そのまま姿をくらましてしまった。しばらくして遠くからものを吐き出す音だけがこれ見よがしに聞こえてくる。
「誰か塩を持ってきてちょうだい。床と玄関にどっさりまいてくれないこと」
副社長が大声を出して叫んだ。前にあったスチールデスクを思いっきり足で蹴飛ばす。手当たりしだい椅子を投げては壁に頭突きまでくらわした。しかし誰も止められず、じっと見守っていただけだった。彼女はおそらく十分以上も暴れていたに違いない。が、やがて気を落ち着けると、急に誰かを探し出し、裕史の前で眼を止めると、皮肉な顔してこう言った。
「お前もとうとう色気づいたか。男だから、まあ、仕方ないかもしれない。しかしよりによってあんな大きな得意先の女に手を出すとはお前も何てアホなんだ。あそこはただの家じゃないんだよ。この辺りで一番有名なお金持ちの一人なんだから。そのお嬢さんにちょっかいを出して、何て恥知らずな男なんだ。裕史、彼女のことは今日できっぱり忘れるんだ。お前とは何の関係もありゃしない。そう強く自分に言い聞かせて、一途に仕事に専念しなくちゃいけない。もし契約を破棄されるようなことになってみろ、あたしゃ、お前をただではすませないからね」
彼女はそう言いながら、彼を今のコースからはずすことだけはしなかった。裕史の担当しているところは市の一番辺境にあたっており、車で行くのに時間がかかるし、量も相当多かったから、誰かに換わるよう言ったなら、猛反対されるのは眼に見えていたからだ。だから代わりに芳晴を呼ぶと、彼に監視させようとした。ところが裕史は事前に彼の行動を察知すると、うまい具合にまいてしまった。芳晴は堂々と嘘をついた。
「あいつ、間違いなくあの屋敷に入っていたぜ。おれが捕まえようとしたら、いきなり足で蹴りやがった。顔にまともに当たってよう、気を失って、しばらく道に倒れてしまった」
裕史はそのたび副社長に問詰められた。首を絞められ、頭を柱に押し付けられ、何度も顔を叩かれもした。彼はそのつど抗議した。芳晴を連れてくると、厳しく彼を問いただす。すると芳晴はこう言って、すぐにどこかに逃げてしまった。
「どうだったかなあ、間違いないと思うけど。よく覚えてねえや、気のせいだったかもしれないし」
副社長は息子が嘘をついているのをやがて認めざるをえなくなった。それで彼女はこんな言い訳をすることで、体裁だけは整えた。
「でもお前があの屋敷に入っていない証拠だって、どこにもありはしないんだから。言っとくけど、お前のしていることは大変な犯罪なんだよ。見つかったら、間違いなく豚箱行きだ。あたしゃ、おかしなことにならないように、前もってお前を見張ろうとしただけなんだから。火のないところに煙はたたないって、昔から誰もが言っていることじゃないか」
副園長はあれからも数回事務所に来た。はっきりした証拠は何も掴んでいなかったが、ときどきたまらなく不安になるときがあるようで、それを払拭するためにわざわざ出て来るみたいだった。彼は園長先生に相当入れ込んでいるようだった。彼女のことをしゃべり出すと、急に顔を赤くして、にやけた様子でクスクス笑った。
「あのお人ほど心の綺麗な方はおられないのです。誰にも分け隔てなく愛を与えてくださいます。慎み深く、上品で、びっくりするほど心が無垢に出来ておられる。だから彼女のご両親は、この保育園の理事長と副理事長をされているのですが、非常に心配なされておるのです。悪い虫がつかないか、不安で、不安で仕方ない。心がお優しすぎるから、ずるい誰かに騙されないかと、心配で、心配でならないのです。だからぼくは申しました。あのお方をどこまでもお守りいたします、と。ぼくの拙い命をかけ、どこまでもお助けいたします、と、二人の前で誓ったのです。だからぼくはお前にこう言わねばならない。おい、虫けら。貴様はごみ取り人夫のくせをして、図々しすぎるんだよ。少し挨拶してもらっただけで、鼻の下を伸ばしクサって。ぼくはちゃんと見ておるのだぞ。車の後ろに隠れながら、へらへらスケベ笑いをしているのを。お前なんかにあのお方が心を許すはずがないだろう。汚いところにいクサって。不潔な格好をしクサって。どうしてあんな綺麗なお方がお前に惚れたりするんだい」
