花の女王と騎士の物語
昔、とても好きな本があった。
この国の者なら誰でも知っている帝国の成り立ちのお話。
俺は初めて自分に与えられたその本を、文字通り擦り切れるほど読んだ。
ゼンという国では女神と男神が槍の切っ先で下界をかき混ぜたなんておとぎ話が有名だが、そういった類の作り話ではなく、実際にあった、歴史の一部。
この国、カトレア帝国は、花の女王によって造られたと言われている。
その昔、精霊と人間の住む世界がすこうし今より近かった時の話。
地上に遊びに来ていた花の精霊――彼女の名前は現在まで不明だが、カトレアの花の精だったため、精霊カトレアと呼ばれている――は、元の精霊界に帰るための道具、天女の羽衣を落としてしまい、途方に暮れていた。
そこに現れたのが、一人の騎士。彼はカトレアのために無くした羽衣を探してくれた。
しかし、どこを探しても羽衣は見当たらない。
落ち込むカトレアに、騎士は手を差し出してこう言った。
「それでは、見つかるまで探しましょう。私は国を追われて根無し草。あなたのお手伝いをすることに、何のしがらみもございません」
その男は、誰よりも騎士だった。仕える君主もおらず、住む国もなく、守る人もいなかったが、確かにその男は騎士だった。
◆ ◆ ◆
今思えば、数多い就職先の中で軍を選んだのは、少しでも騎士に近づきたかったからなのもしれない。
それも、辞めてしまった今では関係ないのかもしれないが。
「……引っ越す前ですか? それとも引っ越し後?」
部屋の中のがらんどうだが雑多な様子を見て、少女は唖然としている。これでも片付けたつもりだったのだが、どうやら足りなかったようだ。
「後者だ。ここで診療院を開こうと思っている」
「紳士様でも教授様でもなく先生だったとは……じゃあなんてお呼びしたらいいのかしら、ジェームズ先生? リード先生? でもみんなと同じになってしまいそうだし……うううん」
「全く……今コーヒーでも淹れるからそこにいなさい」
一人で頭を抱えている少女を置いて、ジェームズは簡易厨房へと向かった。
水を入れたポットに魔石を入れて温め、濃い目のコーヒーを淹れる。
最近はものの数秒で美味しいコーヒーが淹れられる調理器が出回っているらしいが、あまりに進化しすぎてジェームズには扱えそうにない。
「ドクター、これ片付けてもいい? 手持ち無沙汰なの」
「どうしてそう落ち着こうとしないんだ。もうすぐ終わるから座っていなさい」
「あら? 『ドクター』には何も言わないの?」
少女は猫のような悪戯っぽい瞳をきゅるんとジェームズに向けた。
「俺に何か言われると思ったのなら言わなければいいものを……君に先ほどから言われていた『紳士』だの『教授』だのに比べたら、むずかゆくないから構わない。手持ち無沙汰ならそこの菓子を持ってってくれ。砂糖とミルクはいくついる?」
「いらないわ」
子ども扱いされてるのかしら、と少女はふてくされそうになったが、それはジェームズが持ってきたカップを見て言わないことにした。
2つのカップのうち、片方がミルクのたっぷりたっぷり入った、ミルク入りコーヒーというよりコーヒー入りミルクと言った方が正しいような有様だったため、大人しく口をつぐむ以外無かったのだ。
よく見てみると、菓子皿の中身もエクレアマカロンチョコレートにキャラメルと、中身を見ただけで胸焼けしそうだった。どうやらジェームズは、極度の甘党らしい。
顔を俯かせてふうふうとコーヒーを冷ましながら飲み始めた少女を見て、ジェームズはゆったりと足を組んで話し出した。
「さて、先ほども言ったが、俺は今から診療院を開こうとしている。しかし、生憎人手が足りなくてな」
「んぇ?」
少女が大きな目を見開いてジェームズを見た。先ほどまでのすましたような声ではなかったので、きっとこれが素なのだろう。ジェームズは思わずくすりと笑ってしまった。顔を上げたことで揺れたカップからコーヒーがこぼれて、スカートを濡らしているのも気づいていないらしい。
「この家は俺一人で暮らすには少々広すぎる。3食宿付きで報酬は……後ほど相場を見て決めさせてもらおう。仕事は俺の助手になるが、読み書きと金の計算ができれば問題ない」
「ねぇ、ドクター……つまり、それって、その……」
頬を上気させていかにも期待したまなざしを向けてくる少女に、ジェームズは苦笑した。
「行くあてなど無いのだろう? このまま本から生まれたばかりの右も左もわからない君を放り出すのも、国家に仕えてた者として寝覚めが悪い」
「ふえ……」
ふえってなんだ、ふえって、と思いつつも、ジェームズは何も言わなかった。雰囲気がぶち壊れることが目に見えていたからだ。
「こほん、だから、君さえよければ、うちで働かn……」
「喜んでぇぇえええ!! ここで働かせてください! なんなら永久就職でも」
がしっとテーブルを挟んだ向こう側から、淑やかさとは無縁な声を上げながらジェームズの手を握ってきた少女を見て、彼はため息を飲み込んだ。ため息を吐くと幸せが逃げるなんて迷信がある。今日だけで何回吐き出したかも定かではないので、これ以上幸せを逃すわけにはいかない。
「……」
「あ、今『やっぱりやめとけばよかった』みたいな目をしましたね。もう返品受け付けませんからね」
「……」
「そんな遠くを見て黄昏ないでください傷つきます」
「嘘をつけ」
ジェームズは死んだ目で生ぬるいミルクコーヒーを啜った。
物語のように格好をつけようとした自分が1番悪いことはようくわかっていたので、大人しく甘ったるいミルクコーヒーと甘ったるい茶菓子を口に運ぶだけだった。
「このお顔をこれから四六時中見ることができるなんて最高だわ……ドクターで毎日染まっちゃうのね! あっ、染まっちゃうなんてそんな、いやらしい意味じゃなくて……」
ずっと一人で喋り続ける少女を横目に(現実逃避だったのかもしれない)、ふと、目に入った本棚を見ると、分厚い医学書が順番にきっちり整列していた。
ジェームズが片付けた記憶はないので、先ほどの時間に少女が入れたのだろう。自分の使うものは自分で把握しておきたいため、あまり動かして欲しくはないのだが……少女の仕事としてはこういった棚の整理も出てくるだろう。共に暮らすとなるといくつか決まりを作らねばならないかもしれない。意外と手際が良いのと、使用感のあるものを取りやすい位置に置いているのは、非常に好感をもてる。
その中の1冊に、どこでまぎれたのか、ぼろぼろだが、美しい装飾の施された本があった。
『帝国創世記』
金の箔押しは既に剥がれてしまって、この本を擦り切れるほどに読んだジェームズ以外、題名が判別できる人はいなかったが、背表紙にはそう書かれていた。
「ドクターとひとつ屋根の下……毎朝お寝坊なドクターを私が起こしてあげて、『今日も可愛いね』とか寝起きの掠れた声で言われちゃったらもう……ああたまんない! 寝癖と無精髭の生えたドクターとかもう想像だけで……んふ、んふふ」
頬を抑えて体をくねらせながら妄想を吐き出し続ける少女はどこからどうみても残念でしかないが、騎士になれなかった出来損ないの元軍医にはお似合いだろう。
さて、とジェームズは足を組みなおしてその上に手を置いた。真剣な話をする前の彼の癖で、目つきが3割増しで鋭くなった。
「ところでレディ……君を雇うにあたり、いい加減に名前を教えてくれないか?」