譲れないもの
「カルミナ……」
「ええ。わたしです」
コシュカのつぶやきに彼女は頷いた。
フードを下ろすと、漆黒の髪が肩を流れる。
若いとも老成しているともとれる妙齢の面差しは、整ってはいるが表情は薄い。気品をそなえた物腰は、決してマリアに見劣りしなかった。
成り行きを見守る無数の視線に囲まれて、二人の音楽家が対峙する。
「久しぶりね、カルミナ」
「ええ、アヴェ=マリア。会いたくもなかったですけれど」
カルミナの黒の双眸が細められる。
「どういう了見でしょうか? ここはわたしの縄張りで、あなたの陣地ではないはず。納得できる答えを期待します」
「ここへ来た理由は二つよ。一つは貴女を捕まえるため、もう一つはフォルテ・スタッカートを探すためよ。……片方は完全なる無駄足だったようだけど」
マリアはちらとコシュカを見下ろした。
「無駄足とはずいぶんです。最初から分かっていたはず。楽譜がここにはないことを」
ゆっくりとマリアは視線をカルミナに戻す。
「貴女、どこまで噛んでいるの?」
「ご想像にお任せしますが。少なくとも、楽譜をどうこうしたのはわたしではありません」
「暗躍は貴女の得意分野だものね。スタッカート卿のご子息をこの店に導いたのは貴女でしょう」
大きくマリアはため息をついた。
「回りくどいことはやめましょう。あたくしの元へ帰ってきなさい、カルミナ・ブラーナ。貴女の才能と力量なら無形派の幹部としても十分にやっていけるわ。こんな薄汚い所で物乞いの真似ごとなどする必要はない」
「ま・じ・な・い・師、です」
一文字ずつ区切って、カルミナは訂正した。
「その議論は前に終えたはず。わたしは組合に帰る気はありません。音楽家として生きていくつもりもありません。わたしは自由に生きたいのです。お分かりですか、主席殿?」
「得るはずだった富と栄誉を捨てるというの?」
「食べても美味しくないでしょう、そんなもの。つまらないんですよ。凡人に自慢するためだけにセンスを磨くのも、音楽のプライドのために造形派とドンパチやるのもね。お好きならどうぞ、おかまいなく。わたしはごめんです」
ぽろん……と再び弦が震えると、音の泡がマリアの周りをからかうように囲んだ。
顔の前に浮かび上がった泡を指で弾き、マリアは静かに告げた。
「もうすぐ、大きな聖戦が起きる」
「…………」
「先ほど、造形派のミロがあたくしの屋敷に伝令をよこした。この町から撤退せよ、さもなくばそなたらの宝が塵と化すであろう、と。貴女も音楽に携わる者であるなら武器をとるべきだわ。スラーの最後の傑作は、後世のために決して失ってはならない」
「撤退する気は?」
「ないわ。あたくしたちが町を退いたところで、あのミロが楽譜を大人しく渡すとは思えない。なにより、造形派の連中をのさばらせるくらいなら舌を噛んで死んだ方がはるかにマシ」
「強情ですね。呆れざるを得ません」
「何とでもおっしゃい」
不意に大通りの方が騒がしくなった。
いつの間にか店の周りに野次馬が集まっていた。その人垣を押しのけるように三つの人影が飛び出してきた。
「コシュカさん!」
騒ぎを聞きつけて駆けつけたフォルテたちだった。
散乱するテーブル、楽器を携えた音楽隊とただならぬ様子で向かい合う女二人、順に見回してようやく床にひざまずくコシュカに目を丸くする。
「フォルテ・スタッカートね」
名を呼んだのはマリアだった。
まだ息切れしている青年は、まばゆい青ドレスにやや身を引いた。
「貴女は……」
「無形派のアヴェ=マリアですわ、殿方」
ファーを持ち上げて、軽く膝を折って挨拶する。
「造形派の次は無形派の主席~? うちの店、いつからそんな人気になったの~?」
フォルテの一歩後ろでメニはマスケット銃をかまえて言った。
いつもは緩んだ笑みが少し引きつっている。
完全に後手だった。
ミロ邸を突破できたのはある程度準備があったからだ。真正面から主席クラスの芸術家に向かって行って、勝ち目があるとは思えない。
マリアはメニの銃を見やった。
「武器をおろしなさい。楽譜がここにない以上、あたくしがとどまる理由はないわ」
「だったら早いとこ帰ってくれねぇか」
ラッグは険しく顔を引き締めて言い放った。
「これはこれは、旧市街の長。相変わらずお小さいから、いらっしゃるとは思いませんでした」