男は真新しいスーツを着て、足にはピカピカの革の靴を履いていた。そんな格好をして、鼻にはティッシュを丸めて押し込んでいる。だから変な鼻声でしゃべったが、しかしまだにおうのか、さかんにハンカチで鼻の下を押さえていた。
従業員は彼を見ても、一つの文句も言わなかった。男が初めて来た後に、副社長からきつく注意されたからだ。
「あのバカに絶対逆らっちゃいけないよ。バカはバカなりに大変なプライドを持っているからねえ。おそらくあいつはまたやって来るに違いない。しつこそうな男だから。でもそのときは好きなようにさせておくのが一番だ。言いたいことを全部言って、腹の虫がおさまったら、自然と帰って行くだろう。バカな奴を怒らすほど面倒なことはないんだから」
だから従業員は知らん顔して黙っていた。
副園長はますます大胆になってきた。
「お前ねえ、あのお方の傍にねえ、今後一切近づいてはいけないよ。お前のクサイにおいがねえ、綺麗なあのお方の体に移ったら、大変なことになるからね。理事長さんがすごい剣幕で怒られるよ。何しろあのお方は大変な力を持っておられるんだから。保育園だけでなく、小学校や、中学校や、大学や、コンサート会場まで持っておられるのだから。あのお人がひとたびお怒りになられたら、それは、それは恐ろしい。お前なんか、たちどころにどこかに吹っ飛んでしまうだろう。そしたらお前はあのお方の髪の毛一本たりとも見ることが出来なくなってしまうんだ」
男は一人でクスクス笑った。理事長に大変な思い入れをしているようで、まるで神様か王様のように崇め奉っているみたいだった。従業員は皆、呆気に取られてしまった。不気味な違和感まで覚えると、すぐにどこかに逃げてしまう。だから裕史だけが一人事務所に残された。彼は男を見ていると、眼の前に大きな壁が立ちはだかっているよう思えてならない。見た目は痩せたカマキリにすぎないが、背後に巨大な象を背負い、人を威圧しようと企んでいる。卑怯なことこの上ないが、しかしそれと対抗出来るものを裕史は一つも持っていなかった。一番親しい『禿の清やん』でさえ、少し助けを求めただけで、たちまち逃げてしまうのだから。
「あんな奴、おれがゲンコツを食らわしたら、三日は意識不明になるだろう。しかしこれは子供の喧嘩じゃないからなあ。立派な大人のかけ引きだ。だったら強い奴には逆らうな。それが何よりも優先される最も重要なことなのさ。まあ、女のことはあきらめるんだなあ。お前がどんなにあがいても、叶う相手じゃなんだから」
何も園長さんをものにしたくて、あの屋敷に忍び込んでいるのではない。ただ今の境遇に我慢がならず、すがる思いで彼女を慕っているだけだった。芳晴に傷を負わせてから、彼のわがままぶりはいっそう拍車がかかってきた。自分のことを呼び捨てにし、外でも全くひるまなくなった。
「おい、裕史。この家を出たからといって、おれから逃れられるなんて、決して思ったりするんじゃないぞ。お前の与えたこの傷は一生おれの心に残るんだ。長い間、人のうちに住まわせてもらって、おれと同じように育ててもらいながら、よくあんなヒドイことが出来たもんだ。恩知らずの薄情者と、うちの母ちゃんも言っているぜ。お前はこの先おれのためにずっと働かなければならないんだ。だって、おれの親から受けた恩は子供のおれに返すのが当然のことなんだから」
ここにもやはり人の威勢を借りた卑怯で恥知らずな者がいる。見た目は一粒のハナクソにすぎないが、一つの手出しも出来ないのだ。裕史は威張る芳晴に対し、こう言って脅かすぐらいが関の山だった。
