理由もなく退職!
特に、これと言ったことは無い人生だった。
「……総監、今までお世話になりました」
「ああ、君達も息災で」
白色の軍帽を被った年若い兵士達が敬礼をする。見送られているのは、兵士達より一回り年嵩の男性。黒い外套に黒い三つ揃えのスーツ、背も平均より少し高く、黒い瞳は細められているため威圧感がある。
見送られる男性は片手にボストンバッグをさげ、もう片方の手には品の良いマホガニーの杖を持っていた。
これからを夢見るきらきらした目に見送られ、退職金で買った最近発売されたばかりの魔動車に左足を引きずるようにして乗り込むと、黒き要塞のような城に煙を吹きかけるように発車させた。
車は王都の中心部、石畳で綺麗に舗装された道をゆっくり走る。
男は低い声でため息を吐き出すと、革張りのシートにもたれ掛かって煙草を取り出し火をつけた。
「長いようで短かったな。しかし、心残りは……食堂のパウンドケーキくらいしかないな。はは、俺も大概薄情な人間だ」
男の名はジェームズ・リード。鳶色の短い髪の毛に鋭い黒の瞳が厳めしい顔つきに凄みを与えており、新米兵士の指導を行っていた頃は初見で大抵恐れられていた。加えて常に眉間に皺を寄せたしかめ面のため、今年三十を一つ越えた年齢になるのだが、実際の年より多く見積もられることが多々あった。
彼の経歴をざっと紹介すると、幼い頃から頭の回転が早く神童と呼ばれており、そのまま飛び級で十七で医学を極め帝国一の大学を卒業するという異例の偉業を成し遂げた。その後帝国海軍へ衛生兵として入隊してかれこれ十四年。入隊当初は隣国シルヴィアナとの戦いが苛烈を極めていた頃。酷いしけで自分の方が病人みたいな顔だろうと、まだ銃火器を実戦で扱ったことの無い新人だろうと容赦なく最前線に叩き込まれて、凄惨な現場で負傷兵を治療していた。
何人もの仲間が命を落としていった。ただ命の灯が消えるのを何もできずに見送った時もあった。
そんな神経がすり減るような日々に終止符が打たれたのは七年前。シルヴィアナと和平協定が結ばれ、戦争が完全に終了してからだった。
戦場に出ることは無くなった今、ジェームズが左足を負傷したのみで、生きてこの場にいるのも奇跡のようなものだった。
それから四年はまだごたついている国境付近で、医療班として兵士だけでなく住民の健康管理や衛生面を改善してきたが、それも落ち着いてきたため、残りの期間は帝都に戻り、指導教員として新米兵士に応急手当の方法や野草毒草の知識を教え込んでいた。
隣国との関係は帝国がやや優位だが落ち着いており、ジェームズが生きている間はもう大きな戦争は無いだろう。このまま指導教員として城で暮らすのも悪くなかった。悪くないどころか、世間一般から言わせてみれば給料もいいし安定しているし、上等すぎる人生だ。
しかしジェームズは辞表を出した。
軍を辞めようと思ったのも、特に理由は無かったと言えば無かった。
強いて言うなら、少ない医師枠の軍人には治療に教育に突発的にやって来るクソ王子のお相手に……失敬、王子のご機嫌伺に、と休む暇がなく、ふと「そうだ、街で診療院をやろう。そしてできたら嫁を貰おう」と思い立ってしまったからだった。
ジェームズの容姿は貴族の間で人気の中性的な容姿ではないが、端正な顔立ちの男前で職業柄身なりも清潔に保たれており、十分に誰からも好かれる容貌をしている。
しかし華の時期を勉強と男ばかりのむさくるしい戦場での時間に費やしてしまったジェームズは、男っぷりが上がって王宮に戻ってきても、今更女性とのお付き合いの作法なんてわかるはずがなかった。
女性へのアプローチの仕方がさっぱりで(そして好感の持てる相手も見つからず)、女性の方も常に不機嫌そうな顔つきのジェームズに話しかける猛者がいなかったため、婚活目的で城勤めを希望する者も一定数いる、きらびやかな王宮にいた期間が三年あったにも関わらず、誰かと何か進展など一切合切なかったのだった。
「嫁が欲しいな。できれば素直で可愛いくて俺のことが好きな子であれば、何の問題もないな」
隊員の前では見せたことの無い気の抜けた顔で、理想が低いような高いような内容を呟く。
くたびれた男前を乗せた魔動車は、がたごと、がたごと、黒い煙を吐き出しながらゆっくり進んでいった。