「皮肉を言いに来たワケじゃねぇだろ」
「せっかちは身を滅ぼすわ。とはいえ、あたくしもいつまでも埃っぽい空気を吸っていたくはないから、お言葉通りおいとまさせていただくことにしましょう」
そして、改めてマリアはフォルテに向き直った。
「なるほど、お父上によく似ているわね。血の繋がりを感じるわ。稀代の歌い手と言われたのも頷ける」
「アヴェ=マリア……無形派の主席の?」
「えぇ、その通り。そして、本来ならば貴方に罰を与える者でもあります」
罰、という言葉にフォルテは身を震わせた。
マリアの視線がナイフのように鋭くなる。
「あたくしが貴方へ会いに来た理由はもうお分かりね? ミイラ取りがミイラになるなんてお笑い草だわ! よりにもよって造形派に楽譜を奪われるなんて」
「ぼ、ぼくは……」
「言い訳を聞く気はない」
フォルテの言葉をきっぱりと拒絶する。
「貴方はもう無形派ではない。だから罰は与えないわ。その代わりあたくしの視界に今後一切入らないでちょうだい。このままマグナリアを出ておゆき。旧友の息子のよしみよ、命だけは勘弁して差し上げる」
マリアの失望と怒りを感じ、フォルテは生唾を飲み込んだ。
「……さっき少しだけ話が聞こえた。聖戦が起きると。マグナリアの音楽家たちは造形派に本気で対抗するつもりですか?」
「ええ、そのつもりよ。でも、貴方にはもう関係ないことでしょう?」
冷たい物言いに、フォルテは食い下がった。
「関係ならある。きっかけを与えてしまったのはぼくだ。ぼくに責任をとらせてください」
「責任? 楽譜を奪い返してくるとでも?」
「その通りです。お願いします、ぼくにもう一度チャンスをください」
「もう遅いわ」
頭を下げたフォルテに、マリアは瞳のアメジストに憐れみさえ浮かべた。
「音楽家としての名を捨てた時に、誇りまで失ったようね。ムッシュー・フォルテ。あたくしたちは音楽をけがそうとする輩を一切許さない」
「挑発です。ここで戦いに応じたら、音楽を芸術でなく人を傷付ける武器へとおとしめてしまうことになる。作曲家スラーも、そんなことは望んでいないはずだ」
「分かっていないわね。音楽を見下す造形派たちを退けてこそ、音楽が真の芸術として万人に認められるのよ。むしろこれは、造形派たちに身の程を思い知らせてやる良い機会だわ。無骨な絵や彫刻が美のかけらもない唾棄すべきものだということを、マグナリア中に見せつけてやる」
「貴女方のいう聖戦で、一番傷付くのは町の人たちだ!」
フォルテは我慢できずに叫んだ。
握りしめたこぶしが震える。
「無形派と造形派がまともにぶつかったら、戦場はガレキ通りになる! 抵抗できない彼らはどうすればいい? 家は? 財産は? 西区を治める貴女なら分かっているはずだ! 彼らの生活は、芸術の前では問題じゃないって言うのか!」
「言うまでもないわ」
マリアはあっさりと頷いた。
とらねこ亭に集ったガレキ通りの住人の前で、いとも簡単に。
野次馬たちが爆発した。
「なんだとぉ、このアマぁ!?」
「芸術家だかなんだか知らねぇが、好き勝手なことばかり言いやがって!」
「あんたたちに納める税のために、こっちが毎日どんなに苦労しているかも知らないくせに!」
「前から言いたかったんだよ! もめごとならヨソでやれぇっ!」
「俺らに迷惑かけんじゃねぇ!」
マリアは音楽隊の一人が差し出した横笛を手に取った。
フルートよりも一回り小さな黒の木管楽器、ピッコロである。
「や、やめろ!」
フォルテの制止は、ガレキ通りの住人の怒りの声にかき消された。
ピッコロの甲高い音色が空気を響かせた。喧騒を切り裂き、【力ある音】が口々に怒鳴っていた住人たちの耳を塞ぐ。
あちこちから悲鳴が上がり、暴徒となりかけていた彼らが動きを止める。
「凡人どもが。あたくしたち芸術家の高貴なる血に歯向かうことがどういうことか、分かっていないようね。仕置きが必要かしら?」
しん、とにわかに静まり返った。
再びピッコロを口に近付けたマリアの前に、フォルテは慌てて立ちふさがる。
「視界に入るなと言ったはずだけど?」
「お願いします。彼らを傷付けないでください」
譲る気はなかった。
なぜなら、楽譜を失って途方に暮れていたフォルテを助けてくれたのは、まぎれもなく粗暴で陽気なガレキ通りの住人たちなのだから。
「そんなに聖戦を止めたいのかしら?」