「お前の親がモウロクするか、ワイがもっと力をつけたら、真っ先にお前を叩き潰したるからなあ」
しかし芳晴のほうも決してひるまない裕史のことが癪に障ってならないようで、何かあると、すぐに母親に泣きついた。すると彼女はこんなふうに嘆くのだった。
「あーあー、何て情けない子なんだい。あたしがいくら頑張って、お前をかばっても、ちっともこたえてくれないんだから。よりによって姉さんの子に負けるなんて。あたしゃ、つくづく嫌になるよ」
芳晴はますます裕史を煙たい眼で見るようになった。
「ふうん。そうなんですか? うちの母ちゃんも言ってたけど、人の家に無断で入ったら、豚箱行きになるんでしょ」
学校から帰ってきて、カマキリと裕史がやり合っているのに出くわすと、わくわくしながら近寄ってくる。鞄を階段の下に放り投げ、机の後ろに腰掛けると、頬杖しながら聞いていた。話の内容はおそらくほとんどわからなかったに違いない。しかし自分にだけたいそう強い態度を取る年上の裕史が賢そうな大人の男にやり込められているのを見ていると、面白くてならないようで、思わず頬を緩めると、うっとりしながら眺めていた。
「お前はあの屋敷にどうやって忍び込んでいるんだワサ。あそこは普通の人には絶対入れないところなんだぞ。何を隠そう、ぼくだって、まだ一度も入れてもらったことがないんだから。ぼくら従業員にとっても、あそこは特別大事な場所なのだ。理事長さんのお屋敷というだけでなく、礼拝堂もあって、この世で一番神聖なところなんだから。それをお前みたいなクソガキに穢されてなるものか。ぼくは絶対許さない。理事長さんに掛け合ってでも、必ずお前をつまみ出してやる」
彼は強い態度でそう言うと、引き続き悔しげな顔をした。悪い邪気にでも襲われたように体をわなわな震わせる。裕史は自分に対し激しい嫉妬を抱いているこの狂信的な男を見ると、一つだけ不思議に思えてならないことがあった。自分がどうやって屋敷に忍び込んでいるのか、男はまるで知らずにいるのに、しかしそれをしているのは間違いのない事実としてはっきり断言するからだった。彼は男に聞いてみた。すると急に顔を赤め、しばらく言葉を詰まらせると、少々ヒステリックになって答えた。
「ぼくは何でも知っている。わからないことは何もない」
裕史はとっさにひらめいた。きっと園長先生がしゃべったのだ。してみると彼が屋敷に忍び込んでいるのを彼女はずっと前から知っている。カーテンの後ろに身を隠し、じっと自分を見守っているのだ。ところがあるときそれを男に漏らしてしまった。悪気など一切なかったに違いないが、何かの拍子に思わず口がすべってしまったのだ。すると裏の戸が開いて、突然、猫が出てきたのも、彼女が自分のためにしてくれたように思え、嬉しく感じてならなかった。たちまち顔が紅潮してくる。副園長が呆れたようにこう言った。
「バカか、お前は? あのお方はぼくの許婚になられるんだぞ。先日、理事長さんにお願いしたら、考えておくとおっしゃってくれた。だからお前はあのお方に今後、指一本触れることは出来なくなるのだ」
そしてこの先一度でもあの屋敷に忍び込んだら、理事長さんにお願いして、即刻警察に引き渡す、と言い放ち、再び鼻の下を押さえると、逃げるように事務所を去った。
「ケッ、お前はやっぱりドスケベエだ。親のヘンタイな性格をそっくり受けついでいやがるぜ」
芳晴が顔をしかめて毒づく。裕史はほとんど意識がないまま、再び彼を殴っていた。気がつくと、芳晴の前歯が一本折れ、口から血がにじみ出している。彼は大声を出して泣き叫ぶと、猿のように急いで階段を駆け上った。
六
