なにか起こってなんにも無い
男と女がひとつ屋根の下。何も起こらない訳が無い、と期待するのがレディで、何か起こしてたまるか、と神経を使うのがジェームズである。
「やだー、夜着忘れちゃったー!」
「棒読みだぞ」
「ちっ」
シャワーを浴びた後タオルを巻いただけで出てこようとしたレディをバスルームに押し込め、洗濯物の中にあった夜着をドアの隙間から放り込んだ。
「ぶっ……」
どうやら顔面に当たってしまったらしい。
「ああ、すまない」
「なんて心のこもっていない謝罪!」
当たり前だろう、と思わず眉間を押さえてしまうのも許してほしい。
なんだか、段々とレディの本性というか、あくどい部分が見えてきている気がする……と遠い目をしそうになった。しかしまあ、よくよく考えてみると精霊みたいに純真な女の子ならまずジェームズに縋りついて『嫁にしろ』とは言わないだろう。
……俺は結構レナードが候補に挙げた本の精霊説を信じたかったんだけどな。
「ドクター、何か失礼なこと考えていません?」
まるでジェームズの心の内を見透かしたかのようなレディの声に、ジェームズは誤魔化すように咳払いをした。
「ドクター、ドクター」
少し開けたドアからひょこっと顔を出して手招きをするレディは、翡翠色の瞳をきらきらと輝かせ、どこか悪戯気にジェームズを呼んだ。
「なんだ」
くそ、こういうところが可愛いというか、自分の顔をわかってやっているみたいで腹が立つというか……やめよう、これ以上変なことを考えるとまた「やだドクター何考えてたの?」とからかわれてしまう。
そんなジェームズの葛藤を知ってか知らずか、レディは上目づかいでジェームズを見つめた。
「これどう? 男の人ってこういうのが好きなんでしょう?」
そう言ってレディがタオルをずらすと、ふわふわと薄い生地の下着が肌の色を透かしていて……
思考はショートしたにもかかわらず答えを導きだしてしまった。
これはまさか、ベビードールとかいうやつではないのだろうか?
「そういうはしたないことを淑女がするんじゃない!」
「やだはしたなくなんてないですよドクターのエッチ」
「やかましい! というか俺がさっき放り込んだ夜着と違うだろ!? ちゃんと持っていたのなら呼ばなくて良かっただろう!?」
「ふふふ、全てはドクターに新しいネグリジェを見せたかったからに決まっているじゃないですか!」
「本当にどうでもいいことには頭が回るな君は!」
なんてしょうもないやりとりをしていたが、レディが「近所迷惑になるのでやめましょう……」と珍しく正論を言い放ったのでお開きとなった。
「まったく……」
ジェームズはソファーにどっかりと体を預けて天井を見上げた。
オフホワイトにベージュでアラベスク模様が描かれているそれは非常に良く見慣れたもので、ジェームズはぼんやりと、この家に越してきてから何度この天井を見上げてため息をついたのだろうとばかばかしいことを考えた。
変わった、少女だと思う。
髪と目の色は晴れた日の湖を連想させて美しいとは思うが、この国ではとりたてて珍しい色ではない。
明るく柔らかな印象なのに、それでいて芯があり、見たものの心を惹きつける。そんな、才能をもっている。
きっと、それも少女をうっかり拾ってしまった理由の一つなのだろう。
……思ったが、年端の行かない少女を保護、いや、雇うためとはいえ、男の一人暮らしの一軒家に住まわせるのは些か問題があるのではないだろうか?
いや、レナードの奴も弟子として年若い少年少女と暮らしていたから大丈夫だ。やましい気持ちが無ければ……あれ? 少女だよな? 見た目は10代後半から20代前半程度ではと思っているが――
と、そこまで考えて、ジェームズはレディの年も、素性も何もわからないことに愕然とした。
「くそ、やっぱりレナードに見てもらうべきだった」
物珍しさ(魔法がらみというだけでなく、ジェームズのそばに女性の陰という点でも)から色々詮索されると思っていたからレディに会わせるつもりは毛頭なかった。
しかしそれを今更ながらに後悔してももう遅い。乾いた笑いを浮かべてうな垂れていると、がちゃり、と扉の開く音が聞こえた。
「ドクターお風呂お先でした。次どうぞ」
先程ジェームズが放り込んだ、厚い生地の暖かそうな寝巻に身を包んだレディが、タオルを肩にかけてぺたぺたと部屋に入って来た。
髪の毛からはぽたりぽたりと雫が零れており、このまま放っておくと風邪でも引いてしまいかねない。ジェームズは医者として見過ごせないと眉をひそめた。
「ああ……レディ、待ちなさい」
レディをちょいちょいと手招きすると、ジェームズの目線の先がわかったのか、タオルで髪の毛の水分を拭きながら寄って来た。
ソファーの端に座らせて幾度か髪を手櫛ですくと、傍らに置いていた髪用乾燥機の魔石に触れて起動させた。
すぐにぶおぉと独特の音を立てて温風が先から出て、何度か手のひらで温度を確かめてからレディの髪の毛に当てた。
「全く、きちんと乾かさないと風邪をひくだろう。綺麗な髪をしているのだから、きちんと手入れをするべきだ」
地肌に指を這わせるように根元から髪の毛をとかしながら温風を当てていく。
思わず小言が漏れ出してしまい、また『おかーさんみたい』と言われてしまうのではと苦虫を噛み潰したような顔をして……ふいにレディが先程から一言も発していないことに気づいた。
「……レディ? どうした? 眠いのか?」
「っ!」
後ろから顔を覗き込もうとしたら、びくりと肩を震わせて手で顔を覆ってしまった。
「レディ?」
「ああもう、無自覚ってこれだから性質が悪いぃ……」
ぶつぶつと何かを呟いているが、小さな声だったので何も聞き取れず、首を傾げた。
「耳が赤くなっているな。もしかして熱かったのか?」
「ははははは。ねぇ、ドクター、私だからいいんですけど、なんとも思っていない女の子の髪の毛やうなじ触ったり、綺麗だのなんだの言うと勘違い……えっと、セクハラで訴えられますからね」
「セクハ……こほん、いや、女性の髪をみだりに触ったり、声をかけることは無いから大丈夫だ」
「ハハハ、ドノクチガイッテルンデスカネー」
レディが死んだ魚のような目をしているのは見えたが、ジェームズは最後までさっぱり意味がわからなかった。
髪を乾かし終わり、自室へ戻るレディを見送ってから気付いたが、あれはもしや、恥ずかしがっていたのだろうかと思い至った。
思い至ったが――
「……いや、まさかな」
扇情的なベビードールを見せつけようとする少女が、この程度でどうして照れるのだろう、とジェームズは一瞬頭に浮かんだ考えを消して、自分も風呂に入るために立ち上がった。
上の階から何かばたんばたんと叩き付けるような音が聞こえたが、レディが何か物を落としでもしたのだろうと気に掛けることは無かった。
上の階の自室にいたレディは、ベッドに転がってマットを叩きつけていた。
「ドクターの馬鹿ぁ! なんで躊躇いなく頭撫でられるの!? いや撫でてないけど実質撫でてるようなもんじゃない! なんで期待させるようなこと言うの!?」
馬鹿、馬鹿、と可愛らしく罵る声は、幸か不幸かジェームズに聞こえることは無かった。
こうして、二人の『何も起こらない』夜は更けていくのだった。