「音楽は人を傷付けるための道具じゃない。万人のためにあるべきだ」
「芸術は人に与えられた、高尚なる知恵。そんなこともお忘れ? 賢くなければ音楽を理解することもできない」
「そんなことない。音楽は自由の象徴だ。貴女は自尊心に縛られている」
「知った口を利くんじゃないわ、裏切者。貴方が何と言おうと聖戦はまぬがれない。部外者は引っ込んでいなさい」
背を向けようとするマリアの足元に、フォルテは膝をついた。
プライドをかなぐり捨て、みんなが見ている前で額を地面に押し付ける。
「お願いします。楽譜は諦めてください」
「……なんですって?」
「挑発と分かっていながら造形派の思惑通りに動くことはない。聖戦なんてバカなこと、しないでください」
「スラーの遺作につばを吐きかけられ、貶められるのを、指をくわえて見ていろと?」
「その通りです」
怒りのあまりマリアが倒れるのではないかと思われた。
唇を震わせ、ピッコロを下ろす。
「見損なったわ、フォルテ・スタッカート。貴方に少しでも音楽家としての尊厳が残っていればと思っていたけれど、どうやら期待するだけムダだったみたい」
「お願いします」
「もういいわ」
フォルテの懇願を切り捨てた。
もう話は終わった、とばかりだった。
「聖戦の日は明日よ。これが変わることはない。この場にいる全員、命が惜しければ即刻荷物をまとめてガレキ通りを出ることね、凡人たち。さもなくば、この愚かな男のバカな優しさを踏みにじることになるわ」
「……うるせぇよ」
周囲に向けて告げたマリアに、答えたのは沈黙を守り続けたコシュカだった。
歌姫の手に握られたジャックナイフがひらめく。
止める間もなかった。
「あっ」
コシュカの長かった緋色の髪が、ぱさりと軽い音を立てて地面に落ちた。
呆気にとられる周囲など目もくれず、自らの髪を切ったコシュカは鼻先数センチのところまでマリアに詰め寄る。
「何が聖戦だ、くそったれ。凡人どもの底力をあまりなめんじゃねえぞ」
「負け惜しみにしか聞こえないわね」
わずらわしそうにマリアは言った。
控えていた音楽隊に指で合図し、マリアは顔も上げないフォルテの脇を横切った。
野次馬たちの壁が割れて、道ができる。
「お待ちなさい、マリア」
最後に、カルミナが呼び止めた。
マリアが振り返ると、まじない師は簡潔に告げた。
「組合の中に内通者がいます。スラーの遺作のことをミロに漏らした、誰かが」
「……心得ておくわ。貴女もはやく目を覚まして戻ってらっしゃい、カルミナ。明日の朝までは待ってあげる」
「いらぬ気遣いです」
早く行け、とカルミナは手を払った。
マリアは悔しそうに一瞬唇を噛んだ。
が、すぐにきびすを返し取り巻きを連れて立ち去った。
◇
後に残ったのは気まずさだけだった。
誰もが窺うように視線を交わし、一人、また一人と輪から外れていく。向かう先は家だろうか。マリアの言う通り、荷物をまとめて逃げる準備をするのだろう。
フォルテは頭を上げて、無力感にうなだれた。
「あんたのせいじゃねぇよ」
フォルテは驚いてコシュカの顔を見た。
コシュカはマリアの消えた方をにらんでいた。何かをこらえるようでもあった。
「いつか、こうなるのは分かってた」
「でも……」
「コシュカの言う通りです」
カルミナは床に散らばった緋色の髪に触れ、言葉を継いだ。
「今のマグナリアの形ができた時から、造形派と無形派の闘争は決まっていました。時間の問題だっただけです」
それでも、きっかけを作ったのはフォルテだ。
黙々と言葉もなくとらねこ亭の店員たちが片付けを始めるのを、フォルテはなす術もなく見るしかなかった。
やがて、コシュカの頭をぽんと叩く者がいた。
ラッグだった。
「がんばったな、コシュカ。よく我慢した」
短い褒め言葉。
あれだけの舌戦を繰り広げながら、コシュカはマリアに指一本触れなかった。あの女が本気になれば、とらねこ亭など一たまりもなかっただろうから。
彼女は確かにとらねこ亭を守り切ったのだ。
コシュカは視線をはずし、ゆっくりとラッグを見た。
兄貴分の顔を見て、やっと気が緩んだのだろう。歌姫の端正な顔がくしゃりとゆがむ。
「う、ぅぅぅぅっ……」
限界を迎えた。
翡翠の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれる。