闇の中に四つの懐中電灯がクラゲのように動いている。裕史の潜んでいる場所から塀に沿ってほぼ一直線に低い植木が繁っていた。深い海底に沈没した巨大な難破船のように静かに横たわっている。その百メートルか二百メートルほど先に白くてほのかな光の玉がふわふわ宙を舞っていた。話し声が手に取るようによく聞こえる。冷たい空気を震わせて、音が小さく澄みわたり、はっきり裕史のところまで伝わってきた。
「あれが礼拝堂にあたります。理事長様は信心深いお方ですから、眠る前も神様にお祈り出来るよう、あんなものを敷地の中にも造られました」
おそらく家の給仕だろう。屋敷の向こう側に建っているドーム型の屋根に懐中電灯を向けながら、誇らしそうに説明した。人は光の数だけいるようだ。カマキリと、芳晴と、給仕と、後の一人はおそらく警察に違いない。ちょうど逆光になるために、顔は皆目わからないが、芳晴のずんぐりした猫背の姿とカマキリの異様に細長い体だけは一目ですぐに識別出来た。誰もが白い息を吐き、小刻みに体を揺すっている。寒さは時間とともにいっそう厳しさを増していた。裕史は顔を手のひらでこすると、胸の鼓動が刻一刻と高まってくるのを必死で抑えようと努力した。
芳晴にゲンコツを食らわして、前歯を一本折るや否や、すぐに叔母が現れた。階段を一目散に駆け降りてきて、裕史を見ると、口から唾を吐いて怒鳴った。
「お前は何という悪党だ。おそらく人間じゃないだろう。あたしゃ、お前を早い時期にどこかに捨ててしまえばよかったよ。この疫病神のアンポンタンが。女ときっぱり縁を切るよう、あれほどすっぱく忠告したのに。仕事と女を一緒にするなと、何度もしつこく言い渡したはずだ。お前たちがどうなろうと、そんなことはどうでもいい。ただうちはあそこともめると、たちまち困ってしまうんだよ。長いお付き合いをさせてもらおうと思っていたのに。こんなことなら無理にも誰かに換わらせばよかった。お前がこれほどバカだとは思いもしなかったよ。明日からあの保育園には行くんじゃない。誰かを換わりにやらせるから。もちろん屋敷に忍び込むなんて、もっての他のことだからね」
芳晴のことで怒られると思いきや、彼のことには一切触れず、叔母は契約のことだけを異常に心配しているようだった。子供のように地団太を踏んで、頭を押さえて悩んでいる。彼女は突然、裕史を見ると、取ってつけたようにこう聞いた。
「もう一度うちに住まないか? しばらく監視しておかないと、不安で、不安で、しょうがない」
しかし彼は否定した。再びあそこで暮らすなら、死んだほうがましだと思う。
中学を卒業して、あの部屋を出るとき、皆は顔に薄笑いを浮かべ、気安く彼を送り出した。叔母と叔父と芳晴が腹の底で軽蔑しながら、逃げたければ自由に逃げればいいんだよ、と挑発するように言ってきた。裕史は彼らの言葉を聞くと、絶対どこへも行かへんぞ、と固く心に誓ったのだった。彼らが自分に対したくさんの貸しがあると言うのと同じくらい裕史も彼らに貸しがあった。特にあの芳晴にはどうにも我慢がならないのだ。叔母と叔父が年老いたら、真っ先にあいつを潰してやる。裕史はそう思うことで、理不尽な扱いを受けながら、どうにかここまで耐えてきた。しかしあの部屋に戻るのだけは絶対御免こうむりたかった。狭くて、陰気で、じめじめして、人の住むようなところではない。別のところで暮らしてみて、あの部屋のひどさをあらためて思い知らされた。
裕史は叔母の考えを跳ね飛ばした。そして引き続き屋敷に忍び込んだ。彼女はついに覚悟を決めると、裕史を売ることにした。彼はこの日が来ることをずっと前から予感していた。
黙って地面に這いつくばると、金属バットを腹に敷き、じっと腕で抱えている。手と足の指と鼻と耳の全体がほとんど感覚をなくしていた。夜露が服を濡らしている。裕史は再び部屋の明かりを見た。ここへ来たときと少しも変わっていなかった。日が暮れ、明るさだけがいっそう強まって感じられる以外は。追っ手は着実に迫っている。カマキリの甲高い声が一際大きく耳に響いた。
