恋という名のライヘンバッハ
「……」
「……」
しばし、呆けたように見つめていたが、すぐにはっと我に返ったジェームズは、深いため息を吐き出してとんとんと眉間を人差し指で叩いた。
これはなにか問題事が発生した時のジェームズの癖である。
「すまない、麗しのレディ。色々と聞きたいことはたくさんあるんだが……まず、俺の本はどこへ行った?」
少女はくるりと大きな青緑色の瞳を瞬かせると、微かに頬を染めて頬に手を当てた。
「あらやだ理知的な紳士様。『俺の本』だなんて――」
「ああ、すまない。もしかして君の本だっ……」
「まるで私が紳士様のものみたいな言い方ではないですか! きゃっ! 恥ずかしい!」
私はそれでもいいんですけど! とくねくね体をゆすりながら頬を染める少女を見て、ジェームズは真顔で「は?」と声が出てしまった。
まるで、自分と違う星に住む生物を見ているかのような気持ちになり、何とも言えない目つきで少女を見てしまう。
そうしたら、何か言いたげな目に気づいたのか、少女は芝居めいた仕草でぷくりと頬を膨らませた。
「んもう、紳士様は意外と『にぶちん』でいらっしゃいますのね。悲しいから教えて差し上げましょう」
少女はローズピンクの唇をにっとつりあげて、未だに膝をついたままのジェームズの目の前にしゃがみこんだ。
「私が、先ほどの白い本です」
お手に取っていただきありがとうございます、と恭しく礼をする少女が嘘を言っているようには見えなかった。
さて、精霊によって造られたと言われるこの世界には、当たり前のように魔法が存在する。
過去に隣国との対戦の最前線で医師をしていたジェームズは、複雑なもの、美しいもの、苛烈なもの様々な魔法をその目で嫌でも見てきた。
だから彼自身魔法は使えないものの、種類だけはいくつも見知っていた。
しかし、そんなジェームズでも――本から少女が生まれるところなんて、一切合切見たことも無ければ聞いたことも無い。
ジェームズはしばし脳内で情報を整理するための時間が欲しかったが……そんなことお構いなく、彼女はまたもや爆弾を投下する。
「ねぇ、紳士様。私、貴方の奥様になりたいのだけれど、貰ってくださる?」
「奥っ……なんだって!?」
わずかに声が裏返った。初めて王宮で国王にまみえた時もここまで動揺しなかったというのに。
「もう一度言った方がよろしい? 貴方の奥様、妻、ハニーになりたいの……うーん、ハニーは無いわねぇ。でも、紳士様のことを『ダーリン』と呼ぶのはアリかしら!? ダーリン! すごい! なんかいい響き!」
「切実に止めてくれ」
「じゃあなんて呼べばいいのかしら?」
「適当にすればいいだろ」
「じゃあダーリンでもいいじゃない」
「よくない! ……というか、こんなことより別の話があるだろ」
ジェームズはいよいよ頭が痛くなってきた。
少女が無邪気に語りかけてくるのでダメージが余計に大きい気がする。
「紳士様、私を妻にするのは嫌? これでも家事は一通りできますよ? 読み書き計算もお手の物ですよ?」
「妻とかそれ以前の問題が沢山あるはずだが……まあいい。まず、俺のことを『紳士様』と呼ぶのは止めてくれ。そんな柄じゃない」
きらきらとこちらを見つめてくる目を直視出来なくて、やや目線をそらした。
こんな純粋に好意を向けられたことなんて今まで無かったからか、嬉しさよりも気恥ずかしさの方が勝ってしまう。
「俺の……俺の名前は、ジェームズ。ジェームズ・リードだ」
吐き捨てるように名乗ると、目の前の翡翠の瞳が、ぱちくりとこぼれ落ちそうなほど大きく見開かれた。
「あら、それなら私は紳士様ではなく『教授』とお呼びした方がよろしいかしら?」
「……稀代の大悪党の名前か」
有名な探偵物語の黒幕とファーストネームが同じだと言われると複雑な気分である。
「それなら私はシャーリーと名乗った方がよろしい? それともシャーロット? どっちも捨てがたいからお好きな方で呼んでくださいな」
「呼ばないし、君と滝壷に落ちる予定もない」
「まぁ、紳士様はそういったのもお読みになるのね。話が合いそうで嬉しい!」
「それでレディ、貴女の名前は?」
ジェームズはひとつ覚えた。この女と話をする時は、言動に律儀に返すことより、流されないようにこちらがペースを握るべきだと。
そうして話の主導権を握ろうとしている彼のことなどつゆ知らず、少女は淑やかに微笑んだ。
「紳士様みたいに名乗れる名前は無いの。だから、私は貴方に名前を付けて貰いたいんだけど」
ジェームズは、自分の心の中の何かがプツンと音を立てて切れた気がした。
「ふざけるのも大概にしてくれ!」
「なんで怒ったの!? 私は本気なのにー!」
きゅるんと可愛こぶって唇を突き出す少女のわざとらしい仕草に引っかかるほど初心ではないが、軽くあしらえるような場数は踏んでいない。
なんて厄介なものを押し付けてきやがったんだ、と今更古書店のくそじじいを恨みたくなった。
◆ ◆ ◆
「ねぇジェームズ様〜教授様~! 奥様にして〜! なんでもするからぁー!!」
「年頃の娘が『なんでもする』なんて軽々しく言うんじゃない。後引っ付かないでくれ歩きにくい!」
結局、拾った(?)手前、捨てることができなくなってしまったジェームズは、駄々をこねる少女を連れてひとまず家に帰ることにした。
決してしばらく言い合いをしていたらジェームズの方が周りから奇妙な目で見られたからではない。痴情のもつれかと野次馬されそうになったからでもない。断じて違う。
「あんな若い子に手を出して……」と野次馬から聞こえてきた気がするからでもない。きっとあれは幻聴だ。そう思わないとやっていられない。
「ところでお家はどちらなの? どうやって来たの? あ、もしかしてこれ? 魔動車初めて見た!」
きゃっきゃとひとりで車にかけ寄りはしゃぐ少女を見て、ジェームズは思わずぼそりと呟いてしまった。
「そりゃ、そうだろうなぁ」
本は自力で外出られないからなぁ、と思ってしまったあたり、自分はこの不可思議な少女が手に取ったあの本なのだと信じきっているのだろう。
「言っておくが、これは君を妻にすることを決めたわけではなく、君に身寄りがなさそうだからひとまず俺の家で事情を聞き、場合によっては然るべき処置を取るだけだからな」
「うんうん、つまりお嫁さんは無理だけど恋人ならいいかなってことですね」
「本当に! 俺の話を聞いているんだよな!?」
「一言一句聞き漏らすわけ無いじゃないですか」
「……」
「あ、無反応が一番傷つくんですよ! それにしてもこれ座席すっごいふわふわ! 高そう! 私ひょっとしてお金持ちの奥様になれるの?」
「どこから突っ込めばいいかわからなくなってきたな」
「やだそんな遠い目をしないでくださいよ」
「誰のせいだと思っているんだ!?」
初めて助手席に乗せたのは見目麗しい少女、だなんて一部の者が涎を垂らして羨ましがるようなシチュエーションも台無しにする悪戯妖精を横に乗せて、がたごとがとがと、心持ち緩やかに車輪は回っていく。