フォルテはぎょっとした。あんなに強いコシュカが、泣くなどとは思わなかったからだ。
彼女の涙は悔しさゆえか、それともこれからのガレキ通りの行く末を思っての悲しみか。
「泣くなら奥で泣いてこい。とらねこ亭の歌姫が、公衆の面前で泣きべそかいてちゃだめだろ」
嗚咽をもらす少女の頭をもう一度叩き、ラッグはメニに目配せした。
メニに連れられて二階に上がる二人を見上げ、カルミナは奥の倉庫へと向かおうとするラッグに声をかける。
「良いのですか?」
「なにが?」
「わたしを一発殴らなくても」
ラッグの足が止まった。
カルミナは彼の後姿を振り返る。
「フォルテ・スタッカートをとらねこ亭へ導いたのはわたし。世俗嫌いのアヴェ=マリアがとらねこ亭へ足を向けた理由もわたし。コシュカを泣かせたのも、元を辿れば原因はわたしです。貴方の大事なものを、わたしは傷付けすぎた」
表情を動かしもせず、カルミナは淡々と尋ねる。
「怒っているのでしょう?」
「……あんたがフォルテに言った通りだ。いつかはこうなるのは分かってた。あのおばさんがコシュカのことを毛嫌いしてんのだって、今に始まったことじゃねぇだろ」
「ですが、頭で分かっていても貴方の気は収まらないでしょう。存外、貴方は短気ですからね」
ラッグはカルミナを一瞥し、素っ気なく首を振った。
「やめとくよ。たぶん、一発じゃ気が済まない」
足早に奥へと姿を消した。
そう待たずして、倉庫の方から荒々しい物音が響いてきたのでフォルテはびくっと肩をすくめた。何かが折れる音、砕ける音、床に叩きつけられる音。賑やかな騒音がひとしきり鳴り終えた後、店は嵐の前のように静かになった。
ふっとカルミナは息をつく。
「どうやら、ラッグの優しさに感謝しなければならないようです」
「あの……カルミナさん?」
フォルテは恐る恐る、黒の魔女に話しかけた。
カルミナは感情のない漆黒の目をフォルテに向け、首を傾げた。
「少しは見られるようになったようですね、不幸な殿方」
「おかげ様です。あの、今までどちらに? とらねこ亭のみんなが、貴女の姿が見えないのを気にしていた」
「わたしはわたしの行きたい所に行く。それだけです。無形派の連中が包囲網を張っていたみたいでしてね。振り切るのに時間がかかってしまいました」
フォルテは仰天して目を見開いた。
「追われて……いたの?」
「いつものことです」
「ぼくの楽譜のせいで?」
「それも半分あります。マグナリアの無形派の人数をご存知ですか?」
「確か、百人ほどと」
「造形派はその倍近くはいます」
口を閉ざしたフォルテに、お分かりですね? とカルミナは続けた。
「そもそもこの喧嘩、買った時点で無形派の負けは決まっているのです。マリアもそれは誰より分かっています。だから聖戦の前に、わたしをどうしても味方につけておきたかったのでしょう。話の流れによっては、貴方をも引き込む算段だったはずです」
「負けると分かっていて、どうして……」
「簡単なこと。あのような女にもゆずれないものがある、ということです」
ゆずれないもの、か。
「……そうとう彼女を幻滅させてしまったみたいだね、ぼくは」
「ええ。貴方のようなおバカさんを仲間にしたら、むしろ戦う前に無形派は滅びるのではないですか?」
それはひどくないだろうか。
数日ぶりの毒舌に、フォルテはがっくりと肩を落とした。
「これからどうするおつもりです、殿方?」
分からなかった。
「一つ、聞いてもいいかな? 万一ぼくがミロの手から楽譜を取り返すことに成功したとして、その時聖戦は止まると思う?」
「思いませんね。彼らの互いに対する反感は根強い。さいは振られたのですから、もう止まることはないでしょう」
造形派が楽譜を盗んだ事実は変えられない。
無形派はなんとしてでも造形派に報復しようとするだろうし、造形派はどんな手段を使ってでも無形派を叩き潰そうと誘ってくるだろう。
争いは必ず起こる。
あの楽譜の真の意味を知らない者たちによって。
「フォルテさぁん」
不安そうなコラットの瞳とかち合う。
「とらねこ亭、なくなっちゃうんですか……?」
すがるような問いに、フォルテは言葉を詰まらせた。
スラー、これは運命かな。
今はただ、無性に友の声が聞きたくなった。
次回は8月24日23時に更新します。