「向こうに見える一番端のあの部屋がお嬢様のおられるところキャア。おお、何と神々しいお光か。あの人のことを考えると、胸が張り裂けそうになるダッチャ。あれほど美しく、聡明で、心の綺麗なお方はこの世に一人もおられニャイのだから。それをあの虫クソが唾をつけようとしクサって。何て恥知らずな奴ダッチャ。今日こそとことん懲らしめてやるニョロ」
芳晴の太くて低い声が変にうきうき弾んでいた。
「ヒャー、ここにも部屋があるじゃないか。グオー、あんなところにアンテナが立っている。オオ、これが金の窓枠か」
四つの火の玉が上下左右に揺れている。まるで祭りか何かのように皆の気持ちは高ぶっていた。裕史は胸を地面につけると、息が出来ないくらいどきどきした。寒いのに体中から汗が一杯噴き出してくる。神経が異常に高ぶって、感覚が恐ろしいほど鋭敏になっている。似たような経験を遠い昔にしたように思う。何かに集中し続けたとき、突然、意識が裂けて、思わぬものが飛び出した。と、その瞬間一つのライトが彼を照らした。裕史は忘れていた古い記憶をそのとき一気に取り戻した。
「お前なんか死んじまえ。足手まといの厄介者が。つくづく嫌になっちまうよ。お前なんか生まれてこなきゃよかったんだ。役立たずの能無しが。飯だけ一人前に食らいやがって。そのくせピーピー泣いてばかりいて、うっとうしくて仕方ない」
酒を飲み、顔を真っ赤に腫らしながら、母が裕史を責めたてた。ゲンコツで力一杯殴られて、体中に青いアザが出来ていた。彼は当時五歳くらいだった。母が家にいるときは怖くてものも言えなかった。四畳半の部屋の隅に置いてある古いタンスの後ろに隠れ、びくびくしながら様子をうかがう。髪を鳥の巣のようにもじゃもじゃにして、気難しい顔をしながら、しょっちゅう酒を飲んでいた。四人がけのテーブルを一つ置いただけで、たちまち一杯になってしまう小さな台所の隅に座り、一升瓶を手酌して、勢いよくコップに酒を注いでいた。日本酒の甘い匂いが部屋中に漂い、それが母をおかしくさせる悪魔の水のように思われた。
彼は酒の匂いをかいだだけで、思わず吐きそうになってくる。吐くと母に叱られた。だからぐっと我慢する。すると胸の辺りがにわかに苦しくなってきて、胃から酸い液体がこみ上げるようにあふれてくる。母が血相を変えてやってきた。忌々しそうに体のあちこちを打ちまくる。裕史は一つも泣かなかった。泣くと、よけい殴られたからだ。歯を食いしばり、眼をむいて、口から泡を噴きながら、必死で背中を丸めて我慢した。壊れたおもちゃのように激しく体を痙攣さす。母はわが子の異変に気づき、ようやく我を取り戻した。
「ああ、母さんを許しておくれ。何もお前が憎いわけじゃない。母さんも同じように苦しいんだ。あたし一人がどうしてこんな辛い眼にあわなきゃならないの? あたしの母さんはあたしが小さいときにどこかに行ってしまったんだよ。父さんのことが嫌になり、他の男と一緒になって、家を飛び出してしまったんだ。
父さんは怒ってばかりいた。あたしは家におれなくなって、表に逃げ出し、悪い友達と付き合った。いけない遊びをたくさん覚え、やがてお前を身ごもった。お前の父さんにあたる人は大きな会社に勤めている、立派な大人だったけど、お前が出来たと知るや否や、真っ青になって行方をくらましてしまったんだ。あたしの父さんは事情を知ると、血相を変えて怒ったけど、どうすることも出来なかった。お前の父さんがどこにいるのか、さっぱりわからなかったんだもの。
父さんは仕方なくあたしを責めた。お前を産まずにやり直すよう、何度もしつこく忠告した。でもあたしはお前をおろす気は全くなかったんだよ。おなかの中で動いている小さな命がそのときとてもいとおしく思えた。
すると父さんはあたしを家から追い出してしまった。世の中がこれほど薄情で恐ろしいとは夢にも思わなかったよ。誰もあたしを助けてくれない。代わりに冷たい眼をして見下すだけだ。お前に罪は一つもない。でも母さんもやるせないんだ。バカで、弱くて、不甲斐ない、本当にダメな女だから」
母はそう言って号泣した。裕史の上にかぶさると、体を揺すって謝る。しかし再び酒を飲むと、また意味もなく罵って、彼の体を殴ったりした。
母はたまに働いていた。外で力仕事でもしているようで、顔や手を泥まみれにして、へとへとになって帰ってくる。そんなとき一言もしゃべろうとしなかった。簡単に食事の用意をすませると、素早くたいらげ、眠ってしまう。母は仕事が嫌でならないようだった。だからときどき見知らぬ男を連れてきた。違う顔の男たちが入れ代わり立ち代りやって来る。裕史を見て、薄く笑みを浮かべると、隣の母の部屋へと入って行く。襖一枚隔てた向こうから、人の漏らすため息だけが恐ろしいうめき声となって聞こえてくる。裕史はそれの意味するところを少しも知らなかった。しかしたまらなく不潔に感じ、何度もやめて欲しいと訴えた。すると母は薄汚れた自分の局部を見せながら、諭すように彼に言った。
「ここからお前が生まれてきた。これがなければ、お前はこの世にいなかった。何も嫌がることはない。母さんは生きるために、やむなくしているだけなんだから。あたしみたいな弱い女は他に何も出来ないのさ」
ある晩、裕史は一人で涙を流していた。声を出すと怒られたから、黙って泣くしかなかったのだ。隣で母が男と寝ている。何度か見たことのある顔だった。
「これがあんたの息子さんかい? 素直で賢そうな子じゃないか」
初めて家に来たときに、母の肩を抱きながら、いやらしい眼つきでそう言った。スーツを着て、髪を油で綺麗に整え、丸々太ったいかにも恰幅のよさそうな男だった。母はぎこちない笑みを浮かべて立っていた。まるでそうしないといけないように愛想のいい顔をして黙っている。しかし眼は後ろめたさで一杯のようで、一度も裕史のほうを見なかった。
男は隣の部屋に入って行くと、わざと大きな音をたてた。裕史はいいようのない悲しみに包まれた。耳を強く手で塞ぐと、ひたすら天井を見て耐え忍んだ。涙がとめどなく溢れてくる。淡くて丸みを帯びた木目模様がゆらゆら歪んで揺れていた。魚や鳥や龍などの生き物たちが空中を泳いでいるようだった。誰かに助けを求めるように、何かに祈りを捧げるように、必死で天井の模様を見た。
ある日、不思議なことが起こった。天井の一点がミルクでもこぼしたように白く濁ると、みるみる大きくなってゆき、中から白い翼をつけた見知らぬ女が現れた。気がつくと、体全体が柔らかい雲に包まれている。見渡す限り靄のかかった向こう側から、あふれんばかりの光の束が刺すように降り注いでくる。きっと夢を見ているに違いないと思った。たとえようもないほどの至福な気分が胸一杯に広がってくる。やがてどこからか声が聞こえた。ずっと前に聞いような懐かしい調べを含んでおり、それが光の束に乗っかって、四方八方から鳴り響いた。
「あの女を恨むのではありません。あれはかわいそうな女です。お前を産んで、すっかり気を取り乱してしまったのです。お前は確かにあの女から産まれてきました。あの女の腹の中で大きくなり、この世に産まれてきたのです。でもだからといってあの女がお前をつくったのではありません。神様がおつくりになり、あの女を通し、この世に産ませられただけのことです。だからお前は次のことを思い、深く心に留めておかねばなりません。神様から命を授けられたものとして、もっと自分を大事にし、自分に自信を持ちなさい。神様はいつでもお前と一緒におられる。悲しいときも苦しいときも変わらず傍にいてくださる。だからお前はあの女を心から許してやりなさい。あの女がいたからお前がいる。神様のご意志に従って、お前をいとおしく思ったから、この世に産んでくれたのです。だから彼女に感謝して、再び綺麗な気持ちを取り戻すよう、心から祈っておあげなさい」
しかし裕史はそれを聞いても、母を許すことは出来なかった。彼女は引き続き同じことをもっと頻繁に続けたからだ。だから自分を傷つけ、ないがしろにするものとして、ずっと母を憎み続けた。裕史はやがてその記憶を心の奥に封印してしまった。
ところが以上のことを彼は突然、思い出した。すると次のような光景が心にぼんやり浮かんできた。柔らかい光がたくさんの筋となって頭の上から射している。辺りは深い森のように、静かでのどかに感じられた。小鳥のさえずりと川のせせらぎと草の揺れる音などが微かに聞こえてくるようだった。最初のうちはあまりに小さかったので、気のせいではないかと思われたが、やがて確かな音となり、最後には何かの楽器であることがわかった。重厚な旋律のパイプオルガンが徐々に音を強めてくる。光の向こうに大勢の人々が立っていた。ぼんやり輪郭がかすれて見え、案山子のように動かなかった。
気がつくと、裕史は広くて明るいドームの中にいた。眼の前に若い母が立っている。彼女の懐に抱かれて、じっと母を見上げていた。物心がついて、終始離れなかった忌まわしい感情、恐れや、不安や、憤りなどはそのとき一つも感じなかった。それより母は幸せそうで、彼女の顔を見ているだけで、自分まで幸福な思いになってくる。たとえようもないほどの不思議な気分がしてならない。母と深いどこかでつながって、強く引き合っているように感じられる。突然、賛美歌が聞こえてきた。裕史の心の奥底で絶え間なく響いていた音楽だ。辛いときも苦しいときも変わることなく彼を支えてくれたのだった。ずっと心を覆っていた厚い氷が溶かされて、ようやくそこにたどり着いたと思った。それは彼の全ての記憶の中で最も幸せな瞬間だった。
「ワイは死んだりせえへんど」
裕史は地面から立ち上がると、天に向かってそう叫んだ。金属バットを立てながら、懸命にしがみついている。
四人の追っ手は眼と鼻の先まで迫っていた。わいわいがやがや言いながら、物見遊山でやって来る。そこへ急に海坊主が現れ、思わず腰を抜かしてしまった。地面に深く尻をつけると、懐中電灯を顔に向け、威嚇するようにぐるぐる回す。裕史は無性に腹が立った。彼らを一気に打ちのめしてやりたい。そう思い、体勢を整え、金属バットを上げようとすると、突然、バランスを失って、ぐらりと地面に倒れてしまった。足の甲が凍傷になって、サツマイモのように膨らんでいる。もはや自力で立つことは出来なくなってしまっていた。鼻をもろに打ちつけて、中から熱い血が流れてくる。足と鼻と手と耳が石のように堅くなり、全てが丸ごと削げ落ちて、のっぺらぼうになってしまったようだった。意識も朦朧としてき出し、体だけを闇雲に振り回す。
しばらくして気がつくと、さっきの懐中電灯がさらに激しく揺れながら、頭の上で光っていた。皆が裕史を見下ろして、軽蔑したように笑っている。空には依然底なしの闇が広がっていた。そしてふと横を見ると、屋敷の明かりは全て消えてしまっていた。空と同じ暗黒が切り絵のように冷たくたたずんでいるだけだった。裕史はそれを確認すると、たまらなく可笑しく思えてならなかった。殺すなら、殺しやがれ。捕まえたければ、さっさと捕まえればいいのである。それより今、いたるところに針千本の痛みが走り、体全体が大きく脈を打ちながら、じんじん痺れて仕方がない。骨の髄まで真冬の冷たさで凍てついてしまったようだった。ところが彼はその感覚が言いようもないほど心地よかったのだ。この世の全てのものとつながって、生きていると思う。それで彼は棒のように背筋を伸ばすと、心に満面の笑みをたたえ、潔く敵に身柄を引き渡した。